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【cinema】『ソロモンの偽証 後篇・裁判』

2015-04-28 03:10:31 | cinema

'15.04.11 『ソロモンの偽証 後篇・裁判』@TOHOシネマズ日本橋

 

前篇(感想はコチラ)見てから、続きが見たくてウズウズしてた! 後篇は一般試写会なかったみたいだし、劇場鑑賞券も応募したけどハズレ 自腹で見てきた 普通のことだけど(笑)

 

 ネタバレありです! 結末にも触れています!

 

 「柏木卓也は大出俊次に殺されたのだという告発文を、学校が隠蔽していたとするテレビ番組が放送され、城東第三中学は揺れていた。そんな中、藤野涼子と神原和彦を中心とした学校内裁判の準備は進んで行く。そして、8月15日の終戦記念日にいよいよ開廷するが・・・」という話。という話も何も、最初から学校内裁判をするって言ってるからね(笑) 一人の少年の死が、やがて事件となって広がって行き、涼子たちが校内裁判をすると盛り上がる前篇と比べると、真実に辿り着き収束する後篇は盛り上がりには欠ける部分はあったけれど、見応えはあったと思う。感動して泣いてしまう部分もあったし、最後はスッキリと終われたのではないかなと思う。


結構、映画サイトのレビューなどを読むと、犯人がいないからミステリーじゃないと感じている方がいるみたいだけど、自分は前篇見た時には原作未読だったけど、犯人はいないと思っていたけどなぁ・・・ "事件"となっているけど、これはそういう意味での殺人事件じゃないと思っていた。逆に言えば、これは原作にはないエピソードらしいけれど、大出俊次(清水尋也)たちに酷い虐めにあっていた、三宅樹里(石井杏奈)と浅井松子(富田望生)を助けなかった藤野涼子(藤野涼子)に対して、君みたいな偽善者が一番タチが悪いんだと言い放ち、彼女を自殺を考えるほど苦しめた柏木卓也(望月歩)こそ、ある意味犯罪者なのかなと思っていた。だから、絶対カギは柏木卓也自身だと思っていたし、神原和彦(板垣瑞生)もそれに関わりがあると思っていた。これは、特別自分が勘のいい人間だと言っているわけじゃなくて、見てたら普通に分かるような気が・・・ イヤ、バカにしているわけではないです! 前篇にはその伏線が確かに感じられたと思う。ただ、後篇は裁判シーン部分に重点を置いたため、ちょっと全体的に粗い印象だったのは確か。その辺りのことも書きたいと思うので、対比のためあえてこの意見を入れてみた


原作を読んだ後に映画化された作品は別として、原作がある作品の場合、ネタバレしたくないので映画を見る前は読まない。ただ、前篇があまりに謎だらけだったのと、なにしろ文庫本で6冊あるので、絶対に後篇公開日までに読み終わらない自信もあり、ちょっと迷ったけど読み始めてみた(笑) 今、2冊目の2/3くらいまで読み終わった。原作は3部に分かれていて、第Ⅰ部:事件、第Ⅱ部:決意、第Ⅲ部:法廷となっていて、その分類で行くと第Ⅰ部が残り1/3程度で終了するところで、映画で言うと前篇のテレビ番組が放送され、保護者会が開かれているところ。クドクド書いているのは、要するに後篇のネタバレは全くなしで見たということ。なので、単純に映画を見た感想ですよということと、映画が原作通りに描かれているのかが分からないということが言いたいわけです! くどくてゴメン


で、何が言いたいかと言うと、映画化にあたり変更された部分や、省かれた部分があっただろうと考えて、それがちょっと雑だったかなという印象を持ったから。まぁ、文庫本6冊ある原作を前・後篇とも2時間超とはいえ、2本にまとめるのは大変な作業だったと思う。どこを入れてどこを省くか、相当苦労されたのではないかな? 原作では主役の藤野涼子だけでなく、主要な人物たちの家庭事情まで書き込んである。例えば、映画では完全に脇役である野田健一(前田航基)について、彼が両親を憎んでいて、その理由も読者にきちんと提示されているので、早く誰か気づいて何とかしてあげて!とドキドキしながら読んでいるけど、そのことが柏木卓也の死と直接関係しているわけではない。となれば、省くのは当然なのだけど、柏木家に関して、兄の存在を無くしたことは仕方がないかなと思いつつ、実の兄ですら弟を不気味で嫌な存在だと感じていたことや、柏木卓也が両親すら手玉に取っていた描写がなかった分、彼の死の"真相"が分かりにくくなったような気がする。まぁ、自分も原作1/3も読み終わっていないので、実際の"真相"は分かっていないのだけど・・・ 


あと、森内恵美子先生(黒木華)の告発状を盗んだ、垣内美奈絵(市川実和子)については、彼女側のエピソードが一切ないので、動機が全く謎のままなのがちょっと・・・ 森内先生の告発状が垣内美奈絵によってテレビ局に送られたことで、柏木卓也の死は"事件"となり、物語が一気に動くので、その部分は省けなかったのだろうけれど、後篇に引っ張る要素として謎の存在としたのはいいけれど、後篇で先生の頭をワインボトルで殴打するという傷害事件を起こすものの、アッサリ自首し警察署へ向かう前に先生に「あなたの人生を狂わせてしまってごめんなさい」と謝られても・・・ 原作では自分が読んだ部分に、垣内美奈絵側の事情描かれていて、それは到底納得できない、自分勝手な理由ではあるものの、一応"動機"が提示されている。でも、映画では辛うじて前篇に、かなり修羅場の夫婦喧嘩を目撃されたっていうシーンが入っているだけ。前・後篇一気に見ているなら、ギリギリ喧嘩見られて逆恨み?と納得できるけれど、それだってかなり脳内補完が必要。わざわざ1エピソード入れる必要もなかったかもしれないけれど、せめて調査員(島田久作)の事後報告的な説明を入れてもよかったのでは? 垣内美奈絵の市川実和子は、好演していたと思うけれど、役者の演技に頼り過ぎというか、それだけで動機まで汲み取れというのはちょと乱暴な気もした。


他にもちょっと粗いと感じた部分もあったけど、何度も言うけど膨大な量の原作を、約5時間にまとめたのは素晴らしかったと思うし、やっぱり引き込まれた。メインは校内裁判となっているため、前半は駆け足な印象だけど、それは別に気にならなかった。あれだけしつこかったテレビ局のディレクター茂木悦男(田中壮太郎)が、後半おとなしく裁判を傍聴しているだけなのは若干違和感があったけれど、この辺り映画化の際に省かれたのか、原作でもそうなのか分からない。一応、ジャンルとしてはミステリー映画ということで宣伝しているように思うけれど、前篇で張りまくった伏線は、一応収拾されているものの、ざっくりした説明だった部分は否めない。いくら中学生の学校内裁判だとしても、さすがに殺人容疑を扱うわけだから、弁護側も検察側も、それそれ捜査をしたに違いないと思うけれど、その捜査状況のような部分は、一部は丁寧過ぎるほど描いているわりに、一部はアッサリしていたりする。垣内美奈絵の監視カメラ映像は、調査員から入手したとは言っていたけど、そもそもの情報はどこから入手したのか? まぁ、それは森内先生に証人依頼をした時点で出た話なのだろうけれど、前述したとおり事件が大きく動いた告発状の件なのに雑だったように思う。

 

ただ、あくまで中学生の裁判であるこだわったのかなとは思う。それ以外の大人のエピソードに関しては、極力排除したのかなと・・・ なので、前半は三宅樹里と母親(永作博美)、そして藤野涼子と三宅樹里のシーンが多めだった。そもそもこの件が"事件"になったきっかけは、三宅樹里の書いた告発状が発端であり、彼女が告発状の内容は嘘だと告白すれば、少なくとも大出俊次の容疑は晴れるわけなので、テレビ局のディレクターから、告発状を書いたのはおそらく三宅樹里だという情報を得た藤野涼子が、彼女を訪ねるのは当然だし、そもそもいじめにあっていた三宅樹里が、今さら嘘だったと認めるのは大変なことであることも分かる。ただ、2人とも好演していたけど、ちょっと長かったかなぁ・・・ 三宅樹里が自分の嘘を認めるか、認めないかは別として、彼女が証言台に立つことは分かっているので・・・ 予告編にも出てたし(笑) その後も、彼女を引っ張る割には、アッサリ浅井松子の両親に謝罪して解決っていうのも・・・ 前篇も含めて盛り上げるために引っ張ったエピソードの扱いが雑な印象。

 

大出俊次のアリバイがアッサリ立証されるのも、放火容疑で逮捕されている大出の部下を出廷させるさせないで、父親の剛(佐々木蔵之介)ともめることで、親子の絆がより強くなった部分はあったものの、肩透かしではあった。ただまぁ、どんなに前篇で煽っていようが、大出俊次が直接的には柏木卓也を殺害していないことは分かっているので、それは別にいいかのか? ただ、あの放火で大出家は祖母を亡くしていたはずだけど、そこも含めて大出の犯行だったってこと? それは原作の設定だろうから、そのこと自体に問題はないけど、要するに原作にある陰鬱だったり、陰惨さだったりする部分は、かなり排除されている印象。あくまで描きたいのは中学生の校内裁判であって、事件の内容を問うものではないからいいのかもしれないけれど・・・

 

映画の前半部分で、ある重要な証人が出て来る。津川雅彦が演じている電機屋店主により、ある人物が証人として出廷することになる。原作では店主が目撃したシーンが冒頭なんだよね? 自分はまだたどり着いていないけど、きっと読者は「そうだったのか~」となるシーンなのだと思うのだけど、店主は早い段階で出てきており、種明かし自体は裁判シーンまで引っ張ったものの、誰が探していた人物なのかが、証人台に立つまでに分かってしまったのは残念だったかも 最初に倉田まり子(西畑澪花)と向坂行夫(若林時英)が、その後に涼子が事件関係者の写真を持って目撃情報を確認に行くというのは、原作どおりなのかもしれないけれど、ちょっとくどかったし、その人たちを確認して違うなら、もうあの人しかいないじゃんと分かってしまうのが、謎解き部分としては残念だった気がする。原作冒頭のような、ミスリードさせるシーンも入っていなかったので、「そうだったのか~」もなかったので・・・

 

うーん、なんだか貶してばかりいるようだけど、決してそういう意図ではなく、見ている間はずっと引き込まれて見ていたし、見終わってからもスッキリしたことは間違いない。ただ、上記に書いた部分については、見ている間も気になっていることだったのと、映画サイトの感想などを見ると、わりとそこを指摘している方が多かったかなと思ったので書いてみた(笑)

 

裁判は、終戦記念日の8月15日から5日間にわたり開廷された。生徒も保護者も傍聴可能。最初こそからかいの声が上がったけれど、浅井松子の父親(塚地武雅)が一喝することで収まり、その後は証人や被告人に対するヤジや、証言に対する反応はあったものの、概ね真剣な態度で傍聴していた。証人として出廷したのは、佐々木礼子刑事(田畑智子)、津崎正男元校長(小日向文世)、森内恵美子元担任教師、大出俊次の父親の弁護士、三宅樹里、電機屋店主、そしてもう1人。当然被告人として大出俊次も証言台に立つ。この内、重要なのはやはり三宅樹里と、最後の証人。電機屋店主は最後の証人を出廷させるための証人。

 

佐々木刑事は柏木卓也の死が自殺である根拠、大出俊次を犯人とは思わない根拠を証言。大出俊次は問題児ではあるが、殺人をして平然としていられるほどの度胸はないと言い放ち笑いを誘う。ふざけていたわけではないし、中学生の裁判だからとなめているわけでもないけれど、どこか学芸会の延長と思っているような印象。あくまで個人的な印象ではあるけれど。開廷時には言葉を詰まらせていた涼子だが、そんな佐々木刑事を真顔にさせたのは見応えあった。

 

津崎校長については告発状を隠ぺいした件について追及。告発状を書いたのは城東第三中学の生徒である可能性が高く、佐々木刑事と相談の上、生徒を守るために公表しないこととした。その代わりに、面談を行ったというのは、見ていた通りであり、もちろんそれは承知の上。ただ、それが間違っていたとは思わないか? 校長先生のその判断が浅井松子を死なせることになってしまったのではないか? という質問は、もちろんそういう側面はあるとは思うけれど、かなりストレート。よくぞ言ったなとも思うけれど、中学生の未熟さと真っ直ぐさと言えるかも? ただ、その後続けて、校長先生が自分たち生徒を守るため全力を尽くしてくれたこと、責任をとって辞職したことに触れ、ありがとうございましたと頭を下げて、答弁を終わらせたのは、出来過ぎな気がしなくもないけれど、それが生徒たち全員の気持ちでもあるのかなと思うと、少し救われる。原作でも津崎校長はかなり頑張っているし、小日向文世さんが厳しく追及されているのはちょっぴり辛い(笑)

 

森内恵美子元先生については、まずは告発状を破り捨てたという先生の嫌疑を晴らすことから。生徒たちだけなく、一部の先生たちまで森内先生の言葉を信じなくて申し訳ないと謝罪。学校を辞めたことは、最終的には森内先生自身の判断だけれども、犯人扱いして追い込んだのは間違いない。確かに、担任教師として校長先生に報告するべきだ思うけれど、いたずらだと思って破り捨ててしまっていたとしても仕方のない状況。まして、冤罪でここまで大事になってしまったのは酷い。原作では、森内先生は自分が美人であることを鼻にかけていて、生徒に対しても好き嫌いが激しく、特にニキビで悩む三宅樹里など汚いものを見るような目つきで見られたと感じていたりと、少なくとも良い教師とは言えない。なので、そういう部分を見透かした柏木卓也を嫌っているという設定だけど、映画では森内先生はあくまで事件を動かす一部という位置づけなので、そこまでキャラ付けはされていない。だから、自信がなくオドオドしているところを、柏木卓也に見抜かれていて、そのことで彼のことを恐れていたと涙ながらに語るだけで、自分はもう教壇に立つことはないけれど、今までのことは許して欲しいという趣旨のことを述べて証言台を降りる。まぁ、かなり酷い目にあってしまったけれど、教師には向いていなかったかもしれない・・・ 証言を終えた先生が、学校を後にしようとした際に、例の垣内美奈絵との対面シーンがある。前述したとおり、彼女の動機が薄い点については残念だけど、森内先生が感情を爆発させたのは良かったと思う。謝って済む問題じゃないし。

 

大出俊次の父親の弁護士の出廷理由は、大出俊次のアリバイ証明。大出家の火事は保険金目当ての自作自演。実行犯の男は、柏木卓也が亡くなった、12月24日クリスマス・イヴの夜、その打ち合わせのために大出家を訪ねていた。その際、大出俊次に挨拶したが、彼からの反応はなかった。近くにあった時計を見たので、彼が学校の屋上にいたと言われる時間に家に居たことは間違いないとのこと。涼子は本人の証言を求めたけれど、実際の事件の容疑者を、中学生の裁判に出廷させるなど無理な話。それでも涼子のために、最大限努力してくれたのが、代理出廷という形。まぁ、この証言だって大出俊次の父親の部下によるものなのだから、信憑性が薄いようにも思うけど、いわゆる殺人事件は起こっていないのだろうと思っているので、見ている側としても一応納得。ただ、ここで大出俊次が自分の無実が証明されたと大騒ぎして、傍聴人たちの反感を買うことになる。これは次の証人と、その証言内容から、何故か弁護人の神原和彦が彼を糾弾する伏線となっている。

 

次の証人は三宅樹里。見ている側は彼女が告発状を書いた本人であることは知っているわけで、要するに彼女がそれを認め、大出俊次に恨みがあったため、彼を犯人に仕立て上げたと言えば、この裁判は終了する。前篇終了時さらに追い打ちをかけようと、新たな告発文をテレビ局に送ろうとしていたことからも、彼女の心はかなり歪んでしまっているように思うけれど、ここで自分の罪を認められれば、変われるチャンスでもある。確かに、彼女をいじめた大出俊次たちの行為を許すことはできないし、例え彼女の言動が気に入らなかったとしても、自分ではどうにもならない容姿を貶したり、暴力を振るったのであれば100%彼らが悪い。でも、それによって生じてしまった"自分"の中の心の歪みは、自分で直すしかない。浅井松子が亡くなってから登校していないことや、テレビ局のディレクターからの情報が漏れたのか、既に彼女の家には告発状を書いたのはお前だろうという内容の脅迫文が複数届いている。彼女としても追い詰められたわけで・・・ でも、残念ながら彼女は、告発状を書いたのは浅井松子であると証言してしまう。そこで、あの事故の日の浅井松子と樹里のシーンが挿入される。浅井松子が樹里を問いただしている。殺人現場を見たというのは嘘なのか? 嘘に決まってる! だったら大出君たちに謝りに行こう! 馬鹿じゃないの殺されちゃう! 自分が嘘の告発状を出す片棒を担いてしまったこと、樹里が自分を裏切っていたことに傷ついた松子は、雨の中を闇雲に走り出し、そして事故に遭ってしまったのだった。見ている側としては、最初から分かっていたこととはいえ、結果的に浅井松子を死に追いやったのに、自己保身のため彼女に罪を被せようとする三宅樹里に対して、怒りというか失望というか、やりきれない気持ちを抱く。自分の罪を認めることは勇気がいることではあるけれど・・・ でも、残念ながら傍聴人も含めて、校内裁判に出廷していた全員が、本当に告発状を書いたのは誰なのか、分かってしまったのではないかと思う。今後彼女が別の意味での制裁をうけなければいいけど・・・ ただまぁ、本当に描きたいのは最後の証人による証言なので、ここで大出俊次が無罪であることが分かってしまうと、この後見せ場がなくなっちゃうからね(笑)

 

さて、いよいよ被告人が出廷。傍聴席からは大出俊次を非難する声が上がる。憮然とした態度。まぁ、これまでの行状や、ここまでの経緯を考えれば、彼としてもこうでもしていなければいられないでしょう。ここでの見せ場は弁護人である神原和彦が、何故か大出俊次を攻撃し始めたこと。告発状が嘘だというのであれば、その人物は何故そんな嘘をついたのだと思うか? あなたに恨みがあってやったことではないのか? 彼は資料を読み上げ、○月×日仲間と一緒に嫌がる男子生徒の顔を便器に押し付けたことはありませんか?などと、彼のいじめの罪状を列挙し始める。父親に殴られて鬱屈した思いは、自分よりも弱い者を痛めつけることで晴れましたか? 鋭い口調で責め立てる。彼の弁護人としての狙いはどこにあるのかは不明だけど、おそらくこれは大出俊次にいじめられていた生徒たちの代弁であり、傍聴席で聞いている三宅樹里への言葉であったかもしれない。大出俊次が柏木卓也を殺害していないならば、この法廷において無罪となるべきである。だからと言って、彼が日頃行ってきた行為については、社会的に裁かれてしかるべきだと思う! 彼が父親から暴力を振るわれていることは、大変不幸なことだし同情もするけれど、だからといっていじめをしていいことには絶対にならない。事実、辛い生い立ちでも、正しい人生を歩んでいる人はたくさんいるのだから・・・ この部分は、いくら彼が中学生であったとしても、胸のすく思いだった。

 

さて、いよいよ最終日。電機屋店主が証言台に。この店主は柏木卓也の遺体が発見される前日。つまりクリスマスイブの夜。彼と同じ年頃の少年が、店の前の電話ボックスにいるのを目撃。様子が変だったので声を掛けたが、少年は逃げるように去ってしまった。倉田まり子と向坂行夫は大出俊次ら3人の写真、藤野涼子は柏木卓也の写真を持って、店主を訪ねたが、それぞれ見覚えはないと言われていた。この日、改めて検事の涼子から、その少年に心当たりはないかと質問され、その人物はここにいると答える。その人物とは神原和彦。見ている側は既に分かっているけど、当然廷内は騒然となる。涼子は判事の井上康夫(西村成忠)に神原和彦の証人喚問を要求する。驚いた判事は2人を舞台裏に呼び事情を聞くが、そもそもこのことは神原和彦が涼子に依頼したことであり、自分が証言することがどうしても必要であると主張する。

 

証言台に立つことを認められた神原和彦から、いよいよ真相が語られる。あの日、柏木卓也から呼び出された神原和彦は、父親が犯罪者である過去にきちんと向き合っていないと罵倒され、あるゲームを持ちかけられる。彼が生まれた病院、以前住んでいたマンションなど、柏木卓也が設定した4か所へ行き、そこで何を感じたかを連絡するというもの。小学生時代の2人の関係がどんなものだったのか一切語られないので、何故急に柏木卓也が神原和彦を呼び出したのか、そして何故それに応じたのかは不明。ただ、柏木卓也の態度は、友人に対するものではなかった。人を見下したような物言い。そもそも神原和彦が過去と向き合えていなかったからといって、それを責める権利は彼にはない。当然、そんなゲームは出来ないと断ると、では死んでやると言う。勝手にしろよと思ったりもするけれど、神原和彦はこれに応じる。自分だったらどうするだろう? 今の自分なら、断って帰って、親に相談するかな・・・ 今現在学校も違うし、付き合いもなかったわけだから、関係悪化しても別にいいし・・・ でも、中学生だとそうもいかないのかな? それとも自分も少し興味があったのか? まぁ、ゲームに参加してくれないと話にならないけど(笑)


4カ所のポイントの内、1つは神原和彦が生まれた病院であり、もう1つが電機屋店主に目撃された電話ボックスなのだけど、他2カ所については言及がないので不明。それぞれのポイントで彼がどう感じていたのかも不明。電機屋前は最終ポイントで、神原和彦は終了の報告をする。すると、城東三中の屋上に来いと言う。全てを終えて今何を感じているかの報告はそこで受けるというのだった。呼び出されたのは23時過ぎ。そんな時間に行けないと断るけれど、結局行ってしまう。まぁ、行ったから証言台にいるわけだけど(笑) しかし、どうやって家を抜け出したんだろう? まぁ、その辺りはいいか  


屋上に到着した神原和彦は、今の気持ちを伝える。辛い作業ではあったけれど、彼の心の中には、あの事件と共に封印していた幸せな思い出もよみがえっていたのだった。父親は酒乱で暴力ばかり振るっていたけれど、優しい時もあったし、家族が仲良く過ごした時間も確かにあったのだった。それを思い出せて良かったと思っていると伝えると、柏木卓也は「最低の答えだ」と言い、彼を罵倒し始める。さすがの神原和彦もこれ以上つき合いきれない。すると君が行くなら自分はここから飛び降りると言う。それでも行ってしまう神原和彦。そして、柏木卓也は自ら身を投げた。これが真相。神原和彦が、この証言をしたのは自分を裁いて欲しかったから。涙を流しながらも毅然とした態度で、自らを裁いて欲しいと訴える姿には心打たれるし、再び人の死と深く関わることになってしまった運命には同情せざるを得ないけれど、ちょっと回りくどくない? いくら彼がそういう方向に誘導していたとしても、藤野涼子たちが校内裁判をする決心をするとは限らないし、学校側が許さなければ裁判自体がないわけで・・・ しかも、電機屋店主から、あの日目撃したのが神原和彦であるという証言を引き出せなかったらどうするつもりなのか? まぁ、その時はなんとかしたのでしょうけれど(笑) かなりご都合主義な感じがしなくもないけど、映画のクライマックスとしては良かったと思う。


ただ、何故柏木卓也がこんなに神原和彦にこだわったのかという部分が、ほとんど観客の解釈に委ねる形になってしまったのがちょっと消化不良。彼の死の真相がミステリーであり、それを明らかにするための手段が、告発された大出俊次の裁判を行うということなので、どうしても謎として引っ張る必要があるし、本来の裁判内容とは論点がずれるのも分かるけど、どうにも説明不足な気が・・・ 自分は原作を途中まで読んでいるので、柏木卓也が頭が良く、周囲を馬鹿にした冷めた目で見ていて、それゆえ自分の中で孤独を(勝手に)深めていたのだろうと想像出来るけれど、映画だけ見た人はこれで分かるのかな? 確かに、前篇で藤野涼子を歪んだ正論で責め立てる描写はあるし、今作でも森内先生が彼が怖かったという証言をしているので、彼が"普通"でないことは伝わるかもしれないけれど、神原和彦にこだわった理由が分からない。おそらくは、(勝手に)孤独を深めた彼が、攻撃する相手として、最も大きな成果を得られるであろうと考えたが、意に反して神原和彦を助けることになってしまったってことかな? そして、彼にも去られてしまって絶望したってこと? まぁ、そうなのでしょうね・・・ 彼は彼なりに誰かと繋がりを求めていたし、助けを求めていたのだろうけれど、自分でもそれを認められなかったということでしょうかね? その辺りのことは明言されていない以上、想像するしかない。何もかも全部説明するのも白けるけれど、彼が抱えていた問題を伝えたかったわけではないってことなのかな? ちょっと自分としてはそこがモヤモヤしたけれど、この映画が描きたかったのは、柏木卓也の死の真相ではないってことなのかな? でも、それを知りたくて裁判したのではないのかな? 23年後の涼子の場面とか、特別必要とも思わないので、それよりはそこを見せて欲しかった。


涼子たちが開廷した校内裁判の被告人は、あくまでも大出俊次なので、陪審員たちによる審議の後、彼の無罪判決が下り裁判は終わる。当然、神原和彦の罪を裁く場ではないので、これについては不問。理由はどうあれ、柏木卓也が自殺したことは間違いないので・・・ 法廷では神原和彦が自分の関与を黙っていたことについて、大出俊次が激昂して殴りかかる場面もあったけれど、閉廷後に彼の方から神原和彦に握手を求めて来る。このシーンは良かった。一度、現在の中原涼子(尾野真千子)と上野素子校長(余貴美子)のシーンに戻り、校長からその後あなたたちはどうしたのか聞かれた涼子が、「私たちは友達になりました」と答え、その後、藤野涼子・神原和彦・倉田まり子・野田健一・向坂行夫が並んで校門から出るシーンで終了。まぁ、投げっぱなしだったり、説明不足だったりする部分はあったけれど、終わり良ければ総て良しという感じで、見終わった後のスッキリ感はあった。感想書いたら、いろいろモヤモヤしてしまったけれど(笑) あと、上野校長の「あれ以来、この学校ではいじめは起きていない」っていうのは、ちょっと空々しい気がしたかなぁ


キャストについては、津崎校長の小日向文世、母親役の夏川結衣が良かった。あくまで主役は子どもたち。出過ぎず出なさ過ぎずのさじ加減が素晴らしい。森内先生の黒木華も良かった。原作よりも良い人になっていたので得な部分もあったかもだけど、彼女の不幸がある意味事件を動かしたので。運命に翻弄されながらも、自分の未熟さを認め、教師として去る姿を好演。垣内美奈絵を殴るシーンはスゴイ! 三宅樹里の母親役の永作博美も、過保護なのか自己保身なのか、娘を守るために間違った方向に行く親を演じて見事。


何といっても中学生たちが魅力的! 演技の技術としては拙い部分もあったかと思うけれど、それを補って余りある一生懸命さ。彼らの真っ直ぐな視線や演技が胸打つ。印象に残ったのは、やはり主演の藤野涼子役の藤野涼子。この役があまりにハマっていたので、この先の役選びが大変かなという気もするけれど、目の強さが印象的で、このまま良い女優さんになって欲しいと思う。神原和彦役の板垣瑞生は、やや役得部分もあったかなと思うけれど、難役を頑張って演じていたと思う。彼がカギになることは皆分かっているわけで、それでも正しさを失わず引っ張って行っていたと思う。役柄的に一番大変だったのは三宅樹里役の石井杏奈かな? 被害者が加害者になってしまうという部分だけでなく、彼女の中にある"悪"の部分も感じさせて良かった。そうそう! 井上康夫役の西村成忠くんて、蛍こと中島知子の息子ちゃんなのね? ビックリ! 彼も頑張っていた


映画を見てから感想書き終わるまで時間が経ってしまったので、そろそろ公開終わっちゃう? まだやってるかな? とりあえず、前篇見た方はオススメしなくても後篇も見てるよね?(笑)  でも、これは前篇・後篇続けて見た方が絶対いいと思う。原作が長いので2時間でまとめるのは無理だし、2部作になるのはいいのだけど、公開期間が中途半端だった気もする。続けて見ることが可能な状況で上映できないのであれば、思い切って1年後とかにして、前篇DVD見て復習して見る方が、緊張感そのままに見れたかもしれない。とはいえ、裁判シーンは見応えあるので、DVD出てから続けて見ようと言わず、映画館で是非←ちょっとフォロー(笑)

 

『ソロモンの偽証』Official site

 

そうそう! 前篇で自分が疑問に思ったことを書いておいたので、その回答を書いておく!

 

 1.柏木卓也の自殺の原因?➡明言なし(周囲をバカにして孤独を深めたことが原因?)

 2.自殺するまでどこで何を?➡家に引きこもり。

 3.学校は対策を?➡家を訪ねたが本人に会えず(津崎校長が証言)

 4.両親が登場しないのは?➡後篇で登場するが特に意味はなし。

 5.歩道橋で涼子と会ったのは偶然?➡不明。

 6.三宅樹里へのいじめは歩道橋が最初?➡不明(たぶん違う)

 7.松子の壊された物は?➡不明(大切なものを壊されたと三宅樹里が証言してた?)

 8.樹里が告発したのは、いじめが原因?➡Yes

 9.松子は事故当日樹里に会った?何を聞いた?➡会った。告発状は嘘だと言われた。

10.森内先生と柏木卓也の間に何が?➡森内先生が一方的に怯えていた。

11.垣内美奈絵が森内先生に粘着した理由➡明言はないが前篇で夫婦喧嘩を見られている(原作ではこれと、森内先生の態度が原因)

12.柏木卓也と神原和彦の間に何が?➡自殺当日、柏木卓也から神原和彦はゲームをさせられていた。何故、"彼"だったのかは明言なし。

 

やっぱり、少なくとも12の、何故神原和彦だったのかは、ハッキリと描くべきだった気がするなぁ・・・ 原作ではどうなっているのかな? 頑張って読む! でも、それじゃ本末転倒な気も

 

 

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【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#3

2015-04-26 17:12:45 | tv

【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#3


1つの作品を25分×4回の計100分で読み解く番組。自分の興味がある作品の時だけ見て、気になったところをtweet、備忘メモとしてblogに記事書いて残している。今回は「ブッダ最期のことば」で、いわゆる「涅槃経」を読み解いていく。今回はその3回目。いよいよ佳境へ!

 

ブッダはアーナンダに、あなたが望めば自分は生きていると話すが、アーナンダの反応が薄い。これはアーナンダにマーラ=悪魔(仏教を妨害するもの)が憑りついたのだ。自分は3か月後に死ぬ。諸行無常である。


大病を患ったが回復し、旅を続けていたブッダは、自身の死を不安がっていた(前回記事参照コチラ)アーナンダに、あなたが望めば自分の寿命を延ばすことが出来ると告げるが、アーナンダの反応は薄い。アーナンダにマーラ=悪魔(Wikipedia)が憑りついたことに気づいたブッダは、弟子たちに自分は3か月後に死ぬこと、そしてこれは諸行無常であることを説いた。

 

ブッダが死ぬことは必要か? ブッダが亡くなったことは事実。でも、ブッダほどの人が寿命が尽きて亡くなるのだろうか? マーラによって妨害され涅槃に向かったのだと考えた。ブッダが亡くならないと、人々は諸行無常を実感できない。


ブッダが死ぬ描写は必要なのか? ブッダ自身の死を持って諸行無常(Wikipedia)を説いている。ブッダはあくまで人間として亡くなった。このことは事実であるけれども、当時の人々はブッダの死を受け入れることが出来ず、これはマーラによって涅槃に向かわされたのだと考えた。ブッダ自身は"自分"ではなく、自分が見つけた"仏教"を貴んで欲しいと考えていた?

 

諸行無常=一瞬一瞬に全てのものが生まれて消えていくこと。新しい鉛筆も1万年後にはボロボロになるが、"いつ"ボロボロになったか?と聞かれば、一瞬ごとに変化して1万年分でボロボロになった。一瞬一瞬変化している 今苦しくても明日は苦しくないかも?


「平家物語」(Wikipedia)の冒頭にあることなどからイメージして、ずっと繁栄してきたものも滅びる時が来ると考えがち。そういう側面もあるけれど、"滅びる"というよりも、一瞬毎に変化しているということ。伊集院光氏の例えによれば「老舗のお店が廃業してしまうということではなく、今日の営業を終えて、明日新しい店として開店するイメージ」 なので、"滅びる"という負のイメージではなく、あくまで変化した結果ということ? なので、逆に今の苦しみは、明日は苦しみではなくなっているかもしれないとも考えられる?

 

仏教で扱うのは"苦しみ" 苦しみの原因は現実を正しく見れないこと。現実と"思い"にギャップがある。現実は諸行無常だが、自分たちはそれを諸行無常とは思っていない。

 

 

自分の感性を変えることで、苦しみのない環境を作って行く


前回(記事はコチラ)で触れたように、仏教は今苦しんでいる人のための教え。何故、苦しいのかといえば、現実と"思い"にギャップがあるから。そのギャップを埋めるためには、現実は諸行無常(一瞬ごとに全てのものが生まれて消えて行く)ことを受け入れればよい。要するに、見方を変えて、一瞬一瞬良い方向に生まれ変わるよう努力をすればよいということ?

 

余命三ヶ月となったブッダの言葉。三十七菩提分法を、よく実践せよ。それが利益と安楽に役立つ。三十七菩提分法とは37種類の修行の方法。煩悩を消し去り悟りを開くまでのステップ 基本的な8つが八正道で8つの正しい行い。

 

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。正=煩悩が消えて苦しみが無くなって行く方向性。反対は自我。例えば、100万円拾う。正の人は交番へ届ける。我の人は自分の物と考える。うーん、でも普通交番へ届けないか?


自らの余命を悟ったブッダは、弟子たちに三十七菩提分法(三十七道品|Wikipedia)を実践するように説く。37種類の修行の方法を実践し、煩悩を消し去り悟りを開く。その基本的なステップが八正道(Wikipedia)。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つからなる(詳細はWikipediaで!)が、この場合の正(しょう)とは、正しい行いということだけでなく、煩悩が消えて苦しみが無くなって行く方向性であり、その反対は自我。自我が強いと苦しくなる。


例えば東日本大震災の時、被災地の方々が店を襲うなどの暴動を起こすどころか、雪の中きちんと列を作り、自分たちの必要な分だけ買物をして行く姿を見て、海外の人たちから驚嘆の声が上がった。日本人にとってみれば当たり前のことに思ったし、tweetにもあるとおり、自分が普通交番に届けるでしょうと自然と思えるのは、日本人の中に自我を捨てるという考えが根底にあるからなのかな? 仏教を学んだことはないけれど、親や先生に言われてきたことの中に、その教えが入っていたのかもしれない・・・

 

鍛冶屋のチュンダに食事に招かれ、自分だけに出すように言ったスーカラ・マッダヴァ(きのこor豚肉)を食べ食中毒に。これを食べて死ぬことを予知。酷い下痢に苦しみつつクシナガラの沙羅双樹の下で横になり、最期の食事を供物したのだから、チュンダには果報があると告げる。


さて、いよいよブッダ最期の食事。旅を続けるブッダは果報(果報(かほう)とは|コトバンク)を期待した鍛冶屋のチュンダ(Wikipedia)から食事に招待され、お布施としてスーカラ・マッダヴァを食べる。この食事が原因で命を落とすことを悟っていたブッダは、弟子には出さず自分のみに出すよう言い、これを食べて食中毒になる。寿命が尽きて亡くなることは分かっているので、最期の食事は自分で選んだとも言える?


酷い下痢に苦しみながらクシナガラ(Wikipedia)の沙羅双樹(Wikipedia)の下で横になり、最期の時を迎える準備をする。その際、チュンダを気遣い、如来が供養の食事を食べて涅槃に入られた、その食事には優れた果報があるのだから、チュンダには大いなる果報があると言い残した。

 

チュンダは果報を期待してOK。ただし涅槃ではなく一般の果報。出家修行者=僧侶は、在家信者=一般社会のお布施によって支えられる。出家修行者は立派な修行の姿を見せる。上下関係ではない。例えば研究者と研究費のような形。ただし、研究費を得るために研究してはダメ!


 

 

今までと違う文化を生み出せる人は、今までの文化の外にいる人たち 

 

チュンダが期待した果報というのは、いわゆる健康を手に入れたいとか、お金が儲かるようにというような、普通の人としての願い。これは一般人=在家信者としての果報であり、そのためのお布施なので、果報を期待するのはOK。在家信者によって支えられているのが、出家修行者(サンガ)。彼らが特別な生き方をして、在家信者を導く。立派な姿で修行をしている人たちにお布施をすると、大きな果報が与えられるという考え方。そこに上下関係はない。例えば、研究者と研究費用。研究をして新たな物質を生み出す、研究費用を出した人々(国民)は、その恩恵に与る。ただし、研究費が欲しくて研究をするのは本末転倒。


仏教の考え方としては、まず在家信者があって、出家修行者(サンガ)がある。世の中と別の見方をする人々にしか、新しいものは生み出せないし、社会を動かしていくことはできない。その果報に与るために、在家信者はお布施(寄付、税金?)をしているということ?

 

なるほど! やっぱり仏教的な考え方は、社会の中にも形を変えて存在しているということか・・・  そう考えると、とってもおもしろい

 

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【Googleのロゴ】上村松園生誕140周年

2015-04-23 00:43:05 | Google's logo

毎度のGoogleのロゴがこんなことに!



上村松園 生誕140周年


もちろん知ってる! 大好きな日本画家の1人

でも、一応Wikipediaで調べてみた!


 

上村 松園(うえむら しょうえん、1875年明治8年)4月23日 - 1949年昭和24年)8月27日)は、日本画家

本名は上村 津(うえむら つね、「」は「示」ヘンに「爾」)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。

明治の京都下京に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた。


1948年(昭和23年)女性として初めて文化勲章を受賞。

 

子の上村松篁、孫の上村淳之と三代続く日本画家である。


とのことで、詳細についても自分が知ってることばっかりだったなぁ・・・


ロゴの絵は代表作とも言える「序の舞」

これは確か映画になってなかったっけ

絵のモデルになったのは息子さんである上村松篁画伯の奥様なんだよね?


Wikipediaにもある六条御息所を題材とした「焔」とか、有名な作品は多いけれど、

自分が一番好きな作品は「娘深雪」

 

 

「焔」についても「娘深雪」についても語りだすと長いし、

旧blogに記事書いてると思うので、後でリンクしとく!

 

検索画面のロゴはこんな感じ

 


お誕生日おめでとうございます

 


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【Googleのロゴ】アースデイ 2015

2015-04-22 00:30:18 | Google's logo

毎度のGoogleのロゴがこんなことに!



アースデイ 2015

まぁ、毎年やっておりますが、一応Wikipediaで調べた


アースデイ(別名:地球の日Earth Day)は、

地球環境について考える日として提案された記念日である。


4月22日のアースデイが広く知られているほか、それ以外の日のアースデイも存在する。


とのことで、4月22日になった経緯は・・・


ウィスコンシン州選出のアメリカ合衆国上院議員であったゲイロード・ネルソンが、

1970年4月22日に環境問題についての討論集会を開催することを呼びかけた。


ことに由来するらしい!


アースデイ東京は、どうやら18・19日で終了してしまったらしい

アースデイ東京/Earth Day Tokyo

残念


検索画面のロゴはこんな感じ


地球を大切に!( ・Θ・)ゞピヨッ


 

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【Googleのロゴ】ネス湖の怪獣 ネッシー撮影81周年

2015-04-21 00:06:15 | Google's logo

毎度のGoogleのロゴがこんなことに!



ネス湖の怪獣 ネッシー撮影 81周年


もちろん、知ってる! でも、毎度のWikipediaで調べてみた!


ネッシーNessie)は、イギリススコットランドネス湖で目撃されたとされる、

未確認動物ネス湖の怪獣Loch Ness Monster、ロッホ・ネス・モンスター) 」の通称。

未確認動物の代表例として世界的に知られ、20世紀最大級のミステリーとして語られてきた。


しかし、目撃証言や写真・映像の多くが、既知動物や船舶、流木、航跡、または波動など自然現象の誤認であるか、

あるいは捏造と判定され、大型獣が生存している可能性を否定する動物学者は多い


 

史上最古の記録は、690年頃にアダムナンが書いた聖コルンバの伝記『聖コロンバ伝』(VitaColumbae)とされる。

文中でアダムナンは、565年に目撃されたネス川の怪物のことについて記述している

(なお、ネス川はネス湖に直接接続していない)。

 

  

目撃例が飛躍的に増えたのは1933年以降で、これはネス湖周辺の道路がこの頃整備されたためとされる。


とのことで、その他の目撃情報などはWikipediaで!


ネッシーで最も有名な写真はこれだけど・・・


実際は、割と近くにいた小動物のしっぽなのでは? とか言われているよね・・・

さて真相はいかに?

意外にロゴみたいな感じだったりして(笑)


検索画面のロゴはこんな感じ


Happy Anniversary


 

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【music】「Colm Wilkinson Broadway and Beyond Japan」

2015-04-19 23:39:37 | music
🎤「Colm Wilkinson Broadway and Beyond Japan」🎤



「オペラ座の怪人」や「キャッツ」にハマり、劇団四季を中心にミュージカルは結構見ていた方だと思うけど、ある時から遠ざかってしまった。それは劇団四季元代表の一言に疑問を感じたからなんだけど、劇団四季だけじゃなくミュージカル観劇自体からも遠ざかってしまったのは、自分はミュージカルは好きだけど、ミュージカルなら何でも好きで、何でも見たいってタイプじゃないからなのだと思う。それは、別にミュージカルだけじゃなくて、映画でも何でもそうなので・・・ そんな中、ずっと自分の中で好きな作品であり続けたのが「レ・ミゼラブル」と「オペラ座の怪人」だった。


B型なので好きになると夢中になって、いろいろ調べたりすること自体楽しくて、寝る間も惜しんでやってしまうわりに、興味がないと本当にどうでもよくなってしまう。なので「オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン」を見るまで、ミュージカル情報はほとんど入っていない状態だった。さらに、お金も時間もない貧乏OLちゃんとしては、West EndやBroadwayに行くどころか、都内で上演中の作品ですら、そんなに回数を見ることも出来ない なので、海外どころか国内のミュージカル情報にも疎い。だから、自分の中ではずっとコルム・ウィルキンソンさんはジャン・ヴァルジャンだったし、ミュージカル界の神だった。


つらつら何が言いたいかと言えば、自分にとってコルム・ウィルキンソンさんは特別な存在だったということと、ご高齢ということもあり自分が海外に行かなければ生で見れる機会はないと思っていたということ。同じ理由でアール・カーペンターさんも日本で見れると思っていなかった。アールさんについては、NHKで放送された「レ・ミゼラブル 25周年記念コンサート」の司教様役で見ていたのだけど、その時はまさか「オペラ座の怪人」のファントム役、「レ・ミゼラブル」のジャヴェール役で人気の役者さんだとは知らなかった。「オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン」を見た後で、あのオークショナーを演じていたのは、カーテンコールで5ファントムの1人として登場した、ジョン・オーウェン=ジョーンズ(JOJ)さんと共に人気のファントム役者であり、新演出による「レ・ミゼラブル 25周年 ツアー版」のジャヴェール役で大好評だったアール・カーペンターさんであることを知った。その後、フォローさせて頂いたミュージカル通の方々のtweetや、blog記事などから情報を得て、アールさんが素晴らしい役者さんであることを知り、一度は生で見てみたいと思っていた。でも、自分が行かなきゃ見れないだろうと思っていた。


「オペラ座の怪人 25周年記念コンサート in ロンドン」を見てから、主演のラミン・カリムルーにハマり、彼のTwitterをフォローしたり、情報集めたりしていた際にミュージカル俳優は、海外でのソロ・コンサートや、ミュージカル・コンサートなどに出演する機会が結構あることが分かった。でも、自分が国内情報に疎かっただけかもしれないけれど、作品自体が来日公演をすることはあっても、俳優のコンサートというのは日本ではあまりなかったように思っていた。その後、「4 Stars」なども開催されたけれど、それもラミン & シエラ・ボーゲス人気によるものだろうと思っていたし・・・ だから、コルム・ウィルキンソンさんはまだしも、アールさんが日本で見れるとは思ってなかった。まぁ、これはあくまで自分の思い込みですが(o´ェ`o)ゞ


で、もう前置きが長過ぎるわけだけど、要するにのお2人を日本で見ることが出来ることが幸せ過ぎるということが言いたかったわけです! そのわり1回しか見れないのは、貧乏OLちゃんの悲しさなのだけど


そうそう! 今回は女性ゲストとして、「レ・ミゼラブル」でファンティーヌ役を演じたスーザン・ギルモアさん、そして元宝塚の則松亜海さんもご出演。無知な私は、お2人のこと存じ上げなかったのですが、こちらも楽しみにしておりました


SET LIST

【Act.1】

1.Overture

2.Music Of The Night

3.All I Ask Of You (アール・カーペンター&則松亜海)

4.Tennesse Walz

5.Folsom Prison Blues

6.I Dreamed A Dream (スーザン・ギルモア)

7.Bui Doi (アール・カーペンター)

8.Don't Cry For Me Argentina (則松亜海)

9.House Of The Rising Sun

10.Danny Boy

11.This Is The Moment


【Act.2】

1.The Man Of La Mancha / Impossible Dream

2.Anthem

3.Winner Takes All (スーザン・ギルモア)

4.Stars (アール・カーペンター)

5.Let It Go (則松亜海)

6.Hallelujah

7.Mama Don't Allow

8.The Beatles Medley:Get Back / She's Leaving Home / Hey Jude

9.Imagin / Peace


【Encore】

1.Bring Him Home

 

会場内にセットリストの掲示は無かったのですが、TLに流れてきたので参考にさせて頂きました! (('ェ'o)┓ペコ

 

 




もう、tweetでも言ってるけど、"コルムさんは神でした"が感想の全てなのだけど、それじゃあんまりなので少し補足しておこうかな(笑) たしかに、まだ50代だった「レ・ミゼラブル 10周年記念コンサート」に比べると、声のハリなどが違っていたかもしれないけれど、あのパワフルでありながら包み込むような歌声は健在で、ロングトーンもバッチリ 前述のラミン・カリムルーがミュージカル俳優を志したのは、少年の頃学校の授業で「オペラ座の怪人」トロント公演を見たことがきっかけ。その際、ファントム役を演じていたのがコルムさん。終演後ラミンが「あなたのようになるには、どうすればいいか?」と尋ねたところ、「特別なレッスンは受けていない。ロックバンドをやっていただけだ」と言われ、即バンドを組んだというのはラミン・ファンの間では有名な話。確かに、コルムさんの歌唱はいわゆる正統派ではない気がする。声楽の知識などないので、あくまで勝手な印象なのだけど、例えば「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」(MotN)などは、朗々と歌うのではなく、刻んで歌うというか・・・ 上手く言えないのだけど・・・  でも、それが今まで生、CD、YouTubeなどを含めて聴いてきたどのMotNとも違っていた。自分が聴いてきた中で一番感動したのは、「ミュージカル・ミーツ・シンフォーニー 2014秋」(感想はコチラ)でのJOJさんの歌唱。自分が求めていた音楽の天使としての歌唱はJOJさんのものだったと思う。でも、このコルムさんのファントムも好き JOJさんが声と歌唱で酔わせるとしたら、ラミンは声の圧で押してくる感じ。ラミンの圧で押す感じに近いけど、高圧的になわけでもなく、先生っぽいわけでもなく・・・ うーん。語彙力不足でごめん

 


「テネシー・ワルツ」も素敵だった。元々は男性バンドの曲だったんだよね? なので、歌詞はIntroduced him to my loved oneって歌ってた。「ダニー・ボーイ」はアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」に歌詞を付けたもの。いろんなバージョンが存在するそうで、今回コルムさんが歌ったのは、ストリート・ミュージシャンの女性が付けた歌詞とのことだったと思う。今回、挨拶や曲紹介など主要な部分は字幕が出たのだけど、メモ取っていたわけではないので、覚えきれていない でも、この少し悲しげな旋律に、コルムさんの包み込むような歌声がマッチして、意味はよく分からないながら泣けた


「アンセム」に関しては、どなただったたか失念してしまったのだけど、「君がレコーディングすべき曲があるよ」と言われたそうで、なるほど確かにこの力強さはコルムさんのRock的な歌唱が合うなと思ったけれど、個人的にはMMS2014のJOJさんの方が好きだったかなぁ・・・ 比べるのはおかしいですが、感動の度合いというか。


コーラスが必要な歌の場合は、アールさんとスーザンさんが担当。これめちゃめちゃ贅沢! でも、歌っているのが神様だものね(笑) 「ビートルズ・メドレー」は3人で歌う感じ。とはいえもちろんコルムさんが主役。これはかなりカッコよかった! コルムさんとThe Beatlesがあまり結びついていなかったので、ビックリしたけど「ヘイ・ジュード」とか良かった! そして、最後のna na na nananana~ Hey,Judeを観客と合唱。もちろん自分も歌った これは楽しかった! ただ、MotNと「ヘイ・ジュード」と「イマジン」の時に、後ろの席の方にビニール袋ガサガサやられてしまって参った コルムさんのせいではありませんが・・・


いつ「彼を帰して」(Bring Him Home)? と思っていたけど、「Imagin / Peace」で全員挨拶して帰ってしまったので、なるほどアンコールだなと思ったわけですが、まさかのバルジャン衣装 あのバリケードで着てる軍服で登場。羽織っただけなので、完璧ヴァルジャンという感じではなかったけど、でもあのジャン・ヴァルジャンが舞台に立ってる!と思っただけで感動 そしてGod on high~が! これはやっぱりコンサートなので、どこまでヴァルジャンになって歌っているかは分からないけど、コルムさんのヴァルジャンはコゼットのためというよりも、目の前のこの若者を助けてくれと祈っている感じ。まだ若い彼にはいろんな可能性がある!だから帰してくれって祈っているような・・・ これは泣いた いろんなジャン・ヴァルジャンがいると思うけれど、自分の中ではやっぱりコルムさんなんだなと思った。生で演じているのは見たことないけど、やっぱりこの激しさと、強さと、包み込むような優しさは、自分が理想としているジャン・ヴァルジャン。

  


さて、コルムさんと同じくらい楽しみにしていたアール・カーペンターさんのことも書きます! まさかの2曲目で「オール・アイ・アスク・オブ・ユー」(AIAOY)を歌うとはビックリ! 英語版Wikipediaで調べてみたけど、ラウルは演じたことないよね? まぁ、演じたことないから歌えないってことはないけど、最後のAnyway you go let me go to~の高音が素敵だった!  Christineパートを歌った則松亜海さんも正統派な歌唱で、高音もキレイ。ただ・・・ これは後ほど書きます! 


世界最強ジャベールなのだから「星よ」(Stars)は絶対歌ってくれると思っていたけど、まさか「ブイ・ドイ」(Bui Doi)を歌うと思ってなかったのでビックリ! アールさん「ミス・サイゴン」に出演したことはないのよね? イヤ、出演したことなくても歌えるのは当然なんだけど! 予想してなかったので・・・ もしかしたら、コンサートなどでは歌っているのかもしれないけれど、自分としてはとっても意外だったので! 「ミス・サイゴン」第2幕冒頭で主人公の恋人クリスの友人ジョンによって歌われる曲で、米兵とベトナム人女性の間に生まれた混血児の悲惨な現状を訴える曲。この曲JOJさんの歌唱の評判がとっても良くて、この曲を聴きたくて来月の「ミュージカル・ミーツ・シンフォニー 2015春」のチケット取ってしまったほど。内容からして好きな曲というのは不謹慎な気がしてしまうのだけど、やっぱり力のある曲。アールさんは始めはサラリと歌い出した印象。右手マイクなので、初めは左手はポケットに入れていた。そして、最後の盛り上がりに向けてギアを入れて行った感じで、それが逆にとっても胸に響いてきた。さすが演技派! アールさんはもちろん歌はすごく上手いけど、歌声よりも演技で見せるタイプの役者さんだと聞いていた。ご本人も"歌が上手く歌える役者"だとインタビューに答えていたし。「ブイ・ドイ」は本来、男性合唱と共に歌い上げる。なので、途中合いの手っていうと変なんだけど、コーラスが歌うため歌わない部分もあったりするのに、たった1人でここまで感動させるのはスゴイわ! 涙が止まらなかった


そして「星よ」(Stars)正直ハードルを上げ過ぎてしまったか?と心配しつつ聴いたのだけど、やっぱり世界最強ジャヴェールはスゴカッタ! ただ、やっぱりこれは演じているところを見なきゃだなと思った! もちろん素晴らしかったのだけど、衣装をつけてジャヴェールになり切って演じたらどんなだろうと思ってしまって・・・ コルムさんは年齢的にジャン・ヴァルジャンを演じることは無理だけど、アールさんは5月からBWの「レ・ミゼラブル」に出演するわけだから、自分さえ行ければ見れるんだよね・・・ 休みがないから行けないけど でも、アールさんジャヴェールはまだ見れるチャンスがあるかな? イヤ、しかしホント素晴らしかった!


スーザン・ギルモアさんと則松亜海さんについてtweetしておくのを忘れてしまったので、ここでまとめて記載させていただきます

 

スーザン・ギルモア(Susan Gilmour Actor/Singer)さんのことは存じ上げなかったのですが、ご本人のHPによるとトロント公演の「レ・ミゼラブル」でファンティーヌを演じたそうで、この時コルムさんと共演したのかな? コルムさんの奥様はスーザンさんのファンティーヌが一番好きなのだそう。「夢やぶれて」(I Dreamed A Dream)は、「レ・ミゼラブル」を知らない人でも聴いたことあるかもしれないくらい有名な曲。まだ少女ともいえるようなファンティーヌが、ふらりと現れた青年に恋をして妊娠。彼は彼女を捨てて二度と戻らず、娘のコゼットを養うため、強欲なティナルディエ夫婦に彼女を預け、工場で働いていたけれど、工場長の下心に嫉妬した他の女工たちの嫌がらせもあり、追い出されてしまう。自分の髪や歯まで売って、とうとう娼婦になった彼女が歌う曲。映画版(感想はコチラ)でアン・ハサウェイが歌った際には、髪の毛を剃られる際に歌われていたけれど、舞台版では工場を追い出された際に歌っている。映画版の方がより歌詞の内容とリンクして泣けるシーンになっていた。スーザン・ギルモアさんは情感豊かではあるけれど、あまり感情を込め過ぎず歌っていて、それが逆に胸打った。自分が気持ちよく歌い上げれば、観客の心を打つかというと違うと思う。とても良かった。

 

則松亜海さんは、夢華あみ(Wikipedia)の名前で宝塚歌劇団雪組で娘役として活躍されていたのだそう。宝塚は全く詳しくないので、存じ上げなかったのですが、美しい声と正統派の歌唱が素晴らしかった。のですが・・・ ごめんなさい。個人的に心打たれるものはありませんでした 日本語で歌われた「アルゼンチンよ泣かないで」(Don't Cry For Me Argentina)ですら、あまり響いてこなかった・・・ まだ、1991年生まれとお若いのに、アールさんとAIAOYでは堂々のデュエットだった。この経験を生かして今後に期待したいと思います!

 

と、最後にダメ出しのような形になってしまったのだけど、決してダメだったわけではなく、全体として素晴らしいコンサートだったと思う。アンコールが1曲だけでちょっと悲しかったけど、コルムさん御年70歳ですものね・・・ まだツアー始まったばかりだし。

 

とにかく、自分としては神様コルム・ウィルキンソンさんと、最強ジャヴェールことアール・カーペンターさんの歌唱を聴くことが出来て至高のひと時でした! しかも日本で見れたなんて夢のよう!!


コルムさん、どうかいつまでもお元気で! そして、また是非来日してください 

 

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【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#2

2015-04-10 22:13:53 | tv

【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#2

 

1つの作品を25分×4回の計100分で読み解く番組。自分の興味がある作品の時だけ見て、気になったところをtweet、備忘メモとしてblogに記事書いて残している。今回は「ブtッダ最期のことば」で、いわゆる「涅槃経」を読み解いていく。さすがブッダの言葉だけに1回目は難しかったけど、2回目は裏番組にこちらも大好きな「古寺浪漫こころ寺巡り」があるため、録画して見てみたけど、これが大正解! 気になったら再生止めてtweetできるので、情報量が全然違う(笑) 次回もこの作戦にしよう


 

人は必ず死ぬが、その度にブッダのもとに来るのは大変。なので「法鏡」を授けた。ザックリ言うと仏=ブッダ、法=ブッダの教え、僧=サンガを信じで従っているか?ブッダ亡き後、人々に与えたエール。これを行えば涅槃へ行ける。


これは、ブッダと弟子のアーナンダの会話がもとにある。アーナンダが亡くなった僧侶の名前を挙げて、それぞれ亡くなった後どこに行くのかとブッダに問うたため、ブッダは「法鏡」を授けたってことらしい。要するに"仏法僧"を信じることが大切であり、これを行えば誰でも涅槃に行くことができるものであるらしい?

  

誰かが資格的なものを与えてしまうと、サンガの中に上下関係が生まれ、自分の生きがいよりも、組織の中の立場が大事になってしまうため、それを避ける狙い

 

サンガ(Wikipedia)というのは前回出てきた"集団"という意味。"仏法僧"を信じることで涅槃に行けるとしたのは、特権意識を持ってしまうことを避けることが狙い。あくまで自分の信心によって道が開けるという考え方。


裕福なリッチャヴィ族の誘いよりも、先に約束していた遊女アンバパーリーを優先。登場のインドにはカースト制度があった。遊女は身分が低い。仏教は平等を唱えた。ただし、平等に幸せではなく、平等に不幸であるという考え。生きていることが辛い。←多分、暗い考えとは違う?

 

これは仏教は平等であるということを説明するための再現ドラマ的な挿話。当時、カースト制度(Wikipedia)のあったインドにおいては、順番はどうあれ身分が高いものが最優先されるべきであった。これをブッダは身分には関係なく、先約のあった遊女との食事を優先させた。この遊女アンバパーリー(Wikipedia)は大変信心深かったため、感激しブッダのサンガに自身が所有していたマンゴー畑を寄進した。しかも、この方後に比丘尼(Wikipedia)になったのね。

 

ただし、この平等であるということは、皆が等しく幸せであるということではなく、人は皆等しく不幸であるという考え方。なぜなら、生きているとは苦行であるから。うーん・・・ なんか暗いなぁとこの時点では思っていたのだけど・・・

 

ブッダが大病をし、アーナンダはブッダ亡き後どうしたらいいのか問う。その答えが自灯明法灯明。自分を島=灯明とし、ブッダの教えを島=灯明とするように説いた。ブッダは人間、人間が見つけた教えなので、教え自体に価値がある。教えにそって、自分では努力せよという意味

 

これが有名な「自灯明法灯明」の教え。ブッダはアンバパーリーのマンゴー畑で寛ぐが、後大病をしてしまう。その際、アーナンダが指導者を失ったら自分たちはどうすればいいのか?とブッダに問う。すると、ブッダは自分は指導者ではないと答え、「自灯明法灯明」の教えを残した。島=灯明というのは、溺れた人や道に迷った人がすがるものとしての象徴。要するに自分とブッダの教えを信じろということで、この2つはセット。ブッダという人物が尊いのではなく、ブッダが見つけた教え自体が尊いという考え方。その教えにそって、自分で努力することが大切だと説いている。


身=肉体、受=外界からの刺激に対する感受作用、心=我々の心、法=この世の全ての存在要素 四念処 この4つについて、全く間違った見方をしている!身→素晴らしいもの、受→この世は楽しい、心→ずっと変わらない、法→この世の絶対要素として自分がいるという考え 全て逆

 

「自灯明法灯明」を実行する際に大切なのが、「四念処」(Wikipedia)で、tweetした4つ"身=肉体、受=外界からの刺激に対する感受作用、心=我々の心、法=この世の全ての存在要素"からなる。で、ここが重要だそうなのだけど、皆この4つについて真逆の考え方をしているそうで、だからこそ執着が生まれてしまうということらしい。

 

例えば、身=肉体を素晴らしいものと考えてしまうと、自分の体に執着してしまい、死や老いを受け入れ難いものにしてしまう。しかし、身=肉体は次第に老い、いつかは失われるものである。一番納得できたのが、法=この世のすべての存在要素として"自分"もその1つだと考えてしまうこと、もちろん自分も要素の1つではあるのだけど、絶対要素ではないってことだったのかな・・・ えーと、言葉にしようとすると難しいのだけど、要するに自分をものすごく価値のあるものと考えてしまうと、そこに執着が生まれてしまうということ。それを捨て去れば楽になれるってことなのかな・・・


 

 

仏教は生きることに苦しんでいる人のための教え。今、充実して幸せな人には必要ない。今、生きにくい人に、発想の転換をさせ導くための教えである。

 

で、先生のこの言葉で、今までのことが腑に落ちた! この世に生きていること自体が苦行だとか、自分が素晴らしいものだと思うから執着が生まれるのだとか、頭では分かるけど、ずいぶん後ろ向きな考え方をするんだなと思っていた。それは、今生きていることが苦しくないからなんだね・・・ 仏教というのは、苦しんでいる人を救うための教えであって、今幸せな人を救うためのものではないらしい。もちろん、信仰とは別! 今、苦しんでいる人に、こういう考え方もあるのですと説いて、発想の転換をさせることで救おうというのが仏教の考え方だったのね なるほど、それは素晴らしい

 

そして、この教えがずいぶん後ろ向きだと感じてたってことは、今現在苦しんではいないってことなんだね なるほど、それはよかった そのことと、この教えが分かっただけでも、とっても気持ちが軽くなった

 

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【cinema】『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(試写会)

2015-04-10 01:57:07 | cinema

'15.03.23 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(試写会)@20世紀FOX試写室

 

 

cocoで当選! いつもありがとうございます┏○ペコ スゴイ見たかったので大喜びで行ってきたー


ネタバレありです! 結末にも触れています!


「かつてヒーロー映画『バードマン』シリーズで人気を博したリーガン・トムソン。降板から20年、ヒット作に恵まれず、結婚生活は破たんし、娘も薬物中毒に。彼はレイモンド・カーヴァーの短編小説を舞台化し、起死回生を狙っていたが・・・」という話で、これはかなり独特な作品。実験的っていうとなんとなく陳腐な感じがしちゃうけど、まぁ実験的だと思う(笑) 好き嫌いは分かれるかもしれないけど、自分は好きだった。


アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品。共同で脚本も担当。イニャリトゥ監督は「以前から、40歳を過ぎたら、自分が怖いと思わないことはやる価値がないという意見だ。」と語ったそうで、ご本人にとっても挑戦的な作品だったらしい。まぁ、そうだよね(笑) かなり変わっている作品だと思う。第71回ヴェネツィア国際映画祭オープニング作品。その後、ゴールデン・グローブ賞などの、主だった賞にノミネート。そして、アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞 Rotten Tomatoesで支持率93%、平均8.5点を獲得。特にマイケル・キートンの演技を絶賛する声が多かったとのこと。でも、このエマニュエル・ルベツキ撮影の映像はスゴイと思った! 多分この映像がなければ、この作品の魅力は伝わらないと思う。


これ感想書くの難しいな・・・ というのも、これ実際は30日以上かけて撮影された映像を、ワンカットの長回しのように編集してある。もちろん、それぞれのシーンに区切ることは出来るのだけど、カメラは回り続けているように演出されている。基本はBraodwayの劇場とその周辺。おそらく日にちは変わっているようだけれど、この映像のままだとリーガンが家に帰っている様子はない。一言で言ってしまえば、舞台初日を控えた楽屋裏を、開幕まで映したという感じ。そこには様々な問題が起こり、様々な人間ドラマが見える。でも、ドキュメンタリー風作品というだけではない。もちろん、そういう意図で作られているのだけど、そこにヒーローモノなどの映画的要素を加えたことで、"ドキュメンタリー風作品"でさえなくなっている。その部分を楽しめるかどうかに、この作品を好きになれるかがかかっているかも?

 

なので普段あまり映画を見ないけど、アカデミー賞作品賞受賞作品だからってことで見に行くと混乱するかも? もちろん、自分は映画をよく見るから、この作品の全てを理解できたわ!などという、上から目線で言っているわけでもないし、映画好きな方々の中にも合わないと感じる方もいると思う。ただ、必要なことはセリフの中に出ては来るけど、分かりやすく説明はしてくれないので、こういうことか?とそれぞれ推測していく形の作品だったりするので・・・ チラシなどにも出ているとおり、バードマンがあの姿で登場するのだけど、その登場の仕方がダメだと感じてしまう人もいるかもしれないし・・・(´ェ`)ン-

 

冒頭、リーガンの楽屋。パンイチ姿で座禅を組み宙に浮いている。瞑想して浮いているってこと? このオープニングからビックリ! 元『バードマン』というヒーロー映画の主役だった役者が主人公なのは知っていたけど、これは一体? 彼はその後、手も触れずに物を動かしたり、テレビを点けたりする。え 主人公は超能力者なの? テレビには『アイアンマン』シリーズのロバート・ダウニー.Jrの姿(笑) これはカメオ出演? するとリーガンの頭の中の声が囁く。「お前より才能のない男がもてはやされている」この声は一体? 特に何の説明もなく楽屋で悶々とするリーガンの姿を映した後、彼を呼び出す声が掛り、リーガンは舞台へ。その途中、弁護士で友人のジェイクが声をかけてくる。リーガンは彼に共演の俳優の演技が最悪であることを告げる。では、降板してもらおうと請け負うジェイク。カメラは楽屋からリーガンの背中越しに着いて来る感じ。狭い楽屋裏がリアル。

 

舞台ではリーガンを待って役者たちがスタンバイ中。前述の役者が演技をするけれど、リーガンは納得がいかない。ダメ出しをするとオーバーな演技をして、さらにリーガンをイラ立たせてしまう。すると彼の上にセットの一部(?)が直撃して気を失ってしまう。舞台そでに引き上げると、ジェイクがこれで解決だと言う。えまさかわざと落としたの? この時点では映画のスタンス(?)がつかめていなかったので、てっきりリーガンは超能力を持っている設定なんだと思っていた。だって、そういう描写があったし! だから実はバードマンを演じていた時にも、その能力を使って演出を加えていて、それで人気が出てしまったので、自分の中で折り合いがつかなくなり、3本目で降板したのか?とか脳内展開していた。だから、てっきりこれもリーガンがやったことだと思っていた。力のセーブを失敗して思いのほか重症になってしまったのかと・・・ でも、どうやらそういうことではなかったらしく、これはむしろジェイクが手をまわしたことだったらしい。なるほど・・・ 酷いな(笑) でも、後にツケを払うことになるけど、まぁこれはゴタゴタ要素の1つという感じで、それ自体が大打撃を与えるというものでもない。

 

さて、首尾よく(?)大根共演者を追い出したものの、代役はどうする?となるわけだけど、ここのジェイクとのやり取りも面白い。マイケル・ファスベンダーは?『X-Men』の撮影中!とか(笑) そんな中共演者のレスリーから、マイク・シャイナーが空いているはずと提案が。実は2人は恋人というか、腐れ縁というかという関係なのだけど、そんなことは関係なし。リーガンが色めき立った様子から、マイク・シャイナーは実力と知名度のある役者だということが分かる。こういう、説明的ではないセリフや役者の演技で、状況を説明するのが上手い。クドクド説明的な描写は入れなくても伝わるものは伝わる。でも、それは自身が映画を見慣れているせいもあるかも? 映画、特にサスペンス系映画をたくさん見ていると、どうしても伏線を拾いながら見るクセがついているので・・・ なので、セリフでキッチリ「マイク・シャイナーならばブロードウェイでの経験も豊富で、人気実力とも申し分ない役者だ!」と説明して欲しいタイプの人には合わないかも? 別に自身が映画の見方を心得ていると言いたいわけでも、きちんと説明して欲しいタイプの人をバカにしているわけでもないです! 映画の楽しみ方や好みは人それぞれなので、単純にそういうタイプの人には合わないかも?と思っただけ。

 

ちょっと脱線したけど、このマイク・シャイナーがまたとんでもない人物 レスリーの稽古相手をしていたたため、リーガンのセリフまできっちり頭に入っているし、経験豊富なので直ぐに場に適応。演技も上手い。ただし、実力も自信もあるだけに自己主張も激しい。もちろん仕事だからリーガンに従う部分もあるけれど、別にリーガンを助けるために出演しているわけじゃない。当然ながら、リーガンを差し置いて自身の売り込みをすることもある。リーガンのアシスタントで娘のサムにも手を出すわ、プレビュー公演ではレスリーとのベッドシーンでまさかの本気モードに突入! セリフ無視して喋り出すわ、セットは壊すわでやりたい放題。何コイツ(*`д´)とか思ったりもするけれど、サムの件は彼女の方から迫った部分もあったし、「その若い目で見てみたい」という一言で全て言い尽くされている気がする。レスリーとの件にしても、それが実際見たいかってことや、倫理に反するかどうかは置いておいて、役者ってそいういうものなんじゃないかと思ったりもする。上手く言えないけど・・・ もし、本当にそうなったとして、人知れず彼が激しく自己嫌悪に陥っていたりしていたとしても、舞台の上でその人物の人生を生きていると、そんな瞬間があったりするのかもしれない。もちろん、全て計算しつくして、冷静な自分が"役者"である自分をコントロールするタイプの役者もいるとは思うけれど・・・ まぁ、マイクは役に入り込んでしまうタイプとも違う気がするし、冷静にコントロールするタイプとも違うけれど、後にサムに「舞台の上なら何でも出来る」と言うけれど、そういうことなんだろうと思う。この言葉を聞いた時、なるほどと思ってしまったので、もう納得するしかない(笑)  


やっと念願かなってブロードウェイの舞台に立てたレスリーも、この舞台にかけている。まさかのマイクの本気モードで女性としては気の毒なんてものじゃないけど、それでもやっぱり女優としては落ち込んでいたりする気持ちも分かったりする。イヤ、もちろん受けて立つべきだったかどうかってことではなくて、自分の女優としての覚悟というか、どこまで自分を捨てられるかってことの出来てなさに残念な気持ちだったんだろうなと・・・ どこまでするべきか、どこまでやらないべきかは別として。同じく共演の女優ローラはリーガンの恋人。でも、多分リーガンは彼女のこと本気で愛しているわけではないのでしょう。それはローラも分かっている様子。もちろん、彼女のこと好きだとは思うけど、彼女が妊娠したって言った時、明らかに狼狽したし。まぁ、今はそれどころじゃないってことはあるだろうけれど、何となくズルズルとって感じなのかなと。離婚はしたものの初日に駆けつける元妻の落ち着きや、包容力のようなものと比べてしまうとね・・・ まぁ、元妻は今は一歩引いたところにいるわけで、だから余裕があるというのもあるとは思うけれど。と、リーガンも共演者も、そして舞台も様々な問題を含み、それらが絡み合って、なかなか上手く進まない。それを、ずっと追いかけていくカメラワークがスゴイ。


娘のサムが一番一緒にいて欲しかった頃、リーガンはバードマンだった。その後、両親は離婚。サムは薬物中毒になってしまった。リハビリセンターに入院し克服しつつあるものの、いろいろ不安定。リーガンのアシスタントをしているけれど、残念ながら役に立っているとは言えない。それどころか、マイクと急接近してリーガンをヤキモキさせたりする。でも、マイクと2人きりで話していることの内容は、ちょっと危ない部分もあったりするけど、彼女は本来真面目で頭のいい人なんだろうと思わせる。ただ、寂しくて傷ついて道を誤ったため、自分をダメな人間だと思い込んでいるだけ。父親が有名俳優だといろいろ大変なんだろうと思うけれど、何も"普通じゃない"ことをすることが人生の成功者ってわけじゃない。普通の人の普通の人生だって、その人が幸せなのであれば立派な人生。まぁ、まだ若い彼女にとっては、受け入れがたいところもあるのかもしれないけれど・・・


さて、肝心のリーガンへ! チラリと書いたけれど、リーガンは1992年にハリウッドスターとしてキャリアのピークを迎えた。『バードマン』シリーズのヒットによるもの。街を歩いていれば、今でも「バードマンだ!」と言われているので、世間ではリーガン=バードマンとい認識らしい。まぁ、それはシリーズ3作目で降板し、それ以降ヒット作に恵まれていないせいもあるかもしれないけれど  実際の役者さんたちが、どこでどうモチベーションを保って、どこで自分のやりたいことと、やれることの折り合いをつけていくのかは、もちろん人それぞれでしょうし、計り知れないけれど、リーガンの経歴が主演のマイケル・キートンと被っているのは間違いなく狙いだと思うので、これはそういう部分のメッセージも含んでいるのでしょう。実際のマイケル・キートンが『バットマン』シリーズを降板したのは、3作目の脚本が気に入らなかったからだと、後にご本人が答えていたけれど、リーガンが降板したのはザックリ言うとイメージの固定を嫌ったから。最近ではどうなのか分からないけれど、アメリカでもやっぱりアメコミ作品に出演した役者を下に見る傾向があったらしい。だからこそ、リーガンは演劇の本場ブロードウェイで、"演技"で認められたいと思っているのでしょう。その気持ちは分からないでもない。事実、読売新聞に掲載された監督インタビュー記事によると、今作はエゴについて描いた作品であり、今のブロードウェイは俳優が自分が偉大であるかどうかをテストする場として扱われていると感じているため、ブロードウェイに挑む俳優を題材にしたと語っている。


この問題についてもう少し書きたいのだけど、例えばアメコミ・ヒーロー役者ということだけじゃなくても、世界的に大ヒットした映画のキャラクターが、その役者について回るってことはある。例えば以前、レオナルド・ディカプリオが『タイタニック』に出たことを後悔していると語ったことがあった。彼の本意は分からないけれど、やっぱりあの映画の後、イメージで見られてしまうことは多かったのかなと・・・ レオナルド・ディカプリオは演技派子役として登場した。その後、そのルックスの良さからアイドル的な存在になって行ったけれど、『タイタニック』でそれが決定的になった。日本でも"レオ様"と呼ばれて、そのルックスだけがもてはやされた感があった。もちろん、彼の実力を認めているファンも多かったと思うけれど・・・ 古くはマリリン・モンローもセックス・シンボルとしてしか自分を見てもらえず、演劇学校に通って演技の勉強をしたりと、かなり苦悩したと聞く。その辺りのことは『マリリン7日間の恋』(感想はコチラ)にも描かれていた。オードリー・ヘプバーンみたいに、何をやってもオードリー役という役者さんもありだと思う。ただ、自分は役によってガラリと変わってしまうタイプの役者さんが好き。だから逆に本人なのか、以前演じた役なのか、イメージが固定してしまうのは見ている側にとっても、あまりプラスではない気がする。でも、俳優として認知されなければ、どんな役も演じる機会が与えられないわけだから、ヒット作が出るのは喜ばしいことなのだと思うけれど、反面その役のイメージに縛られるということも・・・ でも、イメージを勝手につけるなと言われても、それは無理だしねぇ・・・ 


と、何やら熱く語ってしまったけれど、要するにこの辺りのことや、映画と演劇についてのことについて、いろいろ語りたかったのかなと思ったので・・・ 映画と演劇のことについては、ある人物が象徴している。ニューヨーク・タイムズに演劇評論を書いているタビサ・ディキンソン。おそらくモデルとなる人物がいるだろうと思われるけど、彼女の批評がその演目の運命を決めると言われている評論家。要するに彼女にダメだと言われれば、即打ち切りなんてこともあるということ。まぁ、それだけ彼女の批評に信頼がおけるということでもあるのかもしれないけれど、好みは人それぞれだと思うけどなぁ(´ェ`) ただ、立地的な問題や、金銭面などで頻繁に劇場に通うことが出来ない人や、普段はあまり興味がないけど話題になっているから見に行こうという感じの人にとって、劇評っていうのは作品選びの参考になる側面もあるわけで・・・ でもやっぱり、演劇も興行だから、採算が取れないものを延々と続けることは出来ないというのは理解できるけれど、それがたった1人の意見で左右されちゃうっていうのは、ある意味怖いなと思ったりする。


そのタビサが原稿を書いているシーンが2度登場する。リーガンの公演が行われる劇場の並びにはバーがある設定で、最初はマイクと共にバーに出かけ、彼にレイモンド・カーヴァーとの思い出を語るシーン。学生時代、カーヴァーの作品を上演した際、たまたま見て感動したカーヴァーが紙ナプキンにメッセージを書いてくれた。リーガンはそれを宝物として持っていたのだった。それをマイクに見せると、カーヴァーはどうせ酔ってたんだろうと、そっけない反応。この会話がされてた時に、マイクがカウンターで原稿を書くタビサを指して、彼女の劇評が公演の運命を左右するとリーガンに教える。彼女のことを説明すると共に、リーガンが"演劇界"には疎いということも表す脚本が見事。2度目は、いよいよ明日が初日という日。この頃、リーガンはプレビュー公演でのマイクのやりたい放題や、ローラの妊娠問題、マイクとサムの急接近とサムとの溝、負傷した俳優が弁護士を連れて乗り込んで来るなど、様々なゴタゴタを抱え、さらに自らの再起をかけたプレッシャーとの戦いで、見ている側も疲弊するほどの大混乱。そんな中、タビサを見かけた彼が、彼女にお酒を驕り、少しでもいい記事を書いてもらおうとしても、彼を責めることは出来ない。でも、タビサは最初からリーガンなど認めないという態度。多分、彼女に取り入ろうとする役者や、演出家など関係者が多いのでしょう。彼女のその態度には、ある意味自衛のようなものもあるのかなと思うけれど、それにしてもかなり辛辣。売り言葉に買い言葉的な部分があったとしても、そもそも映画俳優など役者として認めないというのは、聞いてて気持ちのいい言葉ではない。映画好きとして反論させてもらえば、バカにされがちなアメコミ・ヒーローものだって、役者の素晴らしい演技があってこそ楽しめるのでは? 


この後、リーガンは激怒。彼が言った言葉には概ね同意。全然、作品の舞台もトーンも違うけれど『シェフ 三ツ星フードレストラン始めました』(感想はコチラ)で、キャスパーがグルメライターにキレてた事に通じるものがある。あの作品も、主演・監督・脚本を務めたジョン・ファブロー自身の体験や思いが反映したものだったけど、この作品にも作り手側の思いがこもっているのだろうと感じた。前述したとおり、リーガンはそのままマイケル・キートンに重なるし、マイク役のエドワード・ノートンも演技派と言われているけれど、かつて『インクレディブル・ハルク』に主演している。サム役エマ・ストーンもアカデミー賞ノミネート経験があるけれど、賛否を巻き起こした『アメイジング・スパイダーマン』(感想はコチラ)シリーズに出演している。レスリーのナオミ・ワッツも実力はあるのに、認められるまでに時間がかかった。このキャスティングからしても、いろいろ物申したいのかなと。


そして、この後に続くシーンが最高に面白かった! 度々、リーガンの頭の中に囁きかけていたバードマンがついに姿を現す。リーガンの後ろにピッタリとついてきて、彼にまたバードマンに戻れと囁きかける。すると、『トランスフォーマー』のようなロボットが現れ、建物を破壊していく。このシーンは映画好きとしては( ̄ー ̄)ニヤリ ミュージカル好きだし、舞台のお芝居も好きだから、演劇界に対抗心を燃やしているわけではないけれど、タビサ(本心かどうかは別として)に代表される"演劇界"が見下しているハリウッド大作の魅力は、まさにこういう部分だから! 街の中にロボットを登場させることが"演技"なのかということではなくて、それを見せられたら楽しいでしょうってことなのかなと個人的には解釈した。アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督は、いわゆるハリウッド大作的な作品を撮ってきた監督ではない。むしろ『バベル』(感想はコチラ)など、重いテーマの人間ドラマを撮ってきた。それが、ここでこれを入れてくる意味は、ハリウッド大作擁護なのか、大作ばかりがもてはやされることへの皮肉なのか?  個人的にはそれも含めて映画愛だと感じたのだけど、どうかな?


このシーンの後、リーガンはビルの屋上から飛び降りる。え、まさかの自殺 とか思っていると、空中を自由に飛び回るリーガン。そのまま飛び続けて劇場へ戻る。何食わぬ顔で中に入って行くリーガンに、タクシーの運転手が料金を払えと文句を言う。なるほど、当然妄想だよね(笑) その後、リーガンがイライラして楽屋を破壊するのは、この後だったよね? 画面では超能力で物を飛ばしたりしているように映しているけれど、娘のサムが訪ねて来ると、リーガンが自分で投げ飛ばしたりしていることが判明。やっぱり、これもリーガンの妄想だったのね まぁ、そうだと思っていたけれど。このリーガンの狂気みたいなものが、コメディ的に描かれている。悲惨な感じはしないけれど、ある意味心配になる。この場面の楽屋の荒れっぷりが、リーガンの妄想シーンでは、破壊的ではあるものの、美しい破壊っぷり。スパッと割れたり画的にキレイ。でも、現実部分は埃っぽくて汚らしくてリアル。現実は映画のように美しくないってことだろうし、映画ならそういうことが出来るってことでもあるのかな?


リーガンはサムとやっときちんと向き合って話すことが出来た。それは、サムがマイクと関わりを持ったことも影響しているかもしれない。マイクを通してリーガンのことが理解できたのかも。俳優の業っていうか・・・ 娘なのだから父親を求めるのは当然で、家にいて欲しいのにいてくれなかったり、自分以外の人々のものであったりするのは、複雑だったろうと思う。それを、幼い少女に理解しろというのは酷で、彼女が傷ついてしまったことを、今さら埋めることもできないと思うけれど、彼女も身近でリーガンの苦悩する姿を見て、さらに演劇界ではリーガンより成功しているマイクでも、常に闘っているのだということが分かって、思うところがあったのかも。


初日、本番前に元妻が楽屋を訪れる。元妻はプレビュー公演も見ていて、あのドタバタの中、心配して楽屋を訪ねてくれた。その時には、マイクの出演料を払うため、サムに残す予定だった家を抵当に入れると話、激怒させてしまったけれど・・・ でも、この奥さん素敵な人だと思う。夫として、娘の父親としてのリーガンを認めることはできないけれど、やっぱりリーガンのことは好きなのでしょう。彼女と昔の話をして、いい感じで別れた後、リーガンは芝居に使う銃を取り出す。それは小道具の銃ではなくて、本物の銃。


この日のリーガンの演技は冴えわたり、マイクですら称賛の目を向けるほど。彼の熱演に引っ張られ、共演者たちの演技にも力が入る。観客も惹きつけられている様子。そして、クライマックス。妻の浮気現場に銃を持って乗り込んだ夫。妻からもう愛していないと言われ、絶望して自らの頭を撃ち抜くシーン。まさかの実弾! 騒然とする客席。しかし、割れんばかりの大喝采。これって、まさか本当に負傷しているって分かっててやっているの この時点で見ている側はリーガンの生死は分かっていないので、この客席の興奮にはビックリした。これは強烈な皮肉なのかな? ここまでしないと認めないってこと? "芸術"だと評すれば、どんなショッキングなことでも見たいってこと? まぁ、でも多分笑うシーンなのだと思う。ブラック・ジョーク的に。ただ、初日も見に行かずに酷評してやると言っていたタビサ・ディキンソンが、この熱狂の中席を立つ姿が印象的。ああは言ってもプロならちゃんと見て批判しなきゃね!


シーン変わって病室。鼻を中心に顔に包帯を巻かれベッドで寝ているリーガン。弁護士のジェイクがやって来て、初日の大成功を告げる。どの新聞も大絶賛。あのタビサ・ディキンソンも「超現実主義の新時代を開いた」と絶賛。自分の頭を撃ち抜こうとすることを、超現実主義としてしまわれては命がいくつあっても足りないと思うけれど、いいと思ったものは認める姿は彼女もプロだと思わせる。ジェイクが去った後、サムがやって来る。鼻が飛んだのよ!と言われるリーガン。サムともいい関係が築けている様子。花を生けるためにサムが病室を出た後、鏡に向かい包帯を取る。鼻が飛んだというからには、どんな悲惨な姿が?!と思ったけど、鼻はあった。これは整形したのかな? それとも・・・ その後、リーガンは笑い出す。1人でいる時は常に聞こえていたバードマンの声が聞こえない。これは彼がバードマンを払拭できたってことを表しているのかな? 


その後、リーガンは窓から身を躍らせる。その後のリーガンの姿は映さない。サムが病室に戻って来る。父親の姿がないことに驚き、慌てて窓に向かう。窓の下を覗いた後、何故か上を見るサム。そして笑顔。で終了。これは リーガンがバードマンを自分の中に完全に取り込んだっていうことの象徴なのかな? 自分はそう感じた。なかなか夢のあるラスト。もしも、リーガンが死んでしまっていたとしても、俳優としてやり切ったと思って死ねたのなら、それはそれで幸せなんだと思うし。まぁ、そう考えるのも無粋と思わせるようなラストだったと思う。とっても映画的。


キャストは全員素晴らしかった! かなりの豪華キャストで演技派ばかりだから、見る前から楽しみにしていたけれど、期待を裏切らない演技合戦。サムのエマ・ストーンは薬物中毒の治療中で不安定、自分に自信が持てないからイライラしているし、マイクに興味を持ってもらおうと必死になったりする感じも良く分かる。生意気でワガママな娘にはなっていないのはエマ・ストーンの演技のおかげ。ちょっと痩せ過ぎなのは役作りかな? ちょっと心配だったので(笑) ナオミ・ワッツも自身を投影したかのような売れない女優役を好演。BWデビューとなる彼女としても、この作品にかける思いは同じ。だからこそマイクを推薦したのだし。でも、彼の存在に自分も追い込まれてしまったり、自分の覚悟のなさを思い知らされたり。その辺りが伝わって切ない。ジェイクのザック・ガリフィナーキスがさすがのコメディアンぶりを発揮! 彼が出てくるシーンは全て笑える感じになっている。それが、緩急にもなっていた。マイクのエドワード・ノートンが素晴らしい! 登場時から嫌なヤツ臭プンプンさせて、プレビュー公演ではやりたい放題。しかも、主演、脚本、演出を手掛けた、まさに"リーガンの芝居"を利用して自分を売り込むとか、最低なヤツとか思うけれど、「自分は舞台の上なら何でも出来る」というセリフ1つで、彼のことが理解できてしまうのはさすが。それが上手く言葉に出来ないのは自分の稚拙さで悔しいけれど、この言葉で彼がしてきたこと全てが納得できたというか・・・ あとはサムに言った「その若い目で見てみたい」っていうセリフかなぁ・・・ 意外にサラリと言うのがグッと来る。若い目で見ても見えてない人には見えていない。でも、そういうことじゃなくて、"今"見てみたいってことなのかなと。エドワード・ノートンはもともと好きな役者で、『25時』とか素晴らしい演技もあったけど、自分が見た作品の中では1、2を争う演技だったかも。


そして、やっぱりマイケル・キートンが素晴らしい! 前述したとおり自身の経歴と被る部分が大きい。『バットマン』シリーズ以降も、映画に出演し続けているし、主演ではなくてもヒット作にも出演している。『アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事』(感想はコチラ)の演技も良かったと思ったし。でも、いわゆる大御所俳優たちが脇で出演するのとは、扱いが違っていたとは思うけれど・・・自分自身に近い役というのは、演じやすいのか演じにくいのか分からないけど、この狂気一歩手前なほど追い込まれているリーガンを、ちょっとクスッと笑いながら見れたのは、マイケル・キートンのおかげ。不注意からパンイチ姿で夜の劇場街を歩く姿とか、コミカルでありながらも切なかったりするのは素晴らしい。離婚の原因が浮気とか、現恋人の妊娠を喜べないとか、リーガンは良い人とは言い切れない部分もあるし、上手く行かなくてイライラしているシーンも多いけど、とにかくこの状況を何とかしたいと思っている感じが伝わって来る。そのダメさ加減も含めて素晴らしかった! 『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』(感想はコチラ)の記事にも書いたけど、この演技でアカデミー賞主演男優賞取れないって、どれだけスゴイのエディ・レッドメイン と思うのでした(笑)


これは映画好き、演劇好きな人は絶対好きだと思う。そもそも、この作品ワンカットかのように編集されていて、病室のシーンまで全く途切れない"長回し風"作品となっている。前述したように長回しなどムリなシーンも多いので、当然別々に撮影したシーンを繋ぎ合わせて"長回し風"の映像に編集している。その編集技術もスゴイけれど、それらを計算して撮影したエマニュエル・ルベツキは神の領域! 大変な技術と作業だったそうだけれど、もう本当に素晴らしい。舞台上の臨場感もそうだけれど、常にリーガンと一緒に行動している、もしくは時々リーガン自身の目線になったりする。例えば、舞台裏をカメラが移動している。すると、カメラを越えるようにリーガンが現れ、そして彼の後ろ姿を追う形になったりする。舞台から降りてきたリーガンが、ヅラを取るシーンが2回くらい出てくるけど、ヅラを着けているシーンがない上に、あまりに自然だったので、2回ともヅラだったんだとビックリしたり、そういう視覚効果みたいなのも長回し風ならでわ。リーガンがイライラしていると、画も落ち着かなくなり、アントニオ・サンチェスのドラムがそれをさらに煽る。この手法が合わない人もいるとは思うけど、自身はとってもおもしろかった。こういうのも映画の醍醐味。


撮影は2013年3月にNew Yorkで始まり、4~5月に30日以上かけてBroadwayでストーリー順に撮影されたとのこと。舞台となったのはセント・ジェームズ劇場。劇場の名前は知ってたから、有名な作品を上映したのかな? 稼働している劇場を1ヶ月空けてくれるってなかなかスゴイかも! うれしかったのは楽屋裏や舞台裏を見れたこと。そして、サムがよくタバコ(?)を吸いに出ていくバルコニー的な部分から、向かいのマジェスティック劇場が見えていること! そう「オペラ座の怪人」が30年近く上演されて続けている劇場! 映っていた看板は青ベースの25周年の看板になってたし、時期的にSierraが出演してた頃かも? 違ったかな? 2013年は1月から3月くらいまでだったかも? でも、とにかくうれしかった 


映画好きで演劇好きな方は絶対好きだと思う! とにかく映像とドラム効果がスゴイ! そして役者たちの演技がスゴイ! エドワード・ノートン、エマ・ストーン、ナオミ・ワッツ好きな方是非! マイケル・キートン好きな方必見です


 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』Official site

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【cinema】『たまこちゃんとコックボー』初日舞台挨拶

2015-04-02 23:59:09 | cinema

'15.03.28 『たまこちゃんとコックボー』初日舞台挨拶@TOHOシネマズ渋谷

応援している片岡翔監督の2作目! 舞台挨拶をみんなで見ようってことで、チケット争奪戦に参戦! tomocoさんがゲットしてくれて、総勢6人で見てきた♬  舞台挨拶の様子はコチラで!

 ネタバレありかも?

「お菓子の国のお姫様になりたい中学3年生のひよ子は、学校になじめず不登校中。以前は同じ世界を楽しんだイソップも、今では他のみんなと同じになってしまってつまらない・・・ ある日、大好きな番組"たまこちゃんとコックボー"を見ながら、何気なくドーナツの穴から覗いてみると、何故かたまこちゃんの世界へ・・・」という話。これはかわいくて、ちょっぴり切ないファンタジー。そして片岡翔監督ワールド全開! 2作目にしてこの全開感で映画を撮れているのは素晴らしいと思う(・∀・)ウン!!


予備知識ほとんどなしで見たので、てっきりアニメもしくはマンガ原作の映画化なんだと思っていた。どうやら「たまこちゃんとコックボー」というのは、広島ホームテレビと「鷹の爪団」のDLEなどが共同で作ったキャラクタープロジェクトの、ユニキャラプロジェクトによる天気予報番組らしい。2010年10月から広島ホームテレビで、月~金曜 19:54~、土曜 17:55~放送中で、2014年からは秋田放送でも放送されているとのこと。広島では地元スーパーイズミの食育キャンペーン・キャラや、広島ガスのキャラに起用されるなど人気番組らしい


たまこちゃん:食べるの大好き。料理は苦手。

コックボー:料理が得意な喋るコック帽。

モグP:冷蔵庫にあった卵から生まれた謎の生き物。いつもモグモグ。


というのがメインのキャラクター。たまこちゃんとコックボーが合体してパワーアップしたりするらしい。時には、モグPと合体することも そして、このモグPの声を担当しているのが、今作の主人公星野ひよ子を演じている、ぁぃぁぃこと私立恵比寿中学の廣田あいかちゃんなのだそう。ある記事によれば、「たまこちゃんとコックボー」の映画化の企画が持ち込まれ、脚本も担当した片岡翔監督はちょっとビックリされたのだそう。その時、どこまで企画の条件があったのかは不明だけど、主演のぁぃぁぃとアニメの魅力を最大限に生かしつつ、10日間という短い撮影期間中に、アニメが放送されている広島と秋田でロケをしたりと、いろいろ盛り込まれていたように思う。


さて、本題! 冒頭から片岡翔監督ワールド全開! 恐竜のいる公園。恐竜にまたがって、動物キャラのドーナツの穴から覗いているひよ子。彼女の目には空から降って来るキャンディーが見える。そこに現れたのは同級生のイソップ。このイソップくんが丸メガネでハリー・ポッターそっくり! これは狙い イソップにドーナツの穴から何が見えるか聞いてみるけど、普通の答えしか返ってこない。それどころか、不登校中のひよ子を気遣い、皆が心配しているから学校に出て来いと言うイソップにガッカリ まぁ、イソップの言っていることが普通というかまともではあるのだけど・・・ 勉強も苦手で、人と変わっているひよ子にとって、学校が生きにくい場所なのはよく分かる。ここで、ひよ子がイソップに言う、ドーナツの穴から見えるはずのモノと、2人の間で話題になった、ひよ子からイソップに贈ったバレンタインの手作りドーナツが、後のカギとなる。


星野家は父の鳥夫、母の雀子、姉の小鳥、そしてひよ子の4人家族。この名前スゴイね  両親は優しく、少々イヤミを言う姉でさえも、皆がお好み焼き(広島なので)を食べる中、1人ホットケーキを食べるひよ子を温かく見守っている。中学3年生という大切な時期に不登校というのは、家族としても心配だろうとは思うけれど、個性的過ぎる彼女を、今は潰さないようにしようということなのかな? ひよ子の親世代となってしまった身としては、心配になってしまうけれど、15歳には15歳なりの生きにくさもあるわけで・・・ この辺りぁぃぁぃの個性を良く生かしていると思う。ワガママと言ってしまえばそうなのだけど、進路相談でお菓子の国のプリンセスになりたいと言ってしまうような、不思議キャラを"個性"として見せている。この"個性"を生かせる道はないものか? でも、パティシエになるのは大変だからイヤだって言うし(笑)


自分の世界がつまらないひよ子の唯一の楽しみは「たまこちゃんとコックボー」を見ること。いつも楽しそうなたまこちゃんとコックボー。ふとドーナツの穴から覗いてみると・・・ なんと、たまこちゃんの世界へ! 当然、ひよ子もアニメになるのだけど、この絵がかわいい ぁぃぁぃに似てたと思う。そしてこの世界、片岡翔監督ファンならおなじみのキャラがさり気なく出て来て( ̄ー ̄)ニヤリ 


たまこちゃんの世界が気に入ったひよ子は、自分の世界がつまらないと言うたまこちゃんと入れ替わることに! たまこちゃんが体に入ると、ひよ子の髪型がたまこちゃんヘアに! これは後にある人物も同じ状態になって笑える場面となっている。どうやら、たまこちゃんは小学生くらいという設定らしいので、中学3年生としてはかなり子供っぽいひよ子と、行動自体はあまり変わらない。なので、中身が変わってしまったこと自体にそんなに違和感なく周囲に受け入れられているようだけれど、なにしろ新しい世界で見る物全てが楽しいたまこちゃんは、家でも学校でもやる気満々! 


ひよ子の世界を楽しんだたまこちゃんが、教えられたとおりドーナツ穴を覗いて戻ろうとするも戻れない! ってことで、これからイソップを巻き込んでの大騒動になるのだけど、あまり詳しく書いてしまうのはヤボ。ここ男女入れ替わりもあって楽しい 自分が見た1回目のお客さんは、おとなしめな方々が多かったようで、あまり笑い声とか起きてなかったのだけど、ここでは笑いが起きてて一安心。ちなみに2回目では頻繁に笑いが起きていた様子。とにかく、元の世界に戻らなきゃってことで、ひよ子が秋田から広島、そして広島から秋田まで大移動! 途中、事故に巻き込まれたりと波乱万丈だけど、どんどんひよ子が成長しているのが分かる。ひよ子役のぁぃぁぃも酷寒ロケでも決して弱音を吐かなかったそうだけれど、ひよ子も決して諦めない。男女入れ替えって書いちゃったので、もう書いちゃうけど巻き込まれるのは当然イソップ。何故、イソップが巻き込まれることになったのかは、ひよ子があることを願ったから。その願いがとってもいいなと思った。


劇場で見て欲しいので、詳細は避けるけれど、ラストはちょっぴり苦いハッピーエンド。その苦さも含めて、ひよ子が自分の世界を受け入れていることが分かる。苦さはひよ子が、ここれまで辛いことと避けて来たから。その代償をちゃんと払っているのも良かったと思う。そう、自分の世界がつまらなかったのは、ひよ子が楽しんでいなかったから。人生を楽しくするのは自分! そのことを、改めて教えてくれる素敵なラスト。


キャストは、父親役で津田寛治が出ていてビックリ! 津田寛治好きなので、なんだか勝手にうれしくなった。出番としてはそんなに多くはないけれど、ひよ子を温かく見守る良きお父さんという感じ。母親役の堀内敬子は劇団四季の「キャッツ」の子猫役の頃から知っているので、お母さん役をやるのかとこちらもビックリしたけど、相変わらずカワイイ。ひよ子が言うとおりほっぺたプニプニ。温かく見守り過ぎるところのある両親を2人好演。片岡翔監督作品『ヒゲとりぼん』に出演した、椎名琴音、小澤雄志、木村知貴の3名も出演! 特に、キムチムこと木村知貴は出オチのような感じに(笑) しかも気絶が長い! イソップ役の阿久圭介は今作が映画初出演だそう! いきなり3役+声優ってことで、これはかなり大変だったのでは? でも、まだ不器用だけど一生懸命な感じが、中学3年生男子の感じと相まってとっても良かったと思う。そして、何よりぁぃぁぃこと廣田あいかの魅力満載 とはいえ、アイドルとしての活動を全く知らないので、彼女の本当の魅力が分かっているかは微妙なのだけど・・・(o´ェ`o)ゞ でも、この不思議ちゃんというよりは、自分の世界があり過ぎて、でも本当の大切さに気付いていない役どころを、イライラさせたりすることなく、魅力的に演じていたと思う。この役イヤミなく演じられる人なかなかいないんじゃないかな?

 

冒頭の恐竜の公演とか、ぬいぐるみ(全て監督私物)だらけのひよ子の部屋とか、片岡翔監督ワールド全開でありながら、きちんと「たまこちゃんとコックボー」の世界と融合したのは素晴らしかったと思う。この「たまこちゃんとコックボー」のアニメの中に入るのが、ゲームアプリで自分も参加している感じっていうか・・・ ゲームほとんどしないので、自分が知ってるゲームアプリといえば"ねこあつめ"とか"ねこがきた"くらいだけど(o´ェ`o)ゞ でも、そういうちょっとゆるいゲームに参加している感じっていうのかな?なので、ひよ子たちと一緒に楽しめる。コックボーが超カワイイ! 寂しがって言う「たまこちゃ~ん」が切なカワイイ


ちょっと不思議なファンタジー好きな方オススメ! エビ中ぁぃぁぃ好きな方必見です!( ・Θ・)ゞピヨッ  劇場で是非~


『たまこちゃんとコックボー』Official site

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【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#1

2015-04-01 22:43:20 | tv

【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#1


以前、「フランケンシュタイン」の記事も書いたけど、25分×4回で1つの名著を読み解こうという番組。毎回、その作品の専門家を講師に迎え、伊集院光氏とNHKの女性アナンサーが教えてもらうという形を取っているので、読んだことがなくても楽しめる。今回は「ブッダ最期のことば」でこれが「大般涅槃経」なのだそう。今回の講師は花園大学教授の佐々木閑氏。

いつもどおり、気になったことをtweetしておき、後からWikipediaなどで補足していく形にしようと思っているのだけど・・・ 内容が難し過ぎて、tweetするのも難しいんだよね


 

 

釈迦の仏教(上座部仏教?)=自分の修行によって救われる 大乗仏教=外部の不思議な力によって救われる 日本は大乗仏教


インドから仏教が広まるにあたり、ザックリ分けると内陸側と海側のルートがあって、内陸側が大乗仏教(Wikipedia)で、海側が上座部仏教(Wikipedia)。日本に伝わったのは大乗仏教ということくらいは知っていたけど、その違いなどは全く分かっていない  今回取り上げるのは上座部仏教の方ということになるのかな?

 

 輪廻の輪から出ることが"涅槃"

 

番組サイトの動画を見て補足! 釈迦(Wikipedia)は紀元前5~6世紀頃、インドとネパール国境付近のルンビニで誕生。王子ゴータマ・シッダールタとして何不自由なく育つが、人生は"生・老・病・死"の苦しみの連続であることを知り29歳で出家。苦行と瞑想により煩悩に打ち勝ち35歳で悟りを開き、ブッダ=目覚めた人となり45年間布教に励み、80歳で涅槃に入った。というのがザックリした釈迦の一生。で、タイのワット・ポーなどでもおなじみの涅槃仏は、この入滅時の姿を表している。この涅槃(Wikipedia)というのが、よく分かっていなかったのだけど、どうやら"完全なる死"ということらしい。

当時のインドでは輪廻(Wikipedia)が信じられており、天=神の世界➡人=人の世界➡畜生=動物の世界➡餓鬼=飢えに苦しむ世界➡地獄=苦しみの世界の5つの世界を、永遠に輪廻すると考えれていたのだそう。その輪廻の輪から出て、完全に死ぬことを涅槃というらしい・・・ うーん


律=集団(サンガ)における 戒=・・・ 早くてメモ出来ないわ。・゜・(ノД`)・゜・。


とにかく説明が早くて、フリップとか出ているんだけど書ききれない iPhoneじゃ無理だと思ってPCにしてるのに、それでも間に合わないわ・・・ 

まず、サンガ(Wikipedia)というのは、集団を意味するサンスクリット語。律(律(仏教)|Wikipedia)はサンガにおいて守るべき規則。戒(Wikipedia)は信徒が守らなければならない各種の決まり。まぁ、そうだよね・・・(o´ェ`o)ゞ

 

戒と律の2本立ての価値観

 

やっぱり難しいわ・・・


やっぱりどうしても、観念的というか、釈迦のことば自体も難しいので、どこまでついて行けるか分からないけど、このシリーズは全部見ようと思う!o(`・д・´)o ウン!!

 

100分 de 名著:毎週水曜 23:00~@Eテレ

100分 de 名著|Eテレ

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