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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:勧修寺・廬山天台講寺」

2015-07-08 22:03:52 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:勧修寺・廬山天台講寺」

今日は紫式部所縁の勧修寺 平安時代醍醐天皇が母の菩提を弔うために建てたお寺。自身を模して作らせた千手観音が本尊。 

 

廬山天台講寺は紫式部の住まいだった。蘆山寺には明智光秀の意外な一面を伝えるものが? 


毎週楽しみにしている番組。tweetにもあるとおり、今回は紫式部所縁の2つのお寺勧修寺と廬山寺。そして勧修寺内の佛光院を取り上げる。


まずは勧修寺から!

  山科区は交通の要所で、皇族や貴族の狩場として有名で、邸宅が立ち並んでいた。山科を愛した醍醐天皇はこの地に眠っている。醍醐天皇陵の近くにあるのが勧修寺。かじゅうじと読む。勧学修身から来ている。門跡寺院として栄える。宸殿は京都御所から移築された。 


勧修寺(Wikipedia)については全く知らなかった! 自分の知っているお寺を見るのもいいけど、知らないお寺を学ぶことができるのはウレシイ。醍醐天皇(Wikipedia)は、延喜の治(Wikipedia)と呼ばれる理想的な治世を行った名君と言われているのだそう。もちろん名前は知ってたけど、どうしても後醍醐天皇(Wikipedia)のイメージが強くなっちゃって 勧修寺の成り立ちとしては、冒頭のtweetどおり醍醐天皇が母の菩提を弔うために建てたことに始まる。この母のことについては後に出てくる! 


勧学修身については番組で語っていたけど書き取れず 調べてみたけど、良く分からない・・・ 筍子(Wikipedia)の教えによるものなのかな? 門跡(Wikipedia)寺院というのは、皇族や貴族が住職を務めるお寺のこと。宸殿があるのが特徴だけど、京都御所から移築されたのね それはスゴイ!


宸殿は寝殿造りとなっているが、内部は書院造。1672年に御所の一部を移築。本尊は千手観音。姿は醍醐天皇を等身大に写し取った。国造りを仏教に求めた。 


 

寝殿造(Wikipedia)と書院造(Wikipedia)についてザックリ言うと、平安貴族の邸宅様式が寝殿造で、室町時代に誕生した武家様式が書院造ということになるのかな? 御所から移築したので外側は寝殿造だけど、中は書院造になっているということなのでしょう。この1672年に移築というのは、宸殿のことなのか、本堂のことなのか聞き逃してしまった。本堂のことなのじゃないかと思う。



平安時代の天皇は仏教を国造りに利用しようと考えていたようで、醍醐天皇も同様だったらしい。平安時代は観音菩薩信仰が盛んだったようだけれど、特に千手観音がその対象だったのかな? 千手観音を作らせるにあたり、自身の等身大で作らせたというのは興味深い。残念ながら、現在の本尊は室町時代に再建されたもなのだそう

 

本尊の脇に空海像。醍醐天皇が"弘法大師"の称号を与えた。 


空海(Wikipedia)と醍醐天皇の関係については、弘法大師の称号を与えた以外に何か言ってたかな? ちょっとよく分からないけど、弘法大師と名付けたのは醍醐天皇だったのは知らなかった(/ω\)

 

書院も京都御所から移築されたもの。土佐光起・光成親子の近江八景図の障壁画。上段の間の違い棚は天皇が冠を置いたと言われている。この棚を勧修寺棚と呼ぶ。


土佐派を代表する絵師 土佐光起(Wikipedia)・光成(Wikipedia)親子の合作。かなりの大作! 残念ながらメモtweetするのに手一杯で、あまり見ることが出来なかった よく考えると本末転倒(笑) 勧修寺棚というのは、真ん中だけ一段高くなっている違い棚。その一番高い棚に、天皇が冠を置いたと言われいてるとのこと。

 

枯山水の庭は小堀遠州作と呼ばれている。5つの石組を蓬莱島に見立てている。水戸光圀が寄進した灯篭は、光圀本人がデザイン。勧修寺型灯篭と呼ばれている。池泉回遊式庭園。平安時代の遺構。この池で張った氷が宮中に収められ、その年が豊作か占われた。氷が厚いと寒いので豊作。 



枯山水の庭は小堀遠州作(Wikipedia)なら安土桃山から江戸時代ってことだね? 水戸光圀(Wikipedia)が勧修寺型灯篭を寄進したなら江戸時代なのでしょう。これ面白い形。蓬莱島という島は岩手県にあるようだけれど、ここで言う蓬莱島(Wikipedia)は仙人が住むと言われている蓬莱のことでしょうね。


池泉回遊式庭園の池の氷で占ったのは"五穀豊穣"! この言葉が出てこなくてtweetでは変な感じになっちゃった まぁ、意味は通じるからいいか(笑)

 

 勧修寺は今よりも広大な寺であったが、豊臣秀吉が移築を、当時の住職である法親王がこれを拒否。怒った秀吉が池を埋めるなど報復行動を行い、寺は荒れてしまった。江戸時代に入りさいじん法親王が住職となったことにより再建 

 

前述したとおり門跡寺院だったため、住職は法親王。豊臣秀吉相手とはいえ親王だからねぇ・・・ まぁ、当時は天皇といえども武士の顔色をうかがうというような部分はあったであろうから、なかなか勇気ある行動だったと思うけれど、それにしても秀吉は酷いなぁ 秀吉ってわりと残虐なことしたりしてるんだよね。あまり好きな武将ではない 

さいじん法親王を検索してみたけど、出てこないので聞き違えしているのかも? 文字も表示されたりしているのだけど、何しろ昔の人の名前って漢字が難しくて直ぐに出てこないんだよね

 

しかし、明治政府の廃仏毀釈により、当時の住職であった法親王(名前が聞き取れない!)は還俗され、山科宮家を設立。勧修寺は寺ではなくなってしまった。しかし、僅か2歳で還俗した法親王は勧修寺を愛し、後の復興に尽力した。 


これも寺の悲しい歴史としてtweetしておいたのだけど、法親王のお名前が聞き取れず 前述のさいじん法親王は、天皇の第一皇子だったのだけど、陰陽道(?)か何かで即位すると良くないことが起きるとされ、天皇になることができなかったそうだし、この法親王は2歳で政府の都合で還俗させられたりと、なかなか大変だったのね

 

 「今昔物語」藤原高藤は鷹狩道に迷い一軒の家に泊まる。その家があったのが勧修寺。その家の娘列子と結ばれる、鷹狩を禁じられた高藤が再び列子を訪ねたのは6年後、娘いん子が産まれていた。このいん子が後に醍醐天皇の母となる。高藤と列子の子孫が紫式部。 


で、やっと紫式部につながる! 「今昔物語」(Wikipedia)にも記載されている勧修寺にまつわる恋物語。醍醐天皇にもつながるので、当然ながら全員実在の人物。藤原高藤(Wikipedia)は太政大臣にまでなった人なのね! まぁ、天皇の外祖父になるのだから出世して当然か。いん子というのは藤原胤子(Wikipedia)のことで、この方、ネコ好きでおなじみ宇多天皇(Wikipedia)の女御様だったのね? 宇多天皇のネコ好きについては(【平安時代の】宇多天皇が猫好きすぎてヤバイ【猫ブログ】|NAVERまとめ)を是非読んで欲しい! ネコ好きとしてはニヤリ


藤原高藤と宮道列子の子孫が紫式部(Wikipedia)とのことなのだけど、その辺りがザックリしていてよく分からない でも、あの当時子供も生まれてしまって6年も男が再訪するのを待ったというのもスゴイ話。まぁ、あの当時だから他にどうしようもなかったというのもあるのかも?


ここから廬山天台講寺

豊臣秀吉により移設されたのが蘆山寺。その600年前は紫式部の邸宅であった。式部はこの邸宅で源氏物語の大部分を執筆したと言われている。寺には江戸時代に描かれた源氏物語の襖絵がある。物語に描かれているのは式部が実際に見て経験したこと。


この豊臣秀吉により移設の詳細を聞き逃してしまった この蘆山寺(天台圓淨宗 大本山 廬山寺)の敷地内に、紫式部の邸宅があり「源氏物語」(Wikipedia)を執筆したと言われているのだそう! てっきり宮中で書いていたのかと思ったら、なんと自分の邸宅があって、そこで書いていたのね 番組では物語に書かれているのは実際に体験したことと言っていたけど、須磨に行ったりしたのかな? 全部ってことはないような?(o゜ェ゜o)



ちなみに上は、前述した土佐光起筆による「源氏物語画帖」の"若紫" 光源氏がまだ幼い紫の上を見初めるシーン(ノ∀\*)キャ

 

源氏庭。白砂と紫の桔梗が美しい。本堂は1794年に京都御所の一部を移築したもの。本尊は阿弥陀如来。亡くなった人を極楽に導く仏。平安時代の作? 大仏師定朝の様式で作られている。円密戒浄の教え。信長の南都焼討の際、明智光秀に焼討の命が下ったが、正親町天皇により難を逃れた。



こちらも本堂は京都御所の一部を移築したのか・・・ それだけ京都御所を立て直したってことなのかな? 定朝(Wikipedia)様式の阿弥陀如来(Wikipedia)は仏像好きとしては気になるところ。円密戒浄で検索すると蘆山寺関連記事が出てくるのだけど、要するに円、密、戒、浄の四宗兼学道場となったということらしいのだけど、この四宗兼学道場がイマヒトツ分からない


冒頭tweetの明智光秀(Wikipedia)の意外な一面というのは、この南都焼討の命を受けた際に、蘆山寺を焼くことになったのだけど、正親町天皇(Wikipedia)の書かれた手紙を受け取り、これに打たれた光秀が織田信長(Wikipedia)に掛け合い、蘆山寺は難を逃れたということらしい。いい話なのだけど、何故正親町天皇が蘆山寺を守ったのかは聞き逃してしまった

 

明智光秀の念持仏が収められている。元三大師像は秘仏であるため、お前立の鬼大師坐像を拝することになる。元三大使は酒宴で騒ぐ女官を戒めるため、鬼の姿になったと言われている。三毒(貪欲、愚痴、しんい)を節分の日に追い払う行う節分の祖。 


明智光秀の念持仏と、元三大師像は関係なし(笑) 元三大師(Wikipedia)っておみくじを作った人だよね? 鬼の姿になったという言い伝えは知っていたけど、そんな理由だったのか(笑)  三毒(Wikipedia)の"しんい"は瞋恚と書く。こう書くとちょっと難しいけど、むさぼり、おろかさ、いかりとなるそうで、ここでいう愚痴というのは、おろかさということになるのね? 要するに心の毒という意味で、本来節分(Wikipedia)はこの毒を追い出すことだったのね

 

ここから勧修寺 佛光院

大石順教。17歳の時養父が起こした事件により両腕を失う。名取となる踊りの腕前だったが、両腕を失ったことにより長唄を歌って生計を立てていたが、ある時鳥がさえずるのを聴き口に筆を加え文字を習う。書画を習う。日本画家と結婚したが、夫に尽くせない自分に悩み離婚。高野山で得度。


 

勧修寺の一部を借り、障害のある人々を救うために力を尽くした。毎月21日に順教の残した書画を見ることが出来る。「人から手足を借りられても、心は人から借りることはできない。心は一番大切なもの」と語った。勧修寺で大切な教え"眼施" 笑顔を施せ! 争い事は笑顔を失った時に起きる。

 

大石順教(Wikipedia) は勧修寺 佛光院で障害のある人々を救うために尽力した方なのだそう。この方のことは全く知らなかった。写真も紹介されていたけれど、切れ長の目の美しい人だった。幼い頃から踊りの才能を発揮し、名取となっていたそうだけれど、17歳の時に養父が起こした堀江六人斬り事件(Wikipedia)で、母親と兄弟を亡くし、自身も両腕を失う大怪我を負ったのだそう。

 

tweetでは鳥がさえずると書いてしまったけれど、本当はカナリヤがくちばしで雛に餌をやるのを見て、自分には口があるじゃないか!と思い、口に筆を加えて文字を覚え、絵を習い、多くの書画を残した。その後、日本画家と結婚したが、夫が重い病気にかかった際に、体をさすってやれない無力さを憂い離婚した。と、番組では紹介されているけど、Wikipediaによると夫の不倫による協議離婚なのね まぁ、いづれにしても出家後、障害者のために自在会を設立し、障害者の自立を助けたことは事実なわけで、それはこの壮絶な人生に心閉ざすことなく、美しい心を持ち続けた故だものね 

 

仏教の教えというと、とても難しく壮大なことを思いがちだけれど、眼施=笑顔を施すというのは誰にでも出来ること! ついついイライラしがちだけど、なるべく笑顔でいるよう心がけよう! 頑張る

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

古都浪漫こころ寺巡り|BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:長谷寺」

2015-07-05 00:48:45 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:長谷寺」


毎週楽しみにしている古寺を紹介する番組。録画しておいてやっと見たので、実際の放送は清水寺(記事はコチラ)より前。

日本書紀に長谷は天照大神のいた場所と記されている。皇室ゆかりの地。

 

天照大神(Wikipedia)って、てっきり伊勢にいたのだと思っていたのだけど、なんと日本書紀(Wikipedia)には長谷にいたと記されているのだそう! ビックリ! ビックリというか、日本書紀とか、天照大神とかなんだかいろいろスゴイなと思って(笑)

 

飛鳥時代、道明上人は銅板を作り、長谷の地に寺を開いた。それが長谷寺。

 

 

長谷寺(奈良大和路の花の御寺 総本山 長谷寺)は、4年前に行った(記事はコチラ)けど、牡丹の時期でも、桜の時期でも、紅葉の時期でもなかったけれど、自然を感じるお寺で好きだった。

 

長谷寺の起源としては、朱雀元年(686年)に道明上人が初瀬山の中腹に本長谷寺を建てたのが始まりとされているのだそう。京都もすごいけど、686年に~って始まる奈良ってホントスゴイ。その頃に生きた人々がお寺を建てて、その寺がずっと人々に守られて、21世紀の現在も信仰を集めているっていうのが、もう本当にスゴイわ・・・ 

 

登廊は三層からなり、本堂に近い上の廊が江戸時代、他は明治時代に再建された。中の廊と上の廊の間には蔵王堂がある。

 

 

長谷寺といえばの登廊。後にtweetしているけど「源氏物語」にも登場する長谷寺。「源氏物語」のマンガ版「あさきゆめみし」では、玉鬘が長谷寺を訪ねるシーンで、この登廊が描かれていたので、ずっと自分の中では長谷寺=玉鬘=登廊のイメージだった。登っている時は必死だったけど、下廊→中廊→上廊と三段階になっていて、修復された年代が違うとは知らなかった! 蔵王堂については記憶になし 蔵王堂も見れたんだよねきっと? 

 

本堂は急な斜面に建てられた懸け造り。国宝。


 

急な斜面に突き出したように建てられている建物や、その方式のことを懸け造り(懸け造り・懸造り(かけづくり)とは|コトバンク)と言うらしい。これ、懸け造りの代表例が先に記事かいた清水寺(記事はコチラ)だったんだよね!

 

五重塔、一切経堂、陀羅尼堂など、堂塔伽藍が並ぶ。

 

本尊は十一面観世音菩薩立像。右手に錫杖を持つのは長谷寺のみで、長谷寺式と呼ばれる。蓮ではなく大盤石に立っているのも特徴。


 

長谷寺といえば、この巨大な十一面観音立像。13mだったっけ? 12mだったっけ? とにかく10m超なので、間近で拝見すると大迫力。右手に錫杖(Wikipedia)を持つ姿で現すのは長谷寺のみで、長谷寺式と呼ばれているのだそう。全国に長谷寺は100以上あるそうで、長谷寺式の十一面観音を祀るところが多いのだそう。何故、長谷寺式は錫杖を持っているのかは言及がなかったように思うけれど、観音様が夜歩いているという伝説があったようで、その際にこの錫杖を使われたのかな? 

 

長谷寺の末寺法起院(西国番外札所 長谷寺開山堂 法起院)に十一面観世音を彫った、特道上人が祀られている。道明上人に学んだ人物で、師の勧めで十一面観世音を彫ることにした。藤原房前が宿願を叶えてくれたら援助すると申し出た。特道が祈ると房前が後見していた親王が聖武天皇となり、房前の援助で十一面観世音が誕生した。


特道上人のWikipediaなどが見つからないのだけど、長谷寺を開いた道明上人の弟子だった人物で、道明上人の勧めに従い十一面観音を彫ろうと発願。霊木を入手した。その頃、藤原不比等の次男である藤原房前(Wikipedia)が宿願を叶えてくれる代わりにと援助を申し出た。宿願とは後見人となっていた首皇子を天皇にしたいということで、特道の祈願により首皇子が聖武天皇(Wikipedia)となった。ってこれtweetと重複して書いちゃったけど、スゴイ話だよね? もちろん祈願したから聖武天皇になったわけではなく、政治的駆け引きによるものだと思うけれど、それでも藤原房前がそれを祈願したっていうのがスゴイ。しかも大仏建立の詔の聖武天皇だからね! 后は光明皇后だからね! これはちょっと鳥肌エピソードだった。

 

平安時代貴族は長谷寺詣りをした。藤原道長(Wikipedia)も参詣した。清少納言は枕草子に長谷詣でを記している。源氏物語、蜻蛉日記、更級日記には霊験を伝える記述がある。


平安時代の人々は、貴族だけでなく庶民も寺社巡りをしていたらしい。当時は観音信仰が盛んだったそうなので、もちろん参詣の意味で訪れていたのでしょうけれど、やっぱり観光の要素もあったのかな? 清少納言(Wikipedia)の「枕草子」(Wikipedia)にも出てくるのね? さすが紫式部(Wikipedia)のライバル(笑) 「源氏物語」(Wikipedia)は前述したとおり"玉鬘"の章で出てくる。「蜻蛉日記」(Wikipedia)は女流日記の先駆けと言われ「源氏物語」などにも影響を与えたということで、その筆者である藤原道綱母(Wikipedia)は「更級日記」(Wikipedia)の筆者である菅原孝標女(Wikipedia)の伯母だそうで、しかも菅原孝標女は少女時代に「源氏物語」を読みふけっていたそうなので興味深い!

 

長谷寺向かいのよき天満宮←漢字出ない 菅原道真を祀る。生前から生き神として信仰していた。十一面観世音を天神様だと考えていたらしい。

 

與喜天満神社(與喜天満神社公式サイト)は天照大神を祀る神社だそうだけれど、菅原道真(Wikipedia)も祀っているとのこと。その出世を快く思わない勢力の策略により、大宰府に左遷され非業の死を遂げた。その後天変地異が続いたため、官公の祟りであるとされ天神様として祀られることになったけれど、與喜天満神社では生前から生き神として信仰していたのだそう。長谷寺の十一面観音も天神様だと考えていたと言っていたと思うのだけど、そこの意味というか、何故人々がそう考えたのかがイマヒトツ分からない・・・ そうそう! 前述の菅原孝標女の父菅原孝標は、菅原道真の曾孫菅原 資忠の子なのだそう! ( ゜д゜)ホゥ

 

十一面観世音の脇侍は、難陀龍王像(水の神)と雨宝童子像(長谷の山を守る)十一面観世音の霊力を強調?

 

水の神である難陀龍王(Wikipedia)と、長谷の山を守る雨宝童子(雨宝童子(ウホウドウジ)とは|コトバンク)を脇侍にしているのはそういう意味があるのね。まぁ、仏像が様々な形をしているのも、それぞれの形態で人々を救うという意味があるわけだから、脇侍の配置にも当然意味があるよね。


ちなみに十一面観音(Wikipedia)のご真言は「オン マカ キャロニキャ ソワカ」で、以前「新TV見仏記」(新TV見仏記|関西テレビ放送 カンテレ)で、訪ねた時SIこといとうせいこう氏が、MJことみうらじゅん氏にキャラメルマキアート的に覚えればいいって言ってて笑った(笑)

 

江戸時代に伊勢詣でが盛んになると、その通り道であった長谷詣でも盛んになった。伊勢に詣でたら、長谷にも詣でないと願いが叶わないと言われている。


関東生まれ関東育ちなので、関西方面の土地勘が全くない上に、地図も読めないので伊勢と長谷の距離感が全く分からないのだけど、江戸時代には観光ブームがあって、人々はこぞってお伊勢参りに出かけたというのは有名な話。その通り道に長谷寺があったのね? 通り道なのね? この長谷にも詣でないと願いが叶わないというのが、口コミによるものなのか、長谷側に仕掛け人がいたのかどっちなんだろう? 両方な気もするけれど。いずれにしても、江戸時代の人々が旅行を楽しんでいたって考えるとカワイイ

  

長谷寺は僧侶を育成する学校でもある。その元になったのは豊臣秀長。根来寺の専誉を招く。専誉を慕って学僧が多く集まった。


長谷寺に僧侶を育成する学校があることは知っていたけど、それが豊臣秀長(Wikipedia)が元であったとは知らなかった! 専誉(Wikipedia)を招いたことで、学僧が集まり学校となったというのも興味深い。

 

大講堂にもう一体の十一面観世音。16.5m大画軸。室町時代に焼失した本尊を再建する際に使った設計図と言われている。430枚の和紙を重ねて作った。裏打ち紙には寄進した人々の名前が書かかれている。勧進聖か寄付を促した。長谷寺縁起に書かれた52の本尊の霊験をを説きながら各地を巡った。


この大画軸のことは知らなかった! なるほど設計図だったのね? 16.5mってかなり巨大! これは見てみたい 勧進聖(勧進聖(かんじんひじり)とは|コトバンク)が十一面観音様再建のために、各地を巡られて寄付を集め、それに賛同し寄進した方々の名前がビッシリ書かれているなんて、ちょっと感動

 

初夏に満開になる牡丹。150種7000株が花を咲かせる。唐の妃馬頭夫人は馬のような顔だったが、長谷寺の十一面観世音の霊験を知り、詣でたところ美しい顔になったことから、お礼に百花の王牡丹を贈ったという伝説がある。


長谷寺といえば百花の王と呼ばれる牡丹。まさかそんな言い伝えがあったとは (笑)  一度、牡丹の季節に訪ねてみたいな

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:清水寺」

2015-07-01 23:41:47 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:清水寺」

 

京都や奈良を中心に、古寺を紹介する番組。毎回、視聴しながら気になったところをtweetしておき、後から補足を加えて備忘録として記事に残している。ということで、今回は調メジャーどころ清水寺。

 

京都では二番目に古い。仁王門の背後には西門、そして三重塔。桃山時代の建築。シーボルト(Wikipedia)により、海外に紹介された。清水の舞台は数回焼失している。現在の舞台は1633年徳川家光の発願で再建された。

 

 

清水寺(音羽山 清水寺)と言えばの清水の舞台。初代は平安時代に建てられたそうだけれど、度々焼失しているらしい。現在の舞台が家光(Wikipedia)の発願とは知らなかったのでビックリ!

 

33年ごとにご開帳する本尊は千手観音像。頭の上に手を合わせた形は清水式と呼ばれる。33年ごとのご開帳は、33の姿で人々を救うことから。

 

 

清水寺のご本尊は千手観音菩薩(Wikipedia)。写真はご本尊様なのかな? お前立かな? この頭の上で手を組んで化仏を捧げている様式を清水型と呼ぶのだそう。tweetでは清水式って書いちゃってるけど、正しくは清水型なのだそう。

 

観音菩薩は三十三の姿に変化し、人々を救うといわれている。この三十三観音についてはWikipediaの三十三観音の項を見ていただくとして、三十三観音にちなんで33年毎に御開帳ということは、その時々現れるお姿が違っているということなのかな? イヤ、もちろん本当に変わっているということではなくて! あくまでも役割というような・・・ 上手く言えないな

 

えんちんとぎょうえ(変換が…)が出会ったのが音羽の滝。坂上田村麻呂は身重の妻に鹿を食べさせるため、東山に入り音羽の滝でえんちんと出会い、仏教に帰依し寺を建てた。これが清水寺の始まり。ぎょうえが開祖、延鎮が開山、坂上田村麻呂が本?←忘れた スマホからだと効率悪い

 

延鎮(Wikipedia)が夢のお告げにしたがって清泉を求めて行くと、音羽の滝で行叡居士(Wikipedia)と出会った。それが清水寺の音羽の滝(Wikipedia)。どうやら、この行叡という僧は実在したようだけれど、延鎮と出会った時にはかなり長生きしている設定らしく、伝説化してしまっているのかも? もちろん出会ったこと自体は事実だと思うけれど・・・


飛鳥時代の有名な武将 坂上田村麻呂(Wikipedia)が延鎮と出会い、清水寺の元となる寺を建て、その後も清水寺の発展につとめたというのは知らなかった! 平清盛(Wikipedia)が南都焼討(Wikipedia)を行ったりと、寺社や僧侶が力を持つことになった背景には、そもそもの寺の起源や発展に、時の権力者が結びついていたことが原因なのでしょう。


行叡が開祖、延鎮が開山、坂上田村麻呂が?っていうのは、調べてみたけど分からなかった


 1時間1時間前

源氏物語、枕草子にも登場。平安時代から観音信仰の人々で賑わっていた。本堂前に2本の錫杖沢。大は90キロ。弁慶のものと言われているが、修験者が奉納したもの。


「源氏物語」(Wikipedia)は田辺聖子訳を読んだことがあるし、大和和紀のマンガ「あさきゆめみし」(Wikipedia)を全巻持っているのだけど、清水寺出てきたっけ? あれ?(o゜ェ゜o) どうやら、夕顔が六条の御息所の生霊に襲われ亡くなった後、荼毘にふされるシーンで、清水詣で賑わう清水寺の様子が描かれているのだそう。この頃、清水寺詣でが盛んであったのだとしたら、同時代に生きていた清少納言も「枕草子」(Wikipedia)に書いたでしょうねぇ・・・


清水寺は3回くらい行ったことあると思うのだけど、錫杖あったっけ? その重さから弁慶が使ったものと言われているそうだけれど、修験者が奉納したそうで、たしか明治時代と言っていたように思ったのだけど・・・ 清水寺のサイト(本堂と清水の舞台|音羽山 清水寺)によると明治中期に奉納されたのだそう。大が90kgで、小は14kgとのこと。ちなみに12kgの高下駄もあるらしい(笑)

 

清水の舞台から飛び降りたという記録は200件以上で、85%は助かっている。一応、願掛けの最後の仕上げとして、飛び降りて助かれば願いが叶い、失敗しても補陀落浄土に行けると考えた。現在は禁止!

 

"清水の舞台から飛び降りる"というのは、一大決心をすることわざだと思っていたのだけど、どうやら願掛けの最後の仕上げとして飛び降りていたらしい!∑(゜ω゜ノ)ノ 前述したとおり、現在の清水の舞台は江戸時代に再建されたそうで、現在の舞台はビルの4階に相当するらしいけれど、それ以前の舞台の高さがどのくらいなのか不明だし、江戸時代以降も行われてたのかは不明。でも、85%は生存しているそうでビックリ! 失敗しても補陀落浄土(補陀落浄土(ふだらくじょうど)とは|コトバンク)に行けるという考えは、本人にとっては幸せなのかもしれないけれど、仮に補陀落浄土に行けたとしてもやっぱり"自殺"だからねぇ・・・ その辺りの宗教観との線引きは難しい。まぁ現在、その考え方を推奨してはいないと思うので、大丈夫だとは思うけれど(o´ェ`o)ゞ 


成就院。住職が住んだ本坊。相阿弥が作庭、小堀遠州が補修した。東山を借景。誰が袖手水鉢は豊臣秀吉が寄進。秀吉は観音菩薩を信仰。大政所の病気平癒を祈願した。


成就院(成就院|音羽山 清水寺)とGoogle検索かけると、どうしても鎌倉のあじさい寺の方が出てきてしまう。鎌倉のお寺と関連があったりするのかな? 結構、例えば全国各地に国分寺を作ったりとか、政策として行った場合もあるし、信仰が広まるにつれ同じ名前のお寺や神社が全国に建てられたりしたし。そもそもは、木の水寺が焼失した際に、再建資金を集めるために勧進活動を行った願阿上人の住房として建てられたのが始まりなのだそう。



相阿弥(Wikipedia)って知らなかったけど、室町時代の絵師なのね? その相阿弥が作庭した庭を、小堀遠州(Wikipedia)が補修したとかスゴイ話。誰が袖手水鉢というのは手前に写っている手水鉢。袖が垂れているような形をしているので、誰が袖手水鉢と言うらしいのだけど、その感じは伝わらないね 豊臣秀吉(Wikipedia)が寄進したとはビックリ。観音菩薩を信仰していたのね? なるほど(笑)

 

月照上人は寺のため、国のために奔走したが、幕府に追われ、西郷隆盛を頼り薩摩へ逃げたが、入水した。

 

当blogの【備忘録】シリーズの主旨としては、お寺や仏像、文学作品などの解説的番組を見て、そこから得た知識を忘れてしまわないようにtweetしておき、不足している知識をWikipediaなどで調べて補足しておいて、後から見返せるようにしたいというもの。せっかく得た知識を無駄にしてしまうのはもったいないので(笑) しかしね! PCならともかく、スマホのフリック入力ではなかなか追いつかなくて、結果上のtweetのように、何だこれ?というものが出てきてしまう 


ということで、Wikipediaを調べてみたところ、月照上人(Wikipedia)は幕末の成就院の住職。尊王攘夷派(Wikipedia)だったようで、国を思い奔走したことで、幕府の怒りを買い、薩摩で入水したということだったらしい 「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」という辞世の句も番組では紹介されていた。どうやらこの錦江湾への入水は西郷隆盛(Wikipedia)と共に行ったそうで、西郷隆盛は奇跡的に助かったのだそう。そんなことがあったなんて知らなかったのでビックリ!

 

松原橋=旧五条大橋=清水大橋。清水詣ではこの橋から始まった。清水参詣曼荼羅。→八坂の塔(東寺、興福寺につぐ3番目の高さ)→三年坂(妊婦が息を切らしたため産寧坂が訛った)



このtweetだけ読んだらなんのこっちゃ?なのだけど、これは、清水寺詣での様子を描いた清水参詣曼荼羅(Wikipedia)に沿って、清水寺とその周辺をしていた時のメモ(笑) 現在の松原橋(Wikipedia)が旧五条大橋(Wikipedia)だったそうで、清水寺詣ではここから始まった。そのため清水大橋とも呼ばれていたのだそう。


 

清水寺の周辺には八坂の塔でおなじみの法観寺(Wikipedia)や、途中で転ぶと三年以内に死んでしまうという言い伝えがある三年坂があるという説明。三年坂というのはそもそも産寧坂(Wikipedia)が訛ったものだというのは興味深かった! 三年以内に死んでしまうのと、妊婦さんが息を切らして上ったのとでは意味が全く違う! そもそものほのぼの感にビックリ(笑)


江戸時代に五条坂から参詣するルートが開かれた。清水焼の産地。成就院が管轄。清水六兵衛。


これもtweetが説明不足なのだけど、要するに江戸時代に開かれた五条坂ルートが、いわゆるお土産的な要素もあったためか、清水焼の産地になった。しかも、その生産を成就院が管理していたというのがまたビックリ! 江戸時代ってかなり都市整備ができていたようで、江戸も世界的にも高度な都市だったようだけれど、京都もそうだったのでしょうかね? 唐突に出てきた清水六兵衛(Wikipedia)というのは、その清水焼の産地の中でも中心的な人物で、現在も名前を受け継いでいて、当代は八代目。建築を学んだ八代目の作品は、図面を引いてから製作するそうで、その斬新な作品は海外でも評価が高いのだそう。


今回は清水寺ということで超メジャー寺院。知っているようで知らないことも多いので、とっても勉強になるし、昔から超メジャーゆえに、奈良時代から始まり、その時代ごとの人々の暮らしや考えも知ることができて楽しい。でも、やっぱりこじんまりとしたお寺の方が好きかなぁ。あくまで個人的な好みの問題。


古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:中宮寺・法輪寺」

2015-06-17 22:26:29 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:中宮寺・法輪寺」


 
まずは、中宮寺から!

7世紀初頭に聖徳太子が斑鳩の宮に移り住んだことにより、日本の仏教の中心となった。中宮寺は聖徳太子の母の発願により、尼寺として建てられ、1600年頃からは門跡寺院となった。現代の本殿は昭和に建てられた。本堂の周囲に池を張り巡らしているのは消化用水とするため、耐震耐火設備も!


中宮寺(聖徳宗 中宮寺 公式ホームページ)を発願したのは、聖徳太子(Wikipedia)の母穴穂部間人皇后(Wikipedia)。後に出てくるけど、当時600人近い尼僧がいたそうで、隣接する法隆寺が男性の僧侶のための寺であることから、尼僧のための寺として発願されたのだそう。


中宮寺_本堂 


中宮寺は2度訪れたことがある。昭和に建てられた本堂は、世界最古の木造建築である法隆寺(法隆寺)を見た後では、ありがたみが薄いような気がしたけれど、水に浮かぶその佇まいは、極楽浄土を思わせた。度重なる火災に備えてのことだったとは知らなかった! あの美しい菩薩様をお守りするためだったのね


本尊は如意輪観音と伝えられている。半跏思惟(本来は弥勒菩薩)の姿は菩薩が人々をいかに救うか考えている様子を表している。アルカイックスマイルの典型。スフィンクス、モナリザと並び世界三大微笑像。飛鳥時代は一木造りが多いが、寄木造り。装飾をしていたと思われるが失われた?


中宮寺_半跏思惟像


自分が今まで見た中で一番美しく、一番好きな仏様が中宮寺の菩薩半跏像(半跏思惟像(はんかしゆいぞう)とは|コトバンク)。右ひざを左足の上に乗せ、頬にそえた右腕を右ひざの上に乗せるポーズを、半跏思惟という。これは弥勒菩薩(Wikipedia)のポーズなのだけど、お寺では如意輪観音(Wikipedia)として伝わっているそう。 tweetにもあるとおり、人々を救う方法を考えておられる姿なのだけど、口の端を少し上げたアルカイックスマイルと、長い間に黒光りしたお体からは、宇宙の広がりを感じさせる。これは弥勒菩薩が釈迦入滅後56億7千万年後に地球に下生すると言われていることから影響を受けているのかもしれないけれど、本当にこの菩薩様の前に座っていると、その背後に宇宙空間を感じる。正気ですよ!(笑)

 

脇侍は薬師如来と阿閦如来。阿閦とはサンスクリット語で動じないと言う意味。お前立は大日如来と同等に考えられる。お前立が何か聞き取れず。


お前立について調べてみたけど分からず 童子のような姿をしていたように思うのだけど・・・ 阿閦如来(Wikipedia)はサンスクリットでアクショービヤで、これは不動という意味があるとのこと。

 

天寿国曼荼羅 天寿国=極楽浄土 聖徳太子の后が作らせた刺繍曼荼羅。製作時は4m四方と巨大であった。現存するのは鎌倉時代にはぎ合せたもの。描かれた人物たちから飛鳥時代の生活を知ることが出来る。月の中にはウサギが描かれてる。100個のカメの甲羅に文字が描かれていた?


中宮寺_天寿国曼荼羅繍帳


正式名称は天寿国曼荼羅繍帳で、tweetにもあるとおり極楽浄土を表した刺繍。奈良時代の人こんな感じだったのか~ なんかカワイイ

 

世間虚仮 唯仏是真 聖徳太子が愛した言葉。仏教の喜びを知って欲しい。2歳で南無仏と唱えた?


亀の甲羅に書かれていたであろう文字が"世間虚仮 唯仏是真"(世間虚仮唯仏是真とは|コトバンク)で、聖徳太子の言葉であるとのこと。聖徳太子は2歳で南無仏と唱えたという伝説があるらしい!

 

飛鳥時代の中宮寺は現在より500m東に位置していた。1600年頃から門跡となり、斑鳩御所と呼ばれた。表御殿は迎賓館として使われた。江戸時代前期の建立。書院造。6つの部屋にそれぞれ障壁画。唐子遊戯図、吉野山の桜、立田山が紅葉に染まる図 上段の間は全てが金色


中宮寺_表御殿


穴穂部間人皇后の発願により建てられたお寺だけど、門跡となったのは1600年頃なのだそう。皇族を迎えるために建てられたのが表御殿で書院造。上段の間は皇族の居間ということらしい。天皇をお迎えすることもあったのかな?


創建当時から尼寺。男子禁制の札が残されている。推古天皇の時代1300人超の僧侶の内569人が尼僧であったと言われている。菩薩半跏像は女性的な強さを感じさせる。 

 

ここから、法輪寺!

 

斑鳩 三井地区 聖徳太子が掘らせた三つの井戸。法輪寺=三井寺とも呼ばれる。山背大兄王所縁の寺と言われている。法隆寺式伽藍配置。飛鳥時代の創建当時からこの形式。金堂 1645年の台風で倒壊、現在の金堂は1701年に再建。三重塔はかつて斑鳩三塔と呼ばれたが、ある悲劇により失わた。


聖徳太子が斑鳩宮(Wikipedia)に移る際に、三つの井戸を掘らせたことから三井という地名になったとのことで、このうちの1つが今もこの地に残る赤染井だと言われいるのだそう。法輪寺(法輪寺ホームページ)を創建したのは聖徳太子の息子である山背大兄王(Wikipedia)なのだそう。


法輪寺 


ちょっと分かりにくいけど、この門を入って左手に塔、右手に金堂が配置されているのが法隆寺式伽藍(法隆寺式伽藍配置とは|コトバンク)というのだそう。


三重塔は昭和19年に落雷により焼失。昭和50年に現在の三重塔が完成。人々の悲願であった。釈迦如来坐像、四天王像、仏舎利は落雷時に救い出され、現在も同じ形で安置されている。心礎は建立時のものが使用され、外観も飛鳥時代の姿を再現している。


法輪寺_三重塔 

 

斑鳩の地は瓦の産地。三井瓦窯跡(三井瓦窯跡(みいかわらがまあと)とは|コトバンク)。飛鳥時代、瓦を用いるのは寺にのみ許されていた。高温多湿の環境から建物を守り、日本的な風景を守る意味で、瓦ぶきが愛された。 

 

法輪寺本尊 薬師如来像 五体健全 病気平癒のご利益があると信仰を集める。薬壺を持たない古来の姿。飛鳥時代の特徴である楠の一木造。虚空蔵菩薩立像。左手に水瓶、右手を上に向けているのは観音菩薩の特徴? 信仰すると知恵が増す。知恵の仏。楠の一木造り。


法輪寺_薬師如来

 

法輪寺_虚空蔵菩薩

 

法輪寺の薬師如来様(Wikipedia)も、虚空蔵菩薩様(Wikipedia)も、飛鳥時代の特徴である楠の一木造りだそうで、とっても素朴で親しみやすいお姿をしておられる。目がアーモンド形なのも飛鳥時代の仏像の特徴。光背に彩色が残っているのが素晴らしい!


十一面観音菩薩は3m超。台座から一本の木から彫り出している大作。あらゆる方角に顔を向けて人々を救う。飛鳥時代から信仰を集めた。日本の黎明期に仏教を信仰した聖徳太子の思い。国づくりに仏教を取り入れた。


法輪寺_十一面観音菩薩

 

十一面観音菩薩様(Wikipedia)はなんと台座から一本の木で造られているのだとか! しかも3m超ってスゴイ!! この十一面観音様も飛鳥時代の作らしいけれど、モダンなお姿。


妙見堂 星の仏 妙見菩薩は秘仏。北辰妙見。北辰=北極 お前立は妙見菩薩立像 右に筆を持つのが特徴だが失われている。天体の動きは人界のあたゆることに影響を与える←中国の考え方 妙見=善悪を見通す、未来を見通す 聖徳太子ゆかりの妙見菩薩ということで商人たちの信仰を集めた。


妙見菩薩様(Wikipedia)という仏様については知らなかった! まだまだ知らない仏様がいらっしゃる。


度重なる災害により焼失してきた法輪寺だが、そのたびに復興の手を差し伸べる人々が現れるのは、聖徳太子を慕う心によるものだと思われる。和を重んじる心。

 

お寺って木造建築であるだけでなく、塔などを配置しているため、その土地で一番高い建物だったりするので、落雷などの被害に遭いやすい。戦などもあったりして焼失してしまうことが多かった。その度、人々によって仏像が運び出されたり、復興されたしてきたから、日本にはたくさんのお寺が残っている。そういう名もなき人々の気持ちに涙してしまう


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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:唐招提寺」

2015-06-10 22:41:53 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:唐招提寺」


京都と奈良を中心に古寺を紹介する番組。落ち着いた語り口で分かりやすいので、毎回楽しみにしている。せっかくなので気になったことをtweetして、備忘録としてWikipediaなどで調べたことを追記しつつ残している。今回は大好きな唐招提寺


759年平城京五条二房に唐招提寺(Wikipedia)が開かれる。奈良時代に建てられた金堂で現存するのは、天平の甍で名高い唐招提寺の金堂のみ。本尊盧舎那仏は太陽を象徴。光背862体のお釈迦様。千の蓮の花から千の釈迦。薬師如来は与願印とせむい印(←変換でない)を結ぶ。千手観音5.4m元は千→953本


聖武天皇(Wikipedia)と光明皇后(Wikipedia)が平城京(Wikipedia)を整備するにあたり、朱雀大路(Wikipedia)を中心として右京・左京・外京にわけ、それぞれに条と坊で区画を分けた。tweetでは房になっちゃってるけど坊だったのね 唐招提寺が開かれたのは五条二坊。


 

後に出てくるけど金堂は何度か修復が行われている。直近は平成12年から9年かけて行われた。この平成の大修理を取材したドキュメンタリー番組はもちろん見て録画してある。この時だったか唐招提寺については一度調べたことがあったような気がするんだけど、旧blogに記事書いてたかな? ちなみに修理を終えた後訪れて大好きな場所になった。

 

大好きになった最大の理由は後に出てくるけど、他にもいくつかあって、その1つが金堂の3体の仏像。ご本尊盧舎那仏の光背に862体のお釈迦様がいらっしゃるとは知らなった! tweetにある千の蓮が由来となっているそうなのだけど、862体なのは138体は無くなってしまったのかな? 薬師如来が結んでいるのは与願印と施無畏印。施無畏印は恐れなくてよいという意味で、与願印は願いをかなえるという意味。詳しくは印相(Wikipedia)で。


盧舎那仏


薬師如来


盧舎那仏も薬師如来も素晴らしいのだけど、唐招提寺で見るべきなのは千手観音! tweetにもあるとおり、作られた時には千本の腕があったそうだけれど、現在は953本。これ平成大修理の際に実際に全て取り外して、再度組み直したので正確な数が分かっている。千本作っただけでもすごいのに、組み立ててこの形になっているというのがスゴイ! しかも5.4mの迫力ボディ! これ約1300年前に作ったんだと思うと本当に感動して泣けてくる。それが仏像に惹かれる最大の理由なんだと思う。


千手観音

 

千手観音の宝珠と宮殿は作られた当時のもの。宮殿は金堂に似ている? 三尊は国宝。金堂も国宝。鑑真和上の弟子が完成。御朱印は盧舎那仏。


千手観音(Wikipedia)の正式名称は千手千眼観音菩薩なのだそう。唐招提寺のように千本作られることはまれで、実際は四十二臂で表されることが多いそうで、もともとはそれぞれの手に何かを持っていたらしい? 宝珠と宮殿は天平時代のものなのね? こういう時に昔の人を愛おしく感じる。

 

講堂も国宝。唐招提寺を開いた際最初に建てられた。弥勒如来坐像が安置。大小16のお堂がある。

 

御影堂。鑑真和上が祀られている。唐から戒律=僧侶が守るべき規律を伝える。少年時代に訪れた寺で見た仏像に魅せられ仏門へ。長安で律宗を学ぶ。僧侶の行いを集団で学ぶのが律宗。2人の日本人僧侶が和上を訪ね来日を依頼。租税逃れのために僧侶になるものが続出。仏教は間違った方向に?


 21 分21 分前

渡航を決意してから12年後、754年光を失いながらも来日を果たす。授戒のための戒壇を東大寺に開く。唐招提寺では現在も戒壇が行われている。戒律の他にもドーナツなどの物資もたらす。←言葉の壁はどうしてたのだろう?


後に出てくるけれど、唐招提寺は鑑真和上(Wikipedia)が個人のお寺として開いた。tweetにもあるとおり、日本の仏教にいわゆるルールづけをするために、唐から僧侶を招こうと考え使節が送られたわけだけど、当初は鑑真のような高僧が来てくれるとは思っていなかったんじゃなかったっけ? 確か誰も志願者がいなかったため、自ら行こうと言ってくださったような? 12年間で5度の渡航失敗。やっと来日を果たした時には失明していたというのは有名な話。鑑真和上が戒律を授ける場所として東大寺戒壇院が開かれたんだよね? その後、鑑真と意見が分かれ追い出されるような形で東大寺を出て、唐招提寺を開いたのじゃなかったかな? 唐招提寺という名前にも意味があったような気が・・・ 唐招提寺のもとになった4文字を称徳天皇が書かれたとか・・・ あれ? 後で調べておく!

 

松尾芭蕉は江戸時代初め鑑真和上像と対面し句を残した。 鑑真和上御廟!ここ本当に別世界で、結界を感じた。また行きたい!!


松尾芭蕉の頃は対面できたの? 今は秘仏だよね? 唐招提寺に感動したのはここ。鑑真和上御廟。御影堂から続く石塀の狭い道の辺りも静かでとても懐かしくなるような場所なのだけど、そこから一歩入ったこの場所。鑑真和上が眠る御廟まで続く道。苔むした両脇には木が並ぶ。本当にシーンという音が聞こえてきそうなくらい静かな場所。ついつい自分たちも喋ってはいけないような気になる。すでにこの世ではないような雰囲気。お寺はそもそも結界を表しているのだと思うけれど、それが本当に納得できたというか、自然と結界に入ったんだなと思った場所だった。

 

御影堂の障壁画を担当した東山魁夷画伯は鑑真和上の心に打たれ、12年の歳月を費やして完成させた。


御影堂の中には入らなかった(入れない?)ので東山魁夷画伯の障壁画は見ていないのだけど、放送を見て感じたのは静かな中にも何者にも侵されない強さ。まさに鑑真和上その人のようだった。

 

荒れ果てた唐招提寺を立て直したのは森本孝順長老。森本長老は住職であった寺から毎日2時間かけてバスで唐招提寺に通った。鑑真和上の里帰りを実現。東山画伯に依頼したのも森本長老。生涯独身で律僧として通した。


森本孝順長老(Wikipedia)のことは、恥ずかしながら存じ上げなかったのだけど、この方が唐招提寺を生き返らせて下さったのですね 唐招提寺の末寺である講御堂寺の住職であった頃、荒廃していた唐招提寺を再興すべく毎日2時間かけてバスで通われたのだとか。鑑真和上の12年間かけての渡航ほどの派手さはないものの、自分にはない信仰心とか信念の強さに感動する。なんとかしたいという思いに突き動かされた人は強い。

 

金堂の屋根には鴟尾が乗っている。鴟尾は雷除けとも魔除けとも言われている。平成の修理で新しい鴟尾となったが、天平時代の鴟尾も展示されている。この鴟尾作るの大変な苦労されてんだよね。金堂修復ドキュメンタリー見直そう!

 

天平の鴟尾もまだ生きている! 感動。・゜・(ノД`)・゜・。


鴟尾(Wikipedia)っていうのは、お寺の屋根の両端についている飾り的なもの。雷除けの意味があるとは知らなかった! たしかに天平時代だって雷は落ちたよね(笑) 雷のメカニズム(?)は変わってないわけだから、基本高い建物に落ちてるってことで、分かる気もするけど素材的にどうなの? 避雷針じゃないからいいのか?(笑)


上の方でチラリと触れたドキュメンタリー番組で大きく取り上げられていたのが鴟尾作り。基本使える物はそのまま使うという修復方法だったと思うけれど、鴟尾は作り直しってことになったんだよね。屋根の上に乗っているから大きさが分かりにくいけど、実際はかなり大きい。これを土で作って焼いたんだと思ったけど、大変な苦労をされていた。今回番組内でもその苦労の一部が紹介されていたけど、割れてしまったりしてた。


屋根に乗っていたのは天平時代のものと、もう少し時代が下ったものだったけど、2つとも展示されている。かなり近くで見ることができるようなので、次回是非訪ねてみたい。「天平の鴟尾もまだ生きている」という言葉は、平成の鴟尾を作られた方のもの。その言葉に感動。天平時代の職人と平成の職人がつながり、そして未来の職人につながって行く。感動


唐招提寺の鴟尾 

平成の鴟尾には避雷針がついているのね

 


唐招提寺が奈良時代に建てられた寺と違うのは鑑真和上が個人で開いた寺であること。地方から僧侶になることを志してやって来た人々のために、共に暮らしながら修行できる場所を作った。その志に打たれた人々の寄付により建てられた。

 

この辺りのことはテレビ番組の再現ドラマで見たような気がする。たしか鑑真和上の弟子を中村獅童が演じてなかったかな? あれ??  

 

ああ、そうだね・・・ だから唐招提寺はとっても清々しいのか。本当に鑑真和上御廟は素晴らしい場所だった!結界ってこういうことかもと思った場所。


上にも書いたけれどお寺というのは結界の意味もあるのだろうから、そもそも日常とは違う空間ではあるのだけど、やっぱり戒律を授ける場所であること、今もそれを守っていることなどからくる"律"のようなものを感じるのかな・・・ 唐招提寺って有名なお寺なのに、派手なところがなくてとてもシンプルで静か。その感じがとっても好き。そして鑑真和上御廟で感じた結界感。また行きたいなぁ・・・

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:妙心寺」

2015-06-07 18:20:22 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:妙心寺」


毎週楽しみにしている京都と奈良を中心とした古寺を紹介する番組。毎回気になったことをtweetして、後からWikipediaなどで調べて追記したり、リンク貼ったりしている。ということで、今回もその形で行きます!( ・Θ・)ゞピヨッ


七堂伽藍:寺院の主要な7つの建物。三門・仏殿・法堂が一直線に並ぶのは典型的な禅宗の伽藍配置。禅宗では仏殿前の門を三門と呼ぶ。妙心寺の三門は桃山時代に建てられた。東福寺、大徳寺に続く古さ。三門=三解脱門、迷いや悩みから解き放たれて到達すべき3つの心 空・無相・無作

 

後ほど追記!


三門には空の教えを広める観音菩薩が祀られている。脇侍は善財童子と月蓋長者、その両脇に十六羅漢。天井には迦陵頻伽などの仏画。外気に触れないため当時の色彩が残っている。

 

仏殿には本尊釈迦如来。脇侍に阿難尊者と迦葉尊者を従えるのは禅宗の配置。釈迦如来の左手に金波羅華を持ち、右手を添える形は蓮華微笑(れんげみしょう)と呼ばれる禅宗の根幹に関わる話を表したもの。

 

修行に集まった者たちに何も言わず花を差し出した。迦葉尊者のみが意味を理解した。大切な教えを迦葉尊者に不立文字・教外別伝で伝えた。

 

言葉は危ういもの。禅宗=仏心宗 言葉や文字に頼らない釈迦の心そのものを伝える教え。師から弟子への直接的な導き=以心伝心が重要。

 

玉鳳院は第95代天皇花園法皇が宗峰妙超(大燈国師)に帰依し、離宮を禅寺へ改めた名残の建物。妙心寺発祥の地。妙心寺から臨済宗の流れが生まれた。1337年宗峰妙超は病に倒れる。法皇に関山慧玄を推挙。玉鳳院と渡り廊下で結ぶ開山堂(微笑院)に関山慧玄が眠る。

 

法堂の天井画は狩野探幽による雲龍図。龍は仏法を守護する存在のため、説法の場である法堂に描かれる。また水をつかさどるため、伽藍を火災から守る願いも込められている。探幽が構想3年、描くのに5年かけた傑作。←これ素晴らしい!さすが探幽!見たい!!

 

禅宗は日常生活も修行。大庫裏は室町時代末に建てられ江戸時代に改装。庫裏とは寺院の台所。仏事法要の際大人数の食事を整える場所。数十年前まで使用されていた。浴室は昭和2年まで使用。6~7人並んで入れる。明智風呂と呼ばれる。叔父密宗和尚が光秀の菩提を弔うために建てた。汚名洗い流す?

 

応永の乱。当時の住持が大内義弘と関係あり、足利義満の怒りを買い妙心寺は全てを没収されてしまう。変換されたのは33年後。日峰宗舜は塔頭養源院を建て、これを基盤に妙心寺を立て直した。

 

室町時代禅宗では京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)が力を持っており、五山は叢林と呼ばれ、これに対し幕府の保護を受けない禅宗寺院を林下と呼んだ。妙心寺は山隣派と呼ばれ地方の戦国大名と結びつきを強めた。戦国時代に入ると戦国大名と共に力を持った。

 

織田信長や武田信玄の供養塔があり、江戸時代には塔頭は100を超え、末寺は5000を超え、京都五山をしのぐ巨大な禅寺となった。

 

塔頭=寺から出た高僧の墓。その傍に弟子たちが小庵を立てて、墓を守っていたものが寺となった。塔頭が多いということは、弟子に慕われた高僧が多いということ。

 

国宝「瓢鮎図」 公案=禅問答 ぬるぬるしたナマズを、どうやって瓢箪に入れるか? 答えが大切なのではなく、そこに至るまでの自分の考えが重要。

 

世界遺産 臨済宗妙心寺派龍安寺。有名な庭園は庫裏に繋がる方丈にある。日常に楽しむにはあまりに厳格だと志賀直哉が評した。自分自身と向き合う場所。

 

毎年4月15日法堂で入制上堂が行われる。3ヶ月間にわたる修行の始まりの儀式。住持が説法を行う。インド4~7月が雨季で、釈迦の弟子たちは一カ所に集まり修行した。これが由来となり夏と冬の180日間修行に入る。入制上堂後仏殿に移り楞厳会を行う。楞厳呪は陀羅尼の一種。

 

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【tv】「海を越えたアメリカン・プリンセス」放送@BS1

2015-06-01 23:35:26 | tv

 【tv】「海を越えたアメリカン・プリンセス」放送@BS1

「ダウントン・アビー」ファン必見!伯爵夫人コーラを演じるエリザベス・マクガヴァンが案内するドキュメンタリー「海を越えたアメリカン・プリンセス」がNHK BS1にて今夜から連続放送!

あのチャーチル首相の母やダイアナ妃の曾祖母もイギリス貴族と政略結婚したアメリカ人大富豪の娘たちでした。「ダウントン・アビー」でマギー・スミス演じるバイオレット様のモデルとなった女性の孫も登場!「海を越えたアメリカン・プリンセス」

先日シーズン3の放送が終了した「ダウントン・アビー」で、伯爵夫人を演じているエリザベス・マクガヴァンが案内人となって、19世紀から20世紀にアメリカからイギリスに嫁いだ女性たちを紹介するドキュメンタリー番組。BBC Japan公式がtweetしてるってことは、BBC製作の番組なのかな? エリザベス・マクガヴァンが案内人なのは伯爵夫人がアメリカから嫁いだ設定だからだよね。これは面白そうなので録画済み! 第1回はウィンストン・チャーチルの母となったジェニー・ジェロームも登場! 楽しみ

Paris:

ナポレオンⅢ世とウジェニーの時代。財産があればOK。1870~71年普仏戦争の後、プロイセンに占領される。


England:

女王を頂点とした貴族社会。New Yorkより閉鎖的。長男のみ爵位と財産を相続。農業のグローバル化が進み、貴族は困窮していた。


London:

人口400万人。社交界は1,500人。ザ・シーズンと呼ばれる若い男女が社交界デビューする場。結婚相手を探す。数か月間続く。


生活に困窮したイギリス貴族が裕福なアメリカ人女性を探す。→アメリカ国内でも揶揄される


【ジェニー・ジェローム】ウィントン・チャーチルの母 オスカー・ワイルドに美しさを称えられる

父レナード:貧しい農夫、母クララ:富豪だが原住民の血を引いている? → 社交界には入れない


1870年

母クララ、ジェニーたち3姉妹を連れてパリへ。コンスエロ・イズナガと親交。

普仏戦争でロンドンへ移動。ザ・シーズンでスターになるべく乗り込む。

アルバート・エドワード皇太子と知り合い気に入られる(特にコンスエロ) 人々は皇太子の機嫌を取るためアメリカ娘をあてがった。


1873年8月12日 夏のザ・シーズン ワイト島

マールバラ公爵三男 ランドルフ・チャーチルと出会う。ランドフルの一目ボレ。出会って3日目でプロポーズ。両家の大反対にあう。三男であること、アメリカ人であること。思い通りにならなければ結婚しないと主導権はジェニーが握る。皇太子のサポートがあり婚約。


1874年(?)4月15日 パリのイギリス大使館で結婚

ジェニーはレディ・ランドルフ・チャーチルとなる。持参金約100万ドル。全て夫のものになってしまうことを父レナードが心配する。7か月後、ブレナム宮殿でウィンストン・チャーチルを出産。


ランドルフ・チャーチルは結婚前に貴族議員となる。ジェニーは夫のために奔走。夫の政治活動を裏で操る。ランドルフは時期首相候補となる。


ジェニーは義母と折り合いが悪く、イギリスでは賢さを見せると嫌われると語る。後、ランドルフと別居。愛人200人、皇太子とも関係が?など男性関係の噂が立つ。


ランドルフ突然の辞任。原因は梅毒。息子に悪い噂が立つのを恐れてのこと。ジェニー、ランドルフを世界旅行へ連れ出す。体調悪化のため棺も用意。梅毒の症状でランドルフ暴れる。ロンドンに戻り1か月後死去。


ジェニー、ウィンストンに愛情を注ぐ。「あなたは人を率いる運命にある」と語る → 後に英国首相となる。


夫の死後、息子と同じ年齢の男性と結婚した。


10年後

マンデヴィルの同棲相手ベッシー・ベルウッドがタクシー運転手に暴行。マンデヴィル子爵破産。


1890年

コンスエロ、マンチェスター公爵死去により、公爵夫人となる。


1892年

マンチェスター公爵死去。


双子の娘メアリーが19歳で熱病、ネリーは22歳で結核で死去。2人の娘に先立たれた悲しみから、教会にティファニーのステンドグラスを寄付する。


【フランセス・ワーク】ダイアナ妃祖母

父:フランク・ワーク オハイオ州の貧しい家庭出身。5ドル持って家出。→遺産1,500万ドル(現在価値3億7,900万ドル)の大富豪となる。


1876年

アイルランド貴族ジェームズ・バーク・ローチに恋する。ジェームズは資産目当て? イギリス貴族嫌いの父フランクは大反対。ジェームズの浪費癖も心配。


1880年9月 結婚

ジェームズ浪費家。一年で250万ドルをギャンブルに使う。


7年後、父フランクは援助打ち切る。 → 借金肩代わり、息子たちは引き取る条件。ジェームズは了承。


父フランク遺言:グレートブリテンおよびアイルランド連合および、その周辺に居住・訪問禁止。ローチ姓禁止。アメリカ国籍を。


息子モーリスはバーモイ男爵となり娘がスペンサー伯爵と結婚。ダイアナ妃の母となる。ダイアナがチャールズ皇太子と結婚し、ウィリアム王子を出産したことから、将来の英国王に繋がることとなった。


というのが、メモに残っていた内容。なんだか、分かったような分からないような・・・(笑)


追記ッ!( ・∀・ )ゞ

録画していた2夜目をやっと見たので追記! ちなみに3夜目は録画失敗していたので見れず ってことで、追記はこれが最後です( ・Θ・)ゞ


【コンスエロ・ヴァンダービルト】1877年生まれ

海運業・鉄道業で財を成した鉄道王ヴァンダービルト家の長女。夏の別邸マーブルハウスの建築費用は現在価値で3億円以上。

母アルヴァは南部出身。南北戦争で財産を失い貧しい暮らし  アメリカの王族を目指す。


アルヴァは過干渉な母親。コンスエロを大富豪の娘として教育。家庭教師にヨーロッパの言語と、レディとしての振舞を学ぶ。背筋を伸ばすために矯正器具をつけたことも・・・ 贅沢だけれど自由のない暮らし。


ケンブリッジ大学とオックスフォード大学の入試試験を取り寄せ、楽に合格できるレベルの学力であった。


アルヴァには、娘をイギリス貴族と結婚させ、公爵夫人にするという野望があった。公爵以下の爵位は認めない!


当時のイギリスでは貴族は1,500あったが、公爵は30。貴族の中の貴族で、1,000年続く家も。神のような存在。ただし、当時は破産寸前の公爵家がほとんどだった。名誉のために生活レベルを落とせない貴族にとって、現金が必要! → アメリカのお金持ちが地位を買うという図式。


例)カナーヴォン伯爵 ハイクレア城(ダウントンアビー舞台)に、アルバート・エドワード皇太子が3日間滞在

  • 料理と飲み物:2万4,000ドル
  • トータル:72万3,000ドル


【コンスエロ ロンドンに渡る】

大西洋を越えた結婚の仲介者ミニー・パジェットを頼る。

  • 肌を露出するようなドレスを着用
  • 自分を気に入りそうな相手にターゲットを絞る  マールバラ公爵=背が低く人物的には魅力がないが、ブレナム宮殿に住んでいる←金食い虫

 

持参金250万ドルのヴァンダービルト鉄道株式で話をつける。現在価値6,300万ドル。


しかし、コンスエロには思いを寄せる男性がいた ウィンスロップ・ラザフォード。既にプロポーズも受けている。アルヴァに訴えるが拒絶されてしまう 


アルヴァはマールバラ公爵との挙式の日取りなどを、どんどん決めてしまう。  アメリカ版ロイヤル・ウェディングとして大ニュースになる。


【結婚式】

1895年11月16日 New York 聖トマス教会 第9代マールバラ公爵 チャールズ・スペンサー・チャーチル(サニー)と結婚。18歳。


コンスエロは挙式前の数日部屋に閉じ込められていた。当日、ほとんど知らない相手との望まない結婚が嫌で涙に暮れる。泣き顔を見せられないと20分式に遅刻。望まない結婚であることはサニーも同様。挙式中花嫁を一度も見ない。  世紀の政略結婚であることが知れる。風刺画も出回る。


【コンスエロ19歳】

ブレナム宮殿で、役割分担にこだわりお高くとまる使用人に手を焼き、夫との間に愛のない結婚生活を送る。「君は鎖の輪の一部だ」と夫に言われショックを受けるが、それはサニー自身のことでもあったのかも?


1702年から続く家系。ブレナム宮殿はフランスに大勝利した褒美。代々受け継いだものを、次代に引き継ぐことのプレッシャー。  息子2人(ジャン & アイヴァー)


ブレナム宮殿(現世界遺産)の配管や暖房施設、ヴェルサイユ宮殿のような装飾、庭園はコンスエロの持参金で修復。

 

【福祉活動】

コンスエロは恵まれない人々を助けたいという思いにかられ、福祉活動を開始する。


1906年には貴族社会の中心となり、地位と権力を得る。


【スキャンダル】

サニーの従兄弟、ウィンストン・チャーチルと親交を深める。母親のジェニー・ジェロームも相談相手になったのではないか?


サニーの従兄弟、チャールズ・ヴェイン・テンペスト・スチュアートと恋に落ち、駆け落ち


スキャンダルになってしまうと、当時の女性の立場として、爵位・財産・子どもを失ってしまう。 チャーチルが仲裁に入り、父親もサニーを説得。

 別居することになり、子供とも会える。 かなり優遇。コンスエロとサニーの力関係が分かる。持参金の力。


【地位を確立】30代

独身、未婚の母のための施設を作る。


1917年 地元の議員となる。 貧しい人々の救済、女性選挙権のために活動。母アルヴァも同じ活動をしており、久しぶりに和解


1921年 離婚。爵位を放棄。フランス人パイロット ジャック・バルサンと再建。35年間幸せに暮らす。


【メアリー・ライター】

1890年代 ロンドンは貴族との結婚を夢見るアメリカ人女性で溢れていた。紹介がないと舞踏会には出られない。


メアリー・ライターはアメリカ人女性のつてを頼り、皇太子も同席する舞踏会に出席、皇太子のお墨付きをもらう。


ジョージ・カーゾンに一目ボレ。ライヴァル多数だけど負けない! 財産がものを言う。


1895年 結婚。持参金で家を立て直す。ダウントン・アビーのコーラのモデルの1人。


ジョージも結婚後、メアリーを愛するようになる。メアリーは夫の政治活動に私財を投入。


1898年 夫がインド総督に就任。3億人を統治する立場となる。ここで才能発揮! 6年間を過ごす。


しかし、36歳の時熱帯の気候で体調を崩し、回復しないまま死去。


夫のジョージは大変に悲しみ、墓地に2人が並んで眠る像を彫刻させた。


というのが、メモとれた内容

 

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:善峯寺・楊谷寺」

2015-05-24 15:45:40 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:善峯寺・楊谷寺」

吉峯寺 本尊は2体の十一面観音菩薩。一体は秘仏。山門の仁王像は運慶。

 

西山善峯寺縁起 源算が開いた寺(現善峯寺)に秘仏の十一面観音が移された。脇本尊となった。天皇家の庇護の元善峯寺となった。

 

源算上人(源算(げんざん)とは|コトバンク)が善峯寺(京都・西山 西国第二十番札所 善峯寺)を開くにあたり、体験した霊的な出来事を描いたのが西山善峯寺縁起(善峯寺の歴史|歴史とゆかりの人々)。源算上人が霊地を求めて西山に入ると、翁神が現れてここに寺を開くように導かれたり、寺を開くにも岩が多くて地ならしが困難だと思っていると、猪の大群がやって来て一夜で平地になったりと、ちょっと不思議なお話だったりする。


秘仏の十一面観音様を移された元の寺や、それを指示した天皇の名前も言っていたのだけどメモしきれず 後一条天皇が"良峯寺"と命名し、後に後鳥羽上皇から直筆の寺額を賜ったことにより"善峯寺"となったり、天皇家とゆかりが深い。元善峯寺ってtweetしちゃってるけど、これは庇護の下って書きたかった

 

平安時代 末法思想 西方浄土として注目を浴びた西山 開祖源算も阿弥陀如来を信仰


何故平安時代に末法思想(Wikipedia)が流行ってしまったのだろうと思ったら、Wikipediaによると貴族による摂関政治から院政へ移り、武士が胎動して来て世の中が大きく動き始め、治安が乱れたこともあり、そういう感じになってしまったのね 最澄などは既に末法だと思っていたらしい。早いよ最澄(笑) まぁ、末法になって、また新たな世が始まるってことなのかもしれないけど、とりあえずそれから千年以上日本は続いているし、仏教も続いている。形は変わっている部分はあるのかもしれないけれど、それこそが諸行無常ってことなのでしょうし・・・

 

現在残る伽藍を整備したのは桂昌院 桃山時代作の阿弥陀三尊は桂昌院と所縁がある。桂昌院の父は信心深く善峯寺に度々参拝。父亡き後、善峯寺に奉公。やがて公家の養女となり、家光に見初められ、将軍生母となった。このため桂昌院が信仰した薬師如来を出世薬師と呼ぶ


善峯寺は天皇家だけでなく、徳川将軍家とも所縁が深い。それは、桂昌院(Wikipedia)とのつながりから始まる。詳細はtweetにあるとおり、上の"西山善峯寺縁起"にリンクした、善峯寺のサイトでも紹介されている。ここで言う桂昌院の父っていうのは、本庄太郎兵衛宗正のことなのかな? 本当は八百屋の娘とも言われているよね? 善峯寺に奉公したりと、苦労もしたようだけれど、その後の出世ぶりを見ると、運もあるけど優れた女性だったのでしょう。ドラマなどでは気が強く、綱吉に生類憐みの令を出させてしまう悪女に描かれることが多いけれど、本当のところはどうだったのかな?

 

ここから、楊谷寺

 

2本立て 楊谷寺 山門に風神雷神を祀る=観音信仰の寺であるということ( ゜д゜)ホゥ 本尊は十一面千手千限観世音菩薩 秘仏ってことはお前立? 後輩に六道 六道でそれぞれの観音菩薩が救う。修羅道から救い上げるのは本尊十一面観音

 

 

 山門(Wikipedia)に風神雷神が祀られていると、観音信仰の寺であるということなのね? 知らなかった! まだまだ、知らないことが多い。後輩ってtweetしちゃってるけど、これは光背(Wikipedia)。六道(Wikipedia)は上から、天道 ➡ 人間道 ➡ 修羅道 ➡ 畜生道 ➡ 餓鬼道 ➡ 地獄道で、煩悩がある限りこの6つの道を輪廻転生し、前世の行いにより"道"が決定すると考えられている。それぞれの"道"には、担当の観音様がおられ、十一面観音様は修羅道担当。ちなみに、悟りを開くと、この輪廻から外れる。


清水寺を開いた円珍が開祖 西山に行けば観音菩薩が現れると夢でお告げを得る 柳谷観音と呼ばれる 円珍は再び清水寺に戻るが、空海が度々楊谷寺を訪れる 境内に眼病に効くという泉を発見したのが空海 眼病を患った子猿の目を洗う母猿の姿にうたれ17日間祈祷をし、これを治した


開祖円珍(Wikipedia)が楊谷寺を開いた経緯はtweetどおりなのだけど、この方空海(Wikipedia)の甥っ子なのね? なるほど、空海が度々楊谷寺を訪れたのは、地理的に近かっただけではなかったのね。まぁ、その頃には円珍は清水寺(音羽山 清水寺)に戻ってたそうだけれど。そういえば、楊谷寺(京都 眼の観音様 -柳谷観音 立願山楊谷寺)のリンク貼るの忘れてた 柳谷観音と書いて"やなぎたにかんのん"とそのまま読む。円珍が柳の生い茂る中に、生身の観音様のお姿を見たことから柳谷観音と呼ばれているとのこと。


弘法大師空海が眼病に効く泉を発見したきっかけは、母猿が眼を患った子猿の目を洗っている姿を見たからだそうで、この姿にうたれ十七日間祈祷をしたところ、子猿の眼が治ったのだそう。まぁ、こんなことを言っては何だけれど、要するに"ものもらい"とかそういう眼病なのであって、生まれつきの障害が治ったわけではないのでしょうけれど、今より病気の知識が乏しかった当時、藁をもすがる人々の心の支えとなったことは間違いないわけで、そういうことが信仰なのであり、お寺や仏様のあり方なのかなと思った。

 

おこう水←漢字が分からない 眼病に効く泉 江戸時代天皇が眼病を治したため、天皇家とゆかりが出来た


おこう水というのは、独鈷水と書くらしい。これは読めないわ 独鈷(独鈷(トクコ)とは|コトバンク)って空海が手に持ってる仏具だよね? 密教で用いる仏具だそう。


弘法大師空海

 

弁天堂 お前立に和人形 淀殿の姿を模した人形 弁財天=サラスバティー女神 弁財天を拝む同時に、淀殿の冥福も祈る形 豊臣家とゆかりのあった禅寺の僧が、この寺に寄進するよう淀殿に依頼したことから、淀殿と縁ができた


淀殿(Wikipedia)と楊谷寺との所縁についてはtweetどおり。しかし、淀殿を模した和人形が祀られているというのは、かなりビックリした! イヤ、仏教って戒律などが厳しいイメージがあったけど、結構大らかなんだね。弁財天(Wikipedia)が女神だということもあるのでしょうけれど


今回は歴史上有名な女性2人にゆかりのお寺ってことで、興味深く見た。やっぱり歴史って面白い

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:高野山」

2015-05-16 23:12:39 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:高野山」


ということで、2時間SPの2本目。2本目は高野山。高野山は行ったことないので、行ってみたい! 

遣唐使として唐で学んだ弘法大師空海は真言密教を伝えた。高野山は密教の聖地の中の聖地。


高野山(Wikipedia)は和歌山県にある山。比叡山と同じく、高野山全体が日本仏教の聖地ということになっている。一応、メインのお寺は金剛峰寺(高野山真言宗 総本山金剛峰寺)ということになるのかな? 開祖は弘法大師空海(Wikipedia)

 

金剛峰寺 高野山総本家 明治以前は高野山全体が金剛峰寺と呼ばれていた。高野山二大聖地 壇上伽藍と奥ノ院。壇上伽藍へ向かう道を蛇腹道と呼ばれる。壇上伽藍は空海が開いた修行道場。


高野山総本家って書いちゃってるけど、もちろん総本山で、奥ノ院って書いちゃってるけど、こちらも奥之院が正しい。慌ててtweetしてるから変換ミス多い


金剛峰寺_高野山


壇上伽藍は空海が曼荼羅に基づいて創建したとのこと。奥之院は空海の御廟の他、皇室・公家・大名などの墓があるのだそう。その件については下の方で・・・ 


壇上伽藍_高野山

 

密教の中心は大日如来。宇宙そのもの。この世の全ては大日如来が作った。即身成仏=この身このままで仏になれる。ミイラ化する必要はないのか?

 

大日如来(Wikipedia)は密教の最強仏。即身成仏(Wikipedia)というのは、人間のまま悟りを開き仏になるということで、そのためには時には千日回峰行などの厳しい修行を行う必要がある。ミイラ化しているのは即身仏でした(o´ェ`o)ゞ


嵯峨天皇(Wikipedia)から高野山を開く許可を貰う。修行中の少年の頃、既に高野山に目をつけていた。


空海は少年の頃から京に上り、儒教などを勉強していたようだけれど、儒教の思想に疑問を抱き、19歳の頃に山林に入って修行を行ったらしい。番組で言っていた少年の頃というのが何歳の頃のことを言っているのかは謎。

 

密教は釈迦入滅後1000年以上たってインドで誕生。ヒンドゥー教の影響を受けているため、ヒンドゥー教の神が登場する。降三世明王はシヴァ神とその妻を踏みつけている。密教に従わなかったため、仏教に改宗させたと言われる


密教(Wikipedia)が中国から伝わったのは知っていたけど、インドで誕生したとは知らなかった。でも、仏教にヒンドゥー教(Wikipedia)の影響が入っていることは知ってた。記憶が曖昧というか、やっぱりこの辺りの流れをきちんととらえられていないんだな 仏教はインドで生まれ、大乗仏教(Wikipedia)と上座部仏教(Wikipedia)と2つに分かれて広まった。日本に入って来たのは大乗仏教。密教は秘密の教えということで、大乗仏教の秘密を言うとのこと。


降三世明王(Wikipedia)は密教の五大明王の内の1つ。ヒンドゥーの神であるシヴァ(Wikipedia)とその妻パールヴァティー(Wikipedia)が、仏教に従わないため、踏み殺し蘇ったところで改宗させたそうで、そのことを表しているらしいのだけど、ずいぶん酷いな

 

胎蔵界曼荼羅 409の仏の姿 金剛界曼荼羅 修行の道筋 仏教の教科書


曼荼羅(Wikipedia)は仏教の聖域や、世界観などを視覚的に表したもので、両界曼荼羅(Wikipedia)胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つで構成されている。それぞれのザックリした説明がtweetとなる。

 

慈尊院 高野山の表玄関 女人禁制のため、空海の母も高野山へ入れず、慈尊院に滞在。月に9度空海は山を降りて通ったため、九度山と呼ばれる。


高野山はかつて女人禁制だった。それに対して女性も受け入れていたため、奈良の室生寺(女人高野 室生寺)は女人高野と言われいた。慈尊院(Wikipedia)は表玄関ということで、女性も滞在可能だったらしく、空海の母である玉依御前もこちらに滞在。母に会うため月に9度通ったため、九度山とも呼ばれているとのこと。まぁ、自ら禁を破ってはダメだものね

 

檀上伽藍まで約20キロ、徒歩で登らなければならない。時の権力者、藤原道長・白河天皇も徒歩で登った。180の町石が並ぶ。空海が袈裟を掛けたと言われる、袈裟掛け石もある。


高野山の入り口を何というか聞き逃してしまった そこから壇上伽藍まで約20キロ登る。これは、身分の上下に関係なく全員徒歩。目印として町石(高野山町石道|Wikipedia)が並んでいるとのこと。


袈裟掛石_高野山


空海が袈裟をかけたという、袈裟掛石の他にも石を紹介してたのだけど、残念ながら聞き逃す

 

阿字観 真言密教の瞑想 梵字の阿という字を見て瞑想する 阿は大日如来の象徴。大日如来と一体化する行。全言語が"あ"で始まっている。宇宙の始まりの一字


唐突に修行の話になってるけど、それまでの流れは忘れた 阿字観(Wikipedia)は"あじかん"と読む。聞いたことある人も多いのでは? 文字通り、大きく書かれた梵字の"阿"を見る修行。阿が大日如来の象徴とは知らなかった。梵字についてはノータッチ状態。宇宙のはじまりの如来様だから"阿"なのね? ご住職(?)が説明されていたのは、日本語だけでなく、例えば英語でも、フランス語でも"あ"(a)から始まっているとのこと。なるほど! これは何かあるのかな? まぁ、母音だからってこともあるかもだけど・・・

 

高野山の僧は百日修行を行った後、丹生都比売神社にお参りに来る。


この丹生都比売神社(丹生都比売神社)のことも聞き逃してしまって、辛うじて聞けたのがtweet部分 どうやら丹生都比神(にうつひめのおおかみ)を祀っているのね? この神様は男性なのか女性なのか? どうやら姫神様らしい。


百日修行について調べてみたら、高野山大学(僧侶をめざす|就職・資格|高野山大学)ではカリキュラムの1つとして組み込まれていた! 地元市川市の日蓮宗大本山・中山法華経寺(Wikipedia)の百日修行は厳しいことで有名だけど、高野山のはどうなのか? ちょっと調べたけどよく分からなかった。健康診断書を出さないと修行に入れないという記事も読んだので、やっぱり荒行なのかな? まぁ、修行ですからね・・・

 

奥之院 高野山で最も清浄な場所 62歳で永遠の修行へ。その御廟として作られたのが奥之院。上杉謙信と景勝の供養塔、武田信玄の供養塔がある。燈籠堂は聖域中の聖域。ここで今も空海が生きていると考えられている。


この永遠の修行へというのは、空海が亡くなったということ。少し上の方で触れたけれど、空海の御廟として作られたのが奥之院。聖地であるここでは、身分による上下も、敵も味方もないということで、上杉謙信と景勝の墓の向かいに、武田信玄の墓があったりする。豊臣家の墓もある。


豊臣家墓所_奥之院_高野山


燈籠堂では、空海が今も生きているものとして、毎日御膳が捧げられているとのこと。ここは、撮影禁止のためカメラは入れない。参拝する人も一礼してから入って行く。

 

私たちは既に仏であるということ。欲望を自分のためではなく、人々のために使うということ。


これは深い言葉 例えば空海の言葉なのか、番組の脚本を書いた方の言葉なのか不明だけど、いい言葉。

 

古都浪漫こころ寺巡り:毎週水曜 22:00~@BSフジ

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【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:比叡山延暦寺」

2015-05-16 03:37:43 | tv

【備忘録】「古都浪漫こころ寺巡り:比叡山延暦寺」

 

毎回楽しみにしている番組。古寺を取り上げて、その成り立ちから、周辺のお店まで紹介してくれる番組。内容も分かりやすくて勉強になるので、tweetしておいて、後で補足など加えて備忘録として残している。今回は2時間SPということで、比叡山延暦寺と高野山を紹介。番組自体も1時間ずつ2本に分けて放送という形だったので、記事も2つに分けることにした。文字制限対策でもあり

 

国から僧と認められるには定員があった。最澄が遣唐使から戻ると、延暦寺に2名定員が割り当てられた。天台宗が認められた瞬間。しかし、当時国に認められた僧となるためには、東大寺に行かなければならなかった。独自に戒壇が出来るように国に申請、最澄の死後7日目に認められた

 

実は映画を見ていたため、少し始まってしまっていたので、延暦寺は中途半端なところから 最澄(Wikipedia)は遣唐使(Wikipedia)として唐に渡り、天台宗(天台宗)を学んできた。当時、僧となるためには東大寺(華厳宗大本山 東大寺)で戒律(Wikipedia)を受けなければならなかったのは知っていたけど、それには定員があるとは知らなかった!


根本中堂_延暦寺 


最澄は戒を授けた僧に十二年籠山行を命じた 自身もこの行を行った

 

どうやら12年籠山行と書くらしい。そこ西洋数字なの? まぁいいけど(笑) 延暦寺では後から出てくる千日回峰行という荒行が有名だけど、実は最も過酷なのはこの12年籠山行らしい。ザックリ書くと、3:30に起床しお勤め、最澄への朝の献膳、読経、昼の献膳、掃除、お勤めを行い22:00に就寝。このスケジュールを12年間1人で山に籠り行う修行。1日でも大変なのに12年間! イヤ、それを1人で行うというのは本当に自分との戦い。これは過酷。ちなみに戦後この修行を満行したのは6人だそう。スゴイ!

 

仏立(ぶつりゅう) 90日間2時間の仮眠と食事・用を足す以外は、仏様の周りをグルグルと回る修行を行う。回っているはずなのに真っ直ぐ歩いている感覚になり、やがて目の前に仏が立つという

 

延暦寺では住職となるために三年間の厳しい修行に耐えなければならない。この90日間修行というのは、3年目の修行のことで、常行堂もしくは法華堂で行う。tweetで言っているのは常行堂での修行のことで、阿弥陀如来の周りを90日間歩き続ける。その間横になることは許されず、仮眠を取る際も手すりに寄りかかって眠る。それは、阿弥陀様も目の前にお立ちになるわ・・・ ちなみに、法華堂での修行は座禅で、90日間座禅を組み経を読む。これも・・・


常行堂_延暦寺 


横川 慈覚大師円仁が開いた地 吉川中堂は遣唐使船の形をしている。本尊は伝円仁作聖観音菩薩。御朱印は大悲殿。円仁は最長の直弟子。密入国して唐で密教を学んだ。如法写経の書。法華経の一字一句を仏と思って写経する。根本如法=堂円仁の写経を収める塔

 

tweetでは吉川中堂って書いちゃってるけど、本当は横川中堂。横川についてはtweetにあるとおりなのだけど、「源氏物語」(Wikipedia)に登場する横川の僧都(Wikipedia)は架空の人物だけど、この横川を中心に活動しているという設定らしい。慈覚大師円仁(Wikipedia)についてtweetでは最長の直弟子ってなっちゃってるけど、これはもちろん最澄のこと。何故、密入国したのかは聞き逃してしまったけれど、ようするに遣唐使として派遣されなかったってことかな? もう廃止されてた? 如法写経(如法経(ニョホウキョウ)とは|コトバンク)についてもtweetどおり。円仁作と言われる聖観音菩薩(Wikipedia)は菩薩様なのに、装飾も少なく、とてもスッキリと親しみやすいお姿。

 

 

横川中堂_延暦寺 


聖観音菩薩_伝円仁作_延暦寺


元三大使 良源が比叡山を復興。正月三日に無くなったので元三大使と呼ばれる。良源は霊力が強かったため、角大師と呼ばれている←鏡に映った姿に由来。おみくじの祖でもあり。そもそもは、物事の判断に困った時に引くもの。人々が相談しにやって来たことから、おみくじが生まれた。

 

元三大師良源(Wikipedia)が角大師と呼ばれていることについて、エピソードが紹介されていたのだけど、全部tweetすることが出来ず 調べてみたのだけど、あまり詳しく出てこない。どうやら悪霊退治をした際に、鏡に映った良源の姿が角の生えた姿で、その姿を弟子に写し取らせ魔除けとしたというようなことらしい。


角大師_比叡山横河

 

おみくじ(Wikipedia)についても、何故良源が作ったのかを聞き逃してしまったのだけど、そもそもは占いのためのものではなかったということ。現在でも延暦寺で行われている正しいおみくじの作法(?)としては、まず悩みを僧侶に相談する。それに対して、僧侶の説法で解決すればおみくじは引かない。解決しない場合、僧侶がおみくじを引き、そこに書かれている文言にしたがって、さらに説法するということらしい。なるほど・・・

 

日吉大社 全国の日吉、日枝神社の総本山。延暦寺とも所縁深い。鳥居の上の山形は比叡山を表す。

 

延暦寺については、延暦寺という1つのお寺があるわけではなくて、比叡山を境内とするお寺のことを言うらしい。ということで、この日吉大社(日吉大社|平安京の主て鬼門鎮座 方除・厄除の大社 神仏霊場 滋賀県17番)も延暦寺の1つってことになるのかな? 大社なのだから元は神道ってことか? どうやら、最澄が延暦寺を開いてから、天台宗となったとHPにあるので、神仏習合ってことかな? 神仏霊場となっているものね。ちなみに、全国の日吉・日枝だけでなく山王神社の総本山でもあるらしい。


鳥居_日吉大社

 

千日回峰行。400年で満行したのは50人。満行すると阿闍梨となる。最澄が亡くなって数十年後に生まれた行。途中で止めることは出来ないため、死に装束で向かう。

 

前述した12年籠山行同様、荒行と言われているのが千日回峰行。これは7年かけて行う行で、1~3年目は1日30キロ(礼拝場所260箇所)を各100日歩く。4~5年目は1日30キロを各200日。この700日を満行すると、9日間の断食、断水、不眠、不臥の堂入りを行う。そして、6年目は1日60キロを100日、7年目は1日84キロを100日、1日30キロを100日歩き満行となる。いかなる理由があっても途中で止めることは出来ないとされ、死に装束に短刀を持って修行に向かう。400年で満行したのは50人。酒井雄哉大阿闍梨(Wikipedia)は、これを2回満行! 1,000年を越える比叡山の歴史の中でも、2回満行したのは3人しかいないのだそう。もう凄過ぎて、凄いとか軽々しく言えない。有難くて涙が出る 

 

 

酒井雄哉大阿闍梨


何という穏やかで優しいお顔・・・ 仏様のよう。有難い 酒井雄哉大阿闍梨、千日回峰行について詳しくは自決も辞さない千日回峰行はとてつもない荒行だった|NAVERまとめ

 

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