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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:蟹満寺・観音寺・禅定寺」

2015-09-23 23:56:57 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:蟹満寺・観音寺・禅定寺」

蟹満寺

蟹満寺 蛙が蛇に食べられそうになっているところに遭遇した男が、蛙を助けるために娘を嫁にやる約束をする。夜蛇は大蛇となって男の家にやってくる。観音様が現れて助けることを約束。大蛇の気配が消え外に出ると息絶えた大蛇と蟹。以前娘が助けた蟹の恩返し。今昔物語に載っている。

 

 

京都南山城の古寺を紹介する回。蟹満寺(Wikipedia)のことは知らなかった。tweetしているのが蟹満寺の由来。今昔物語(Wikipedia)にも出て来る物語なのだそう。娘が助けたというのは、村人が蟹を食べようとしているところを救ったということだった。なかなか勇気ある行為だね娘(笑)

 

平成22年に建て替えらえたお堂 藤原京時代建立の本尊釈迦如来坐像。日本でも有数の美しさ。発願者、仏師、造立時期など詳しいことは分かっていない。像の特徴により藤原京時代と分かる。衣の表現。縵網相の大きさも特徴。丈六=4.85m 座高2.40mで作成→立ち上がると丈六

 

本尊の釈迦如来坐像については、tweetどおり詳細が分かっていないけれど、衣の表現や手の水かき=縵網相(三十二相八十種好|Wikipedia)により、藤原京(Wikipedia)時代の作であることが分かるのだそう。丈六(丈六(じょうろく)とは|コトバンク)=4.85mというのは、釈迦の身長が4.85mだと考えられていたため、仏像を造る際に丈六で造られることが多い。坐像だと座高2.40mで造られるってことなのかな?

 

薬師寺の国宝薬師如来坐像。丈六。蟹満寺の釈迦如来坐像の特徴が似ている。同じ頃に造られたのではないか? 薬師寺の薬師如来は大伽藍なのに、蟹満寺は小さい。何故? 以前は大伽藍であった痕跡。水害などで失われた? 本尊は人々の手によって守られてきたのでは?

 

薬師寺(奈良薬師寺 公式サイト|Yakushiji Temple Official Web Site)の薬師如来坐像も丈六で、特徴が似ているため同じ頃に造られたものではないか? 薬師寺は現在も大伽藍なのに何故?ということなのだけど、文献などによると以前は大伽藍であった形跡が見られるとのこと。


観音寺

観音寺 奈良時代良弁僧正が開祖 東西7~800m13のお堂がある大寺院だった。大御堂2層式や、五重塔があった。五重塔の礎石が1つ残る。奈良時代~平安時代の瓦の破片。南山城には瓦工房があった。奈良に送られていた。


同じく以前は大伽藍であった観音寺(Wikipedia)は良弁僧正(Wikipedia)により開かれたのだそう。境内には奈良時代~平安時代の瓦の破片が多く残されているけれど、この辺りには以前瓦工房がたくさんあったからなのだそう。

 

国宝十一面観音菩薩立像 女性的なプロポーション 木芯乾漆造り 粗彫りをして漆で盛り上げる技法 年月と費用がかかる。国家事業として作られていたのではないか? 化仏の阿弥陀如来と十種勝利を頂く。11番目のお顔が十一面観音のお顔=悟りを開いたお顔 4つの来世 美しい仏様! 見たい!!


 

国宝の十一面観音立像は、木芯乾漆造り(乾漆造り|Wikipedia)は、tweetにもあるとおり粗彫りした像に麻布を貼り、抹香漆または木屎漆を盛り上げて造る製法。漆を塗り固めるので時間もお金もかかるそうで、おそらく国家事業として行われたのではないかとのこと。


十一面観音様の頭上の10のお顔を直接十種勝利(十一面観音|Wikipedia)と言うわけでなく、10のお顔が現世での10のご利益を表していることを言うらしい。正面のお顔が、4つの来世でメモ途切れちゃっているけど、これは四種功徳(十一面観音|Wikipedia)のことで、来世での4つの果報を表しているとのこと。この十一面観音様は本当に美しくて、女性的な体の曲線も優美。この仏様絶対にお会いしたい


南山城は奈良の平城京と、琵琶湖に近く中国や朝鮮から来た人も多く住んでいた。恭仁京計画。木津川沿いであること。などより発展し、大寺院が建立される仏教都市となった。平安時代になると京都の中心に都が移ったため、衰退していった。


この辺りちょっと曖昧なのだけど、南山城は平城京(Wikipedia)と隣接していて、琵琶湖にも近いという立地条件から栄えたということらしい。恭仁京(Wikipedia)のことは知らなかったのだけど、これは聖武天皇(Wikipedia)により740年に遷都されていたらしい! 木津川沿いであったことは物資を運ぶ拠点として栄えたということ。この時代は、都市が発展すると大寺院が建立されていたのでしょうかね。

 

禅定寺

禅定寺 藤原氏の庇護のもと栄えるが、室町時代の南北朝時代に衰退。江戸時代に月舟が加賀藩本田氏の援助を得て再建した。PC固まっちゃって落としてたからメモできなかった。・゜・(ノД`)・゜・。


このちょっと前Chromeが固まっちゃって、文字が打てなくなってしまったため、一度落としたりしていたので、メモ取れなかった。・゜・(ノД`)・゜・。 他の2寺とはちょっと違う場所にあるような説明だったように感じたのだけど違うのかな? 宇治田原にあるみたいだけど・・・


禅定寺(Wikipedia)は東大寺(華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ)の別当(Wikipedia)平崇が創建したのだそう。平崇が藤原氏(Wikipedia)の庇護を受けて造営したが、南北朝時代に衰退。江戸時代に月舟(Wikipedia)が、加賀藩本田氏(Wikipedia)の庇護を受けて再建したとのこと。

 

十一面観音菩薩、日光月光菩薩立像、地蔵菩薩、大威徳、四天王立像など宝物殿に祀られる。四天王立像は創建当時から安置されている桜と檜の寄木細工。160cm。本尊十一面観音立像も創建当時から祀られている。京都随一の大きさ。



宗派として本尊はあまり関係なかったが、月舟は創建時からあった仏像を全て大切にしたというような説明をしていたような・・・  仏像たちは現在宝物殿に安置されているそうで、一堂に会した姿は圧巻。しかも、tweetにもあるとおり四天王像160cmなどかなりの大きさなので壮観。これは行ってみたい!! ご本尊十一面観音立像の脇侍扱いで日光菩薩・月光菩薩がおられたけれど、本来は薬師如来の脇侍。これはちょっと不思議。

 

おんまか きゃろにきゃ そわか

 

仏様にはそれぞれの呪文のようなものがあって、これは十一面観音様のもの。

 

飢饉に襲われた時、一人の娘が現れ、渋柿を美味しく食べる製法を教えた。渋柿を干す→干し柿 村を去る娘を追うと、岩の辺りで娘の姿が消え、十一面観音菩薩の姿が現れた。娘は観音菩薩の化身であると考えた。ころ柿 禅定寺の観音菩薩信仰を深める。美女岩の辺りに、平成3年おとめ観音安置。


この話はなかなか素敵なお話。娘さんの真偽はともかく、この地で干し柿が生まれたのかしら? そういう説明ではなかったような? ころ柿(ころ柿|JA遠州中央)で調べてみても、干し柿(Wikipedia)で調べてみても、そういう表記は見当たらない。まぁ、いい話だからいいか(o´ェ`o)ゞ

 

南山城のお寺は、かつて大伽藍の寺だったが、時代の流れと共に小さな寺となりつつも、人々の信仰を集め、見つめ続けている。


と、キレイにまとめて糸冬 了(笑)

  

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

古都浪漫こころ寺巡り|BSフジ

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