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【TV】「美の巨人たち:中宮寺 国宝 「半跏思惟像」」

2016-07-10 00:14:05 | tv

【TV】「美の巨人たち:中宮寺 国宝 「半跏思惟像」」

 

 

 

毎週、絵画などの美術品から建築物まで、1つの作品を取り上げて紹介する番組。今さら説明の必要もない長寿番組。今回は現在、東京国立博物館で開催中の特別展「ほほえみの仏像 -二つの半跏思惟像-」に展示されている、中宮寺の国宝半跏思惟像。この如意輪観音様には2度ほど、中宮寺を訪れた時にお会いしている。大好きな仏様。


半跏は片脚を上げた座り方で、思惟とは物思いにふけること。半跏思惟像というのは片脚を上げて、首を傾げ指を頬のあたりに添えている形の像のこと。本来この形で表されるのは弥勒菩薩なのだけど、中宮寺では如意輪観音として伝わっている。これは何故なんだろうとずっと思っていたのだけど、どうやら聖徳太子信仰と結びついているらしい。ちょっと詳細を聞き逃してしまったのだけど、弥勒菩薩が釈迦入滅から56億7千万年後に下生し人々を救うことから未来仏とされているのに対し、如意輪観音は現在人々を救う仏されていることが関係しているらしい・・・

 

 

中宮寺の半跏思惟像が作られたのは7世紀後半。それ以前は、渡来人3世である止利仏師などを中心とした渡来人が仏像を作成していた。確か、止利仏師もそもそもは仏像を作っていたのではなく、急に言いつけられて試行錯誤して作ったんじゃなかったかな? 代表的な作品は法隆寺の釈迦三尊像。で、この頃になると日本人の仏師が現れ始めたそうで、中宮寺の半跏思惟像は日本人によって作られた最初の仏像だと言われているのだそう。

 

 

寄木造が盛んになるのは平安時代頃らしいので、この時代はまだ確立されていない。そんな中、親しみやすい姿=人間っぽい姿にするために、やわらかいフォルムを作り出したかったのではないか? そのためにパーツを分けて肘の角度や指の位置など調節したのではないか? ということらしい。誰が考えたんだろう? 一本の木から彫り出していた時代に、パーツに分ければいいんだと発想したことが素晴らしい 1400年くらい前なんだよね。ビックリするわ。 

 

 

お堂の内部が本来は極彩色であったこと、仏像も本来は金色であったこと、それらは極楽を現していることは知っていたけど由来は知らなかった! 釈迦が悟りを拓いて金色に輝いたからなのね

 

 

 

 

 


残っていた装身具をつけていたとみられる穴や、金箔、緑青などを分析し、推測したお姿が上の画像なのだそう。目は伏し目がちとはいえ開いておられるのね? 優しく美しいお姿だけど、やっぱり現在のお姿の方が宇宙的で好きだなぁ。

 

KIRIN~美の巨人たち~:毎週土曜 22:00~ テレビ東京

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:大覚寺」

2015-12-28 00:29:16 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:大覚寺」

大覚寺 門跡寺院 嵯峨天皇が后との新居として建立した嵯峨院

 

真言宗大覚寺派総本山大覚寺(旧嵯峨御所 大本山 大覚寺)は行ったことあったかな? もう何度も出てきているけど門跡寺院(Wikipedia)というのは皇族が住職を務めた寺のこと。大覚寺の建つ土地はそもそもは嵯峨天皇(Wikipedia)の離宮嵯峨院(嵯峨院(さがいん)とは|コトバンク)があった所。檀林皇后(Wikipedia)とのご成婚の新室だったのだそう。

 

勅使門 皇族が使う時以外は開かれない 宸殿 皇族が済んだ建物 江戸時代徳川まさこ(←漢字分からない)の住まいとして建立されたものを移築 セミの装飾 殺生しない生き物=清らかさの象徴 4つの部屋 牡丹の間33畳 狩野山楽の牡丹図 牡丹図の裏狩野山楽の紅白梅図


 

画像は勅使門。勅使(Wikipedia)というのは天皇の使い。その方々が通る門ということなのかな? 


とくがわまさこは徳川和子(Wikipedia)。漢字が出なくて焦っていたので、もう少し詳しく建物の由来について語っていたけど聞き逃し やっぱり聞き書きは難しい。屋根のを支える梁の部分に蝉の装飾があり、その意味としてはtweetどおりなのだけど、少し補足。蝉は羽化してから7日間の間樹液しか吸わないため、殺生しないということで清らかさの象徴なのだそう。





画像は狩野山楽(Wikipedia)の牡丹図。狩野派ビッグネームの1人だけど、さすがの筆致。3枚目は紅白梅図かな? 牡丹図の裏に紅白梅図が描かれていることには何か意味がありそうだけど、番組内では特に語ってはいなかった。


お堂回廊で繋がる うぐいす廊下 複雑な構造は侵入者を直進させないため 村雨の廊下 天井画低いのは刀や槍を振り回せないようにするため 皇室ゆかりの寺のため守りを万全に


うぐいす廊下(Wikipedia)というのは敵の侵入を防ぐため、歩くと軋んで音がなる構造の廊下。村雨の廊下というのは、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光に例えて呼んでいるのだそう。風情がある。

 

御影堂 4人の尊像安置 嵯峨天皇、弘法大師空海、後宇多天皇、親王の名前は書きとれず。・゜・(ノД`)・゜・。 嵯峨天皇直筆の般若心経が納められている お堂の名前は書きとれず 扉が開かれるのは60年に1度 次回は2018年


 

画像は御影堂。安置されている四尊者は、嵯峨天皇、弘法大師空海(Wikipedia)、後宇多天皇(Wikipedia)と恒寂法親王(Wikipedia)。



画像が嵯峨天皇の写経を収めた心経堂。番組ではもう少し長い名前だったのだけど・・・ 勅封心経殿が正式名称らしい。嵯峨天皇だけでなく、後光厳天皇後花園天皇後奈良天皇正親町天皇光格天皇の写経も収められているとのこと。

 

 

弘法大師空海 遣唐使 806年帰国 嵯峨天皇、空海を呼び寄せ親交を深める 唐文化を学ぶ 三筆 嵯峨天皇、空海、橘?(←書き取れず) 高野山を開くことを許可 疫病の流行 空海の勧めにより般若心経を書写 この時書写した般若心経が納められている


大覚寺は嵯峨天皇に由来し、皇族ゆかりのお寺だけど、弘法大師空海にも縁の深いお寺らしい。遣唐使(Wikipedia)として唐に渡った空海から、唐の文化を学ぼうと、嵯峨院に呼び親交を深めたのだそう。三筆(Wikipedia)の最後の1人は橘逸勢(Wikipedia)。嵯峨天皇が般若心経を書写した経緯について補足すると、当時疫病が大流行し、これに心を痛めた嵯峨天皇が、疫病の流行を止めたいと空海に相談したところ、般若心経の書写を勧められ、これを実行したところ治まったとのこと。勅封心経堂にはこの時の般若心経が納められている。


 

大沢の池 嵯峨天皇が船を浮かべ月をめでる 空海と共に船で語り合った 京都随一の月の名所 月をめでる宴が催される



画像は大沢の池。1200年前この池に船を浮かべて、嵯峨天皇と空海が語り合ったと思うとなんとも雅。お2人が眺めたのは中秋の名月(Wikipedia)。現在も、お2人と同じように船を浮かべて月を眺める「観月の夕べ」が毎年9月に行われているのだそう。 


五大堂 大覚寺の本堂 江戸時代に再建 本尊五大明王 明王=ヒンドゥー教の神々を取り込んだ密教独自の仏 煩悩を憤怒の表情で断ち切る 不動明王(Wikipedia)=大日如来(Wikipedia)の変化 降三世(Wikipedia)=阿閦如来如来(Wikipedia)の変化 軍荼利(Wikipedia)=宝生如来(Wikipedia)の変化 大威徳(Wikipedia)=阿弥陀如来(Wikipedia)の変化 金剛夜叉(Wikipedia)=不空成就如来(Wikipedia)の変化


五大明王(Wikipedia)は知ってたし、明王(Wikipedia)がヒンドゥー教の神々が起源であることも、不動明王が大日如来の変化であることは知っていたけど、他の明王がそれぞれ如来の変化であることは知らなかった!

 

般若心経 五蘊 色 受 想 行 誠 いろいろな思い込みを離れて平安な心境になる 写経=生きることの肯定→悟り 全てをあきらめる=悟り 諦める=物事の本質を見極める 最後の一行 仏への感謝 言霊 言葉の意味そのものではなく、音の響きそのものが重要 不動明王と般若心経空海大事


ここは般若心経(Wikipedia)についての説明で、自分としてもとっても興味のある部分だったのだけど、聞き書きが間に合わなかったのが残念過ぎる 諦めるというもは、そもそもは物事の本質を見極めるという意味だとはビックリ。


最後の一行というのは「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経」の部分のこと。般若心経はそもそもサンスクリット語を日本語に変換しているし、この部分は呪文のような感じ。なので、言葉の意味そのものではなく音の響きが重要であるということ。tweet最後の漢文みたいになっちゃっている部分については、空海が不動明王を信仰することと、般若心経を唱えることを大切にしていたということ。

 

塔頭寺院(Wikipedia) 祇王寺 平家物語ゆかりの寺 6体の尊像 本尊大日如来 平清盛、祇王、白拍子 清盛祇王を寵愛 白拍子仏御前に心移りし祇王は捨てられる 世をはかなみ出家21才 母と妹 仏御前も出家4人でむつまじく信仰に生き、往生したと言われている


 

祇王寺(祇王寺 京都奥嵯峨「平家物語」悲恋の尼寺)が祇王(Wikipedia)由来のお寺であることも、母と妹(祇女)と共に出家したこと、さらに仏御前(Wikipedia)も彼女の生末を見て世をはかなみ、後を追って出家し4人で暮らしたことも知ってた。でも、祇王が21歳だったとは知らなかった! 平清盛(Wikipedia)酷い・・(ll゜∀゜)

 

いけばな嵯峨御流 言葉にできない空海の真言密教を体で感じ取る 嵯峨天皇の草木に対する慈しみの心 11月境内は菊の花で彩られる 嵯峨菊 3輪→5輪→7輪の形に整える 花=春 緑=夏 紅葉=秋 枯葉=冬の四季を表す


嵯峨御流(いけばな嵯峨御流(さがごりゅう))という流派があることは知らなかった。風、水など6つの言葉を表すようにいけるそうなのだけど、書き取れなかった 



嵯峨菊(菊・嵯峨菊とは|植物図鑑 weblio辞書)というのも初め聞いた。美しい形。tweetについて補足すると、上から花を3輪、中の段を5輪、下を7輪と縁起のいい七五三の形に整えるそうで、花と葉で四季を表すように作れれば完璧らしいのだけど、なかなか枯葉を作るのが難しいのだそう。現在嵯峨菊を守っているのは嵯峨菊会の方々。

 

嵯峨天皇と弘法大師空海の思いが今も伝わる 1200年の思い 自然を愛し、恐ろしい姿を持ってしても人々を救いたい 現在を肯定する 優しい心


嵯峨天皇と空海の年齢差が分からないのだけど、お互い尊敬し合った関係だったのかなと思う。民を想う心は立場は違えど共通していたのかも。ありがたいことです。


そしてなんと、この番組今回をもって最終回ガ━━━(||゜ω゜||)━━━ン 毎回楽しみにしていたのに残念 いい番組だったのに・・・

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週日曜 22:00~@BSフジ

古都浪漫こころ寺巡り|BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:仁和寺」

2015-12-21 00:24:21 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:仁和寺」

仁和寺 きぬかけの路にある 仁王門 高さ19m 入母屋造りの門 京都三大門に数えられることもある 仁王門の先には広大な境内 東西280×南北約300 中門から先が伽藍の中心部 

 

 

仁和寺(世界遺産 総本山 仁和寺)は行ったことない。仁王門ってtweetしちゃってるけど、正しくは二王門。高さ19mは圧巻。入母屋造(Wikipedia)は東アジアの建築形式らしい。

 

金堂 江戸時代に京都御所から移築 紫宸殿だった建物 天皇家とゆかりが深い 蔀戸などかつての宮廷文化を伝える建築 本尊は阿弥陀三尊

 

 

何故、御所の紫宸殿(Wikipedia)が移築されることになったのかは、下の方に出てくる。仁和寺は門跡寺院であった。門跡寺院(Wikipedia)というのは、皇族や貴族が住職を務める寺院のこと。蔀戸(蔀戸(しとみど)とは|コトバンク)は、画像にも映っている格子状の窓のようなもの。

 

光孝天皇 両親を弔うため、愛する双ヶ丘(Wikipedia)に寺の建立を志すも、道半ばで死去 第七皇子宇多天皇遺志を継ぐ 888年(仁和四年)金堂が完成 創建当時の本尊も阿弥陀三尊 平安時代の作 国宝 定印を結ぶ姿は現存する阿弥陀如来像では最古 勢至菩薩、観音菩薩の配置は逆

 

要するに、両親を弔うために光孝天皇(Wikipedia)が寺の建立を志し、その光孝天皇を弔うために宇多天皇(Wikipedia)が仁和寺を完成させることとなったってことだよね。この宇多天皇ってたしか猫が大好きだったんじゃなかったっけ? やっぱりそうだ!(【平安時代の】宇多天皇が猫好き過ぎてヤバイ【猫ブログ】|NAVERまとめ) 平成のネット社会ではネコ好きとして有名になってしまった宇多天皇だけど、本来は仁和寺を完成したことで有名だったらしい(笑) 

 

このtweetだとちょっと分かりにくいけど、金堂の本尊も阿弥陀三尊だけど、これは再建後に造られたもので、創建当時の本尊阿弥陀三尊像は別に安置されているってことだったような・・・ この阿弥陀三尊は国宝で、定印(印相|Wikipedia)を結んだ形の像は、現存する阿弥陀如来としては最古とのこと。勢至、観音菩薩の配置が何故逆なのかは言及がなかったので不明

 

仁和寺完成後、31歳で退位 仁和寺は日本で初めて門跡寺院となった

 

補足すると、31歳で退位した宇多天皇が、仁和寺に住まわれたことから、仁和寺は日本で初めての門跡寺院となったということらしい。Wikipediaによりますと、出家後に東寺で受戒し、仁和寺で法皇となったとのこと。

 

御影堂 御影=位の高い人 空海 仏教は皆仏になれるという教え 仏になる方法が違う 座禅を組む、真言を唱えるなど 仏様と一緒になる=即身成仏

 

 

御影堂(御影堂(ミエイドウ)とは|コトバンク)は、開山、宗祖などの御影を祀るお堂のことだそうで、御影(Wikipedia)についてはもう少し違う言い方をしていたような・・・ でもWikipediaによると神仏、貴人の像となっているから意味的には合ってる? 仁和寺で言うところの御影とは弘法大師空海(Wikipedia)のことなのだそう。空海は入定(Wikipedia)して即身成仏となったため、現在でも生きていると考えられていて、高野山では毎日食事を届けているんだよね? ただ、ここでいう即身成仏というのは、仏になるという意味らしい。

 

平安後期 東西8km×南北4kmの大伽藍 「仁和寺にある法師」など、徒然草にしばしば登場する 栄華を極めた仁和寺だが、室町時代に受難の時を迎える

 

東西8km×南北4kmは広大!(*`ロ´ノ)ノ 「仁和寺にありける法師」は習った覚えがあるけど、徒然草(Wikipedia)だったのか 

 

応仁の乱で一面の焼け野原となってしまう 庶民の寺ではなく、門跡寺院だったため、資金不足で復興のめどが立たない 江戸時代寛永年間になってから復興の兆し 天皇の願いを徳川家光が受け入れ、資金援助をする 御所の紫宸殿を移築するなど、伽藍を整える

 

室町時代の受難とは応仁の乱(Wikipedia)のこと。10年間続いたこの内乱により、京都は焼け野原となった。もちろん仁和寺も。仁和寺は門跡寺院だったため、庶民とは距離があった。庶民の寺であれば、寄付金なども集まるけれど、そうではなかったため資金繰りが上手く行かず復興できずにいた。ちょっと聞き逃してしまったので、誰が復興を志し、徳川家光(Wikipedia)に申し出たのか不明。テレビ画面には○○天皇と書かれていたので、当時の住職が天皇に願い出たのかな? 番組では家光がこれを受け入れて、資金援助した理由も語っていたのだけど、これも聞き逃し

 

御所の紫宸殿を移築したのは、Wikipediaによると御所を改築していたかららしい。紫宸殿だけではなく、清涼殿なども下賜されたとのこと。後のtweetに出て来るけど、日本建築は全てバラすことが出来、結構御所の建物を移築したりしていたらしい?

  

五重塔も再建される 大日如来を表す梵字 真言密教の中心となる仏


 

徳川家光の資金援助により、伽藍整備がされた。その一環として五重塔も再建された。この五重塔の建築様式は、技術が発展した江戸時代の特徴を備えているのだそう。

 

観音堂 本尊千手観音菩薩 200年前後で修理されるのが通常だが、370年経ってはじめて修復されている 日本建築は全てバラすことが出来る 移築などが多いため 設計図がないため、当時の大工が残した番付をもとに作業をして行く 370年前の流行歌などの落書きも見つかる

 

 

ということで、現在観音堂の修復作業が行われているということ。通常このようなお堂は200年前後で修復されているらしい。そう考えると370年というのはかなり長いね。370年前の落書きが見つかるなんて、なんだかとってもロマンチック 番組内で紹介された落書きは、お伊勢参りが流行っていた時の歌だった。

 

番付をGoogle先生に聞くと、大相撲の番付ばかり出て来てしまうのだけど、要するに柱の組み合わせなどに番号がふられているってことだったような・・・ もちろん、現在の大工さん達も後の世の大工さん達のために番付を記入しているのだそう。

 

仁和寺は桜の名所 130本御室桜と呼ばれる 遅咲きの桜 今日の桜の見納め 2~3mと低い 粘土質の土壌のため、酸素不足で背が伸びない? 江戸時代から親しまれる 門跡寺院でありながら庶民にも開かれていた?

 

 

画像が御室桜。たしかに背が低い。背が低い理由はtweetどおり。見納めについて補足すると、遅咲きのため京都の花見の見納めということらしい。

 

仁王門を入って直ぐ左の御殿と呼ばれるエリアは、皇族が暮らす場所だったため、庶民は立ち入り禁止だった いくつもの建物が入り組んだ渡り廊下でつながっている 白書院 対面所 京都御所の左近の桜、右近の橘にならう 白書院 上段、中段、下段に分かれている

 

白書院(白書院(シロショイン)とは|コトバンク)の説明として、対面所と言っていたような・・・あれ?(o゜ェ゜o) 左近の桜、右近の橘については、白書院前の庭に御所にならって植えてあるということ。

 

シルクロードを通って日本に入った様々な文化や物を、日本流にアレンジしてしまう 全てを取り込んでしまうのが日本人なのではないか?

 

これはご住職のお言葉。もう少し違う言い方をされていたのだけど、正確な言葉は覚えていない。主旨としては合っていると思う。そして自分もそう思う。

 

薬師如来坐像 10.7cm 国宝としては最も小さい 御殿の建物はほとんどが明治、大正時代に再建 唯一江戸時代に移築されたまま残るのが茶室 尾形光琳の自邸を移したもの? 尾形光琳、尾形乾山、野々村仁清など仁和寺門前に居を構え、その才能を開花させた

 

茶室のことについては正式名称を言っていたのだけど聞き逃し 尾形光琳の自邸を移したものなのもビックリしたけど、尾形光琳(Wikipedia)や尾形乾山(Wikipedia)、野々村仁清(Wikipedia)が仁和寺門前い居を構えていたとは知らなかった江戸時代には仁和寺周辺は芸術の発信地だったのね

 

華道 御室流 京都御所の一般公開時に奉納される 体、相、用を表す

  

御室流(いけばな 御室流 華道 総司庁)のいけばなの形として、体・相・用を表すようにいけるということだったのだけど、ちょっと良く分からなかった(o´ェ`o)ゞ

 

毎月21日 弘法大師空海の縁日 空海が3月21日に入定したことにちなむ 即身成仏=この身このまま仏になることを祈る


空海は835年3月21日に入定したそうで、それにちなみ毎月21日に縁日が開かれているらしい。即身成仏になることを祈る縁日ということなのかな? 即身成仏というとどうしてもミイラ化したあのお姿を思い出してしまうのだけど、そういうことではなく、そのまま仏になるということなのかな? ちょっと難しい


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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:飛鳥寺・元興寺」

2015-12-06 22:01:33 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:飛鳥寺・元興寺」

飛鳥寺

飛鳥寺 蘇我馬子ゆかりの寺 国に管理された官寺となった


 

今回のお寺は飛鳥寺(Wikipedia)と元興寺。もとは1つのお寺だった? 元興寺は行ったことあるし、飛鳥寺も飛鳥大仏のお寺として知っていたけど、2つのお寺にそんなゆかりがあったとは しかも蘇我馬子(Wikipedia)の発願で建てられたとは!! 国に管理される寺のことを官寺(Wikipedia)というのは知らなかった。

 

1400年前 飛鳥に都がおかれていた 蘇我馬子は仏教を日本に広めようとしていた 物部氏はこれに反対 丁未の変に発展 6世紀後半蘇我氏の勝利で終わる 20年間蘇我氏が権力を握るが、大化の改新で衰退

 

蘇我入鹿(Wikipedia)のイメージが強くて、蘇我氏というと悪役な感じがしてしまうのだけど、蘇我馬子は日本に仏教を広めようとしていたのね? まぁ、これも考え方の違いで、渡来文化が日本にとって良いと思わない人々もいたわけで、その代表が物部氏(Wikipedia)ということになるらしい。

 

丁未の変(Wikipedia)のことは習ったのかもしれないけど覚えてなかった でも、この蘇我氏と物部氏に代表される仏教推進派と反対派の呼称には覚えがあったのだけど、書き忘れたため失念 もうホントに頭に入ってこないなぁ(´・ω・`)

 

飛鳥寺は仏教の中心であったため、蘇我氏が滅びた後でも朝廷の庇護を受けた 平城京へ都が遷ると、飛鳥に残す寺と、平城京へ移る寺と別れた 残す方を元元興寺、移す方を元興寺とした

 

ということで、飛鳥寺を残す方と移す方に分けたということで、飛鳥寺と元興寺が生まれたということかな? そもそも、現在は飛鳥寺となっているけれど、創建時は法興寺というお寺だったそうで、飛鳥寺というのは地名から来る呼び名だったらしい。

 

588年飛鳥寺建設開始 日本初の本格的寺院 仏教が百済から伝来し約50年 596年飛鳥寺建立 飛鳥≒朝鮮語のアンスク? 五重塔と3つの金堂を持つ飛鳥式伽藍 瓦ぶき第一号 百済様式 大火などで伽藍の多くを焼失

 

 

3つの金堂と書いているけど、お堂の聞き間違えな気がする 仏教が伝来してから50年後にようやく本格的なお堂が建った背景には、やはりそれだけ浸透するのに時間がかかったということなのでしょうかね・・・ 奈良のお寺は現在では小さなお寺でも、もとは大伽藍であったことが多いけれど、権力者蘇我馬子の発願であったならば、間違いなく大伽藍だったのでしょう。日本初の瓦葺きなど力が入っていて、蘇我馬子の熱意が伝わって来る。

 

本尊 釈迦如来坐像 飛鳥時代 現存する日本最古の仏像 飛鳥大仏 鞍作とり←漢字出ない! 高い鼻、アーモンド形の目は日本に仏像が伝来した当時の姿 花会式には本堂の扉が開き、人々の前に姿を現す

 

 

飛鳥大仏は撮影OKだった気がする。本当に珍しいこと。鞍作とりは鞍作止利(Wikipedia)で、日本で初めて仏像を造った止利仏師のこと。この方の代表作は法隆寺の釈迦三尊像。アーモンド形の目が特徴。丸くぽっちゃりした平安型、写実的な鎌倉型と比べると、かなりエキゾチック。でも、いいお顔をされている。

 

八雲琴を復活させようとした うほう住職←漢字分からない

 

山本雨寶住職 八雲琴は飛鳥市の無形文化財

 

山本雨寶住職についてはWikipediaなどはなかったので詳しいことは分からないのだけど、この方は昭和のご住職。飛鳥寺が荒廃していることを憂い、八雲琴(八雲琴とは -国指定文化財等データベース weblio辞書)の復興に尽力されたとのことで、これは現在飛鳥市の無形文化財となっているとのこと。

 

四月 飛鳥寺 花会式 飛鳥大仏が姿を現す 4月8日釈迦誕生 釈迦が生まれた時、龍が甘露な雨を降らせ誕生を祝ったという言い伝えから、誕生仏に甘茶をかける 八雲琴を奉納する

 

飛鳥大仏のtweetでチラリと書いていたけど、4月8日のお釈迦様の誕生日に営まれる花会式では、本堂の扉が開き、釈迦如来坐像のお姿を境内から拝見することが出来る。甘茶をかける風習も、甘い雨が降ったからだという由来も知っていたけど、龍が降らせたとは知らなかった!

 

元興寺

元興寺 蘇我馬子と聖徳太子を起源とする 平城京遷都の際、飛鳥寺から移された 仏法の元祖を表す 南都七大寺の1つ ならまち一帯は元興寺の敷地内 創建時は国から手厚く守られてた


ということで、平城京遷都の際に都に移す方の飛鳥寺として建立されたのが元興寺(元興寺あんない・みどころ・歴史・行事・アクセス|元興寺公式サイト)ということなのね? そういう理由であればもちろん大伽藍であったのでしょう。大好きなならまちは、細い路地に町家が並ぶ一帯で、今ではその中にこじんまりと佇む元興寺。ちょっと感慨深い。

 

南都七大寺(Wikipedia)を調べてみたら、東大寺・興福寺・西大寺・薬師寺・大安寺・法隆寺と大寺院ばかり。自分の中の印象ではあの元興寺が?と思うけれど、そもそもの起源を考えればそうなのでしょうし、当時の伽藍の大きさもしのばれる。

 

禅室 学僧が多く学ぶ もとは飛鳥の飛鳥寺にあったものを移築 丸瓦=行基葺き 日本最古の瓦 平安時代後期朝廷の力の衰えとともに元興寺も衰退 明治時代に真言律宗にもとづく西大寺の末寺となった


 

行基葺き(行基葺き(ギョウキブキ)とは|コトバンク)のことは全く知らなったけど、あの行基(Wikipedia)に由来しているということだよね? 番組内ではその理由も言っていたのだけど聞き逃し 

 

 日本最古の飛鳥時代の瓦

 

行基葺き 

 

元興寺はその起こりから特定の宗派に属していなかったそうだけれど、時代の流れと共に衰退し、明治時代に真言律宗の寺となり、西大寺の末寺になったということらしい。

 

庶民信仰の寺 智光法師奈良時代の学僧 浄土教=阿弥陀仏の浄土に往生することを説く教え 智光曼荼羅 原本は焼失江戸時代に描かれたもの 曼荼羅=仏の境地、悟りの世界 浄土変相図 浄土三曼荼羅の内、最も古い曼荼羅

 

智光法師についてはWikipediaなどがなかったので詳しくは分からない ここで重要なのは智光曼荼羅(Wikipedia) その描き方に特徴があり、それが智光法師の思いを伝えていたのだけど、聞き逃し・・・ ゴメンネ・゜・(PД`q。)・゜・

 

浄土三曼荼羅(Wikipedia)は、當麻曼荼羅・智光曼荼羅・清海曼荼羅のことで、智光曼荼羅が一番古いのだそう。

 

平安時代 庶民の間で浄土信仰が高まる 社会情勢の不安定、疫病の蔓延によるもの 元興寺=浄土信仰の寺として庶民の信仰を集める

 

平安時代に浄土信仰(Wikipedia)が高まったことと、その理由についてはたびたび出て来るので割愛。っていうかtweetどおり(笑)

 

元興神 元興寺にのみ納めるお菓子

 

番組内では毎回お寺にゆかりの食べ物や土産物などが紹介される。自分の書いておきたい内容とは主旨が違うのでいつも割愛しているのだけど、今回は由来がおもしろかったのでtweetしておいた。のだけど・・・ ちゃんと聞いていなかったのでお店の名前も、由来も書き留められなかった 後で調べてみようと思ったのに、出てこない・・・ どうやら節分に食べるらしい?

 

収蔵庫 寺宝 五重小塔 光明皇后の発願で奈良時代に造られた 奈良時代の仏教建築を伝える国宝 阿弥陀如来像 平安時代作 智光法師が身に着けた袈裟も

 

 

この五重小塔は見たことある! 本当に精工に造られていて、分解して持ち運びができるんじゃなかったかな? 分解して持ち運び、五重塔の作り方を伝える目的で造られたのではないか?ってことじゃなかったっけ? あれでも、光明皇后の発願なら違うか? 別の小塔と勘違いしてるかな?

 

三月春分の日 彼岸法要が行われる 彼岸=悟りの世界 春分の日と秋分の日を合わせた彼岸の期間によい行いをすると浄土へ行けると考えられてる

 

この彼岸(Wikipedia)の考え方というか、春分の日と秋分の日を合わせた彼岸の期間という意味が分からなかったのだけど、要するに春の彼岸と、秋の彼岸の間に善い行いをすればいいということ? 彼岸と彼岸の間の数月にすればいいということ? 前者のようなきがするけれど??ント・・σ( ・´_`・ )。oO(悩)

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週日曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:赤山禅院」

2015-11-30 00:28:40 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:赤山禅院」

修学院 皇族などの離宮が多く並ぶ 比叡山を借景する離宮が多い

 

赤山禅院 神仏習合を色濃く残す寺院 お堂ではなく拝殿 神鏡が掛けられる 神に拝する前に心を整える


今回のお寺は赤山禅院(皇城表鬼門 比叡山延暦寺 赤山禅院)。神仏習合(Wikipedia)というのは、ザックリ言うと日本古来の神道と仏教が1つになった形ということ。拝殿(拝殿(はいでん)とは|コトバンク)というのは、ご神体を参拝する場所ということで、これは神道ということかな? 神鏡(Wikipedia)んはそんな意味があるのね?

 

本殿前に大きな2つの数珠をくぐる 全て拝観すると15分 願いが本当に必要なのか?考える時間


 

写真は1つ目の数珠かな? 2つ目は還念珠というらしいのだけど? この還念珠をくぐる際に、本当にその願いが必要なのかを考えるということだったような? 15分間でその考えをまとめるというようなことだったような? PCが強制的に再起動されてしまったため、iPhoneで投稿してたので、いつも以上に聞き書きできず

 

本尊は泰山府君=人の寿命を司る 日本で神仏習合 神仏習合させたのは慈覚大師円仁 15歳比叡山で最澄に師事 唐へ渡る 三武一宗の法事と呼ばれる仏教受難の時代 円仁に帰国命令 船が押し戻される→運命?→蜜入獄 命懸けで天台の教えを伝えたい 赤山大明神に誓い


泰山府君(Wikipedia)というのはザックリ言うと中国の神。日本で神仏習合し、十王(Wikipedia)のうちの太山王となる。神仏習合させたのは慈覚大師円仁(Wikipedia)。円仁が唐に渡った時、唐の主流は道教(Wikipedia)で仏教は受難の時代だった。tweetでは法事って書いちゃってるけど、正しくは三武一宗の法難(Wikipedia)。そのような背景もあり、円仁に帰国命令が出て、一度は船に乗るも押し戻されたことから、これを運命と受け止めて、命がけで密入国した。この時、赤山法華院で学んだことから、帰国後赤山法華院を建立することを誓ったということらしい。

 

9年半でマスター 仏典などを日本に持ち帰る 誓いどおり赤山法華院を建てた 懸仏には梵字のか=仏 泰山府君は神だが仏であるという意味


9年半で日本に帰って赤山法華院を建てたのはもちろん円仁。tweetちょっと分かりずらいけど、懸仏(懸(け)仏/掛(け)仏(カケボトケ)とは|コトバンク)に梵字(Wikipedia)の"カ"が書かれており、これは仏を表す文字だそうで、要するに泰山府君は仏でもあるという意味なのだそう。

 

十王の内の7番め 生まれ変わった際の性別を決める

 

十王も地蔵菩薩の化身と考える 様々な姿で表される=人々の悩みが多い


十王については前述のWikipediaを参照して頂くとして、要するに泰山府君は神仏習合して十王の7番目の太山王となり、その仕事は性別を決めるということらしい。十王の閻魔王を地蔵菩薩の化身とするのが主流だけど、赤山禅院では十王全てを化身と考えるそうで、十王が様々な姿で現されるということは、それだけ人々の悩みが多いことの表れではないか?ということだったような?←ちょっと怪しい

 

福禄寿=泰山府君 七福神は日本独特の考え方 布袋、寿老人、福禄寿は中国 毘沙門天、大黒天、弁財天はインドの神 恵比寿は日本の神 江戸時代に七福神詣りが流行った 都七福神詣りは日本最古の七福神めぐり

 

福禄寿のご真言 ソワカ=願いをかなえて下さい 福禄寿のご利益 幸福、高禄、? →泰山府君と同一視

 

七福神(Wikipedia)という考え方は日本独自のものなのね? 中国の神とインドの神、そして日本古来の神を合わせて七福神として祀り、それぞれをめぐる七福神詣でを考えちゃうところが日本的な気がする。変におおらかで合理的なところ(笑) 


福禄寿のご真言はもちろんもっと長いのだけど、そのしめくくりとして"ソワカ"と念じるのは、願いをかなえて欲しいという意味なのだそう! 福禄寿のご利益は幸福、高禄、長寿で"福禄寿"の文字が入っているのね? このご利益が同じなため泰山府君と同一視されたのではないか?とのこと。

  

都七福神めぐりは現在も行われているらしい! 京都観光ポータイルサイト -e京都ネット|都七福神めぐり

 

赤山禅院は皇室にも大きな意味 皇城表鬼門の寺 御所の鬼門=邪悪なものから守る寺 794年平安京は方角を重視して造られた 陰陽道に基づく 中国の陰陽五行をもとに、日本の天文学などを結び付けた 北と西=陰 南と東=陽 御所の鬼門に地獄の鬼も従える泰山府君を祀った


要するに赤山禅院は御所の鬼門に建てられたということで、それらは陰陽道(Wikipedia)に基づいた平安京によるものであるということ。地獄の鬼を従えるというのは、要するに泰山府君が太山王であるからってことだよね? 

 

泰山府君と共に猿を祀る 本殿の屋根の上にも去る 神=ネ+申 異変があれば猿が知らせる 比叡山の東 日吉大社にも猿 一番奥の鬼門 猿を祀り結界を張った

 

 

猿を祀った理由がネ+申で神となるからというのはおもしろい! 鬼門に猿を祀ることで結界(Wikipedia)を張っていたというのもおもしろい! お寺にはそういう役目もあるのね? お寺に行くと結界と感じるのはそのせいなのか?

 

 

山全体を境内とする比叡山延暦寺 その麓にある赤山禅院 本尊不動明王 お前立も不動明王 別名きらら不動尊 きらら=雲母 きらら坂、きらら橋、きらら寺跡など"きらら"が多い きらら寺は赤山禅院と同時代に建てられた 現在は不動堂となっている きらら寺の相応 千日回峰行始める


 

画像は不動堂。たしかここにきらら不動尊がおられるハズ。きららって書くとなんだかキラキラネームみたいだけど、雲母(Wikipedia)ということなのね?  要するに比叡山には"きらら"とつく場所が多いということで、きらら寺が重要ということ。相応(Wikipedia)というのは、きらら寺にいらした方で、苦行中の苦行と呼ばれる千日回峰行の祖。

 

千日回峰行 7年間で通算千日比叡山をめぐる "行ならずば、死あるのみ" 行を中断する場合は自刃する 回峰地獄 北嶺 大行満 大阿闍梨と呼ばれる 発心即答 全ての存在に仏を感じ歩き続ける 自利行と利他行 堂入り 堂入り前に大勢の僧と食事 生前葬 相応が開いたお堂に篭もる


 

堂入り後、赤山禅院が回峰行に加わる 利他行×→化他行○ 7年間で約4万キロ=地球一周分を踏破 大阿闍梨による供養


千日回峰行(千日回峰行|比叡山延暦寺 皇城裏鬼門 赤山禅院)については以前書いた気もするのだけど改めて書いておく。トータル7年に及ぶ苦行。1~3年目は1日30キロを100日、4~5年目は1日30キロを200日定められた260以上の箇所で経を唱えながら歩く。700日満行すると9日間断食、断水、不眠、不臥で不動真言を10万回唱え続ける堂入りを行う。6年目は1日60キロを100日。これを赤山苦行と呼ぶ。7年目は1日60キロを200日。前半は京都大廻りと呼ばれ84キロ。最後の100日は30キロを歩き満行となる。


千日回峰行は中断する者は自刃しなければならないと言われていたそうで、短刀を持って行う。満行すると北嶺 大行満 大阿闍梨と呼ばれるのだそう。堂入り前を自利行、堂入り後を化他行と言うのだったと思う。ちょっと区切りがあやしい・・・ 4年目以降だった気も? 要するに行の途中から意味が変わるということ。


7年間で回峰するのは約4万キロで地球一周分になるのだそう! これは本当にスゴイ!! しかも赤山禅院の住職はこの千日回峰行を満行した方がつかれるのね

 

実際に満行された大阿闍梨のお姿に感動して涙が止まらない


ということは、ご出演されていた大阿闍梨は赤山禅院のご住職なのかな? 2つ前のtweetの発心即答というのは、ご自身が千日回峰行を行えるか迷っていらした際に、ある大阿闍梨のこの言葉に触れ、決意されたということだった。意味は思い立った時点でそれが答えたというような意味だったと思う。


千日回峰行の説明の際、この大阿闍梨のお言葉や実際に行を行われた際の映像が流された。回峰されている時も感動したけれど、やはり堂入りから出てこられた際の映像を見た際には、ちょっと声を出して泣いてしまった。なんという神々しいお姿。穏やかな中にも強いものを感じるお姿とお言葉に涙が止まらなかった ありがたい。

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:萬福寺」

2015-11-22 23:54:24 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:萬福寺」

 

黄檗山 萬福寺 開祖隠元和尚 中国福建省出身 28歳で出家し黄檗山萬福寺へ入る 35歳で萬福寺に戻り最高位となる 長崎の寺からの来日依頼 63歳で弟子を連れて来日 宇治川を渡っていた時、2羽の鶴が舞い降り、縁起がよいということで、この地に寺を開く 隠元橋となる


 

今回のお寺は黄檗山萬福寺(黄檗山萬福寺 -Official site)。隠元和尚とtweetしちゃってるけど、正しくは隠元禅師(Wikipedia)。まぁ、間違いではないと思うけど、要するに禅宗ということだよね? 黄檗山(黄檗山(オウバクサン)とは|コトバンク)って、須弥山みたいに空想上の山なのかと思っていたら、福建省にある山なのね この黄檗山の萬福寺で修行された後、来日された隠元禅師は宇治に黄檗山萬福寺を開くことになったと。なるほど!


そうそう! 隠元橋となるというのは、この時隠元禅師が渡っていた橋が、その後隠元橋という名前になったということ。

 

萬福寺は中国様式の大伽藍 山門の屋根にはマカラ←漢字出ない 門を入ると回廊→魔物は真っ直ぐにしか進めないことから 天王殿には太鼓腹の像 布袋として信仰されているが、実際は明に実在した僧で弥勒菩薩の生まれ変わりと言われている


 

このお姿はかなりのインパクト! まさか実在の僧がモデルとは(*`ロ´ノ)ノ しかも、弥勒菩薩の生まれ変わりと言われているのね? 弥勒菩薩は釈迦入滅後56億7000万年後に下生するのでは まぁいいか(笑)

 

マカラがどういう字だったか分からなくなってしまったのだけど、いわゆる鴟尾の位置に魚のようなものが乗っていたので、摩伽羅魚(Wikipedia)のことかな?

 

天王殿の布袋坐像の四方には四天王 穏やかな日本の仏像では物足りず、中国人の仏師に掘らせた荒々しい姿 韋駄天が美しい


補足しておくと、穏やかな仏像が物足りないと感じたのは、禅宗の厳しい修行に対して物足りないということだそう。単純に物足りなさを感じたわけではないと思う。

 

本尊 釈迦如来 脇侍阿難尊者 十八羅漢が並ぶ ラゴラ尊者←漢字出ない 腹に仏の顔 人間はだれでも腹に仏を宿している



釈迦如来には十六羅漢が配置されることが多いのだけど、萬福寺では十八羅漢(阿羅漢|Wikipedia)が配置されているとのこと。羅睺羅尊者(Wikipedia)は自身のお腹を引き裂くようなポーズで、仏の顔をのぞかせている方。これはtweetにもあるとおり、誰でも心の中に仏を持っているということを表しているのだそう。

 

不立文字 釈迦の悟りは文字では表せない。座禅などで体得するしか悟りの境地にはたどり着けない


不立文字(Wikipedia)って何度も出て来るけど、そういう意味なのね? 毎回Wikipediaのリンク貼ってる気がするけど、読んでなくて(o´ェ`o)ゞエヘヘ

 

黄檗宗は念仏宗 開かん(←木魚の前身)など、さまざまな鳴り物で行動の区切りを知らせる



これ開かんってtweetしちゃってるけど、どうやら開梆(かいばん)らしい? 魚の形をした鳴り物のことを魚梆というそうで、意味としてはコチラ魚梆(ぎょほう)とは|コトバンク これカワイイ

 

法堂 禅寺においてもっとも重要なお堂 勾欄は卍崩し もっとも中国らしさを感じられるお堂


 

この形を卍崩しというらしい。言われてみれば卍に見えなくもないけど、言われなければ分からないかも 

 

隠元禅師が伝えたもの インゲン豆=隠元が日本に持ち込んだことから名づけられた レンコン、すいか、煎茶も隠元が持ち込む フォントの明朝体も黄檗文化によるもの 一切経=仏教各宗派で使われているお経は、この中に含まれている←民間の一僧侶が成し遂げた


インゲン豆が隠元禅師に由来していることは知っていたし、以前同番組で煎茶を日本にもたらしたのも隠元禅師であることを紹介していたので知っていた。でも、レンコンとスイカも持ち込まれたとは知らなかった。レンコンもスイカも好きなので、隠元禅師に感謝(笑)

 

フォントの明朝体って確かに"明朝"って言ってるものね! その件については以下に出て来るけれど、それには一切経(一切経(イッサイキョウ)とは|コトバンク)の布教につとめた人物が重要! 一切経についてザックリ説明するとtweetのようになるらしい?

 

鉄眼禅師 一切経布教のため版木を作るため全国行脚 隠元禅師が協力 自分の持っている一切経を与え、版木を彫る場所も提供した 鉄眼禅師は版木6万枚を完成させた 2つ折りにすると冊子となる形式は、原稿用紙の元になっている 明朝体もこの版木が元


一切経にとって重要な人物が鉄眼禅師(Wikipedia)。そもそもは黄檗宗の僧。聞き書きなので漏れている部分もあるかと思うけれど、要するに一切経の経典を作ろうと考え、その版木を作るため全国行脚を行っている時、隠元禅師と出会い多大なる協力を得ることになったということだよね? 6万枚の版木を完成させた鉄眼禅師はもちろん素晴らしいのだけど、隠元禅師の助けがあってことだと思うので、本当に徳の高い方なのだな。


で、この時彫られた版木が原稿用紙の元になっていて、この時の字体が明朝体の元になっているのだそう! ますますスゴイ

 

彫師、摺師が版木製作によって養成された=印刷技術の向上と普及


さらに、6万枚の版木作成に関わった、彫師や摺師たちが育成されたというのも、日本にとって大きな成果。

 

普茶料理 普茶=大勢の人に振る舞う 大勢が1つのお皿から取り分ける形式は、各々膳で食べていた日本人にとってカルチャーショックだった? 修行の年数に関係なく、分け合って食べる 法要の際に供えた野菜などを余すところなく食べる=普茶料理


普茶料理(Wikipedia)って台湾で食べた気がするけど、精進料理ってことだよね? 豆腐を鰻の蒲焼に見立てたりっていうのは、普茶料理から来ているのね? 日本の精進料理って膳に載っている印象だけど、いわゆるテーブルを囲んで大皿から食べるのが特徴なのだそう。台湾で食べた普茶料理は1膳になっていたけど・・・ まぁ、お店に食べに行ったからか?(笑)

 

毎年10月中旬に行われる法会≒盂蘭盆会 紙でできた家が並ぶ 1日3食と、霊があの世で困らないように、紙で作ったお札も供えられる 厄払いの獅子踊りも行われる 子供は獅子に頭を噛まれると厄除けになる

 

滅罪焼却 法会の締めくくり =お焚き上げ 魑魅魍魎まで供養する


毎年10月中旬に行われているのは普度勝会と言うらしい。滅罪焼却までが一連の流れで、その間には法会とか禅問答なども行われる。禅問答や法会はそうでもなかったけれど、紙でできた家(名前があったけど聞き逃し)などはかなり中国的。獅子舞もいわゆる中華街などで見られる感じで、とっても中華風。


萬福寺がUPした普度勝会の動画があったのでドゥゾ♪(っ'ω')っ))


普度勝会

 

人は必ず死ぬ 人のレベルでは100年は長生きだが、もっと大きなレベルから見れば一瞬である そのことを知るべきで、全ての瞬間を大切に生きることが大切

 

隠元禅師がもたらした黄檗文化は、萬福寺を通して、武家、庶民にまで広がって行く。萬福寺は文化の一大発信地だった。


この2つのtweet分については、本当に心にしみてきた! 頑張って生きて行こう(๑•̀ㅂ•́)و✧

  

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:奥びわ湖 観音の里」

2015-11-08 23:52:51 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:奥びわ湖 観音の里」 

石道寺:100年近く住職不在 村人が管理 厨子に納められた観音菩薩 井上靖が愛した仏 「星と祭」に登場 十一面観音菩薩立像 平安時代 重文 衣に赤の彩色が残る 173cm 現世での利益をもたらす仏 重一面は人々を導く おちょぼ口に紅、年輪が乳房のように見える 女性的


 

井上靖(Wikipedia)が愛し、その著書「星と祭」で美しい仏であると記載した十一面観音菩薩(Wikipedia) これは本当に女性的で美しい。観音様は中性的に表されることが多いけれど、この方はかなり女性的。番組内でも触れていたけれど、乳房の感じは確信的に作られていると思う。

 

かつては1kmほど奥に建っていた 大伽藍 明治時代川の氾濫で寺の多くが失われ、住職も去り廃墟となる 49戸の集落 村人たちが協力して管理


石道寺(Wikipedia)が住職不在の寺となった経緯はtweetどおり。現在も村人たちによって管理されている。

 

医王寺:住職のいない寺 村の20戸あまりの世帯が管理 厨子内本尊十一面観音菩薩立像 女性的 井上靖「星と祭」の構想を練る 明治時代に栄観和尚が古物商から買い取った 奥びわ湖のどこかに祀られていた? 明治の廃仏毀釈により古物商に売り渡された? 重文



医王寺(Wikipedia)というのは全国にたくさんあるらしい。今回紹介された寺は近畿地方の項目にあるお寺かな? 本尊の十一面観音についての記載があるけれど、なんとこの十一面観音様古物商によって売られていたのだそう! ビックリ(*`ロ´ノ)ノ この方も体のラインが美しい仏様。ありがとう、栄観和尚!

 

奥びわ湖120体の観音菩薩像があり、観音の里と呼ばれる その多くが十一面観音菩薩 地理的な理由 京都奈良、東北などに続く街道沿い 白山信仰=十一面観音菩薩信仰 比叡山延暦寺の天台宗 →己高山仏教文化


己高山仏教文化についてはWikipediaなどが見つからなかったのだけど、要するにかつてこの地は交通の要所であり、京都や奈良からの仏教文化と、東北の白山信仰(Wikipedia)や、比叡山延暦寺(天台宗総本山 比叡山延暦寺[Hieizan Enryakuji])からの影響もあり、仏教文化が栄えたということらしい。十一面観音が多いのは白山信仰によるものということなのかな?

 

鶏足寺:奈良時代行基が開き、平安時代最澄により再興。現在は石段のみが残る 己高閣に仏像安置


 

鶏足寺(鶏足寺(旧飯福寺)|長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト)は行基が開いて最澄が再興したと由緒正しいお寺。きっとかなりの大伽藍だったに違いないけれど、現在はお堂などはない。検索してみたところ、どうやら紅葉の名所らしい(笑) 

 

己高閣:魚籃観音(旧戸岩寺) 空海が唐から持ち帰り最澄に寄贈したと言われている


 

己高閣(己高閣・世代閣|滋賀県観光情報)というのは、奥びわ湖の地の行くあてのない仏たちを祀るために建てられた。さまざまな仏が安置されているが、中でも個性的なのが魚籃観音(Wikipedia)で、その中国的な姿から、tweetのように言われているのだそう。

 

奥びわ湖の仏教文化はかなり栄えていた。戦国時代、織田信長がこの地を収めていた浅井長政を攻め、この地の寺の焼討を行った 観音信仰に厚い村人たちが仏像を持ち出し、自分たちの手で建てた小さな寺に祀った


奥びわ湖の仏教文化が栄えていたのは前述したとおり。その文化が滅びてしまった理由が、織田信長(Wikipedia)が浅井長政(Wikipedia)を攻めた小谷城の戦い(Wikipedia)だったとわ

 

江戸時代に造られた十一面観音菩薩 鞘仏=中が空洞になっている仏 中に仏が納められていると言われていたが、300年間誰も見たことがなかった。修復のため中を開けたところ、焼け焦げた仏像が現れた 冷水寺の聖観世音菩薩だと言われている 平安時代作

 

奥びわ湖の地で柴田勝家と豊臣秀吉の合戦 柴田軍に焼かれた 焼けただれた仏の姿を痛ましく思った村人たちにより、鞘仏が作られ体内に収められた


冷水寺(冷水寺(胎内仏史料館) 十一面観音坐像|長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト)の十一面観音坐像は鞘仏と呼ばれる、胎内に仏などを収めるため空洞になっている仏像なのだそう。tweetにあるとおり修復のため胎内を開けた所、焼けただれた仏像が出てきた。どうやらこれは豊臣秀吉(Wikipedia)と柴田勝家(Wikipedia)が戦った賤ヶ岳の合戦(Wikipedia)の際に、柴田軍によって焼かれてしまったのだろうということらしい まぁ、昔からあることではあるのだけど痛ましい。゜(PД`q。)゜。

 

黒田:黒田官兵衛の黒田家発祥の地

  

安念寺:賤ヶ岳の合戦での激戦地 堂には9体の仏 顔がないなど原型をとどめぬ姿=いも観音 1820~30年頃土中から発見される 近くを流れる川で洗われた 昭和の初めまで川で仏を洗う行事が行われていた 聖観世音菩薩と薬師如来以外は不明のまま



 


ひとつ前のtweetで唐突に黒田について書いているけれど、この安念寺は黒田安念寺と呼ばれているらしい。この寺に小さな堂があり、その中に安置されている9体のいも観音様たち。tweetにもあるとおり、2体以外は何観音であるかもわからない仏たち。それでも、村人たちは大切に祀り、今でも信仰している。


いも観音というのは、その芋に似たお姿から。失礼な気がしなくもないけど、逆にそれは親しみであり、それもまた信仰の姿なのだと思う。

 

名のある仏師によって彫られ、大伽藍に安置されてきた仏たち、戦火や廃仏毀釈に遭い、救い守ってきたのは名もなき村人たち ←こういう部分に感動する。・゜・(ノД`)・゜・。


仏像が好きなのは、単純にそのお姿の美しさなのだけど、やっぱりそこに込められた人々の思いもあるのだと思う。作った人、守って来た人々、そして信仰してきた人々。以前、ある展覧会で滋賀県の聖観音菩薩様が戦火を逃れるため、村人によって土の中に埋められたという説明を聞き涙した覚えがある。そういう名もなき人々の思いに感動する

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:神護寺」

2015-10-19 00:27:14 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:神護寺」

真言宗遺跡寺院 遺跡=空海とゆかりの深い寺 空海の愛した寺

 

金堂への石段 

 

本日のお寺は神護寺(弘法大師霊場 遺跡本山 高雄山神護寺ホームページ)。真言宗遺跡寺院と言うそうで、遺跡と書いて"ゆいせき"と読む。遺跡(ゆいせき【遺跡】の意味 -国語辞典- goo辞書)という言葉自体に、空海と所縁があるという意味があるわけではないらしいけれど、神護寺の遺跡にはそういう意味があるということかな?

 

高雄山にある神護寺 高雄橋から参道が始まる 俗世間との懸け橋 下乗石 下乗=位の高い者でも乗物から降りて歩けという意味 高雄山=紅葉の名所 楼門 江戸時代に建てられた 輪宝が彫りこまれている 狭い参道から楼門を抜けると、一気に視界が開ける 

 

古くから信仰の場であった愛宕山に連なる高雄山。その高雄山にある神護寺。寺の麓には清滝川が流れており、そこにかかる橋が高雄橋。ここから参道が始まると考えられており、俗世間と結界との懸け橋ということなのかな? 下乗石というのは下馬と同じ意味だけど、もう少し広いのかな? 下馬だと馬だけだものね(笑) 

 

真言宗の寺だが、奈良時代の豪族和気清麻呂が開いた氏寺 宇佐八幡宮神託事件 道教を天皇にすべきという大宰府より神託が下る、いぶかった天皇が和気清麻呂に調査を依頼。和気清麻呂は九州の宇佐八幡宮で道教を天皇にしてはいけないという神託を得る。これにより清麿は左遷されてしまう。

 

この事件をきっかけに和気清麻呂が修行道場を造る。これが神護寺となる。←かなり端折っている 聞き取れない。゜(゜´ω`゜)゜。ピー


和気公霊廟 

 

要するに和気清麻呂(Wikipedia)が開いたってことなんだけど、そのきっかけが宇佐八幡宮神託事件(Wikipedia)だったのね 大宰府からってtweetしちゃってるけど、大宰府どっから出てきた?(笑) 神託が出されたのも、和気清麻呂が確認に行ったのも宇佐八幡宮。この事件769年に起きたのね? 1246年前 しかし、スゴイ事件。

 

tweetどおりなんだけど、ザックリ言うと宇佐八幡宮から道教(Wikipedia)を天皇にという神託が下され、称徳天皇(Wikipedia)が和気清麻呂に確認を依頼。逆に道教を帝位につけてはならないという神託を受けて戻ったため、道教を帝位につけたいと考えていた称徳天皇により左遷されてしまった。というのが宇佐八幡宮神託事件。

 

和気清麻呂は称徳天皇の死後、都に戻され、その約10年後に私寺建立を願い出たそうで、これが神護寺の前身である神願寺。この神願寺という寺号は"宇佐八幡の神意に基づいて建てた寺"という意味なのだそう。( ゜д゜)ホゥ

 

金堂 昭和10年建立 本尊薬師如来像 和気清麻呂が神護寺の前身 神願寺の頃から本尊であったと考えられている 厳しい表情の薬師如来は珍しい 神願寺は国家安泰を祈願する寺であったことから、この表情となったのではないか? 脇侍日光・月光菩薩 左右に十二神将と四天王 昼夜12の時を守る


金堂 

 

tweetは焦って何だか変な日本語になってるけど 、要するに金堂自体は新しいけれど、本尊の薬師如像は神願寺の頃から本尊だったと考えられているということで、当時社会情勢が不安定だったことや、神願寺は国家安泰を願う寺であることから、険しい表情の薬師如来となったのではないか?ということ。

 

どうやら完全な薬師如来の配置が揃っているらしい! 薬師如来の脇侍は日光菩薩、月光菩薩で、その周りを十二神将が取り囲み、さらに四方を四天王が守る構図が薬師如来の配置。十二神将は干支と結びついているのは知っていたけど、昼夜12の時を守っているとは知らなかった 

 

和気清麻呂の3人の息子たちが引き継ぐ 最澄と空海を寺に招く 最澄比叡山に篭もり修行中、その講演を聞いた広世と真綱は、最澄を寺に招く 唐で修行を終えた空海に修行の場として真綱が寺を与える 板彫弘法大師像 座った位置から見上げると立体的に見える 30~40代住職だった頃?

 

和気清麻呂の3人の息子というのは、和気広世(Wikipedia)、和気真綱(Wikipedia)、和気仲世(Wikipedia)のこと。tweetでは仲世の活躍が出てこないけど、真綱と共に神願寺を高雄山の寺域に移し、神護国祚真言寺とすることを願い出て許されているのだそう。まぁでも、最澄(Wikipedia)と空海(Wikipedia)を寺に招いたことの方が仏教界にとっては大きいかも?(o´ェ`o)ゞ

 

空海が持ち帰ったものの素晴らしさに最澄からアプローチ 最澄は空海からカンジョウを受ける 最澄と空海は仲を分かってしまう 諸説あるが求める道が違った? 最澄=奈良の仏教は必要ない、空海=真言密教に取り込もう→真逆

 

最澄からアプローチして、後に別れてしまうというのは有名な話。空海が最澄に授けたのは灌頂(Wikipedia)。仏教用語とか人物名、寺名って難しくて全然変換が出てこないし、意味もよく分からないからホント困る

 

室町時代、紅葉と言えば高雄山と言われていた


 

多宝塔 昭和の再建 平安時代にも同じ場所に宝塔があった 五大虚空蔵菩薩 現存する五大虚空蔵菩薩としては日本最古 知恵の仏 法界虚空蔵菩薩を中心に、それぞれの持ち物にちなんだ知恵を表している

 

この五大虚空蔵菩薩は素晴らしかった! 虚空蔵菩薩(Wikipedia)を5体の群像として、5つの知恵を表したもの。中心の法界虚空蔵菩薩が美しかった!

 

平安末期 火災などにより一気に後輩 本尊すら雨ざらしの状態 文覚上人 元武家、同僚の妻に横恋慕し、その妻を殺めてしまうという事件を起こす。荒法師と呼ばれる。空海の熱烈な支持者 暴言を吐いて伊豆に流される→源頼朝と出会う 平家討伐の院宣を得るよう勧める。神護寺の復興を決意

 

文覚の精力的な活動により、散見していた宝物が戻って来る。仁和寺から梵鐘が戻る。文覚は後鳥羽上皇に謀反の疑いを掛けられ、流される途中で亡くなる。波乱万丈の生涯。

 

ちょっとtweetが唐突だけど、要するに文覚上人(Wikipedia)が神護寺の荒廃ぶりを嘆き、再建に尽力したということ。tweetにもあるとおり、かなり破天荒な人だったようで、Google検索の候補に"文覚 刺青"が出てきたりする(笑) 暴言を吐いてしまったのは後白河法皇(Wikipedia)だったらしく、これは神護寺の再興を強訴したためとのこと。

 

伊豆に流されたため、源頼朝(Wikipedia)と出会ったのも凄いけど、まさか院宣(Wikipedia)をもらうように勧めていたとは 結果、伊豆に流した後白河法皇の庇護のもと、神護寺の再興をしたらしいのだけど、この辺りのことがよく分からない(笑) 頼朝の死後、様々な政権争いに巻き込まれてしまい、最終的には後鳥羽上皇(Wikipedia)に謀反の疑いをかけられて、対馬に流される途中に亡くなったとのこと。でも、この方のおかげで神護寺は復興したわけだからよかった まぁ、平家も滅びたけども(笑)

 

鎌倉時代の神護寺の様子を表す絵図 平岡八幡宮 1300年前は神仏習合であったため、この平岡八幡宮も神護寺の入り口であった? 本殿内陣の天井絵 足利義満が描かせたと言われる花天井

 

これも日本語変だけど、要するに絵図に平岡八幡宮が描かれているということ。現在は寺と神社ということで別になっているけれど、昔は神仏習合で々寺であったということかな? 足利義満(Wikipedia)が描かせた天井絵は素晴らしかった!

 

清滝川が流れる渓谷 金雲渓 瓦を投げる 全国で行われるが神護寺が最初だと言われている 鎌倉時代の武士が出立に際して瓦を割ったことが始まり?

 

この瓦を投げることを、かわらけ投げ(Wikipedia)と言うらしい。瓦と言っても神社でお神酒を飲むときに使う、素焼きのお皿みたいなもの。

 

かつては空海が彫った不動明王像があった 平将門の乱を平定するため関東に移された→成田山の本尊 その後に祀られた不動明王は江戸時代の作だと考えられていたが、2013年の修復の際、平安時代の作であることが分かった 一木造りから寄木造の過渡期 割矧造で造られていることから

 

成田山って、成田山新勝寺(大本山 成田山)だよね? 成田山の不動明王といえば有名だけど、空海が彫ったもので神護寺から移されたものなの? しかも、その理由が平将門の乱(Wikipedia)を平定するためだったのね なんだかいろいろスゴイ 

 

本尊が移された後造られた不動明王が、平安時代の作であることが分かった理由が、割矧造(割矧造(わりはぎづくり)とは|コトバンク)で造られていたということ。割矧造って知らなかったけど、一木造と寄木造の過渡期の技法なのね? おもしろい!

 

仏像から安心=あんじんを得る 千年を超える仏像はみな素晴らしいのではないか? 永年に渡りお寺を始めとした人々から守られてきた仏像は尊いのでは?

 

これは2013年に不動明王を修復された仏師の方の言葉。とても素晴らしい言葉だと思ったのでtweetさせて頂いた。仏像が好きな理由は単純に姿が美しいからなのだけど、その他にその仏を守って来た人々のことを思うと愛おしく感じるからというのもあったりするので

  

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週日曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:白毫寺・長岳寺・正暦時」

2015-10-12 00:54:50 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:白毫寺・長岳寺・正暦時」

 

毎週楽しみにしている番組。京都、奈良を中心とした古刹を紹介。今回は大好きな奈良から3つのお寺を取り上げる。

 

【白毫寺】

春日山 春日大社の神々が住まう山として、朝廷や貴族から尊ばれた。木々の伐採が禁止され今も原生林が残されている。

 

 

白毫寺 奈良時代に始まる古刹 715年天智天皇の皇子しきの皇子の邸宅跡に建てられた 山門から奈良の街を一望できる 本堂は江戸時代に再建されたが、釘を用いない奈良時代から続く技法 本尊は阿弥陀三尊像 阿弥陀如来と勢至菩薩&観音菩薩 勢至菩薩上半身を大きく前傾 観音菩薩は片膝で前傾

 

この日(2015.10.11)からBS12で放送開始した「新TV見仏記」(新TV見仏記|旅・グルメ|BS12 トゥエルビ)で、MJ(みうらじゅん氏)とSI(いとうせいこう氏)が訪れていた百毫寺。この番組は再放送で、実際は平城京遷都1300年の時に関西テレビで放送されたものなので何年前 1回目と2回目の放送分は既にDVD持っているし、ちょっと古いのでtweetしたり、記事にはしない予定。って、この番組と関係ないけど(o´ェ`o)ゞ

 

 

そんな百毫寺(Wikipedia)は、志貴皇子(Wikipedia)の邸宅跡に建てられたのね? この方、ご自身は帝位とは関係ない身だったため、和歌などたしなみ清いまま亡くなられたけれど、後にその六男の白壁王が光仁天皇(Wikipedia)として即位。その後、現在までその系統が続いているらしい。番組内ではその死を悼む和歌が紹介されていたので、それなりの人物だったのでしょう。ちなみに、その和歌に詠まれたのが、百毫寺の名物でもある萩で、画像の参道の両脇に萩の花が植えられているとのこと。


阿弥陀三尊というのは、阿弥陀如来を中心として、向かって左に勢至菩薩、右に観音菩薩を配した形を言う。勢至・観音菩薩は大和座と呼ばれる、正座の膝を少し開いて、腰を浮かせた形で表されることが多い。

 

僧えいそん 真言律を確立 興法利生 虐げられた人々を救う 石仏の道 誰もがそっと手を合わせることが出来る=えいそんの目指した仏教の形?

 

えいそんは叡尊(Wikipedia)のこと。興法利生(興法利生とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書)については、興法と利生に分けて意味を説明していたのだけど、まとめるとtweetにあるとおり、虐げられた人々を救うという意味。


百毫寺境内にはたくさんの石仏が置かれている石仏の道があるが、それは叡尊が目指した、誰もがそっと寄り添える仏教を形に現したものではないかとのこと。

 

宝蔵 本尊 阿弥陀如来坐像 同時期に造られた貴重な光背があるため、本堂から宝蔵へ移された 閻魔王坐像 右手の杓=威厳を表す 閻魔王脇侍 司命、司録=判決の内容を記録 トラの皮を敷いた椅子に座る 鎌倉時代以降、生前に閻魔王を信仰すると、死後罪を軽くしてもらえるという閻魔信仰が流行る

 

百毫寺の見どころは萩と宝蔵。この宝蔵はMJ&SIも興奮していた(笑) 閻魔王(Wikipedia) に脇侍がいるとは知らなった! 司命(司命(しめい)とは|コトバンク)のことも、司録のように説明してたのだけど聞き逃し。逆に司録の方がWikipediaもコトバンクも出てこない 鎌倉時代以降、閻魔信仰が流行ったというのは、人々の思いが感じられる。たしか、江戸時代にも地獄が流行したりしたんだよね? 昔の人も死を恐れていたのかと思うと愛おしくなる。

 

【正暦寺】

菩提山 釈迦信仰 一条天皇は仏教の都市を築こうと決意 992年正暦寺が建立される 創建当時の元号 福寿院 数寄屋風客殿建築 本尊 孔雀明王像 孔雀は毒虫毒蛇を好んで食べるとされ、毒から救うとされている 狩野永納の障壁画


菩提山というのは釈迦信仰から名づけられたそうで、一条天皇(Wikipedia)はこの地に一大仏教都市を造ろうとしていたのだそう。正暦寺(菩提山真言宗 大本山 正暦寺)を建立し、創建当時の元号である正暦から名づけたことは、一条天皇の並々ならぬ決意が漢字されるとのこと。


 

この孔雀明王素晴らしかった! 明王というのは信仰心のない人々を、怒ってまで救おうとしている方々なので、憤怒の表情をされているのだけど、孔雀明王は穏やかなお顔。このお顔の美しさは素晴らしい。狩野永納(Wikipedia)の障壁画も素敵だった。まぁtweetしてたのでチラ見だけど この番組辛いのは、記録残したいのでtweetしてると、ちゃんと見れないことなんだよね(笑)

 

創建時には88の塔頭 1180年平重衡による南都焼き討ちで焼失 教えは途切れることなく、益々栄え120の塔頭を誇る大寺院となった 江戸時代以降の徳川幕府の冷遇、明治時代の廃仏毀釈により衰退 現在のこじんまりとした姿になった


88の塔頭があったというのは大伽藍!さすが天皇の発願。塔頭をさらに120まで増やしたとはスゴイ! でも、さすがに幕府に冷遇されたり、政府により廃仏毀釈(Wikipedia)を受けてしまってはね 

 

81段の石段 観音菩薩の請願と、阿弥陀如来の請願を足した数 大伽藍が消えてしまったから、山本来の力が伝わって来る?


請願って書いちゃってるけど、正しくは誓願。観音菩薩の誓願は33、阿弥陀如来の誓願は48で合わせて81となる。大伽藍は壮観だし見てみたかったけれど、お寺のこじんまりとした静かな佇まいが、かえって菩提山の力を引き立てているようにも感じる。

  

本尊は薬師如来 稔侍仏だった? 秘仏 本堂に安置されているのは、今年の夏開眼供養された薬師如来

 

正暦寺 清酒発祥の地 すみざけ透き通った酒室町時代以降 寺で作られた清酒は爆発的に売れた 売ったお金で寺を修復、本山である興福寺にも収めた 製法は紹興酒の作り方に似ている 当時の寺院は文化や技術の生まれる場所でもあった

 

番組では、毎回お寺やその周辺に関係の深い、名物や名産を紹介するコーナーがある。今回は正暦寺発祥と言われる清酒(Wikipedia)。それ以前のお酒はどぶろくのような濁り酒で、透き通った清酒が作られたのは正暦寺が最初だと言われいているのだそう。ヨーロッパの修道院でもビールなどを醸造して売り、運営の糧としていたりするけど、日本のお寺でもそういうことはあったのね? 前回の東福寺(記事はコチラ)でも、農家に排泄物を売っていたそうだし・・・ ちょっと、下ネタ方向に行ってしまった(o´ェ`o)ゞ

 

【長岳寺】

長岳寺 824年 淳和天皇の命により空海が開いた 大門 1840年に再建 最盛期には48の塔頭があった 残っているのは庫裏として使われている旧地蔵院のみ 唐破風の玄関 大和葺きの屋根 書院造 庭園は江戸時代に造られた 本尊 普賢延命菩薩 頭上に四天王を乗せた4頭の像無限に続く修行

 

長岳寺(高野山真言宗 長岳寺)は淳和天皇(Wikipedia)の発願で開かれた。本当に奈良時代のお寺というのは、国の事業だったということなのね。しかも、空海(Wikipedia)が開いたのね 大門って急にtweetしてるけど何だろう?(笑) 48の塔頭があったそうなので、正暦寺ほどではないけれど、こちらも十分大伽藍。

 

 

唐破風の玄関のある書院造の旧地蔵院の建物自体も良かったけど、お庭が素晴らしかった! この廊下の突き当りに普賢延命菩薩がおられる。この普賢延命菩薩には以前、TV見仏記で訪ねたMJ&SIも感動していた! 

 

ちょっといいが画像が見つからないのだけど、菩薩様が座る蓮華座を、頭に四天王を乗せた4頭の象が支えており、さらにその象を無数の象が支えている。この象は永久に続く修行を表しているとのこと。

 

鐘楼門 日本最古の鐘楼門 創建当時から残る 本堂 1783年に再建 須弥壇 阿弥陀三尊像 阿弥陀如来 勢至菩薩 観音菩薩 1151年に造られた 鎌倉時代の先駆けとして、運慶、快慶にも影響を与えた 阿弥陀如来 観音菩薩 半跏いざ 玉眼=水晶をはめ込む技法 現存する日本最古

 

鐘楼門というのは、名前の通り鐘楼がついている門。長岳寺の鐘楼門は創建当時のもので、日本最古なのだそう。

 

前述したとおり、阿弥陀三尊というのは阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩のセット。この阿弥陀如来は玉眼(Wikipedia)が使われていて、この技法で造られた仏像としては日本最古なのだそう! 運慶・快慶にも影響を与えたってスゴイ 阿弥陀如来と、その化身と言われている観音菩薩は半跏椅座(Wikipedia)という、下した左膝の上に、右足首を乗せる座り方をしている。

 

石仏 弥勒石棺仏 

 

長岳寺にも無数の石仏がある。様々な大きさの石仏があるけど、最大は弥勒石棺仏。これはかなり大きいけど大きさ言及してたかな?

 

極楽地獄図 狩野山楽筆 幅11m この絵を使い絵解き説法を行った 三途の川 渡る場所が三か所 罪深い者は上流の激流 徳の高い者は下流の橋 真ん中は普通の人 7日ごとに裁判を受け、四十九日に最終判決が下る 5番目に閻魔王 大方の裁判が下る 10回審判を受ける、遺族が法要してアシスト


 

そして、長岳寺といえば「極楽地獄図」! これもMJ&SIが感動していた。TV見仏記でのご住職の説明としては、江戸時代に大ベストセラーとなった往生要集(Wikipedia)をもとに描かれたものだそう。狩野山楽(Wikipedia)だったのね! 文字を読めない人々に分かりやすく説法するために、絵を用いた絵解き説法(絵解き(えとき)とは|コトバンク)が行われていたそうで、tweetの三途の川(Wikipedia)以降は、ご住職による絵解き説法。三途の川ってそういう意味だったのね

 

7日ごとに裁判を受けるっていうのは初七日のことかな? 四十九日で最終判決が出るので、遺族はそれまで故人がいかに良い人であったか祈ってあげる必要があるそうで、それが一周忌、三回忌など10回続く。その都度、遺族によるアシストが必要であるということ。それも信仰とえいばそうだし、もちろん故人をしのぶことは大切なことだけれど、お布施を得るためという部分もあるのかも? 

 

極楽地獄図の最後の1枚は阿弥陀来迎図 知識を持たない人々、文字の読めない人々にも教えを説く 庶民の心に寄り添う教え

 

 

散々続いた裁判や地獄の様子の最後の一枚は、この美しい如来来迎図。阿弥陀如来と二十五菩薩が楽器を奏でながら極楽浄土へ導いて下さる。地獄に行かずに極楽浄土へ行かれるような人になりなさいということなのでしょう。これは分かりやすい

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:東福寺」

2015-10-04 22:05:11 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:東福寺」

京都には禅画という呼び方がある。東福寺=伽藍画 国宝三門は五間三戸のつくり、最大かつ最古の三門 本堂を涅槃と考え、必ず通らなければならない門 解脱 3つの様式を巧みに取り入れた建築 足利義持の筆による額"みょう雲閣"←漢字出ない妙を使っていないのは、女人禁制であったため

 

今回は、東福寺(臨済宗大本山 東福寺 -日本最古の最大級の伽藍-) 最初に東福寺の成り立ちを語っていたのだけど、お腹痛くて聞き逃し その辺りは、リンク先の東福寺のサイトもしくは、Wikipediaで!

 

禅画で検索すると、絵の方の禅画が出てきちゃう 画はカクと読む。いわゆる京都五山それぞれに○○画という呼び名があって、それぞれ紹介していたのだけど書き取れず かろうじて拾えたのが東福寺=伽藍画 伽藍画で検索しても欲しい結果が出てこない

 

 

国宝の三門は五間三戸で、これは柱で5つに区切られており、中央の3か所に板戸があって入口になっている作りを言うのだそう。足利義持筆による額は"玅雲閣"と書いて"みょううんかく"と読む。妙ではなく玅を使っているのは、女人禁制を表しているからなのだそう。女人禁制だったのね

 

三門上 釈迦如来像 善財童子 十六羅漢 迦陵頻伽殻の中から美声→仏の美声を表す 画僧明兆の作

 

基本、三門の上には仏像が安置されている。東福寺三門には釈迦如来像。両脇に善財童子と月のつく僧形の像が安置されていたのだけど、名前を書きとれず。仏教用語や人の名前って難しいからIE変換できなくて、まごまごしていると聞きとっていた言葉自体忘れてしまう 十六羅漢が並ぶ姿は圧巻だった。

 

迦陵頻伽殻(Wikipedia)と書いて"かりょうびんが"と読む。上半身が人で、下半身が鳥の姿をしているのね? この迦陵頻伽を描いたのが画僧である明兆(Wikipedia)で、この方は後にまた出て来る。

 

 

本堂 釈迦如来 宋風に和風が加わる 新大仏釈迦如来坐像15m 右手だけが焼け残った 龍の天井画堂本いんしょう←漢字分からない

 

この新大仏と呼ばれたこともチラリと説明されてた気がするけど聞き逃し どうもといんしょうで変換したら"堂本印象"って出て、その印象じゃないだろうと思ったら本当にそうだった(笑) 堂本印象(Wikipedia)による龍の天井画は巨大で大迫力!

 

禅=言葉に出来ない釈迦の言葉を直感的に理解すること 釈迦の教えを理解するために無の境地になる 不立文字=悟りは言葉では理解できない 教外別伝、直指人心、見性別成仏=自分が本来仏であることを自覚し、仏になること 禅宗に経典はない

 

禅(Wikipedia)という言葉自体に、言葉に出来ない釈迦の言葉を直感的に理解することという意味があるということなのね? そして、それを理解するため無になるに座禅を組んでいるということ? 不立文字(Wikipedia)については書き取れたけど、教外別伝(教外別伝(きょうげべつでん)とは|コトバンク)と、直指人心については聞き逃し。ただし、見性別成仏についてはtweetのように説明されていたけど、検索すると直指人心見性別成仏(直指人心見性別成仏とは|世界宗教用語 weblio辞書)とセットになっているっぽい?  禅宗に経典がないのは、文字による解釈は人それぞれだからなのだそう。

 

浴室 禅宗伽藍の浴室としては最古 蒸し風呂式 東司=トイレ 自由には行けず、使用にも作法があり、排泄物は寺の肥料としてだけでなく、近隣農家にも売られ収入源となっていた あらまw

 

これはちょっと意外な一面。お寺も収入は必要ではあるし、まぁ無駄がないという意味では合理的(笑)

 

僧侶に与えられるスペースは一畳。起きて半畳、寝て一畳。座禅を組む。一生座禅すれば、一生の仏なり←開祖の言葉。

 

悟りは一回ではない。何度も悟って行く。なので、一生修行していく。

 

紅葉の名所 明兆の描いた曼荼羅 足利?←聞き漏らし が感動し、褒美を与えようとしたところ、明兆が所望したのが紅葉 

 

聞き漏らした将軍は時代的に足利義持(Wikipedia)と思われる。Wikipediaにも義持に画法が愛されたと記載があるので間違いないでしょう。この足利義持が褒美を与えようとしたところ、東福寺には桜が多く修行の心が乱れるのではないかと心配していることを伝えたところ、紅葉を賜った。それらを植えたことにより、紅葉の名所となったのだそう。

 

通天橋 1380年橋をかけ通天と名付けた 豊臣秀吉も修理した記録が残る 災害により何度か架け替えられ、現代のものは1960年代(←聞き逃し)に建て替えられた

 

 

この通天橋(通天橋(ツウテンキョウ)とは|コトバンク)を架けた理由も説明していたのだけど・・・ たしか、この間に川が流れてて僧を救うためだったかな? コトバンクによると渓流があるらしい! 時代劇などによく登場するこの橋は東福寺だったのね 大好きな「鬼平犯科帖」のエンディングにも出て来る 

 

開山堂 伝衣閣がある 伝衣=法を伝える

 

方丈の四方に重森三玲作庭の庭。釈迦の八相・・・ 漢字が出ないうちに読み方も忘れた。・゜・(ノД`)・゜・。

 

東福寺方丈といえば重森三玲(Wikipedia)のお庭。お庭に見とれていたのと、お腹痛くて調子悪いのと、お庭の描写をしてもなって思ったのとで、全くtweetしていない(o´ェ`o)ゞ 方丈の四方に作庭した理由が八相??だったのだけど聞き取れず

 

開祖しょういちこくしは中国から持ち帰った茶の苗を静岡に植えた 抹茶法を中国から伝えたのは栄西 東福寺周辺には茶畑が広がり、輸出の話まで出るほどであった

 

開祖しょういちこくしは聖一国師(Wikipedia)で、静岡の出身だったため、中国から持ち帰った茶の苗を静岡に植えたことから、茶の名産地になったということらしい。その他にも仏教関係のもの(教えのようなもの?)を持ち帰ったみたいだけど聞き逃し 細かく摺った茶をたてて飲む抹茶法(Wikipedia)は中国から伝わったそうで、それを持ち帰ったのは栄西(Wikipedia)で、この方が喫茶の習慣を日本に根付かせたのだそう。

 

即今 当? 自己 ・・・ 今日全然ダメだ。・゜・(ノД`)・゜・。

 

要するにずっと己を見つめて修行しろ的なことだったと思うのだけど・・・ もうホント今日ダメ ゴメンネ・゜・(PД`q。)・゜・

 

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