goo blog サービス終了のお知らせ 

・*・ etoile ・*・

🎬映画 🎨美術展 ⛸フィギュアスケート 🎵ミュージカル 🐈猫

【cinema】『カフーを待ちわびて』(試写会)

2009-02-25 01:31:03 | cinema
'09.02.19 『カフーを待ちわびて』(試写会)@九段会館

これは気になった。yaplogの試写会に応募。当選したのでバレエのお稽古サボって行ってきた!

「沖縄の離島で小さな日用雑貨店を営む明青。友達と行った神社でふざけて書いた絵馬に返事がくる。手紙に書いてあったとおり、後日差出人である幸が明青を訪ねて来るが…」という話。これはなかなか良かった。ちょっと余計な要素を入れてしまったため中途半端な感じになってしまった気もするけど、心に傷を負ったため、踏み出すことを避けている明青の姿を通して、今の自分が見えたりもした。

明青が絵馬に書いたのは「嫁に来ないか」というもので、幸はそれに応えて会いに来る。実は大方の予想どおり、からくりがあるのだけど、けっこう無謀な設定ではある。ムカツク絵馬を「ムカ絵馬」と称して鑑賞しているMJことみうらじゅんだったら確実に撮影されていると思われる絵馬(笑) そしてそれに対して来た返事は近々伺いますとの内容。それをウキウキ待つ明青。普通あまり有り得ない設定。そんな返事が来たら多分怖い。期待する気持ちはゼロではないけど、普通警戒すると思う。でも、不審に思いながらも、やって来た幸を受け入れる明青。そして、ホントの妻もしくは彼女のように振る舞う幸。そこに違和感がなく、それはないだろうと思いながらも、二人が夫婦のようになっていく姿を微笑ましく見守ってしまうのは、きっと玉山鉄二とマイコのおかげ。だって普通に考えて、絵馬を書いた男の人が玉鉄だったり、それに反応して現れる女性がマイコの確率は限りなく低い(笑)その時点ですでに現実離れしているので、その設定をいぶかしく思うこともない。

たいして流行っているとも思えない雑貨屋で、1個50円のアイスを売る明青の家に、女性1人居候するのだって結構な負担じゃないのかとか思ってしまうのもなし! そういう現実的なことは考えずに2人の新婚生活みたいなところを楽しむ映画なんだと思う。前半のその辺りはすごくかわいくて良かった。とくにマイコが良くて男の人の理想の奥さん像を体現していたと思う。あくまで"理想像"だけど。だって2人がしていたことは、朝起きてご飯を一緒に食べて、玉鉄がカフー(島の方言で「幸せ」という名前の犬)の散歩に行って、その玉鉄をゆったり縁側になまめかしく腰掛けたマイコが笑顔で迎えるだけ。掃除や洗濯も一緒にしていてなんとも微笑ましく、独身OLちゃんとしては羨ましいかぎりだけど、実際結婚てそれだけじゃないだろうと… 別にドロドロしたことが見たいわけではないけれど、結婚生活って"生活"なわけだから、ご飯食べて洗濯してるだけじゃないよねって気はする。もちろん、それだけで終わるわけもなく、2人の関係は島という大きな単位の問題に絡め取られて意外な方向へ向かう。

少しずつ明らかになっていくけど、明青の傷は悲しい。大人になって、その理由とか相手の気持ちを思いはかれるようにはなっている。きっと心の中では赦していると思っていると思う。明青はあまり感情をあらわにしないのだけど、その体験が影響していることは間違いない。拒絶されたのだという思いは、人と深く関わることに対して臆病にさせる。その相手の気持ちを思いはかれたとしても傷は癒えない。それは自分に対しての言い訳だし、慰めだから。本当の理由は本人にしか分からない。でも、それを確かめるのは怖い。また傷つけられるのが怖いから。それは間違ってはいないし、逃げているかもしれないけれど、そういう風に生きていったとしても別にいいんじゃないかと思うけれど… 正直、東京でエリート・サラリーマンになった幼なじみの俊一が、こんな生活していて恥ずかしくないのか的な発言をした時には、余計なお世話じゃないかと思ったりもした。まぁ、友達を心配して言いたくなる気持ちも分かるけど…(笑)

だけど、このまま2人の仲がふわふわした感じで終わるはずもなく。終わったらそれはそれで困るよと思っていると、島の開発問題が持ち上がってくる。正直、この設定がありがちで中途半端な印象。せっかくの2人の出会いのあり得ない感じが、与那喜島ののんびりとした、でもどこか浮世離れした雰囲気と合って、その現実感のなさに恋愛初期の「この気持ちがずっと続けばいい」と思っている頃の感じがして良かったのに・・・ もちろん、そもそも幸が誰なのか、本当の目的は何なのか分からないままでは困るし、2人が本当に恋に落ちて、きちんとした関係を築きたいのであれば、このまま踏み込まないままではいられないはず。だとすれば現実を見なければならない。でも、彼女に向き合うきっかけとなる開発事業があまりにおそまつな印象。いまどきリゾート開発っていうのも・・・。リゾート開発が失敗してる例はたくさんあるわけで、第三者から見れば現実感がないこの計画に、藁にもすがるというような島の現実は、幼なじみの俊一が訴えるほど感じられない。むしろほのぼのとして皆仲の良い楽しげなシーンが多い。そういうシーンの裏側にある島の窮状が全く感じられないわけではないし、感じ取れないのは私の想像力が足りないのかもしれないけれど、あまりにも取ってつけた感じ。

沢村一樹扮する俊一の上司の画策なんかは、現実にもそういうことはあるのかなとは思うけれど、なんとなくドタバタ感。それが幸への疑惑になるっていうのもあまりに安易な気がする。幸はとっても謎めいていたわけで、その辺りが明青が現実を見るきっかけになるのも分かる。でも、すでに違う方向に伏線を張っているわけだし・・・。まぁ、疑惑は明青だけに起きればいいわけで、見ている側への提起ではないのかも。見せたいのは明青の弱さであって、きっかけとなるのは何でもいいのかもしれないけれど、取ってつけたような開発問題なんかなくても、そういう感じは描けたと思うのだけど・・・。

明青は傷つくことを怖れて踏み込めず引いてしまう。何歳の設定なのか分からないけれど、それはないだろうと。まぁ、確かにああ言うのが一番楽ではあるけれど、あまりに自分のことしか大事にしていなくて、正直イラッとした。ちゃんと向き合ってないし。幸が本当はどういう人なのかとか、結局どうするのかは別として、ここで向き合わなきゃ意味ないじゃないかと。まぁ、ムリに変わる必要はないとは思うけれど、逃げているだけだと思った。でも、それは人ごとだからだと気づく。そして、自分が「それじゃ何も変わらない」と思ったということは、多分、今自分の中の傷が癒えて次に向かう準備が出来たからなんだと思った。まぁ、私のことはいいけれど(笑) でも、明青にはまだ準備ができていなかった。出来たと思っていたような描写もあったけれど、今また傷つけられるのは耐えられなかったのかも。

玉鉄はその辺り上手く演じていたと思う。若干ひきこもり気味な明青は、玉鉄くらいじゃないと成立しない気もするし(笑) どうにも自分を出さない、明青にイライラするところもあったけれど、嫌ではない。草食系男子の優しくて繊細だから引いてしまう感じも伝わってきた。最後までピリッとしないで終わる感じは、脚本などの設定でもあるので、玉鉄の演技だけによるものではないけれど、それもまたアリと思えたのは良かったと思う。

明青よりよっぽど現実離れしている幸役のマイコも良かったと思う。突然やってきて、翌日から新妻のように振舞う。ぷらぷら散歩に出かけたダンナを優しい笑顔で迎える。何をしてたとか、どこに行ってたとか一切聞かない。いつの間にかするりとテリトリー内に入ってくる。それが自然。そして自分のことを理解してくれているようでもある。正に理想の女性ではないでしょうか。ただし、寝室は別ですが(笑) でも、何でも聞いてと言うわりに踏み込めないのは、明青の気が弱いからだけではないのは見ている側にも伝わる。幸にも辛い過去があり、そこから立ち直りたいと思った。彼女は行動し、そして糸口を見つけた。その感じは良かったんじゃないかと思う。横顔がキレイ。明青が何かと世話になっているおばあ役の瀬名波孝子さんが良かった。といっても沖縄弁がすごくて、何を言っているのかほとんど分からず、字幕が出ているけれど(笑) でも、おばあのおかげで明青が救われている感じは分かる。

絵馬に書いたほんの少しの本心と、それにすがった女性の恋愛という題材はいいし、沖縄の自然の中でゆったりと2人が心通わせる感じもすごくいい。手の火傷の跡を気にしてずっと布を巻いて隠していた明青が、幸が触れてくれたことで、その布をはずしていくのがいい。少ずつ明青は変わっていっているのが分かる。与那喜島の平屋建ての家が並ぶ住宅街とか、静かな海がすごくいい。晴れた朝、おばあの家の庭で、おばあ手作りの沖縄料理を食べるシーンすごく好き。最近行ったバリ島のウブドの朝食の気持ちよさを思い出した。明青の髪を幸が切ってあげるシーンも好き。このシーンは幸が明青の心に自然に入り込んでいく感じがすごくいい。

結局、明青はものすごい一歩は踏み出さないけど、彼なりの一歩は踏み出す。ラストはちょっとご都合主義的だけど、前半の雰囲気と合っていたと思う。カフーを待ちわびているなら待ってないで行動しろというのが、最近話題の"婚活"なのだろうけれど、そう思ってもできない人もいるわけで。待ってちゃダメと言われると、決死の覚悟で大ジャンプをしないといけない気がするけれど、明青のように人から見れば2~3歩くらいしか歩いていないように見えても、本人にとっては大冒険な事もある。そういう感じは伝わったし、それは良かったと思う。「カフー、アラシミソーリ」ってかわいい言葉だと思う。

玉鉄が何度も着てたApple PieというTシャツがゆるくてツボ。2日続けて着ちゃってたし(笑)


『カフーを待ちわびて』Official site

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【art】「特別展 妙心寺」鑑賞@東京国立博物館

2009-02-22 00:38:43 | art
'09.02.14 「特別展 妙心寺」@東京国立博物館

思い立って気になってた妙心寺展に行く。金曜日は20:00まで開いている東京国立博物館も、冬期は17:00まで。土日に行くしかないので、なかなか行けなかった。土曜日なので混んでいるかと思ったけど、そんなに混んでいなかった。

1337年花園法皇が離宮を禅寺とし、開山(初代の住持)として関山慧玄(無想大師)を迎えた。応仁の乱で破壊されるも、細川家の援助で再興。豊臣家、徳川家とも浅からぬ関係。今回は開山無想大師650年遠諱記念特別展。室町から江戸時代にかけての高僧達の書や、同時期に活躍した絵師などの作品を展示。遠諱というのがどういうものなのか、一応調べてみたもののよく分からないのだけど、50年前の600年遠諱の際には昭和天皇も「無想」という宸翰を残されている。宸翰というのは天皇の筆蹟のことだそう。かなり大きな書で、なんというか・・・。親しみを感じる書だった。

知らなかったのだけど、ポスターやチラシに載っている狩野山楽の「龍虎図屏風」は2/8までで展示終了(涙) 長谷川等伯の「枯木猿猴図」もなし。ちょっと悲しい。この2枚は見たかったので・・・。本当のお目当ては別なので、まぁよしとする。

禅宗のことはあまりよく分かっていないのだけど、とにかく坐禅により仏教の真髄を極めようとする宗派ということでいいのかな。インドのバラモン出身の達磨大師が開いたとのこと。達磨様はインドのバラモン出身だったんだ! 知らなかった。バラモンと言えばカースト制度の最高位で僧侶の身分。僧侶って自らの意思でなるものだと思うのだけど、僧侶の身分に生まれるってどういうことなんだろう? まぁ、これは素朴な疑問だけど・・・。禅宗だからなのかはイマヒトツ分からないのだけど、全体的にあまり豪華で煌びやかなものよりも、簡素な中にも実は手が込んでいるというような展示品が多い。後は、僧侶の肖像画や書が中心。正直、僧侶の肖像画を見てもあまりよく分からないし、そんなにグッとこない。

書はさすがに素晴らしいけれど、全く読めない。でも、書はどうしても読もうとしてしまうけれど、美術品と同じようにその美しさを鑑賞すればよいとのこと。そいう意味では「春日局消息」は美しかった。消息というのは主に仮名で書かれた手紙のことだそうで、仮名特有の流れるような書体で書かれている。「花園天皇宸翰誡太子」は花園天皇が息子である尊円親王のために書いた学問指南書。息子のために一生懸命書かれたのであろう書には、書き直しとか塗り潰してある箇所があったりして興味深い。こういう展示品って、美しく書かれたものばかりだと思っていたから。そりゃ、昔の人、っていうか天皇だって書き間違えはするよなぁと思ったりする。

「花園天皇坐像」は江戸時代の仏師康知によるもので、すごい迫力。南北朝時代に描かれ、とてもよく似ていると言われている「花園法皇像」の柔和な顔とは違い、ひきしまった表情。鶴瓶似・・・ いや、鶴瓶の物まねをするコージー冨田似かな(笑) でもその迫力はスゴイ。それは康知の腕によるものかも。すごいリアル。この坐像が置かれている部屋の仕切りとして使われている「山水楼閣人物図螺鈿引戸」がすごい。4面の引戸はそんなに大きくはないけれど、水辺の楼閣に佇む人物達を細かな螺鈿細工で描く。これはスゴイ。中国で明代に作られたそうだけれど、日本の螺鈿細工よりも光沢が鈍い印象。これは「菊唐草文螺鈿玳瑁合子」にも言えること。合子とは入れ物のこと。お寺の屋根なんかについている瓦のみたいな形。10cmもない小物入れにビッシリと施された螺鈿は、べっ甲に彩色したものだそうで、茶色というか濃いオレンジ色。これはかわいい。

後期の目玉でもある如拙の「瓢鮎図」は第一会場のほぼ終わり頃にある。掛軸なのであまり大きくない。将軍足利義持の命により描かれたという掛軸に描かれているのは、川辺で瓢箪を手にした男とナマズ。これは「ぬるぬるした瓢箪で、ぬらぬらしたナマズを捕まえられるのか」という禅問答を描いたものだそうで、京都五山の高僧31名が賛を寄せている。賛とは文字通りその絵などを賞賛する文章や、その絵に関した詩を書くこと。さっぱり読めなかったけれど、この賛はユーモアあふれる賛なのだそう。如拙の絵は瓢箪を持つ男が少し気味悪く、あまり気持ちがいい絵ではなかったけれど、細部まで描き込まれた筆致と、墨の濃淡で表現された幽玄さが素晴らしかった。

第一会場最後の展示品は「梵鐘」 飛鳥時代に作られた日本最古の鐘なのだそう。九州に同じ形の鐘があるので、福岡で作られたのではないかと言われている。コップを逆さまにしたようなスッキリとした形がいい。装飾自体はシンプルだけど上下に配された唐草模様がかわいい。この鐘の音は「黄鐘(おうしき)調」なのだそう。黄鐘調とは辞書によれば、雅楽の唐楽の六調子の一つだそうだけど、どんな感じの音色なのかサッパリ分からず・・・。でも、兼好法師が「徒然草」に黄鐘調が良いと書いているそうなので、きっと良い音なのでしょう(笑)

第二会場に入ると直ぐ「玩具船」がある。豊臣秀吉50歳にして授かった初めての子棄丸が乗って遊んだという船のおもちゃ。おもちゃとは思えないくらい手が込んでいる。船の前後に屋根付きの釣り殿のようなものがあり、その間に棄丸が座るようになっている。船は車輪付きの台車にのっている。多分、お側に仕える人達が引っ張って遊ばせたのだろう。天下人豊臣秀吉と淀殿との間に生まれた若君も、規模は違えど、甥っ子達と似たような遊びをしていたのかと思えば微笑ましい。そして、子供が喜ぶ顔が見たいと、おもちゃを与える気持ちは天下人であっても同じなのだなぁと思ったりする。そんな思いも虚しく3歳で亡くなってしまったという棄丸。「小型武具」の小ささを見ると何とも切ない。

「立涌に菊文様壇引」が素敵! 壇引とは法会の際に壇の前にひきまわす飾りと説明があったけれど、イマヒトツ分からず。朱色の地に金糸の菊が隙間無く配されている。こう書くとずいぶんハデなイメージだけど、全然そんなことは無くて品がある。並んで展示されていた「桐竹雪文様打敷」も素敵だった。全体的に淡いトーンだけど、薄い緑で刺繍された竹が美しい。この2点、元は小袖だったのではないかと言われているらしい。図柄の美しさもさることながら、色が美しく豪華でありながら控えめで品がいい。そういえば第一会場に展示されていた関山慧玄が使われていたという「忍草文様頭蛇袋」も素敵だった。1枚の布を三つ折にしただけのシンプルな作りで、首から提げて使うのだそう。20cm×20cmくらいの正方形。藤色に染められているけど、真ん中に忍草が染め抜かれている。かわいい。

「瑠璃天蓋」は春日局の像を祭る堂の天蓋。ガラスのビーズと鉄もしくは銅のワイヤー(?)で作られている。明時代の中国で作られたもの。大きさは直径1mくらいかな・・・ もう少し小さいかも。水色、黄色、青などのビーズで、シャンデリアのような物が作られている。多分、当時こんな小さなガラスのビーズを作るのは大変なことだったのだろう。今見るとおもちゃのように見えるけれど、それが逆にかわいい。細い針金(じゃないと思うけど)にビーズを通して作られた華奢な天蓋はかわいい。ハート型、星型などの模様もいい。第一会場に展示されてた「瑠璃天蓋」は関山堂の天井を飾っている。こちらの方がやや大きかったかな。こちらはビーズ飾りが何本も下がってかわいかった。

次の部屋に入った突き当たりにドーンと「達磨像」 白隠慧鶴が67歳の時に描いた2mを超す大作。画面右に上1/4ほど余白を取って達磨の顔を描く。その輪郭線はいつの間にか衣になっている。達磨大師その人よりもむしろダルマを描いているかのような線。チラシなどではどこか飄々とした表情に見えるけれど、眼光鋭くかなりの迫力。先ほど見た如拙の絵などに比べれば、繊細さはないかもしれないけれど、この迫力はスゴイ。この絵の丁度真上にバナーとして狩野探幽の龍の絵が展示してあった。妙心寺法堂の天井画で実際は直径12m。今回展示のバナーは1/3サイズとのことだけど、それでもかなりデカイ! 画面の右下から左上へと体をくねらせながら立ち上がるかのような構図。画面左上からコチラを睨むように見る迫力はスゴイ。本物はスゴイ迫力に違いない。

最後の展示室。海北友松の「花卉図屏風」がいい。父は浅井長政の家臣だったというから武士の出、父の戦死後に禅門に入り、後に狩野永徳に学んだのだそう。金地に大振りの花を大胆に描く感じは確かに狩野派の豪華で力強い感じはする。6曲1双の左隻には梅が描かれている。左半分よりやや上辺りから上に伸ばした枝は、一度画面から消えて、上端の中央辺りから再び現れる。この枝ぶりは見事。でも、その枝ぶりから感じるのは迫力よりも、儚さ。控えめな美しさは梅という木に合っている気がする。対して、右隻は牡丹。通常よりも20cm高い屏風の画面いっぱいに描かれた牡丹はすごい迫力。かなり写実的。花びらまで細かく描かれた牡丹は一つとして同じ形はない。大輪の花は豪華だけど、でも淡い色で描かれているので、咲き乱れているというような圧倒的な印象派ない。それがまたいい。海北友松もそのような人だったのかもしれない。控えめにでもしっかりと自己を主張するような。そしてそれが押し付けがましくないような・・・。って、勝手な想像だけれど(笑)

そして本日の1枚。狩野山雪の「老梅図襖」 これが見たかったのでこの特別展に来た。今年のお正月、NHKで放送された江戸の美術100選で紹介された作品。この絵は何とも異様。一見しただけでは奇怪という感想になるけれど、見ているうちにその存在感に圧倒される。4枚からなる襖絵で思っていたよりも大きくない。右端下から伸びた梅の幹は2枚目の襖で1度力強くうねりながら天に伸び、3枚目の襖で信じられない形をとり、下方向にくねりながら曲がり、それからほぼU字型を描いて再び上へと枝を伸ばす。花はほとんど咲いていない。そして4枚目の襖で細くそして高い位置で水平に枝を伸ばし、控えめに花を咲かせる。とにかくその曲がりくねり方がスゴイ。狩野派の中でも豊臣家に仕えた一派として、江戸時代には不遇だったのだそうで、そういう絵師の苦悩の末に辿り着いた境地なのかと思って見ると、これはもう素晴らしいの一言。

番組内では、ほぼ同じような構図で描かれた梅の木の襖からなる、一連の襖絵に四方を囲まれた部屋を、版画家の山本容子さんが訪ねていた。あまり広くないその部屋で1人鑑賞した後の感想が興味深かった。部屋の中央に立って囲まれると、自分は少し高い位置にいて、見下ろしているような感覚があったとのことで、ということは梅は高くて風の強いところに生えているのではないか。と考えると、風雪に耐えた梅の木が曲がりくねっていく感じがよく分かったと語っていた。そして、それはやっぱり本物を見る醍醐味だとも話されていた。自身も芸術家である山本容子さんの感じたことは、おそらく正しいのだろうと思う。でも、同じ感想を持たなくても別に構わないのだと思う。それこそが美術、そして本物を見るということの意味だと思うし。私は、山雪が葛藤にのた打ち回った挙句に辿り着いた境地は、控えめながら花咲く事が出来ればいいと思ったのじゃないかと感じた。そして、自分がこれまでも今も葛藤していることは当然なのだし、きっとムダじゃないのだと思う。そんなことを感じさせてくれる作品だった。これは素晴らしい。これが見れて良かった。

ここ最近の東京国立博物館での展覧会は、もうホントに圧倒されるくらい素晴らしいものが多かった。今回、それらに比べると少々地味な印象ではある。でも、控えめな中にも芯の通ったものを感じる展覧会であったように思う。今、何かに葛藤していてそれに押しつぶされそうに感じていたら「老梅図襖」見てみたらいいように思う。そのくらいうったえかけてくるものがあった。


「開山無想大師六五〇年遠諱記念 妙心寺」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【cinema】『オーストラリア』(試写会)

2009-02-16 01:29:36 | cinema
'09.02.08 『オーストラリア』(試写会)@東京厚生年金会館

yaplogで当選。母親が見たいと言うので応募。なのに本人行けないと… 試写状届いたのが木曜日。試写会は日曜日ってことで、これは一人鑑賞かなぁと思いながら友達に連絡。次々断られて5人目でやっと見つかった。子供がいなくて映画が好きな友達が年々減っている(涙) というわけで久々Bちゃんと鑑賞。しかし日曜日の夜、厚生年金会館、しかも強風で酷寒とあって空いてる。最初から3F席にしたけどガラガラ。1Fも前の方はかなり空いてた。意外に人気ないんだろうか…。

「イギリス貴族の奥方サラは、牛肉の買い付けでオーストラリアに行ったまま1年が過ぎても戻らない夫の浮気を心配し、はるばるやってきた。夫が寄越した牛追いドローヴァーと道なき道を走ること数日。辿り着いた農場で待っていたのは、夫の不慮の死の知らせ。残された彼女はドローヴァーの協力を得て、農場を手に入れようと目論む地元の有力者カーニーと対決するが…」という話で、これはメロドラマ。言いたいことはいろいろあるみたいだけど、見終わった感想としてはそんな印象。裕福で美しく気の強い女性が、突然の不幸で一家を背負うはめになる。そこにワイルドなヒーロー登場。初めは反発しあいながらも、いつしか惹かれ合う。2人の恋愛を軸に戦争や人権問題を絡めて描く。さんざん見てきた印象。『風と共に去りぬ』を越えたということらしいけど… どうかな…

いきなりダメ出ししているけど、面白くないわけではない。ニコール・キッドマンは相変わらず美しいし、スレンダーながらメリハリのきいた体にピッタリとしたシルエットの衣装が似合う! ヒュー・ジャックマンはセクシー。好みではないけど… キーマンとなるアボリジニと白人のハーフの少年も良かった。コミカルな場面を盛り込みつつ、結構残酷なシーンや、重いテーマを盛り込みつつ、恋愛映画として無難にまとまっている。オーストラリアの自然もキレイ。

オーストラリアはかつて英帝国に属し、その後独立。現在は英連邦に属している。元は流刑地だったように思う。『スウィニー・トッド』で主人公はオーストラリアに流刑されていたし。原住民はアボリジニ。現在はイギリス系の人口が多い。あまり詳しくないので、この時代がどんな状態だったのかイマヒトツ分からないのだけど、アボリジニの子供達、特に白人との間に生まれたハーフの子供達を親元から引き離す政策が取られていた。建前は、教育ということらしいけれど、おそらく実際は奴隷のように扱われたのだろう。女性たちは性的な相手をさせられていたと映画の中でも語られていた。この映画の主人公の1人でもあるナラも、白人との間に生まれたハーフで私生児。描きたい事の一つはこの問題。多くの黒人問題同様、ここでも高級クラブというわけでもない荒くれ男達が集うバーですら、黒人はお断り。そういう問題自体は伝わってきたし、ナラを警察から守るため、母親と2人で身を隠した水溜用タンクに、サラがやって来て雇い人フレッチャーの不正を暴き、せき止められた水を流したため水が溜まっており、結果悲劇を招いてしまうのは皮肉ではある。それらのエピソード1つ1つは辛いことなのに、なんとなく心に響いてこない。役者達の演技は悪くは無いのだけど・・・。

後半、やはりもう一つ描きたかったのであろう戦争シーンが出てくる。これも、その戦闘シーンの迫力はすごくて圧巻なのだけれど、亡くなってしまったと思った人物が実は生きていたとか、バラバラになってしまった主人公達は再会できるのか?というシーンが長すぎるし、サラと間違えられた人物との関係がほとんど描かれていなかった上に、取り違えられたという描写自体も、ドローヴァーが彼女への本当の気持ちに気づくという事にもあまり関係がなく、見てる側をハラハラさせることが狙いなのだとすれば、特別必要でもない気がする。確かにフレッチャーに逆恨みされるネタにはなるけれど、そもそも身代わりになったわけでもないし、仮にそうだとしても、その人物についてあまりに説明不足なので同情もできない。

と、ちょっとネタバレになることに触れつつもあえて書いたのは、このエピソードのように主人公にしろ、悪役にしろ何となく薄っぺらい印象。今回の悪役フレッチャーとカーニー。カーニーは思ったよりも根っこの部分では悪くない人物。だったら彼を絡めてもう少しおもしろく描けたような気もするのだけど・・・。まぁ、そんな必要は確かにないけど、そういうせっかく出ているのに生かしきれていないような人物が多い。例えばナラの祖父でアボリジニのシャーマン、キング・ジョージなど魅力的な人物もいるのだけど、イマヒトツ生かしきれていない印象。

薄っぺらくなってしまった理由は人物の描き込みの足りなさもある気がするけれど、サラとドローヴァーの恋愛を主軸としたことにもある気がする。まぁ、もともとそれがテーマの恋愛映画なので当然といえばそうなのだけど(笑) 正直、2人の恋愛にあまり酔えなかったことが、全体的に薄っぺらい印象になってしまったのかなと思う。サラとドローヴァーが一体何歳の設定なのか不明だけど、ニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンの実年齢を考えると、若く見積もっても30代半ばと思われる。そのわり2人の恋愛から得るものもない。まぁ、恋の始まりなんて、若かろうが、年を取っていようがドキドキしたり、我を忘れて夢中になったりするのは同じだと思うし、そういう一緒にいるだけで幸せっていう時期が過ぎて、お互い相手がいることに慣れてくると、相手に求める部分が出てきて、すれ違ったり傷ついたりするのも同じだと思う。でもニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンを使って約3時間もある映画を作るのであれば、もう少し大人の恋愛を描けなかったかなと思ったりする。大人の恋愛って一体何と言われれば難しいんだけど(笑) 2人のすれ違う理由にしてもドローヴァーが踏み込めない感じもありきたりではある。2人とも結婚を経験していて、悲劇でその結婚生活が終わっている。サラの悲劇は見て知っているけど、後から語られるドローヴァーの悲劇は、その辛さのわりに取ってつけたような印象になってしまっているのは何故なんだろう。上手く言えないんだけど、全体的にさらっとなぞっただけという感じがした。

役者達は悪くはなかったけれど、可もなく不可もなくという感じ。フレッチャー役で『ロード・オブ・ザ・リング』のファラミア役デヴィッド・ウェンハムが出ていた。しかし、この役・・・。まぁ、嫌な役のわりに頑張っていた。どこかしら哀愁を感じたのはファラミアの印象が強いからかな(笑) キング・ジョージ役の人が良かった。本当のアボリジニの人なのかな。神秘的な存在感は、演技を超えていたような気がするのだけど・・・。ナラ役の男の子も良かった! 彼がいろいろな経験を経て、立派なアボリジニの少年に成長したのは良かった。

ニコール・キッドマンは相変わらず美しいし、演技も上手いと思うけれど、良家の奥様で、美しい衣装を何着も身にまとい、窮地に陥ると必ず誰かが助けてくれるお嬢様みたいな役多い気がする。確かに彼女のクラシカルな美貌にはピッタリとう感じだし、別にそんな設定でもいいと思うけれど、もう少し大人の女性としてのしなやかな強さが描かれる役を演じて欲しい気がする。この役、設定は何歳か知らないけれど、25~6歳くらいの印象なので・・・。それでも、サラが魅力的な女性に見えたのは、ニコール・キッドマンのおかげだと思うけれど。

ヒュー・ジャックマンはあまり好みのタイプではないけれど、セクシーではあった。ドローヴァーってありがちな設定の役ではある。心に傷を持ち人と深く関わることを怖れているため、仕事にかこつけて自由に生きている。こういう映画の主人公(の相手役)によく見るタイプ。類型的にも見ていて鼻持ちならなくもなく、知性を感じさせたのはヒュー・ジャックマンのおかげかも。ただ、サラにしてもドローヴァーにしてもイマヒトツ素材を生かせていない印象なのは、ラストあまりのご都合主義的に畳み掛けるハッピーエンドがウソっぽく感じられたからかもしれない。もちろんハッピーエンドになって欲しいんだけど、ちょっとあまりにも・・・(笑)

でも、その薄っぺらい印象というのも、いろんな要素を分かりやすく描くためには、複雑な人物設定やストーリーにせずに、メロドラマとして描こうとしたからなのだとすれば、これは完全に成功していると思う。映画にそんなに複雑さを求めず、娯楽作品が見たいという人にはおもしろいと思う。もちろん、そういうタイプの人も作品自体も全くバカにはしていない。そもそも映画はそいうものだと思うし、それぞれの見方があるのは当たり前。いろんな問題を描きつつ、最後にはきちんとまとまっているし、衣装やセットも豪華。オーストラリアの自然がスゴイ! サラの夫の牧場(といってもビックリするほど広大だけど・・・)ファラウェー・ダウンズは素晴らしい。乾季には砂漠の真ん中に取り残されたような邸宅が、雨季には緑に囲まれるのは美しい。2000頭(だったかな・・・)の牛の大移動も迫力大。相手は日本軍なので複雑ではあるけれど、戦争シーンの迫力もスゴイ。それら全てに現実味が薄いのも、逆にメロドラマとしてはいいのかもしれない。

おもしろくなくはなかった。全体的に私にはしっくりこなかったというだけ。


『オーストラリア』Official site

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【cinema】『ベンジャミン・バトン~数奇な人生~』(試写会)

2009-02-02 00:15:26 | cinema
'09.01.19 『ベンジャミン・バトン ~数奇な人生~』(試写会)@よみうりホール

yaplogで当選。ブラピ舞台挨拶つき試写会も応募したけど、こっちが当たってことはハズレだな(涙)しかも家に帰ったらシネトレからも試写状が届いてた。その日は旅行中で日本にいない。ということで、そちらは代わりにMッスに行ってもらうことにした。シネトレさんすみません

「高齢となり死の床にあるデイジーは、付き添いに来ている娘のキャロラインにある人の日記を読んで欲しいと頼む。日記の主はベンジャミン・バトン。老人として生まれ、成長するにしたがって、どんどん若返っていくという数奇な人生を生きた人物。次第に明かされる彼の生涯。そして母デイジーとの関係…」という話。知らずに見たんだけど、これはF・スコット・フィッツジェラルドの短編小説の映画化だった。フィッツジェラルドと言えば「グレート・ギャツビー」で、これは映画『華麗なるギャツビー』としての方が有名かも。1974年製作のこの作品の主演はロバート・レッドフォード。ブラピの出世作『リバー・ランズ・スルーイット』の監督がロバート・レッドフォードで、この時ブラピはレッドフォードの再来(健在だけど…)と言われて大ブレイクしたのだと思う。そう考えると、ちょっと感じるところがあったりする。まぁ、あまり関係ないのだけど… 原作を読んでいないので何とも言えないけれど、どことなく耽美で退廃的な感じがするのは、フィッツジェラルドならでわなのか?と思ったりもする。

話としてはベンジャミン・バトンという人物の一生ということになるのだけれど、とにかく彼自身が普通ではない。別にベンジャミンの一生として見ても、それなりに楽しめそうな感じもするけど、彼を通常とは逆の時間の流れで生きる人物としたことで、より時間の大切さ、誰のもとにも訪れる老いそして死について、素直に考えることが出来る気がする。ただ、特異な人物である主人公が、不思議がられながらも受け入れてくれる人がおり、生来背負ったハンデ以外は逆に結構恵まれていて、もちろん本人の努力もあるけれど、いつも誰かに救われたりする。そんな主人公に絡めて反戦や政治的な事をどこかユーモラスに描く感じは、どこかで見た気がすると思ったら脚本が『フォレスト・ガンプ』のエリック・ロスだった。正直『フォレスト…』はあまり好きではない。知的障害者フォレストがその真っ直ぐさで起こす様々な奇跡をお伽話的に描きつつ、反戦を訴える感じが自分にはあまりしっくりこなかった。この作品も少し同じ感じはしたけれど、主人公の設定のあまりの荒唐無稽さと、どこか退廃的な感じ、そしてベンジャミンが自分の運命を自覚している事が上手く作用して、逆にうそくさい感じがなくなっていたように思う。

前にも書いたけど原作は未読なので、実際はフィッツジェラルドがどんな意図でこんな運命を背負った主人公の話を書こうと思ったのかは分からない。でも、人は誰でも生まれた瞬間から死に向かっているし、そして年を重ねるごとに老いていく。それは怖いことだし悲しいこと。事実私も怖い。そして世界中に不老不死にまつわる物語があるということは、きっと皆そうなのでしょう。では死は避けられないとして、年を取るごとに若返っていくのはどうだろうか。この映画によれば必ずしもよいわけではないようだ。人は"若さ"に憧れたり、執着する傾向にある。それは単純に生命力に溢れているだけではなく、経験や知識の不足ゆえの無邪気さや無鉄砲さなんかもあるのかもしれない。勢いとうか… でも逆に経験を積んだからこそ見えてくる世界もある。たしか『ストレート・ストーリー』だったと思うけれど、主人公の老人に若者が「年を取るのはどんな感じか」と尋ねるシーンがあった。主人公は「記憶の積み重ねだ」と答えていた。楽しいことも、辛いことも背負って生きていく。記憶を積み上げて心もいっぱいになって、ほどよく疲れているのに体ばかり若くてもどうなのだろう。何より辛いのは気持ちと体が一致しないこと。そう考えると、経験を積んで老練し、穏やかになっていきながら、肉体もゆっくりと衰えていくのがいいのかもしれない。徐々に自覚できるし。

などと、いろいろ書いてみたのはフィッツジェラルドの言いたかったのはこうではないかと思ったこと。この映画自体が言いたいことは、いくつになっても困難な状況でも諦めるなということなんだと思う。そして、どんな人でも愛されるべきであるということ。正直に言うとその辺りの描写は少々ご都合主義的な感じがして、あまり心に響いてはこなかった。多分、この脚本家と感性が合わないんだと思う。ヒドイ脚本だと言うつもりはない。むしろ感動する人は多いと思う。2時間47分とかなり長いけど飽きずに見れた。このあたりはデビット・フィンチャーのスピード感ある演出と出演者の演技によるものだと思う。ただ、その割に心に残らなかったりするのだけど…

主演はブラッド・ピット。ブラピは最初は演技を評価されて出てきた印象だけど、いつの頃からか"ブラピ様"みたいな位置付けになってしまい、あまり演技力を必要としないような娯楽作ばかりに出ている気がする。本人の意志なのか周りによるものなのか… まぁ、どちらもだと思うけれど、個人的にはあまりタイプではないので、美しいと思ったこともないし、むしろその事だけで騒がれている人という偏見もあった。このベンジャミン・バトンは特殊な役ではあるけれど、内面的に複雑な人物ではないので、特別難しい役とは思わないけれど、その外見から老人だと思われているのに実は子供という感じは良かったのではないかと思う。ずっと無邪気でいられたけれど、愛する人や守るべき人を得た時、初めて自分の運命と向き合う辺りの演技は、その演出も含めて少し物足りない気がしないでもないけれど、抑えた感じでよかったと思う。ただ全体的に特別ブラピじゃなくてもいいんじゃないかと思っていた。少し若返ったベンジャミンを回想するデイジーが「彼は美しかった」と言った時もそうは思わなかった。でも、おばさんになったデイジーのもとに現れた青年の姿のブラピを見た時納得。それほど美しく哀しい姿だった。

ベンジャミンの初めての恋の相手役でティルダ・スウィントンが出ていたのが嬉しかった。ティルダは好きな女優さん。このティルダとのシーンは退廃的でよかった。ロシアのホテルという設定だけど、それはあまり伝わらないし、何故ロシアなのかも謎。でも、夫の仕事に付き添って旅を続ける生活にも飽き、退屈し、空虚感を抱えた彼女が、ベンジャミンと夜中語り合うひと時にときめく気持ちはよく分かる。初めは警戒し距離を置くけど、次第に心を開き、そして恋に落ちる感じが自然でいい。夫人はもう若くはない。自分より年上に見えるベンジャミンに依存するわけでもなく、あくまで主導権を握ってる感じが、実は内面はまだ恋愛経験のない若者である彼のぎこちなさを際立たせつつも、2人の関係の違和感をなくしていたと思う。この恋は突然終わるけれど、その引き際も見事。一歩間違うと自分勝手だけれど、そうはなっていない。このエピソードはよかった。

老人ホームに捨てられたベンジャミンを、神からの授かりものと育てるクイニー役のタラジ・P・ヘンソンがよかった。まだ差別の残るニューオリンズの老人ホームで働く黒人女性。子供ができず悩んでいた時ベンジャミンと出会う。実の父にも見捨てられたベンジャミンに愛情をそそぐ肝っ玉母さんぶりがいい。船長もよかった。いい加減な酒飲みだけど憎めない。ベンジャミンはクイニーから母の愛情と、船長から父の愛情をもらったのだと思う。実の父も後に登場するけど、心の中では船長が父だったと思う。船長は事情を知らないから、そんな自覚はないと思うけれど。人に自然に接するだけで、その人を救うこともある。

そして何と言ってもデイジーのケイト・ブランシェットが素晴らしい。この映画ケイトが出ているから見に行った部分が大きい。10代の少女から死にゆく老婆まで演じきった。あのバランシンにも認められたバレリーナ。多分、遠景でのバレエ・シーンは吹き替えだと思うけれど、アップは実際踊っているっぽくて、動きが美しい。バレエ経験があるのかな? ピルエット(回転)で顔をつけるのは結構大変なのだけれど… 若い頃の奔放な感じと、ベンジャミンと再会してからの2人の幸せな感じもいいけれど、若返った彼と再会するシーンの演技が素晴らしい。幸せの絶頂で、幸せだからこそ訪れる悲しみを乗り越え、自らの居場所を築いた頃、老いた身を恥ながらも身をまかせる感じがいい。そしてお互いの晩年。ベンジャミンの運命よりもデイジーの強さに心打たれた。このケイト・ブランシェットは見事。

ベンジャミンが生まれた1918年から、時々現在の病室に戻りながら、亡くなるまでを一気に見せる。ベンジャミンが少年時代(体は老人だけど)を過ごしたニューオリンズがいい。ベンジャミンの実家となる老人ホームは時代を越えて度々登場する。このホームの周りはいつも晴れている印象。それは良かった。2人の心がすれ違うパリとニューヨークの感じもいい。ここのケイトの衣装は好き。あとロシアのティルダの衣装も良かった。

クイニーの無条件の愛情、実の父が果たす役割、晩年のベンジャミンなど、ご都合主義的な部分もあるし、時々差し込まれる笑えるシーンなど語り口全体がお伽話的だったりと、しっくりこない部分も多い。でも冒頭のセントラル・ステーションの時計のエピソードでも分かるように、これはお伽話なんだと思う。なので、そのように楽しめばいいのだと思う。そういう意味では、しっくりこない部分を補う役者達の演技でギリギリ気にならず、楽しめた。時計のエピソードが持つ意味とか、デイジーが事故に遭うまでのシーンとかは好きだった。人生は「もしもあの時」という事の積み重ねだから。

長々書いた(笑) 特別感動という事はないけど、楽しかった。少しあざといけれど感動を誘う台詞もたくさんある。単純に私がしっくりこないだけ。長いけど飽きないし、よくまとまっていると思う。ブラピ目当てだと前半かなり辛い姿だけど、ラスト近くとびきりステキな姿で現れるのでお楽しみに。

ホントはもっと早く感想を書かないといけなかったのだけど、遅い夏休みでバリ島に行っていたもので遅くなってしまった(涙)


『ベンジャミン・バトン ~数奇な人生~』Official site

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする