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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:當麻寺」

2015-09-30 23:42:21 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:當麻寺」

 

當麻寺。不思議のあつまる寺 本尊弥勒菩薩→當麻曼荼羅に変化。五重塔の位置が通常とは異なる。2つの宗派が共存など。

 

當麻寺(當麻寺 中之坊と伽藍堂塔 -奈良県 葛城市-)は名前は知っていたけど、あまりよく知らなかった。不思議のあつまる寺と呼ばれているんだね?

 

 

二上山のふもと。役行者の最初の修行場? 塔頭を中心とした13の小さな寺のあつまりを當麻寺と呼ぶ。當麻氏の領地。不思議な寺=不思議な伽藍配置。奈良時代に建てられた本堂の左隣、小さなお堂の向こう側に三重塔=西塔。そこから30m離れてさらに三重塔=東塔。大日如来を祀る。


 

二上山(Wikipedia)は奈良と大阪の間にある山なのね? 當麻氏(Wikipedia)について詳しいことは分からなかったけど、当麻皇子(Wikipedia)に関係ありかしら? 

 

双塔式伽藍。創建当時から双塔が残るのは當麻寺のみ。通常は南に本堂、両脇を挟むように西塔と東塔が並ぶ配置。元々は別の寺だった? 金堂が本来の本堂だった? 金堂を挟んで西塔東塔。金堂には弥勒菩薩。本来の本尊はこの弥勒菩薩であった。


 

ちょっとtweetが分かれてしまったけれど、双塔式伽藍というのは西塔と東塔を配した伽藍。そもそもは本堂を挟んで左に西塔、右に東塔という形。元々は別の寺だった?と書いちゃっているけど、これは間違い。後に出て来るけど、もともとは本堂が違っていたということ。tweetにも書いてあるけど、金堂を挟んで双塔式になっているわけだし、本尊であった弥勒菩薩が安置されているのだから、本来はこの金堂が本堂だったということ。

 

當麻寺の本尊は當麻曼荼羅。複製。本来の曼荼羅は痛みが激しく別に保管されている。阿弥陀如来。右:観音菩薩、左:勢至菩薩を配した阿弥陀三尊図。當麻曼荼羅はかん無量じゅ教(←漢字出ない)をもとに描かれている。

 

當麻曼荼羅(Wikipedia)については後に詳しく出て来るけど、かなり大きな曼荼羅。かん無量じゅ教とは、観無量寿経(Wikipedia)のこと。大乗仏教の経典の1つなのね?

 

何故、弥勒菩薩から當麻曼荼羅へ? 中将姫が一晩で織り上げた? 4歳で経文を読んだ? 実母と死別、義理の母にいじめられる。命も狙われる。義母の心の救済を阿弥陀如来に祈り、極楽の入り口とされた二上山入場を希望、当時女人禁制だった當麻寺の門前で読経。姫の熱意により禁制を解き髪を下す。


 

何故、本尊が弥勒菩薩から當麻曼荼羅に変わったかということは、當麻寺が不思議の寺と呼ばれる理由の1つでもある、中将姫(Wikipedia)の伝説がある。中将姫って藤原鎌足に繋がりのある方なのね? 才色兼備の方だったようで、淳仁天皇(Wikipedia)に後宮に入るように望まれたほどだったとか。これを辞退して仏門に入られたということは、信仰の厚さもあるけれど、お辛い人生だったからかも? 命を狙われるって相当だものね・・・

 

毛髪で織った梵字で表した阿弥陀三尊、剃髪した剃刀、門前に立った際の足跡などが寺に残る。尼となった姫は人々の導きになればと當麻曼荼羅を織り上げる。

 

中将姫は29歳で極楽浄土へ往生。当時女性は一度男性に生まれ変わらないと往生できないと考えられていた。姫が女性として往生したということは、女性の信仰の支えともなった。念願が叶う時、夕日の向こうから阿弥陀三尊を始めとする二十五菩薩が迎えに来た。往生の仕方として最上級。

 

17歳の時に當麻寺で剃髪され、仏門に入られた中将姫。29歳の若さで亡くなってしまったのね でも、阿弥陀信仰に厚い姫にとって、往生は念願だったそうで、待ち望んだ瞬間だったのだそう。そうか、そう考えると死は再生であって、怖くはないのかもしれない。

 

この女性は一度男性に生まれ変わらないと往生できないという説は知ってたけど、女性としては本当にムカツク((*`ェ´)) 失礼しちゃう! でも、中将姫は女性として往生したと考えられたということは、姫はよほど徳の高い方だったのでしょう。

 

tweetでは阿弥陀如来も含めちゃってるけど、二十五菩薩(二十五菩薩(にじゅうごぼさつ)とは|コトバンク)には阿弥陀如来は含まれない。楽器を手にして来迎してくださる。その姿を浮かべながら死んで行けたら怖くないかもしれない

 
 

中将姫が往生した後も當麻曼荼羅への信仰が厚く、金堂から當麻堂が本堂へと変わった。

 

ということで、これが弥勒菩薩から當麻曼荼羅へ本尊が変わった理由であり、本堂が変わった理由でもある。

 

異なる宗派が存在。長野善光寺などがあるが、一般的には交わりにくい真言宗と浄土宗が混在しているのが特徴。寺の歴史の流れを考えると自然な形。

 

そして、もう一つ當麻寺の不思議が、異なる宗教の混在。とはいえ、そういうお寺自体は他にも存在するらしいけど、真言宗と浄土宗が混在するのが珍しいらしい。

 

600年代前半の創建。600年代後半には當麻氏の寺として栄える。800年代に弘法大師空海の教えを受け真言宗のお寺へ。西南院は真言宗の寺。西南院庭園は回遊式庭園。平安末期に勢いを失う。鎌倉時代に浄土宗の証空が寺に入り、當麻曼荼羅を用いて布教を行ったことにより、再び當麻曼荼羅に注目

 

當麻っていう字が中々でなくて、コピペしながらtweetしてたから、年代を列挙しての歴史部分とか正確に書かなきゃならない部分って、どうしても聞き取りできなくてちゃんと書けない

 

そもそもは別の宗派のお寺だったようだけれど、800年代に真言宗のお寺になった後、平安時代にの混乱期に衰退してしまい、鎌倉時代に浄土宗の証空(Wikipedia)が當麻寺に入り、當麻曼荼羅を用いて布教を行ったことにより、再び當麻曼荼羅に注目が集まり盛り返したそうで、要するにこれが浄土宗も信仰される理由となったというとらしい。

 

当時は宗派の違いが今ほどはっきりしておらず、大学の同じ学部で専攻が異なる程度の感覚だった。

 

奥院。浄土庭園。この地から真言宗と浄土宗の共存が始まる。それぞれ7つの寺を持つ。月3回の朝の勤行は真言宗の後、浄土宗のお勤めが行われる。

 

一つ上のtweetにもあるとおり、当時は宗教の違いがハッキリしていず、そんなに禁断のことではなかったらしい。現在でも、月3回の朝の勤行では交互に行われるなど、上手く共存しているらしいけれど、當麻寺の僧侶の方々の区別はどうなっているのだろう? お寺がそれぞれ分かれているそうなので、その辺りも個々に分かれているのかな?

 

當麻寺って練供養のお寺だ!!

 

 

MJことみうらじゅん氏が"とんまつり"と称しているうちの1つ。練供養。この後に、釈迦の面を被ったちびっ子たちが、老人たちに連れられて歩く姿がDS(どうかしている)と思っているんだよね?(笑) 

 

練供養の様子はYouTubeにいくつか動画があったけれど、個人の方の動画らしいので貼るのは止めておく

 

中将姫が往生した5月14日に行われる練供養は、中将姫の人生を表す。阿弥陀如来が中将姫を掲げて練り歩く。阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩。僧侶ではなく菩薩講が行う。所作は代々口伝えにより伝えられてきた。国指定の無形文化財。千年以上一度も途絶えていない。

 

Wikipediaによると姫の命日は4月22日となっていたんだけど・・・ 四十九日でもないし、旧暦だからかな? とりあえず、毎年5月14日に行われているらしい。阿弥陀如来を先頭として、勢至菩薩、観音菩薩の3菩薩が練り歩く。これは、菩薩講に属した方々が行っているのだとか。阿弥陀如来が主役ではあるけれど、後を行く勢至菩薩は阿弥陀如来の動きに合わせる必要があるので、かなり大変なのだとか。

 

国指定の無形文化財というのは知らなかった。でも、これ一度見てみたい! 中腰になって腕を大きく回したりするので、これはかなり大変だと思う。踊りそのものもそうだけれど、千年守り続けているということこそ宝。これからも大切に守って欲しい。 

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週日曜 22:00~@BSフジ

古都浪漫こころ寺巡り|BSフジ

 

 【備忘メモ】「古都浪漫こころ寺巡り」10月から毎週日曜22:00~! 初回は10月4日! φ(・ェ・o)メモメモ

 

10月から放送日変更です!!\_(o゜ェ゜o)注目


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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:蟹満寺・観音寺・禅定寺」

2015-09-23 23:56:57 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:蟹満寺・観音寺・禅定寺」

蟹満寺

蟹満寺 蛙が蛇に食べられそうになっているところに遭遇した男が、蛙を助けるために娘を嫁にやる約束をする。夜蛇は大蛇となって男の家にやってくる。観音様が現れて助けることを約束。大蛇の気配が消え外に出ると息絶えた大蛇と蟹。以前娘が助けた蟹の恩返し。今昔物語に載っている。

 

 

京都南山城の古寺を紹介する回。蟹満寺(Wikipedia)のことは知らなかった。tweetしているのが蟹満寺の由来。今昔物語(Wikipedia)にも出て来る物語なのだそう。娘が助けたというのは、村人が蟹を食べようとしているところを救ったということだった。なかなか勇気ある行為だね娘(笑)

 

平成22年に建て替えらえたお堂 藤原京時代建立の本尊釈迦如来坐像。日本でも有数の美しさ。発願者、仏師、造立時期など詳しいことは分かっていない。像の特徴により藤原京時代と分かる。衣の表現。縵網相の大きさも特徴。丈六=4.85m 座高2.40mで作成→立ち上がると丈六

 

本尊の釈迦如来坐像については、tweetどおり詳細が分かっていないけれど、衣の表現や手の水かき=縵網相(三十二相八十種好|Wikipedia)により、藤原京(Wikipedia)時代の作であることが分かるのだそう。丈六(丈六(じょうろく)とは|コトバンク)=4.85mというのは、釈迦の身長が4.85mだと考えられていたため、仏像を造る際に丈六で造られることが多い。坐像だと座高2.40mで造られるってことなのかな?

 

薬師寺の国宝薬師如来坐像。丈六。蟹満寺の釈迦如来坐像の特徴が似ている。同じ頃に造られたのではないか? 薬師寺の薬師如来は大伽藍なのに、蟹満寺は小さい。何故? 以前は大伽藍であった痕跡。水害などで失われた? 本尊は人々の手によって守られてきたのでは?

 

薬師寺(奈良薬師寺 公式サイト|Yakushiji Temple Official Web Site)の薬師如来坐像も丈六で、特徴が似ているため同じ頃に造られたものではないか? 薬師寺は現在も大伽藍なのに何故?ということなのだけど、文献などによると以前は大伽藍であった形跡が見られるとのこと。


観音寺

観音寺 奈良時代良弁僧正が開祖 東西7~800m13のお堂がある大寺院だった。大御堂2層式や、五重塔があった。五重塔の礎石が1つ残る。奈良時代~平安時代の瓦の破片。南山城には瓦工房があった。奈良に送られていた。


同じく以前は大伽藍であった観音寺(Wikipedia)は良弁僧正(Wikipedia)により開かれたのだそう。境内には奈良時代~平安時代の瓦の破片が多く残されているけれど、この辺りには以前瓦工房がたくさんあったからなのだそう。

 

国宝十一面観音菩薩立像 女性的なプロポーション 木芯乾漆造り 粗彫りをして漆で盛り上げる技法 年月と費用がかかる。国家事業として作られていたのではないか? 化仏の阿弥陀如来と十種勝利を頂く。11番目のお顔が十一面観音のお顔=悟りを開いたお顔 4つの来世 美しい仏様! 見たい!!


 

国宝の十一面観音立像は、木芯乾漆造り(乾漆造り|Wikipedia)は、tweetにもあるとおり粗彫りした像に麻布を貼り、抹香漆または木屎漆を盛り上げて造る製法。漆を塗り固めるので時間もお金もかかるそうで、おそらく国家事業として行われたのではないかとのこと。


十一面観音様の頭上の10のお顔を直接十種勝利(十一面観音|Wikipedia)と言うわけでなく、10のお顔が現世での10のご利益を表していることを言うらしい。正面のお顔が、4つの来世でメモ途切れちゃっているけど、これは四種功徳(十一面観音|Wikipedia)のことで、来世での4つの果報を表しているとのこと。この十一面観音様は本当に美しくて、女性的な体の曲線も優美。この仏様絶対にお会いしたい


南山城は奈良の平城京と、琵琶湖に近く中国や朝鮮から来た人も多く住んでいた。恭仁京計画。木津川沿いであること。などより発展し、大寺院が建立される仏教都市となった。平安時代になると京都の中心に都が移ったため、衰退していった。


この辺りちょっと曖昧なのだけど、南山城は平城京(Wikipedia)と隣接していて、琵琶湖にも近いという立地条件から栄えたということらしい。恭仁京(Wikipedia)のことは知らなかったのだけど、これは聖武天皇(Wikipedia)により740年に遷都されていたらしい! 木津川沿いであったことは物資を運ぶ拠点として栄えたということ。この時代は、都市が発展すると大寺院が建立されていたのでしょうかね。

 

禅定寺

禅定寺 藤原氏の庇護のもと栄えるが、室町時代の南北朝時代に衰退。江戸時代に月舟が加賀藩本田氏の援助を得て再建した。PC固まっちゃって落としてたからメモできなかった。・゜・(ノД`)・゜・。


このちょっと前Chromeが固まっちゃって、文字が打てなくなってしまったため、一度落としたりしていたので、メモ取れなかった。・゜・(ノД`)・゜・。 他の2寺とはちょっと違う場所にあるような説明だったように感じたのだけど違うのかな? 宇治田原にあるみたいだけど・・・


禅定寺(Wikipedia)は東大寺(華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ)の別当(Wikipedia)平崇が創建したのだそう。平崇が藤原氏(Wikipedia)の庇護を受けて造営したが、南北朝時代に衰退。江戸時代に月舟(Wikipedia)が、加賀藩本田氏(Wikipedia)の庇護を受けて再建したとのこと。

 

十一面観音菩薩、日光月光菩薩立像、地蔵菩薩、大威徳、四天王立像など宝物殿に祀られる。四天王立像は創建当時から安置されている桜と檜の寄木細工。160cm。本尊十一面観音立像も創建当時から祀られている。京都随一の大きさ。



宗派として本尊はあまり関係なかったが、月舟は創建時からあった仏像を全て大切にしたというような説明をしていたような・・・  仏像たちは現在宝物殿に安置されているそうで、一堂に会した姿は圧巻。しかも、tweetにもあるとおり四天王像160cmなどかなりの大きさなので壮観。これは行ってみたい!! ご本尊十一面観音立像の脇侍扱いで日光菩薩・月光菩薩がおられたけれど、本来は薬師如来の脇侍。これはちょっと不思議。

 

おんまか きゃろにきゃ そわか

 

仏様にはそれぞれの呪文のようなものがあって、これは十一面観音様のもの。

 

飢饉に襲われた時、一人の娘が現れ、渋柿を美味しく食べる製法を教えた。渋柿を干す→干し柿 村を去る娘を追うと、岩の辺りで娘の姿が消え、十一面観音菩薩の姿が現れた。娘は観音菩薩の化身であると考えた。ころ柿 禅定寺の観音菩薩信仰を深める。美女岩の辺りに、平成3年おとめ観音安置。


この話はなかなか素敵なお話。娘さんの真偽はともかく、この地で干し柿が生まれたのかしら? そういう説明ではなかったような? ころ柿(ころ柿|JA遠州中央)で調べてみても、干し柿(Wikipedia)で調べてみても、そういう表記は見当たらない。まぁ、いい話だからいいか(o´ェ`o)ゞ

 

南山城のお寺は、かつて大伽藍の寺だったが、時代の流れと共に小さな寺となりつつも、人々の信仰を集め、見つめ続けている。


と、キレイにまとめて糸冬 了(笑)

  

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:永観堂禅林寺」

2015-09-16 23:58:05 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:永観堂禅林寺」

東山三十六峰の1つ 永観堂禅林寺 総門→中門(江戸中期に再建)→伽藍 中門右手弁天池には弁財天が祀られる 池の西側岩垣もみじ もみじの名所永観堂でも見応えがある 平安時代からもみじの名所 藤原関雄の別邸だった 官僚試験に合格大臣になる資格を得るが、宮仕えせず和歌にいそしむ



今回は是非行ってみたいと思っている永観堂(永観堂(Eikando,Kyoto))。後に出て来るみかえり阿弥陀様を見たいからなのだけど、こんなに紅葉が素晴らしいとは思わなかった。藤原関雄(Wikipedia)はかなり風流な方だったようで、そういう方の別邸なのであれば、納得という感じ。もみじの頃に行ってみたい。

 

多宝塔 山の斜面に回廊=臥龍廊 → 開山堂 真紹僧都開祖 853年真言宗の寺として創建 瑞紫殿 阿弥陀如来坐像 1467年応仁の乱 5体の阿弥陀如来のうち4体が焼失 残る1体 手に焼け跡残る=火除けの阿弥陀


 

現在は浄土宗の禅林寺、そもそもは真言宗の寺として真紹僧都(Wikipedia)開山。浄土宗に変わった経緯については後に出て来るけど、1人の僧侶により寺の宗派が変わってしまうというのも不思議な感じ。とはいえ、もともとは仏教という部分で共通であって、そのアプローチが違っているからということなのかな?


唐突に阿弥陀如来が5体とtweetしちゃってるけど、要するに5体の阿弥陀如来が京都の各地に安置されたという部分が抜けてしまった。確か、この真紹僧都によって置かれたと思ったのだけど、聞き逃した 応仁の乱(Wikipedia) で京都は戦火に包まれてしまい、4体が焼失してしまったのだとか。残念


御影堂 寺で一番大きい 大正時代に再建総瓦ぶき 現在は浄土宗 真言宗=空海 人は仏になれる 浄土宗=法然 念仏により救われる 極端な宗派の転換 平安時代 永観律師(ようかんりっし) 奈良で修行浄土教に目覚める 法然が浄土宗を開く100年前 幼い頃を過ごした禅林寺に入る


真言宗(Wikipedia)の開祖空海(Wikipedia)と、浄土宗(浄土宗|公式サイト)の開祖法然(Wikipedia)の教えは一見全く真逆に見えた、永観律師(Wikipedia)は奈良での修行中、浄土教に目覚めた。法然が浄土宗を開く100年前から浄土教という教えはあったってことなの? なかなか難しい 


  

禅林寺に入った10年後、念仏行を1人で行う 明け方永観の前を歩き念仏行道を行う阿弥陀如来の姿 驚く永観に「永観、遅し」と声をかける。仏は苦しむ人々と共にいると永観が悟った瞬間 その時の姿を現したのが見返り阿弥陀 みかえり阿弥陀を祀ったのが永観堂 豊臣家から移築


永観は1日6万回念仏を唱える修行を行っていたそうで、その際永観の前に阿弥陀如来が姿を表したという有名な話。「永観、遅し」と声を掛けたと言うと、永観を叱責しているように感じるけど、たしか永観堂のみかえり阿弥陀の英語の説明文だと「Eikan,Follow me」となってるんだよね? となると、これは激励しているということなのかも? なので、永観も苦しむ人々と共にいると感じたのでしょう。


豊臣の誰のどこから移築されたのか聞き逃し 秀吉と秀頼ではなかった気がする・・・ ちょっと調べてみたけど分からず(´・ω・`)

 

みかえり阿弥陀 鎌倉時代作 75cm 来迎印 極楽浄土から阿弥陀如来が来迎する時の姿 永観の前に現れた時の姿を模している


 

75cmと意外に小さなお姿なのね・・・ この阿弥陀様その見返っているお姿に気を取られてしまうけれど、本当に美しく慈愛に満ちたお姿をされている。この清らかで永観を導こうとされているお顔。素晴らしい 実物絶対見に行く!!

 

 

永観 浴室を設ける 現在のサウナのようなもの 病に苦しむ人々を救う 悲田梅 病に苦しむ人々のために梅を与える 鴨長明→永観の人柄を書き残す 宗派や教義にとらわれずに人々を救う 人々は親しみを込め、禅林寺を永観堂と呼ぶ


 

浴室は写真のもの。病に苦しむ人々をサウナのような浴室に入れると何故病気が治るのかがイマヒトツ分からないのだけど、念仏行道でみかえり阿弥陀様のお姿を見た後、人々を救うために尽力したのはスゴイ。

 

鴨長明(Wikipedia)が永観のことを書いたのは、何という随筆だったか聞き逃し。仏教説話集だというから「発心集」(Wikipedia)かな?

 

浄土宗 厳しい修行を否定するものとして法然は仏教界から弾圧 禅林寺の住職静遍 浄土宗を否定する目的で学ぶ 学ぶうちに考えが変わる 法然の教えと、永観の教えに共通点を感じる 人々を救うこと 11代を永観とし、自らを12代として、既に永観は亡くなっていたが弟子入りした


静遍(Wikipedia)は法然の「選択本願念仏集」(Wikipedia)を読んで感動したのだそう。真言宗の寺として始まった禅林寺が、浄土宗に変換したのは永観によるものなのかなと思っていたのだけれど、この静遍の時点でも迷いがあったってことなのかな? 

 

山越阿弥陀図 静遍が描かせる 阿弥陀如来来迎図 観音菩薩と勢至菩薩が向き合って描かれる 山越阿弥陀は数多く描かれたが、禅林寺のものは傑作であり異質 左上に大日如来を表す梵字の阿 ←理由は聞き逃す



山越阿弥陀図(山越阿弥陀図(やまこしあみだず)とは|コトバンク)はどこかのお寺でも見た気がする。手前の雲に乗っておられるのが右が観音菩薩で、左が勢至菩薩。このお姿はいいね。左上が問題の阿。 

 

 

唐門 天皇の勅使が出入りした=勅使門 庭園 修行僧により砂が毎朝整えられる 小判型の市松模様の盛り砂 勅使は盛り砂を踏んで清めた 月明りを反射させ明り取りとしていた?


要するに唐門から入ると目の前に小判型の盛り砂がある。かなり大きい。この盛り砂の上の部分が市松模様になっていて素敵。勅使はこれを踏んで進んだそうだけれど、もったいない 月明りを反射させたというのは素敵な話。

 

盛り砂を進むと釈迦堂 釈迦如来像 鎌倉時代に入って来た宋文化が色濃く反映 四季の間の襖絵 狩野永徳の一門 桜 虎の間 長谷川等伯の一門 竹虎図 上段の間 勅使を迎える部屋 仙人の間 仙人図 鯉に乗り天を駆ける仙人


要するに唐門から釈迦堂に入る際に、盛り砂で清めたということ。ここに安置されている釈迦如来様は宋文化が色濃く反映しているそうだけれど美しかった! 釈迦堂には当時の有名絵師たちが腕を競い合ったらしく、襖絵はどれも素晴らしかった。狩野永徳(Wikipedia)一門のもさすが狩野派(Wikipedia)だったけれど、長谷川等伯(Wikipedia)一門の竹虎図が良かった! 仙人の間の絵師については紹介がなかったので不明なのかな?

 

 

与謝野晶子の歌碑 みだれ髪にも収録 人生の分岐点に永観堂を訪れる 明星で短歌を発表名声を得た頃、与謝野鉄幹に山川登美子と共に永観堂旅行に誘われる 登美子と晶子はライバル関係 妻子持ちの鉄幹と三角関係にあった 永観堂を訪れた時、鉄幹への熱い思いを歌う



正直、与謝野晶子(Wikipedia)と与謝野鉄幹(Wikipedia)の恋物語についてはビジュアル的にグッとこない(失礼)のだけど、確かに芸術の生まれる背景としては興味がある。短歌(Wikipedia)は全然分からないのだけど、やっぱり文学は芸術だものね。山川登美子(Wikipedia)は名前しか知らなかったけれど、三角関係だったのね? っていうか、鉄幹妻がいたなら四角関係なのでは? と、意外にドロドロした話題で終わる永観堂でした(笑)

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:建長寺・瑞泉寺・東慶寺」

2015-09-09 22:02:56 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:建長寺・瑞泉寺・東慶寺」

  

禅とは心の別名 心とは釈迦の教えの真髄 不立文字

 

鎌倉の禅寺を紹介する回 まずは禅の意味から。不立文字は先週も出てきたね。

 

まずは建長寺から

【建長寺】日本初の本格的な禅宗寺院 建長とは北条時頼が寺建立した年号 中国の禅宗の伽藍配置 室町時代に鎌倉五山の第1位になった 現在でも室町時代の高僧南渓道隆の教えが息づいている 1253年建長寺の開山となる 禅僧は自ら修行を見つけて行う 食事、掃除も修行


 

禅宗は武家により発展した。それゆえ京都五山よりも鎌倉五山の方が格式が高い。建長寺(大本山 巨福山 建長寺|臨済宗建長寺派 大本山)は北条時頼(Wikipedia)が建てたのね。伽藍配置については、三門から南北に延びるって言ってたかな? ちょっと聞き逃した


鎌倉五山(Wikipedia)の第1位。まぁ、そうでしょうね・・・ えと、ずっと南渓道隆とtweetしてたけど、蘭渓道隆(Wikipedia)だった(/ω\) 

 

南渓道隆 無限清風=この世はいつまで清らかな風が吹いている 穢れのない心で過ごしなさい 人々へ説く

 

このtweetだけだと意味が分からないけど、蘭渓道隆は僧だけではなく、一般の人々にも教えを説いていたそうで、その際に与えた言葉が"無限清風"という言葉で、意味としてはtweetにあるとおり。

 

仏殿は江戸時代芝道成寺から移築された 本尊地蔵菩薩坐像 4.8m 禅宗の本尊は釈迦如来 建長寺建立前、刑場があり地蔵堂があったため、本尊となったと言われている


道成寺ってtweetしちゃってるけど、正しくは増上寺(浄土宗 大本山 増上寺)! しかも、徳川秀忠夫人(Wikipedia)崇源院(Wikipedia)の霊屋を移築したものだそう。霊屋をのリンクをクリックしたら廟が出たので、要するに廟を移築してしまったってこと? 崇源院ってお江だよね? あらま(笑) しかも宗派も違うのに? 


このご本尊、4.8mっていうことは丈六だね? 釈迦の身長が丈六(丈六(じょうろく)とは|コトバンク)であることから、仏像も丈六を基準として作られることが多い。

 

法堂 木造建築のお堂としては関東最大級 内陣には千手観音と釈迦苦行像←断食をしながら心理を求める釈迦の姿 ガリガリ 


この釈迦苦行像はホントにガリガリですごかった! お顔はエキゾチックな顔立ち。インド的。検索するとかなりの数の画像が出て来るので、建長寺のみのものではないのだね。

 

唐門→方丈 方丈は本来僧が日常を送る場所 後に修行の場となった 建長寺の方丈で鎌倉武士が禅と向き合った 武士にとって禅とは? 死と向き合うために必要なもの 迷いを断ち切り無心になるため?


建長寺の方丈(Wikipedia)は有名。この場所なら武士も禅と向き合いたくなる。たしかに、常に死と向き合っている武士にとって、心の支えとなるものは必要だったのかなと思う。そういう意味では、日常にも修行を見出す禅が、武士に好まれたのも分かる気がする。

 

けんちん汁 建長寺で生まれた精進料理 建長汁=けんちんじる 材料を細かく切り捨てるところなく使った 禅の精進料理が日本の食文化を育んだ? ありがたく頂く


けんちん汁(Wikipedia)の由来については諸説あるみたいだけど、その中の1つに建長寺の僧が作ったという説があるそうで、現在建長寺周辺の精進料理店では、けんちん汁を中心とした精進料理(Wikipedia)を出している。


番組で紹介されていたのは、鉢の木カフェ(カフェ|鎌倉 鉢の木【和食】精進料理/会席料理/カフェ)ここは行ったことある


続いて瑞泉寺

【瑞泉寺】円覚寺を大本山とする古刹 開山は夢想疎石 鎌倉時代に禅宗を支えた高僧 南北朝時代に禅の教えで争いを収束させ、公家からも武家からも尊ばれた



瑞泉寺(臨済宗円覚寺派 鎌倉 瑞泉寺)は行ったことないけど、素敵なお寺で行ってみたい。なんと夢想疎石(Wikipedia)が開山なのね 南北朝時代を収束させた高僧が、鎌倉の古刹の開山になっていたとわ! 鎌倉スゴイ って、まぁ幕府があったのだものね。


優れた作庭家でもあった 風光明媚な庭を創る 瑞泉寺庭園は国の庭に指定されている←名称が妖しい・・・ 山に囲まれた土地のため、岩盤を削って寺を建てていた。岩盤を生かした作庭。自然の佇まい。鎌倉時代に流行った作庭の集大成が瑞泉寺庭園である 困難な時こそ足元を固めよ


夢想疎石については先週の番組内で紹介されるまでは名前しか知らなかったので、まさか優れた作庭家でもあったとはもちろん知らなかった! 瑞泉寺式庭園で検索すると、池泉式庭園が出てくるけど、これが正式名称? でも、字幕でも瑞泉寺式庭園って出てたけどなぁ


山に囲まれた場所なので、お寺や別荘が多く建てられたというのは、以前「美の壺」(記事はコチラ)で見た気がするけど、岩盤を削ってまでお寺を建てたり、庭を造ったりしていたとは知らなかった。


最後は東慶寺

【東慶寺】円覚寺を大本山とする古刹 北条時宗の妻が創建 息子貞時が開基となった 鎌倉時代中期 元寇=蒙古襲来 蒙古襲来での戦没者を敵味方なく葬るため、中国から無学祖元を招くが33歳で死去 妻かくさん尼が夫の遺志を継ぎ、小さな尼寺を建てた


 


東慶寺(北鎌倉 松岡山 東慶寺)も円覚寺派なのね? 北条時宗(Wikipedia)の妻覚山尼(Wikipedia)が創建し、北条貞時(Wikipedia)が開基(Wikipedia)って、かなり豪華なラインナップ。こじんまりとしたお寺なのに。


元寇(Wikipedia)の際に、敵味方関係なく犠牲者の菩提を弔うために、中国から無学祖元(Wikipedia)を招いたなんて、北条時宗は素晴らしい人だったのね。33歳で亡くなってしまったのは残念 そんな人の遺志なら継ぎたくなるでしょう! 北条時宗のお墓は円覚寺にあるそうで、夫が今でも妻のお寺を見守っている構図なのだとか。いい話。・゜・(ノД`)・゜・。

 

江戸時代に尼寺として庇護された 男子禁制を徹底 あらゆる女性を救う駆け込み寺、縁切り寺として24ヶ月過ごせば離縁できる=東慶寺法 徳川幕府公認の縁切り寺 お白洲もあった


江戸時代にもDVなどはあったようで・・・ そもそも覚山尼が東慶寺を建てたのも女性を救いたいという思いからだったそうなので、鎌倉時代にもDVはあったってことでしょうヤレヤレ┐(´д`)┌ 江戸時代には幕府公認の縁切り寺になったそうで、お白洲で評定とまではいかなくても、双方の言い分を聞くなどはしていたのではないかとのこと。24ヶ月過ごせば離縁できるとうのは、東慶寺法というか別の言い方をしていた気もするのだけど・・・ でも、あの小さなお寺がそんな権限を持っていたなんて驚き。そしてそれだけ虐げられた女性たちがいたということにも複雑な思い

 

三行半 離縁状が三行半で書かれていたことから

 

水月観音菩薩像 鎌倉時代 水面に写る月を眺めていることから水月観音 人々を救う 水月観音様は予約すれば拝観可能ですよ!


 

この水月観音様は小さいのだけど、本当にゆったりとした優美なお姿。なので、見ているととっても穏やかな気持ちになる。実際拝見した時の記事はコチラ。水月観音様は秘仏なのではなくて、お堂で朝の勤行をしたりしている関係で、通常公開できないため、予約を受けての拝観という形になっているのだそう。でも、静かにじっくり見れるので、このシステムいいと思う。

 

聖観音菩薩像 土紋 粘土などで模様を立体的に表したもの 鎌倉時代の作としては数体しかない

 

土紋装飾についてはWikipediaなどはなく、検索して出てくるのは個人の方のblogなので、リンクは遠慮しておく。ただ、チラリと読ませて頂いた感じだと、鎌倉地方の特徴であるらしい。これは番組でも紹介していたけれど、粘土や漆を混ぜて型で抜き、刺繍などの文様を立体的にすることだそう。鎌倉時代の作としては数体しかないと書いてるけど、"鎌倉時代のものとしては"って部分はちょっと曖昧(o´ェ`o)ゞ

  

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:相国寺」

2015-09-03 00:29:28 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:相国寺」

開基は足利義満 南北朝時代に終止符を打つ 尊氏の時代から禅宗に帰依 巨大な禅寺を建てようと決意 相国寺は京都五山の第2位となった 明治の廃仏毀釈で大部分を失う 鹿苑寺=金閣寺 慈照寺=銀閣寺も相国寺系列の寺 


 

開基(Wikipedia)っていうのは開山(Wikipedia)のことなの? 相国寺(相国寺 - 臨済宗相国寺派)の開基は足利義満(Wikipedia)だったのね 京都五山(Wikipedia)については何度か登場しているけど、禅宗を代表する京都の5つのお寺のことだけど、禅宗は武家により発展した宗派なので、鎌倉五山(Wikipedia)の方が格式が高いんだよね?たしか。因みに、第一位:天龍寺、第二位:相国寺、第三位:建仁寺、第四位:東福寺、第五位:万寿寺で、南禅寺は別格なのだとか。


しかし、金閣寺と銀閣寺も相国寺の系列であるとは知らなかった! 検索してみたら、HPが同じだった


法堂 鳴き龍 天井画の下で手を打つと反響することから


なんと! 鳴き龍の動画があった! ということで、ドゥゾ♪(っ'ω')っ))


相国寺の鳴き龍

 

方丈(Wikipedia) 1807年に再建 法要や仏事に使われる 中央に江戸時代の画家加藤のぶきよ(←漢字分からず)による観世音菩薩図 輪郭やグラデーションが文字で描かれた文字絵 裏庭=悟りの豊かさを表す 禅宗にとって庭は己と向き合う重要な場所


加藤のぶきよは加藤信清(加藤信清(かとうのぶきよ)とは|コトバンク)のこと。この絵師のことは知らなかった。まだまだ知らないスゴイ絵師がたくさんいる。この観世音菩薩図素晴らしかった。まず、遠目で見た時にその神々しい美しさにビックリしたけど、輪郭やグラデーションまで文字で描かれているとわ


急に裏庭に話が飛んじゃってるけど(笑) ちょっと疲れててタイピングが上手く行かなくて、いつもより全然聞き取れなかった 禅宗にとって庭が重要であるということは書いておきたかったので。

 

達磨大師(5C後半~6C前半)禅宗 鎌倉時代に中国から日本に伝わる しゅうごくみょうは(←漢字出ない) 足利義満は開祖に迎えようとしたが、これを辞退 この謙虚さに打たれた義満は、既に世を去っていた夢想疎石を開山とし、その次に春屋妙葩とした


達磨大師(Wikipedia)は何で出てきたんだったかな?(o´ェ`o)ゞ 禅宗(Wikipedia)についての説明の一環だったような? 何故、春屋妙葩(Wikipedia)が出てきたのかもちょっとワカラナイ これ、"しゅうごくみょうは"って聞こえてたけど、"しゅんのくみょうは"だったのね?(*/∀\*)イヤン 急に夢想疎石(Wikipedia)が出てきた理由は、春屋妙葩の師だったから。辞退した理由も聞き漏らしてしまったのだけど、要するに師よりも出っ張った振る舞いは出来ないということだったのかな? 

 

禅の心=釈迦の祈り 不立文字 仏の心に近づくため経を唱える 寺によって様々 相国寺の前途は? 教外の法


禅の心=釈迦の祈りっていうのはちょっと違ってたかも?意味的には合ってるけど別の言い方してた気がする。不立文字(Wikipedia)についても説明してたのだけどこれも聞き逃し 今回酷い・・(ll゜∀゜) 


禅宗の教えについては寺によって違うというとで、相国寺の教えは?っていうところで、ご住職が「熱いかどうか分からないなら、触ってごらんということだ」と、おっしゃっていたのだけど、それと教外の法の説明は若干違っていたような? 師匠が弟子を追い込む的なことだったような? と思って調べてみたら、教外の法では出てこない 教外別伝(教外別伝(きょうげべつでん)とは|コトバンク)のことかな?

 

禅宗の修行:粥座=食事をしながら修行(粥座の終わりのお経まで声を出してはいけない) → 掃除 → 托鉢(物を乞ういやしさに打ち勝つ) 畑仕事(自給自足を旨としている) 座禅(選佛堂 心を空にする) 何があっても歩み続ける=空


これは1日の修行の流れを紹介するのかな?と思ってメモり始めたのだけど、畑仕事あたりからちょっと様子が違い始め、座禅を組んで終わりになってしまった(笑) カッコ書きをしている部分は補足的なことなのだけど、選佛堂には僧をたくさん世に送り出す的な意味が込められていたような・・・ 托鉢の部分のカッコ書きについては、もう少し違う言い回しだったと思うけど、意味的に合ってると思う。

 

入門を乞う 庭づめ 2日間罵声を浴びせられながら、低頭する 後、5日間の座禅を行い入門が許される


庭づめは庭詰めのこと。残念ながらWikipediaはないっぽい 庭というかお寺の玄関的なところで、入門を願うことで、膝をついて箱のようなものを前に置き、その上に手を置いて、手に額をつけるように低頭して声をかける。すると、回答が返って来る。罵倒されると言っていたけど、別に怒鳴り散らされていたわけではなく、心得のない自分などからすると、合いの手のような印象。でも、大変そうなことには間違いない。

 

異端の天才 伊藤若冲 相国寺第113世 だいせん和尚の下で絵を学ぶ 承天閣美術館 鳳凰図=初期に描いたとされる水墨画 明の時代に描かれた絵の模写 相国寺で出会い衝撃を受け、徹底した模写を行う 禅の心?


さて、大好きな伊藤若冲(Wikipedia)が相国寺で絵を習ったことは知ってたし、こころ寺巡りの若冲特集回(記事はコチラ)でも紹介されていた。前回はだいぜん、今回はだいせん和尚とtweetしちゃってるけど、正しくは大典禅師(Wikipedia) この方のもとで中国の絵画を見て勉強した。この画ではなかったと思うけれど、若冲の模写と元の絵画を並べたのは「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(記事はコチラ 書き掛け)でも見た。自分的には元の絵より若冲の方が断然好きだったけど、この水墨画も若冲の方が好きだな。まぁ、実物を見ないことには分からないけれど・・・

 

鹿苑寺障壁画 若冲作 禅の境地? 絵師となって4年 大典禅師 50面の襖絵を描かせる→窮地に追い込み悟りを得る?33幅の掛け軸を相国寺に納める 観音せんぼう会に飾る 廃仏毀釈で資金難となり皇室へ 以降30幅がないまま営まれる 近年複製が許され、33幅そろって営まれる この動植綵絵は展覧会で見た! これは圧巻だった!!



鹿苑寺=金閣寺(金閣寺 臨済宗相国寺派)に若冲の障壁画(障壁画(ショウケキガ)とは|コトバンク)があるのは知らなかった! 絵師となって4年で50面もの障壁画を任されるのは異例のことだそうで、若冲に描かせた大典禅師は窮地に追い込むことで、何か悟りのようなものを得て欲しいと思ったのでは?とのことだった。


後に若冲は阿弥陀三尊図の3幅と、動植綵絵(Wikipedia)33幅を相国寺へ納めた。相国寺では毎年観音懺法会に33幅を飾ってきたが、明治の廃仏毀釈(Wikipedia)で困窮し、皇室へ寄進したとのこと。tweetにもあるとおり、この動植綵絵30幅は「皇室の名宝1 日本美の華」(記事はコチラ)で見た。相国寺から寄進されたことは知っていたけど、これは売ったということだったのね 寄付したってことだと思ってた。なるほど・・・ これは若冲渾身の作品でとにかく全てが色鮮やかで1つ1つが素晴らしいのだけど、30幅一挙展示は圧巻だった。33幅揃っての観音懺法会はさぞかし壮観でしょう。


老松白鳳図_伊藤若冲(動植綵絵より)


郡魚図_伊藤若冲(動植綵絵より)


ただ相国寺には申し訳ないけど、皇室に渡ったからこそ最高の状態で保存できたのかな?と思ったりもするので、作品を見る側としては良かったのかな? ただし、若冲の思いからすれば相国寺にあるべきなのでしょう。そういう意味では模写が認められたのは良かった。


観音懺法会は毎年6月方丈で行われる 仏に懺悔をする会 2014年120年ぶりに本来の観音懺法会が営まれた 人間が本来持っている仏の心を取り戻すため、4時間にわたり経を唱える 法要を執り行うことも修行

 

2014年には120年ぶりに33幅揃っての観音懺法会(観音懺法 - 臨済宗相国寺派)が営まれたそうで、それは良かった! 4時間も読経する会なのね これも修行の1つとか。頭が下がる。

 

全部なくすことが大切 全部なくす=全部あるということ 無になる=自由になること 煩悩を捨て心の中を空にすることで、大切なものが見えて来る←禅の教え


"空"についての解釈もたくさんあるのだと思うけれど、禅宗というか相国寺での解釈はこうということかな? でも「100分 de 名著」の"ブッダ最期のことば"でも同じようなことを言っていたような・・・ それじゃなかったかな? いずれにしてもそういう境地になれたら素晴らしいし、生きているのが楽なのかもしれない。

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:神峯山寺」

2015-08-26 22:10:45 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:神峯山寺」

神峯山=神が宿る峰 長岡京 神峯山寺 寺の前には鳥居 日本古来の神から中国伝来の仏まで幅広く信仰の対象としてきた 門前には下馬 身分の上下に関わらず、馬から降りて自らの足で参拝 光仁天皇勅願所 開成皇子が伽藍を整備



神峰山寺(日本最初毘沙門天 神峯山寺-大阪府高槻市の天台宗山岳仏教院)と書いて"かぶさんじ"と読む。鳥居(Wikipedia)って神社にあるものだと思っていたけど、そういうわけでもないらしい。下馬(Wikipedia)というのは、度々出て来るけど、この石碑があることが由緒正しい寺であるというのが番組の説明だった。まぁ馬に乗って来るような身分の高い人も参拝するという意味だものね。

 

光仁天皇勅願所の意味については説明があったかな? 光仁天皇(Wikipedia)が何を勅願されたのかは不明。その長男である開成皇子(Wikipedia)が整備したとのことなのだけど、この方僧侶になられたのね

 

金剛力士像 阿吽 あ→ん 最初と最後の2文字の中に森羅万象 阿吽が祀られている寺には、物事の全てがあると考えられている


金剛力士(Wikipedia)が安置されている理由が、森羅万象(Wikipedia)を表しているとは知らなかった!

 

本堂 入母屋建築(Wikipedia) 本尊は秘仏 お前立は毘沙門天 厨子の中には等身大の毘沙門天 第二、第三の本尊が横に並ぶ 三尊とも毘沙門天 一番先頭の毘沙門天は12年に一度寅年に御開帳 中は双身毘沙門天 修行僧しか見れない 最後はとばつ(←漢字出ない)毘沙門天 とばつ=チベット 1年ごとに御開帳


後に詳細が出て来るけど、要するに本堂には3体の毘沙門天(Wikipedia)が祀られており、それぞれが秘仏で、それぞれに意味があるということがこの後語られていく。寅年に御開帳されることについては毘沙門天と寅年に関係があったのだけど、きちんと聞き取れなかった


とばつ毘沙門天は兜跋毘沙門天(Wikipedia)と書く。それぞれの毘沙門天を祀っているお寺は他にもあるようだけれど、3体を並べて祀っているお寺は神峯山寺のみとのこと。それぞれが秘仏。

 

毘沙門天は戦いの神 インドではなくチベットで出来上がった それぞれの家に毘沙門天がおり、家庭を守る ヴァイシュラヴァナ マングースを抱える インドと中国に伝わる インドではクベーラ 富をもたらす 中国で毘沙門の文字が当てられる多門とも言われる北を守護→多聞天 国を守る神


補足しておくと、チベットでは家庭を守る神だったということで、それぞれインドと中国に渡り別の形になった。中国ではヴァイシュラヴァナに毘沙門という漢字をあてられたが、この毘沙門というのが多聞に通じたんだったかな?←ちょっとあやふや それが日本に伝わってきたため、毘沙門天と多聞天と2つの形を取ることになったってことなのかな? 七福神や単体としては毘沙門天で、四天王(Wikipedia)では北を守る多聞天という形。

 

多くの武将が必勝祈願 楠木正成(Wikipedia)の刀 第1の本尊 お前立は厳しい表情だが、ご本尊は穏やかな表情 家庭円満 毘沙門天は江戸時代に七福神(Wikipedia)に加わる

 

双身毘沙門天 男女が一体になっている 修行僧が拝む仏 庶民、武家、僧侶の毘沙門天を祀る →日本最初毘沙門天 毘沙門信仰の本山


第一の毘沙門天が庶民のための毘沙門天、双身毘沙門天が僧侶のための毘沙門天、兜跋毘沙門天は武将のための毘沙門天。このことから"日本最初毘沙門天"と呼ばれているとのこと。

 

七高山 山岳信仰の聖地 霊山に毘沙門天が祀られた理由? 前鬼後鬼(鬼夫婦)と役行者 葛城山で修行していた役行者は紫色の雲の中に光を見た 光は九頭龍滝から発せられていた 滝の中から竜の化身である金毘羅童子が飛び出してきた 4体の毘沙門天を彫り与える そのうちの1体が一番目の毘沙門


七高山(七高山(しちこうざん)とは|コトバンク)とは、比叡山・比良山・伊吹山・愛宕山・神峰山・金峰山・葛城山もしくは高野山のことを言うのだそう。全て山岳信仰(Wikipedia)の山。神峯山寺は役行者(Wikipedia)が開いたとされている。この方、蔵王権現を出現させた方でもあって、修験道の開祖。実在の人物だけど伝説が多いとか。神峯山寺を開いた際の伝説はtweetどおり。前鬼後鬼の鬼夫婦については、2体を左右に配して役行者像が納められているということ。

 

残りの3体は各地に飛び去る 1体は神峯山寺の北の峰 天台宗本山寺 元奥之院? 中の門は1603年豊臣秀頼により建てられた 本堂も秀頼が建てた 3体の1つが本堂に収められている 頭部以外は焼失、頭部以下は近年作られた ぼんぶ(←漢字出ない)邪鬼を踏む 右:妻の吉祥天 左:ぜんにし


その伝説の内の1体が神峯山寺の第一の毘沙門天。残り3体の内1体が本山寺(Wikipedia)に着いたと言われている。元奥之院?って書いているのは、本山寺が神峯山寺の奥之院であったと言われているという意味。なんと豊臣秀頼(Wikipedia)所縁のお寺だったのね? ぼんぶは凡夫(Wikipedia)のこと。変換できてたけどダメ夫っていう意味の漢字が出ちゃってると思って却下してた そういう意味もあるけど、こちらは煩悩にとらわれたものという意味らしい。ここでは邪鬼(邪鬼(ジャキ)|コトバンク)のことなのかな?

 

ぜんにし童子(←漢字出ない) もう一体の毘沙門天(名前聞き逃す)武将に信仰された形 宇賀神 豊作をつかさどる神→弁財天と結びつく 弁財天の頭頂部に乗せられる


本山寺の毘沙門天は、右に妻の吉祥天(Wikipedia)、左に息子の善膩師童子と共に安置されているのだそう。もう一体の毘沙門天はちょっと独特の形をしていたのだけど、名前を聞き逃した上に、本山寺のWikipediaにも記載がないので分からない。とぐろを巻いているような・・・ ちょっと違うか(笑)


宇賀神(Wikipedia)は唐突に出てきたけど、とぐろを巻いた蛇の体に人間の頭部がついた形。何故弁財天(Wikipedia)と結びついたんだっけ? 豊作ってことか! 

 

 

修験道 自然信仰+仏教 六根清浄 神聖な山に入り経を唱える 神峯山寺では修験体験ができる


修験道(Wikipedia)は自然信仰と仏教が結びついた形ということで、急に六根清浄(Wikipedia)って書いてるけど、画面の修験者さんたちが唱えながら山を登ってらしたので(o´ェ`o)ゞ 


毎年7月修験者により護摩がたかれる 木火土水 火は自然にないので起こす

 

けじょう院←漢字出ない 千日間護摩をたく 人を救うことが目的ではなく、人を救うことも修行の1つ 修行僧が仏へ近づくための手段


けじょう院は化上院のこと。護摩(Wikipedia)をたくというのは僧侶が神仏へ近づくための手段という説明だった。


飛鳥時代694年に開かれた神峯山寺 浄土信仰 阿弥陀如来の信仰が伝えられている 阿弥陀如来の伝説:千年前神峯山の麓で病魔におかされた人物が神峯山に参ると病気が治った→仏門に帰依 極楽へ往生する際、連れて行ってくれるのが毘沙門天→この信仰の形は神峯山寺のみ 阿弥陀如来と毘沙門天集合


694年って書いちゃってるけど、本当は697年。そもそもは修験道のお寺として開かれたけど、おそらく平安時代に阿弥陀信仰が伝わったのかな? 阿弥陀様の伝説に登場する人物の像も紹介されていた。神峯山寺の"阿弥陀信仰"の説明によると、この人物は橘輔元で、その息子忍恵が後に神峯山寺の住職になったらしい。

 

おみくじ 比叡山の良源(Wikipedia)が広める 神峯山寺のおみくじは漢文で書いてあるため、僧侶に読み解いてもらう必要がある 本来のおみくじの形 会話を通して自己解決させることが目的 寺本来の形に通じる


おみくじ(Wikipedia)の本来の形は、悩みを抱えた人が僧侶に相談し、説法を聞いても解決しなかった場合におみくじを引いて、それをもとにさらに僧侶が説法するという形なんじゃなかったっけ? たしか比叡山(天台宗総本山 比叡山延暦寺)では今でもこの形がとられていたはず。要するに、あくまで解決に向けての手助の手段であって、自分で解決しなければならないということ。


困った時、苦しい時は一心に祈る 仏の心に触れることで救われる

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:室生寺」

2015-08-19 22:38:51 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:室生寺」

いつ創建されたか正確には分からない。1200年前興福寺大僧都だったけんけい(←漢字出ない)によって開かれたと言われている。

 

ずっと行きたかった室生寺(女人高野 室生寺)には、2011年に行ってきた! その時の記事はコチラ 本当に聖地という言葉がピッタリのパワーをもらえる場所だった。

 

国宝 金堂 

 

国宝 金堂 5体の仏像が安置。中央に国宝釈迦如来像 漣波式衣文 室生寺様 光背には7体の薬師如来 本来は薬師如来として作られた? 釈迦如来の右側には、薬師如来と地蔵菩薩 左奥に国宝十一面観音 もう一体聞き逃した。・゜・(ノД`)・゜・。 この十一面観音様大好き!


残る1体は文殊菩薩でした! 左から十一面観音→文殊菩薩→釈迦如来→薬師如来→地蔵菩薩という並び。この方々が並ぶというのはどういうことなんだろう? それぞれご本尊になれる方々なのに、釈迦如来の脇侍のような形で配置されているのは意味があるのかな? その辺りの説明はなかったけれど・・・


釈迦如来像



黒く体を塗られ、朱色の衣を着た釈迦如来像。この衣の模様は漣波式衣文というそうで、特にこの漣のような形を室生寺様と呼ぶとのことなのだけど、漣波式衣文ではWikipediaなどはなし。翻波式衣文でコトバンクがあったので貼っておく。翻波式衣文(ほんぱしきえもん)とは|コトバンク


十一面観音 

 

この肉感的で艶めかしいお姿! ふっくらした頬とぷっくり唇が女性的。水瓶を持つ手も繊細! 今まで見た中では5本の指に入る大好きな仏像。

 

十一面観音の水瓶にはハック・・・← 水! 5仏の前には十二神将 5仏背後には日本最古の板壁画 国宝帝釈天曼荼羅 8列の坐像 宝冠を被った仏は独鈷を持っていることから帝釈天だと言われている


十一面観音様が左手に持っている水瓶。その中身をハック××と説明していて、画面にも漢字が表示されていたのだけど、変換間に合わず "十一面観音 水瓶 中身"で検索してみたところ、どうやら八功徳水(八功徳水(はっくどくすい)とは|コトバンク)のことらしい。

 

帝釈天曼荼羅

 

この真ん中の方が帝釈天(Wikipedia) 金堂の中には別途入館料を払えば入れるっぽかったけど、連れて行ってくれたまほろばソムリエは必要ないと思ったのか、自分たちは入らず縁側から見たので、間近で見ることができなかった。でも、金堂の中に入れたとしても、この曼荼羅見れるのかな? かなり距離があるような気がするけれど・・・

 

室生寺の誕生には雨=水に関係あり 室生火山群 1000m級の峰々 山は水を生む いにしえより水神信仰の聖地として崇められる 室生龍穴神社には、竜は奈良の猿沢池に住んでいたが、身投げがあったため穢れを嫌い春日山に住んだが、ここにも死体が捨てられたので、さらに室生に移り住んだ言い伝え


室生寺から約1kmのところにある室生龍穴神社のことは全く知らなった。検索してみたけどHPなどはない様子? 龍が猿沢池に住んでいたという伝説はなんだか日本昔話みたいで好き 室生寺の周りの山々は火山群なのね

 

龍穴信仰 雨乞いの霊場 興福寺大僧正賢は室生の霊験性に注目 桓武天皇が山寺を作るよう勅命 この山寺が室生寺だと考えられている 興福寺の別院

 

賢(Wikipedia)が霊験性に注目って書くと、なんだか欲深い人みたいだけど、これは法相宗を広めるためにってことだよね? この番組を見ていると興福寺の別院がたくさん出て来るので、奈良時代の興福寺は巨大な力を持っていたのね。まぁ、藤原不比等が関わっているからねぇ・・・

 

桓武天皇(Wikipedia)が山寺を創るようにと言ったという部分は、もう少し別の言い方をしていた気がするけど、今となってはどうだったのか分からない 何故、山寺を造れと言ったのかも言及していたと思うのだけど、こちらも不明。

 

西暦800年代に開かれた室生寺は900年間興福寺の別院として法相宗の寺であったが、江戸時代に真言宗の寺となり、高野山信仰と結びつく。高野山は女人禁制だったが、室生寺は女性を受け入れていたため女人高野と呼ばれた。女人禁制の理由は修行僧の心が乱れるため。しっかり!修行僧!!

 

江戸時代に真言宗の寺となった部分がもう少し詳しく説明されていたのだけど・・・ 毎度のWikipediaによりますと、桂昌院(Wikipedia)の寄進で堂塔を修復したことに関係あり? 真言宗の総本山となったのは1964年と思いのほか近年だった(笑) 

 

女人禁制の理由がそんなこととは・・・ 気持ちは分かるが最初から負けてしまってはダメだぞ修行僧(笑) 室生寺が女人を受け入れていたのは、真言宗によるものという説明だったけれど、興福寺の別院だった時代も受け入れていたのかな? ちょっと調べてみよう!

 

本堂 しっ地←漢字出ない 悟りの境地 本尊如意輪観音 女性の悩みを聞く 本堂の御朱印は"如意輪観音"


本堂に掲げられた文字。悉地(悉地(シッジ)とは|コトバンク)と書く。

 

弥勒堂 興福寺伝法院を移築 本尊弥勒菩薩像 56億7000万年後に来迎し人々を救う未来仏 カヤの一木造り 国宝釈迦如来像客仏として安置 結跏趺坐 施無畏印は恐れを取り除き、与願印は願いをかなえる。水かきで人々を救う。土門拳天下第一の美男と絶賛


 国宝 釈迦如来坐像

 

この釈迦如来様は本当に本当に美しかった。美男というと陳腐な感じがするけれど、本当に美男。清々しいお姿。どっしりとした安心感。この方なら救ってくださると思う気持ちは理解できる。

 

日本人とは何か?問い続けた土門拳が、1939年最初に室生寺を訪れた時、心奪われたのは弥勒堂の釈迦如来像 天下一の美男と称した。40年間通い続ける。


昭和53年3月12日待ち続けた雪が降った 弟子が負ぶって鎧坂まで連れて行き、雪の鎧坂からの金堂の写真を撮影した


このエピソードは有名な話。この頃、土門拳は体調が非常に悪く、車椅子に乗っている状態。どうしても雪の室生寺が撮りたくて、室生寺に向かう橋のたもとの橋本旅館に泊まりこんでおり、女将さんが雪が降ったことを告げると涙を流したのだそう。

 


探し求めた日本人のルーツ=変わらない自然、静かなお堂に見出した?

 

日本人とは何か?という問いに、土門拳が出した答えが上の写真なのだとしたら、それはもうそうなのかと思うしかない気がする。この静かさ、そして確かさ。こうであって欲しい、こうでありたいという思い。

 

 

国宝五重塔 16.1m 屋外にある五重塔としては日本で最小 丹塗り 天から舞い降りた天女と称される 平成10年9月22日台風7号が室生寺を直撃 大木が数本倒れ、うち1本が五重塔を直撃 崩壊寸前となった 幸いにも芯柱が残った 全国から支援が寄せられ、平成12年9月修復完了した

 

再建から15年 檜皮葺きの屋根も苔むし、風格を漂わせている


 

本当に美しい五重塔。こじんまりとした姿は女性らしく、女人高野にふさわしい。この五重塔を救ったのは、手前にあった切株。この切株が支えとなって、倒れた木が止まったため、五重塔は崩壊を免れた。絶対何かの力が加わったに違いない! そう信じてしまえるような、聖なる空気感。

 

室生寺には1200年変わらない清らかな空気が流れている

 

ホントに清らかという言葉そのままの場所。便が悪いのでなかなか行かれないけれど、それだからこそ守られている聖地という気がする

  

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:泉涌寺山内寺院」

2015-08-12 21:32:25 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:泉涌寺山内寺院」

  

泉湧寺 1226年月輪大師が開山 四条天皇が葬られてから皇室ゆかりの御寺となったが、50年前に一般にも門戸が開かれた。山内寺院は9つある。 


泉湧寺(御寺 泉湧寺|公式サイト)も皇室ゆかりのお寺だったのね。皇室ゆかりのお寺を御寺というのね? 月輪とかいて"がちりん"と読む。月輪大師についてはWikipediaで!

 

下馬の札があることから戒光寺は泉湧寺の入口付近にあったことが分かる。塔頭=小さな房 後水尾天皇が塔頭として建立。 釈迦如来像丈六(=4.85m釈迦の身長)と言われているが、実際はもう少し高い。運慶と父の合作と言われる。美しい仏像!喉元から流れるのは血の跡? 


下馬というのは身分の高い者も低い者も、皆ここで馬を降りろという意味で、その文字が書かれた札は本来お寺の入口にあるものなのだそう。戒光寺(真言宗・準別格本山|丈六 戒光寺)は塔頭(Wikipedia)というのはお寺というよりも、小さな庵のようなもののことで、房と呼ばれる僧侶や家族の住むところだそう。

 

後水尾天皇が夢で寝首をかかれてしまった。目覚めると釈迦如来が血を流していた。身代わりのお釈迦さまと呼ばれ多くの信仰を集める。


一つ上のtweetにある丈六(丈六(じょうろく)とは|コトバンク)というのは、仏像を語る上でよく出てくる言葉で、仏像の理想的な大きさ。この釈迦如来は丈六とされているけれど、それ以上あるそうで、なんと運慶(Wikipedia)と父康慶(Wikipedia)の合作であると言われているのだそう! これ本当に美しいお釈迦さまだった! 



喉元から流れる血の跡については、tweetにあるとおり。後水尾天皇が幼少の頃、権力争いが絶えなかったそうで、命の危険を常に感じていたのだそう。そんな時夢で首を切られてしまい、目覚めたら釈迦如来が首から血を流してた。このことから身代わりのお釈迦さまとして信仰を集めているとのこと。スゴイ話だね

 

本堂 鎌倉時代の不動明王像 足の裏をコチラに向けている=足下安平像 


これ書き取れなかったので足下安平像って書いちゃってるけど、本当は足下安平立相で、これは仏の体に備わっている三十二相八十種好(Wikipedia)の内の一つ。いわゆる偏平足ってことで、こちらに足の裏を向けている様を言っているわけではないらしい。要するに偏平足を見せていることが珍しい不動明王像ということ。

 

煎茶=皇室・貴族社会 抹茶=武家 戒光寺では小川流煎茶が楽しめる 小川可進(医師)が考案した煎茶道 医者らしい心配り 滴々のお茶と呼ばれる数滴のお茶 喉の渇きを潤すためのものではなく、お茶の香りや味を楽しむものである ご利益は仏様が与える、お寺は安心を与える 


煎茶=皇室や貴族社会、抹茶=武家社会っていうのは知らなったので面白い! 小川可進(Wikipedia)という人物も、小川流(Wikipedia)も全く知らなかったけど、医師らしく湯で清めた椀をふきんで拭くなどが作法に組み込まれていたりするのはおもしろいのだけど、滴々のお茶とはいえ本当に数滴でビックリ! イヤ、いくら喉の渇きを潤すためではないとはいえ、これで分かるのか?というくらい数滴。奥が深いわ・・・

 

即成院 恵心僧都によって開山 廃仏毀釈となったが、明治期に塔頭となった。本尊阿弥陀如来と二十五菩薩は定朝と弟子たちの手によるものと言われている。阿弥陀如来5.5mは、勢至菩薩・観音菩薩が脇侍。鼓を奏でる大自在菩薩など楽器を奏でている。獅子吼菩薩は歌舞伎役者の信仰を集める


恵心僧都(Wikipedia)が開山した即成院(現世極楽浄土 即成院)は、一度衰退したが後に塔頭となったそうで、阿弥陀如来と二十五菩薩が有名。これは西方浄土から来迎する際のお姿。仏像は単体で安置されることもあるけど、本来はフォーメーションが決まっていて、阿弥陀如来の脇侍は勢至菩薩と観音菩薩。二十五菩薩すべてにきっちり名前がついているのは知らなかった! まぁあるよね(o´ェ`o)ゞ 笙を奏でている菩薩様も紹介していたのだけど書き取れず

 

平安時代は末法思想が流行 藤原頼通が人々が思い描く極楽浄土を再現したのが平等院鳳凰堂 息子としつな(漢字が・・・)が父の思いを引き継いだのが、阿弥陀如来と二十五菩薩像。でも、26体ある。本来は二十五菩薩に含まれない如意輪観音も安置されている。



末法思想(Wikipedia)については難しいのでWikipediaを読んでいただくとして、平安期に流行したというのがちょっと興味深い。平安の世の方々は、今現在が末法だと思っていたのか、次に末法が来ると恐れていたのかどちらなのだろう? 現世が末法であるから極楽浄土を夢見たということなのかな? 藤原頼通(Wikipedia)が平等院鳳凰堂(世界遺産平等院 京都宇治)を建てたのはそういう背景があったのね・・・


息子のとしつなとは橘俊綱(Wikipedia)のことだったらしい。苗字が違うと思ったら正妻の嫉妬から養子に出されてしまったためらしい 笙や琵琶などに優れてたそうで下のtweetにもあるとおり、踊りや音楽を奉納したそうで雅なことですな 如意輪観音を加えて26体にしたのは25体だと奇数で、両側に配置した時にバランスが悪いからということだったらしい。何故、如意輪だったかはハッキリ説明してたかな? 如意輪のポーズはどうやって人々を救おうか考えている姿だそうなので、その辺りが関係ありか?


二十五菩薩の前で踊りや演奏を奉納。そのため音響を良くするため、菩薩たちは薄く作られており、反響するようになっている。


これはかなり画期的でビックリ! 25菩薩+1菩薩は通常より薄く作られて、中の空洞部分が大きい。そのため良く音が響く作りになっているのだそう。スピーカー的な? さすが音楽を愛する橘俊綱!

 

境内には那須与一の墓がある。源義経と京都へ向かう途中病に倒れ、即成院で療養。戦が終わったら僧となると誓い、屋島の戦い後即成院に戻り出家し、亡くなるまで信仰に励んだ。へ~!そんなことがあったんだ?! 

 

これはビックリ! あの那須与一(Wikipedia)が出家していたとは?! っていうか、勝手に屋島の戦い(Wikipedia)で戦死したのだと思っていた 亡くなるまで信仰に励んだって変な日本語だけど、よい言い回しが思いつかなかった でも、Wikipediaによると20歳くらいで亡くなってるのね? あらま・・・

 

別格本山雲龍院 山門の横に勅使門がある。皇室専用の門。南北朝時代の後光厳天皇の発願で建てられた。本堂龍華院 本尊薬師三尊像 薬師如来は浄瑠璃世界にいると考えられている。日光菩薩(=太陽のように照らす)・月光菩薩(=煩悩を消す)が脇侍。


別格本山雲龍院(御寺泉湧寺別院 雲龍院)に勅使門があるということが、皇室ゆかりの寺であるということだそうで、後光厳天皇(Wikipedia)って初めて聞いたし読み方も分からないけど、ちゃんとWikipediaがあるってスゴイな! 天皇ご本人も、Wikipedia職人の方々も! 


上の方でも触れたけれど、薬師如来のフォーメーションは脇侍に日光菩薩と月光菩薩。ここに十二神将や四天王が加わると完璧。浄瑠璃世界って書いちゃってるけど、浄瑠璃浄土だったかも?

 

悟りの窓=丸窓 苦の窓=四角い窓 仏教でいう苦とは、思い通りにならないこと。四苦八苦から来ている?


これはお寺の窓についての説明。雲龍院の窓が特別な形をしているわけではないけれど、何故丸窓なのかってことが分かって面白かったのでtweetしておいた

 

が写経道場を開く 応仁の乱で衰退してしまうが、江戸時代に入り後水尾天皇が机など100点余りを寄進。写経道場として復活させた。現在も誰でも写経が出来る。 


後円融天皇(Wikipedia)も初めて聞いたし読み方も分からないけど、ちゃんとWikipediaあったよ! スゴイ 何故、写経道場を開こうと思われたのかは説明してたっけ? してたとしても書きもれ こちらも後水尾天皇が何故復活させたのかも不明。ただ、現在も後水尾天皇が寄進された机で写経することが出来るのだそう。それはスゴイね そういうのが歴史のロマンだと思う。日常の中に入り込んでいる歴史。まぁ、写経するなんて非日常だけど(o´ェ`o)ゞ 

 

御朱印帖は本来、納経帖。写経を収めた人がもらえる印だった。


御朱印ってそもそもはそういう意味だったのね? 自分はやってないけど、ちょっとスタンプラリー的な感じで捉えていたのだけど、まぁある意味そうか(笑)


泉湧寺自体ではなくて、その山内寺院を取り上げるというのも面白かった! ホントお寺は奥が深い!

  

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:伊藤若冲ゆかりの寺 宝蔵時・相国寺・石峰寺」

2015-07-23 01:02:54 | tv

 【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:伊藤若冲ゆかりの寺 宝蔵時・相国寺・石峰寺」


毎週楽しみにしている、古寺紹介番組。今回は大好きな伊藤若冲ゆかりの寺というとで、3か所の古寺を紹介! ゎくo(。・ω・。)oゎく 

 

まずは宝蔵寺から

宝蔵寺 若冲の菩提寺 1591年秀吉の命により移転。1.2mの地蔵菩薩は子宝に恵まれると言われ、子安地蔵として信仰されている。本尊は江戸時代に建立された阿弥陀如来。勢至菩薩と観音菩薩が脇侍。極楽浄土から来迎する姿。


 

怒り、貪り、愚痴=三毒 南無阿弥陀仏の念仏を唱えると、極楽浄土へ行ける。法然の教え。左:勢至菩薩→正しい道へ導く、右:観音菩薩→死者の魂を乗せ極楽へ運ぶ。錦小路の青物問屋に生まれた伊藤若冲は250年前阿弥陀如来を信仰した。宝蔵寺は伊藤家の菩提寺。

 

大好きな伊藤若冲(Wikipedia)のお墓が石峰寺にあることや、阿弥陀三尊図を相国寺に寄進したことは知っていたけど、宝蔵寺(伊藤若冲ゆかりの寺/京都裏寺、宝蔵寺)のことは全く知らなかった! 若冲というよりは、伊藤家の菩提寺なのね? 子安地蔵(子安地蔵(コヤスジゾウ)とは|コトバンク)と阿弥陀三尊(Wikipedia)については、宝蔵寺の説明であって、伊藤家とはあまり関係ないけど、一応リンク貼っておく。まぁ、信仰していたのだから関係ないことはないか(o´ェ`o)ゞ 

 

父、弟、母が眠る墓の枡屋源左衛門は若冲のこと。この頃から絵を習い始める。鶏図などを描くかたわら、髑髏図も描く。仏教を学び死を意識し、逆に日々を大切に生きようとしていたのではないか?

 

伊藤家の菩提寺なので、当然両親や弟のお墓もある。若冲自身の墓は石峰寺だよね? 枡屋源左衛門というのは若冲の生家である、青物問屋枡屋の主人の屋号。描くかたわらってtweetしてるけど、要するに宝蔵寺には鶏図と髑髏図があるということ。

 

「髑髏図」 

 

「竹に雄鶏図」 

 

続いて相国寺

臨済宗 相国寺 足利義満により創建。幕府が定めた京都五山の内第2位にランクされる寺。相国寺のだいぜん禅師(?)が才能を見出した。若冲という名前もこの禅師が、若冲を励ますため与えた言葉の中にあった。禅の修行をした者に与えられる居士の号も与える。

 

 

 

相国寺(臨済宗相国寺派)の画像を入れてみたけど、今回は若冲中心に構成されているため、相国寺自体の成り立ちなどはあまりない。相国寺に住んでいたとか、阿弥陀三尊図を寄進したのは知ってたけど、漠然とした理解だった。だいぜん禅師とtweetしちゃってるけど、正しくは大典禅師(Wikipedia)。"大盈若沖"というのが若冲に与えた言葉で、大いに充実しているものは、空っぽのように見えるという意味だそうで、世間的に評価されない若冲の作品についての大典禅師の思いがこもっているとのこと。分かる! 分かるよ大典禅師!!

 

相国寺じょうてんかく美術館←漢字出ない! ここに若冲が描いた作品が多く展示されている! 行きたい!! 相国寺に伝わる中国の絵を手本に、禅画を学んだ。釈迦三尊像が完成。中国の絵を手本に描いたが、はるかに凌駕する出来栄え。中国製の純度の高い絵の具を使用しているため、現在も劣化してない。

 

承天閣美術館が正解。中国や朝鮮の絵画を手本にしていたというのは知っていたけど、相国寺に伝わる作品だったのね? そりゃ相国寺に住み込んでしまうね(笑) 先日見た「若冲と蕪村展」(記事書けてない)でも、手本と共に展示されていたけど、やっぱり若冲の方が好きだった! この釈迦三尊図何かの展覧会で見たことがある気がするんだけど、気のせい? ┏(゜ェ゜) アレ?

 

若冲は青物問屋の主人で絵を売って生活する絵描きではないので、コストを気にする必要がないため、高価な中国製の生地や絵の具などを使い、作品も惜しげもなく寄進してしまう。庭に鶏を放し飼いにして模写したりして、自由気ままに生きたように思えるが、錦市場の危機には2年間筆を置き存続に奔走!

 

一つ上のtweetにも中国の純度の高い絵の具を使用しているとあるけど、若冲の作品がすべて状態がいいのは、そもそもの素材に良いものを使っているからということもあるのね なるほど!! 惜しげもなく寄進してしまうというのは、禅の教えに帰依しているからだと思うけれど、やっぱりこういう背景もあるのかも。物に執着しないというか・・・

 

錦市場の危機というのは、錦市場を閉鎖しようという動きがあった際に、既に隠居の身であった若冲が奔走し、これを阻止したというもの。絵道楽で雁金屋をつぶしてしまった尾形光琳もある意味豪快だけど、こういうキチンとした部分が、禅宗にハマって行く感じに表れているのかも?

 

ここから石峰寺

伯ぶん(?)←漢字書けない との出会いにより出家。自身の店、相国寺を天明の大火で焼いた若冲は、伏見の石峰寺に身を寄せた。萬福寺の流れをくむ禅寺。以前は大伽藍であったが、今では1/10程度に縮小。高着眼=何事においても着眼を高く持て。←三筆の1人の文字 

 

伯照浩についてはWikipediaなども見つからない この方どうやら中国から来たそうで、萬福寺(黄檗宗大本山萬福寺)の僧だったらしい。萬福寺は黄檗宗の大本山なのね? 若冲は伯照浩に大変な影響を受けたようで、なんと出家してしまっている。若冲って出家してたのね? そういえば、聞いたことがあるような気も・・・ 


石峰寺(石峰寺 - 京都伏見 萬福寺百丈山 五百羅漢)との関係については五百羅漢や、若冲のお墓があることで知ってた! TV見仏記でMJ(みうらじゅん氏)&SI(いとうせいこう氏)が訪ねた回のDVDも持ってる! tweetの三筆の1人っていうのは、高着眼お文字を山門の額に書いた人物のこと。名前を言ってたけどメモ取れず 調べてみたけど分からない(´・ω・`)

 

黄檗宗に帰依 鶏図に描かれた葉の水滴はにじみを使って表されている。当時にじみは失敗と見なされていた。高着眼によるもの?

 

これ画像貼りたかったけど見つからず 若冲は鶏図たくさん描いてるからね。今見るとにじみを失敗とは思わないし、むしろ水滴だと判断できるのだけど、当時は水墨画でにじみは失敗だったそうなので、これは奇想の画家の名に恥じない大胆さ。それが高着眼の教えによるものなのだとしたら、なるほどと納得! だから迷いがなかったのね!

 

石峰寺といえばの五百羅漢の中には若冲が彫ったものもあると言われているが、今ではどれかは分からない。訂正!伯ぶんではなく伯じゅん!←漢字は直ぐ出せない・・・

 

 

五百羅漢というものの当時は千体以上あったそうで、残念ながら現在は四百数十体になってしまっているらしい 千体もあるのじゃ当然一人じゃ彫れないわけで、これは若冲が下絵を描き、僧侶たちと共同で制作したのだそう。なので、当然若冲が彫った羅漢さんもいるのでしょうが、現在残っているかも謎ってことなのかな?

 

片膝をついてリラックスしている姿の石仏は、五百羅漢を造り終えて安堵している若冲の姿を表しているのではないかと言われている。伏見人形に似たポーズの人形あり。たしか、若冲伏見人形も描いているよね!

 

リラックスしている羅漢さんの画像を載せたかったのだけど見つからず 全体的にとってもかわいらしいお姿の羅漢さんたち。その中でもとってもゆったりした姿。番組で紹介された伏見人形は布袋様だったかな? 大黒様? あれ?(o゜ェ゜o) 若冲は伏見人形を描いていて、これとってもかわいくて好き

 

石峰寺で死去 土葬された 戒名は斗米庵若冲居士 斗米庵:絵を米一斗(15kg)と交換していたことから やっぱり若冲カッコイイ!! 

 

作品を米一斗に交換した後、さらに何かしていたって言ってた気がしたのだけどメモれず。若冲の人柄が分かる感じのことだったのだけど・・・ 15キロのお米と交換できるなら、いくらでも交換するよ若冲! 欲しいよ若冲の作品 と、煩悩丸出し(笑) 

 

今回は若冲に特化しているため、お寺自体の成り立ちなどはアッサリ目だったけど、こういう企画もおもしろい! 

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:醍醐寺」

2015-07-16 01:05:04 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:醍醐寺」

醍醐寺 聖宝は天智天皇の子孫 修験道を学び、大峯山などで山にこもり修行 笠取山で横尾明神と出会う 「醍醐味なるかな」水に心を寄せる 醍醐水は今も湧き出している



醍醐寺(世界遺産 京都 醍醐寺)の開祖 理源大師聖宝(Wikipedia)が、笠取山で出会った横尾明神が、この地の水をホメて「醍醐味なるかな」と言ったことに心打たれた。また、横尾明神はこの地を聖宝に譲り、守っていくと告げる。聖宝は小堂宇を建立し、准胝観音(Wikipedia)、如意輪観音(Wikipedia)を祀ったことが、醍醐寺の始まり。また、この時の水が醍醐水と呼ばれ、今も上醍醐で湧き出している。聖宝は天智天皇(Wikipedia)の6世孫にあたるとのことで、俗名は恒蔭王とのことなので、宮様だったのね? 

 

修験道と真言密教を学んだ聖宝は、この地を聖地とした 如意輪堂はかけづくり←漢字出ない 如意輪観音が岩に降り立ったことから、この場所に如意輪堂を建てた 6本の腕で人々を救う 如意輪観世音大好き



聖宝は空海(Wikipedia)の直弟子の弟子とのことで、そもそもは真言密教を学んだ人らしいけれど、修験道をよみがえらせた人としても知られているのだそう。そもそも、笠取山に入ったのも、修験道の修行としてだったらしい。前述の如意輪観音様を祀っているのが如意輪堂で、これは長谷寺(記事はコチラ)でも出て来た懸け造り(懸け造り・懸造り(かけづくり)とは|コトバンク)。


この如意輪様素晴らしい!! 見たい!! 


907年に醍醐天皇が寺建立を依頼 薬師如来を祀る ←国宝 醍醐天皇は人々の病を救いたいと、薬師如来を祀った 五大堂には五大明王を祀る 大日如来が変化した姿 

 

最初はiPhoneでtweetしてたので、漢字変換や入力が思うように出来なくて、全然メモが間に合わない 何が言いたくてメモしてたのかもうよく分からないよ・・・ 醍醐天皇の依頼はもっと違う言い方をしていたのだけど、多分意味的には合っていると思われる。五大明王(Wikipedia)もちゃんと見れなかった


実修実証の心は、寺が開かれてから50年後、下醍醐で引き継がれることになる。醍醐天皇は下醍醐にお堂を建てる。世継ぎを望む→村上天皇、朱雀天皇 2人が伽藍を整えた 


実修実証というのは聖宝が遺した言葉で、修行で習得した知識を残すというような意味だと言っていたような? あれ?(o゜ェ゜o) 醍醐寺は上醍醐と下醍醐のそれぞれの伽藍から構成されているそうで、聖宝が醍醐天皇の庇護のもと、整えたのが上醍醐。醍醐天皇が醍醐寺に力を注いだのは、世継ぎ誕生を望んだからで、結果、村上天皇(Wikipedia)と朱雀天皇(Wikipedia)が誕生することになる。そして、2人が父の意志を継ぎ下醍醐を整えることになる。

 

五重塔はそもそも仏舎利=釈迦の遺骨を祀る建物。2人の天皇は父醍醐天皇を祀るために建てた。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅=両界曼荼羅が描かれている。それぞれの役目がある。


 

このtweetも分かりにくいのだけど、要するに村上、朱雀両天皇は五重塔を本来の目的とは違い、父帝を祀るために建てたということ。仏舎利(Wikipedia)というのはお釈迦様の遺骨。五重塔内には両界曼荼羅(Wikipedia)が描かれている。このどちらにも役割があるというのは、胎蔵界曼荼羅=現実世界、金剛界曼荼羅=精神世界のそれぞれに役割があるということ。


正面の板に描かれた空海の姿は、日本で一番古い空海の姿。上醍醐にも下醍醐にも清瀧を祀るお堂が建てられた。空海を守る。 


清瀧宮本殿_上醍醐


清瀧宮本殿_下醍醐

 

木の文化=堂塔や仏像 如意輪観音は脚を下にたらした形、平安時代の特徴を残す。←この如意輪見たい!! 大日如来も見たい!! 紙の文化=書物 代々の座主や僧侶が残した日記など 


このtweetの言いたいことは、要するに醍醐寺には"木の文化"と"紙の文化"があるということ(笑) 座主(Wikipedia)っていうのは天台宗の代表となっているけど、醍醐寺は真言密教と修験道のお寺なのではないのか? 


脚を下にたらした如意輪様素敵だった。如意輪観音の少し首を傾けて、頬杖をついているような姿が優美で、妖艶で好きなのだけど、脚を垂らしていることによって、よりリラックスされている気がして、見ている側も力が抜けていく感じ。見たい!

 

室町時代に悲運。応仁の乱で戦火に包まれ、多くのお堂を失う。傾きかけた五重塔だけが残った。豊臣秀吉が訪れる。上醍醐に登る途中、槍山という開けた土地を通る。花の醍醐と呼ばれた場所。この場所で"醍醐の花見"を行う準備1ヶ月、700本の桜を移植、茶屋を設け1,300人が訪れた。


応仁の乱(Wikipedia)で京都はほぼ焼けてしまったそうなのだけど、醍醐寺も被害にあっていたのね 五重塔しか残っていなかった光景を見て、豊臣秀吉(Wikipedia)も感じるものがあったのかもしれない。"醍醐の花見"(Wikipedia)は有名だよね! でも全然思い当ってなかった(笑) そういえば、岩佐又兵衛(Wikipedia)の洛中洛外図屏風の映像展示を見た時(記事はコチラ)に醍醐の花見の説明がなかったっけ? あれ?(o゜ェ゜o) この記事の右隻の画像の右下に描かれてるのが醍醐寺だった気がする・・・ 違ったか?

 

花見だけでなく、醍醐寺の復興にも尽力。下醍醐のお堂は和歌山の万願寺から移築。本尊の薬師如来も移されたもの。80代座主義演が秀吉の遺志を継ぐ。 国宝表書院 下段、中段、上段 

 

中段と上段の障壁画は長谷川等伯の一派の手によるもの。三宝院回遊式庭園は秀吉の設計。秀吉亡き後、義演が整えた。秀吉は結構庭を設計しているのね・・・ 回遊式庭園は本来巡りながら楽しむものだが、書院から見渡す。立体曼荼羅になっている。


豊臣秀吉って何となくあまり好きじゃないんだけど、お寺の復興に尽力したり、観音菩薩を信仰したりと、ちょっと違う一面が見えてきた。清水寺(記事はコチラ)の袖手水鉢も秀吉の寄進だったし、どこかのお寺の庭も設計していたような・・・ 回遊式庭園(Wikipedia)って巡りながら楽しむものなのね? しかも"回遊式庭園"っていうのは日本庭園にのみ使うらしい。なるほどφ(・ェ・o)メモメモ この立体曼荼羅になっているということの説明の中に、石(?)を薬師如来三尊に見立てていると言っていたのだけど、メモするので手いっぱいで、画像も見てないしうろ覚えだし本末転倒

 

観音堂 准てい観音菩薩←漢字出ない! 聖宝が最初に祀った仏像。安産の仏様。目に見えない命。山の上に修行の場=上醍醐、山の下に教えを広める場=下醍醐を作った。それが醍醐寺。



前述したとおり准胝観音は聖宝が最初に祀った2体の仏像。この方秘仏なのかな? 毎年5月18日を中日とした一週間御開帳しているらしい? 急激に上醍醐と下醍醐が上手く作用しているのが醍醐寺って感じでまとめちゃってるけど、要するにそういうこと(笑)

 

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