145『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(山城の国一揆など)
まずは、応仁の乱の後の「下剋上(げこくじょう)」の風潮について、こうある。
「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)
これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。
次に、1485年(文明17年)に起きた山城の国一揆もこの時代に起きている。こちらは反乱にとどまらず、地方レベルながら、政治的な支配まで進んだ。『大乗院寺社雑事記』に、こうある。
「文明十七年十二月十一日、今日山城国人集会す。上は六十歳、下は十五六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両陣の時宜を申し定めんが為の故と云々。然るべきか、但し又下極上の至也。両陣の返事問答の様如何、未だ聞かず。
十七日、古市(ふるいち)山城(やましろ)より帰陣。六十三日の在陣なり。筒井(つつい)同じく退散す。十市(といち)同前。越智(おち)も同じ。両陣の武家衆各引き退き了ぬ。山城一国中の国人等申し合す故也。自今以後に於ては両畠山方は国中に入るべからず。本所領共は各々本の如くたるべし。新関(しんせき)等一切これを立つべからずと云々。珍重の事也(現代訳は、まことに結構なことである)。
文明十八年二月十三日、今日山城国人、平等院に会合す。国中の掟法猶以て之を定むべしと云々。凡そ神妙なり。但し興成せしめば天下のため然るべからざる事や。」
これらにあるように、山城国(現在の京都府)南部地域において、国人(地侍)と農民が共同戦線を張って守護の畠山氏に相対峙した。
それというのも、この話のそもそもとは、応仁の乱の後の1482年(文明14年)、山城南部、河内、大和においては、畠山政長が率いる東軍に、畠山義就が率いる西軍が南山城に侵攻したという。
1485年(文明17年)になっては、畠山政長の東軍が反攻を開始して、争いが収まる気配はなかった。
それからのこの地方では、ほぼ8年の間、畠山らの武家の影響力を排除して、自治を行ったことになっている。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます