新64『岡山の今昔』津山城築城(1616)

2021-11-12 08:40:28 | Weblog
新64『岡山の今昔』津山城築城(1616)


 津山城は、岡山県津山市山下にある梯郭式平山城で、通称には鶴山城(かくざんじょう)とあり、国の史跡に指定されているとのこと。

 まずは、城址に立つ案内板のから紹介したい。

 「国指定史跡(昭和三八年九月二八日指定)

 津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(一六〇四)に起工し、元和二年(一六一六)の完成まで一三年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
 往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
 この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。(以下、略)」(現在の鶴山公園に立つ案内板より)

 その位置は、南部を流れる吉井川と支流・横野川、そして西を流れる藺田川(いだがわ)の3川を外郭として、その内側に城下町などの主要部を構成しているとのこと。

 そんな次第の津山城の区割りは、鶴山の自然の盛り上がりを基礎に三の丸、二の丸、本丸と石垣を設け、往時には五層の天守閣がそびえていた。平山城のようにもいわれるが、正法城絵図には「本丸 山城」と記されている。この天守閣は破風の付かない五重五階地下一階の層塔型で、弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない、本丸の一角に天守曲輪を備える構造にて、天守台に穴蔵を設けるという、実戦的なもの。

 関連して、堅固な守りということでは、城の西側、宮川に面した名うての石垣(穴のう衆の作と伝わる)もさることながら、それだけではない。その一つ、「本丸の東面は斜面を石垣にするだけではなく、本丸内側にも壁のように立ち上がる長大な石塁にいち早く駆けつけるため、合雁木と呼ばれる石段が設けられている」(前掲書)とある。筆者も以前、その珍しい名前の石段を上ったことがあるのだが、足下に注意が必要だ。最新の階段の写真(同、前掲書)には危険回避の配慮からであろうか、正面に柵が設けられているように見受けられる。

 また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓など計60基もの数多くの櫓が立ち並び、さほど広いとはいえない本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園が設けられていた(最新の説明としては、中井均「新編、日本の城」山川出版社、2021など)。


 表からの通常であったであろう順路を追うと、冠木門(現在その跡横に津山城趾碑)があり、広い石段から入ると三の丸で素晴らしい高石垣が迎えてくれる。見上げると高石垣が視野に入る、そんな石段の桝形虎口を登っていくと二の丸入口の四脚門に出る。ここから備中櫓を見上げながら切手門跡を通り、表鉄門跡へ、横から備中櫓を眺めることになっている。
 鉄門を入ると本丸で、東側の太鼓櫓跡、矢切櫓跡、月見櫓跡と続く大きな要塞のような石垣群が構える。本丸西側には備中櫓、その奥に天守台の石垣、そして天守が見える。そこから下るには、裏鉄門跡から降りていくと本丸下へ出て、西側の高石垣が見られる。


 話を戻して、この築城にあたっては、「領民、婦女子をはじめ、重臣以下」、藩の力を結集して取り組む。それでも足らないところほ、外からの知見を得ようとした。しかして、たとえば、設計については、小倉城を範としたことが、こう伝わる。 

 「工事に先立って、家臣の薮田助太夫ら絵師大工の一行が豊前小倉(ふぜんこくら)に密行、海上から城の見取図を作っていたところ、役人に発見され、城は軍事上の秘密、小倉城では大騒ぎとなった。
 しかし、城主細川忠興は一行を城内に招き、詳しい図のみか、築城の注意まで与えて帰国させた。
 城が完成すると忠興から朝顔の花形の半鐘が贈られ、この半鐘は天守の最上部に釣られ、大切に保管された。」(野口冬人「女のひとり旅2、城下町」文化出版局、1971で引用されている大類伸監修「日本城郭事典」秋田書店刊行より)


 一応の完成を見たのは1616年(元和2年)であり、幕府へ絵図面を持参したところ、5日ほどして「天守の五層はあいならぬ」と言われ、驚いた津山藩の担当・作倉孫十郎はとっさに頭を巡らし、絵図面の4層目の屋根を塗りつぶして「先に提出したのは間違っておりました」と申し開きをした模様。
 ところが、それから約2か月経過して、幕府のや役人3名が津山に向けて現地視察の旅に出たと知り、大いに慌て、江戸を出発するのだが、あえなく病となる。事の重大さに気づいた江戸屋敷の伴唯介が江戸表を出発する。
 運よく馬を乗り継ぎ、なんとか「一昼夜余りで美作土居」の宿に到達し、そこで幕府役人一行を追い抜き、国元たどり着き注進したという。

 それからは上を下への大騒ぎであったのだろう。一説には、急ぎ大工を集め、一夜のうちに五層のうちの一つを張りぼてでおおい隠して、一行を迎えた由。その結果は「不都合なし」とされ、これでなんとか面目を保つことができたという。
 なお、別の説では、「四層目の屋根を切り落とし難を逃れた」(津山城築城400年記念事業実行委員会「津山城ーよみがえる郷土の誇り」)とも言われており、いずれの説も「天守にまつわる伝説」の類いに留まっていて、はたして歴史的事実がどうかはわかっていない。

 こうして、途中3年間の普請中断があったものの、13年の長きにわたってこの築城は完成を見ているとのこと。

 かくて、その全容ということでは、城郭は本丸と天守閣、二の丸(周囲約480メートル)、三の丸(同約830メートル)、それに外郭に分かれ、櫓(やぐら)77、城門41にして、南は吉井川、東は宮川を自然の要害とし、東と北の急斜面など自然の地形を生かそう、との造りだ。
 また、三の丸の下の「西側に馬場、さらにるもとから外堀へかけて藩主の一族や重臣たちの屋敷を配し、その外へ土塁と掘をめぐらした」(日高一「津山城物語」山陽新聞社、1987)という。


(続く)


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