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新〇263の3『自然と人間の歴史・日本篇』征韓論  

2020-10-14 08:46:40 | Weblog
263の3『自然と人間の歴史・日本篇』征韓論 
 
 西郷隆盛は、明治維新の最大の立役者であろうが、その彼も維新後に大勢が固まりつつある中で孤立を深めていったようだ。岩倉具視や大久保利通らが欧州へ行っていろいろ見分を広めている間、留守組の彼は板垣退助らと「征韓論」を喧伝していた。
 それというのも、維新後は武士という階級が経済的になり立たなくなっていく。禄をはんでくらしていたものが、今度は自前で生活の糧を得てゆかねばならない。上級ではない武士であったかれらは、維新の実現に大いに貢献した。彼らの国を思う志なくして、新しい時代の扉は開かれることはなかったであろう。
 それなのに、維新後は、旧藩主らが形を変えての特権を維持したのに対し、一般の武士たちは新しい国家からしかるべく、あたらしい役割を与えられない。急な変化にあっても、家族ともども霞を食って生きながらえていく訳にはゆかないのだ。
 西郷らは、このことを深く憂えたのであろう。そして、そこからの妙案が外国、しかも西洋ではなくて、日本以上に近代化の遅れている近隣国、とりわけ旧態依然の王朝を維持している朝鮮半島なのであった。
 なお、これをもって西郷らの意識の遅れ、植民地主義にかぶれた思想の立ち遅れを指摘する向きもあろうが、当時の人物だとみられていた多くが、ある種のアジア蔑視の政治思想に囚われていたのを忘れてはなるまい。
 さて、西欧から戻ってきた代表団の面々は、そんなことに係わるよりは、今は内を充実させるべきとの「正論」をいう。西欧列強に飲み込まれないだけの国内の体制を築くのを最優先にすべきと。結局、西郷らは、この政争に敗れる。
 1873年(明治6年)、西郷、江藤新平らは辞表を提出しての野に下る。西郷の場合で言うと、「陸軍大将近衛都督兼参議の辞職願」(10月23日付け)ということであった。維新までの難事を切り抜けてきた西郷としては、惜しむらくは、もう少し周囲の様子を見てからでも遅くはなかったであろうに、また国の行く末を憂えての事とはいえ、朝鮮半島への野心を燃やすのは間違いというべきであり、全体としてやや軽はずみな一挙であったのではないだろうか。

 そうは言っても、朝鮮王朝があくまでも日本との国交を拒んだ場合において、西郷が本気で朝鮮への出兵を本気で考えていたのかは、わからない。ちなみに、「明治六年八月十七日付ー板垣退助宛西郷隆盛書翰」には、こうある。

 「只今の行掛にても公法上より押詰め候へば、討つべきの道理はこれ有るべき事に候へ共、是は全く言訳のこれ有る迄にて天下の人は更に存知これ無く候へば、今日に至り候ては全く戦の意を持たず候て、隣交を薄する義を責め且つ是迄の不遜を相正し、往先、隣交を厚する厚意を示され候賦を以て使節を差し向けられ候へば、必ず彼が軽蔑の振舞相顕れ候のみならず、使節を暴殺に及び候義は決して相違これ無き事に候間、其の節は天下の人、皆挙て討つべきの罪を知り申すべく候間、是非、この処迄に持参らず候では相済まざる場合に候段、内乱を冀ふ心を外に移して国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以の確証を取りて論じ候」(「大西郷全集」)
 そういうことであれば、当時の明治新政府の間での主導権争いも含めて、さらなる手掛かりを得るまでは、なお真相を探る努力を惜しんではなるまい。

 また、江藤新平の場合は、この論の急先鋒であったのかどうなのかは、わからない。これは穿った見方なのかもしれないが、江藤という人は、思索の人、また情義にあつい人物なのだった。そもそも彼は、明治政府にその気骨溢れるを見出だされ近代国家たるべく司法改革、民法編纂などに尽力してきたのであり、出身地の佐賀の「不平士族」の行く末を案じ、ひいてはそのことが国内の治安を乱すことにつながるのではないかと、人一倍以上も思案していたとも考えるのだが、いかがであろうか。

(続く)
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