今日、五十子敬子氏の「死をめぐる自己決定について」(批評社、2008年11月10日初版)という本を読んでいたら、ハリー・G・フランクファートという人が、人と他の動物を区別する決定的要因は、人には彼のいう「第二次的欲望」を形成する能力がある、と言っていることを初めて知りました。
「第一次的欲望」とは、現時点で何を望むかという欲望でのことであり、人はこの種の欲望は他の動物と共有します。人が他の動物と違う点は、人はこの時点での欲望に満足せず、「人の好みや目的において、現実の己とは違ったものになることを望むことが出来る」ということだそうです。
そこで、ふと思い出したのが、今回の金融恐慌を招く一因となった、金融テクノロジーを駆使してのデリバティブ商品などの開発・設計にかかわった人間のことです。
彼らは単に新しい金融工学商品を社から命じられるままに作り上げたのではなく、そのアウトプットとしての商品が現に世界に流通し、実際に想定した成果(この場合は金)を生むことで、極めて個人的な欲望が充足され、そしてその結果、(金融工学的)自己世界が新たな変容を遂げることに、ある種の快感を抱いていたのではないだろうかと。
その快感に浸るためにはある1つの条件がありました。それは、その金融商品の開発・設計に関するアルゴリズムは、できる限り自分だけのものにしておくことでした。
協働作業になればなるほど、個人的な欲望の充足度合いが薄れ、その分快感も低くなります。そのためには、自分以外の他のエンジニアには理解不能なほどに、複雑精緻なシステムに組み上げておくことが、必須条件であったのではないかと思います。
実際、出来上がった新しい金融デリバティブ商品は、それを作り上げたエンジニア以外はメンテナンスできないほどのものだったと言われております。
「現実の自分とは違ったものになる」欲望が、実は、金銭的な欲望よりも強く動機づけられていたという点では、形の違いはあれ、いわゆるハッカーの心理状態もそれに近いのではないでしょうか。
筆者は、これを「虚構の欲望」と呼びたいと思います。
話は変わりますが、昨日新しく届いたCDを聴いてみました。Ricercar Consortと呼ばれる演奏家集団による、バッハのBWV234、544、198、727、そして544が収録されているものです。
この中のBWV198は、昨年2月22日のブログでご紹介した曲ですが、既にガーディナーとフォソリスの盤を持っております。しかし、この演奏家集団の指揮者Philippe Pierlot(写真を見る限りまだ若い)の198番は録音状態も良く、3枚のCDの中ではもっとも気に入りました。
どこが他の盤との違いかを言い表すのは困難なのですが、冒頭に書いた「現実の己とは違ったものになる」ことをもっとも望める演奏だということは言えそうです。
この演奏の198番の例のテノールのアリアを聴いていて、しみじみと、これで「好きな湯豆腐と野菜、そしておいしいお酒があれば、もうこれ以上の人生の愉悦はなかろうに」と思う自分がありました。
つまり、この演奏は「虚構の欲望」ではなく「真性の欲望」を喚起してくれているのではないかと思いました。
同じ本に、マザー・テレサの「死を待つ人の家」も紹介されておりました。
「そこでは、コレラにかかり、汚物の中で死にかけている老人も、世間から見捨てられ、身も心もズタズタになって行き倒れている人も、体を丹念に洗い清め、清潔な衣服に着替えさせ、ウジのわいた傷口に過マンガン酸カリウムを塗り、ベットにそっと横たえてやる。手を握り、話すこともできない瀕死の人には目で語りかけ、ゆっくりと温かいスープを口に運んでやる。自らの過去を恨み、死の床にある浮浪者が、感謝しながら、にっこり、笑顔で死んでいく。そこにあるのは避けがたい運命を受け入れる人間の姿である。」
一体何が、マザー・テレサと、彼女と協働する人々を、このような行為に駆りたてているのだろうか?
答えは、読者の方々のそれぞれの想像にお任せしますが、この世界は、人々の欲望の持って行きどころをどこか間違えたのではないかと改めて思いました。
「第一次的欲望」とは、現時点で何を望むかという欲望でのことであり、人はこの種の欲望は他の動物と共有します。人が他の動物と違う点は、人はこの時点での欲望に満足せず、「人の好みや目的において、現実の己とは違ったものになることを望むことが出来る」ということだそうです。
そこで、ふと思い出したのが、今回の金融恐慌を招く一因となった、金融テクノロジーを駆使してのデリバティブ商品などの開発・設計にかかわった人間のことです。
彼らは単に新しい金融工学商品を社から命じられるままに作り上げたのではなく、そのアウトプットとしての商品が現に世界に流通し、実際に想定した成果(この場合は金)を生むことで、極めて個人的な欲望が充足され、そしてその結果、(金融工学的)自己世界が新たな変容を遂げることに、ある種の快感を抱いていたのではないだろうかと。
その快感に浸るためにはある1つの条件がありました。それは、その金融商品の開発・設計に関するアルゴリズムは、できる限り自分だけのものにしておくことでした。
協働作業になればなるほど、個人的な欲望の充足度合いが薄れ、その分快感も低くなります。そのためには、自分以外の他のエンジニアには理解不能なほどに、複雑精緻なシステムに組み上げておくことが、必須条件であったのではないかと思います。
実際、出来上がった新しい金融デリバティブ商品は、それを作り上げたエンジニア以外はメンテナンスできないほどのものだったと言われております。
「現実の自分とは違ったものになる」欲望が、実は、金銭的な欲望よりも強く動機づけられていたという点では、形の違いはあれ、いわゆるハッカーの心理状態もそれに近いのではないでしょうか。
筆者は、これを「虚構の欲望」と呼びたいと思います。
話は変わりますが、昨日新しく届いたCDを聴いてみました。Ricercar Consortと呼ばれる演奏家集団による、バッハのBWV234、544、198、727、そして544が収録されているものです。
この中のBWV198は、昨年2月22日のブログでご紹介した曲ですが、既にガーディナーとフォソリスの盤を持っております。しかし、この演奏家集団の指揮者Philippe Pierlot(写真を見る限りまだ若い)の198番は録音状態も良く、3枚のCDの中ではもっとも気に入りました。
どこが他の盤との違いかを言い表すのは困難なのですが、冒頭に書いた「現実の己とは違ったものになる」ことをもっとも望める演奏だということは言えそうです。
この演奏の198番の例のテノールのアリアを聴いていて、しみじみと、これで「好きな湯豆腐と野菜、そしておいしいお酒があれば、もうこれ以上の人生の愉悦はなかろうに」と思う自分がありました。
つまり、この演奏は「虚構の欲望」ではなく「真性の欲望」を喚起してくれているのではないかと思いました。
同じ本に、マザー・テレサの「死を待つ人の家」も紹介されておりました。
「そこでは、コレラにかかり、汚物の中で死にかけている老人も、世間から見捨てられ、身も心もズタズタになって行き倒れている人も、体を丹念に洗い清め、清潔な衣服に着替えさせ、ウジのわいた傷口に過マンガン酸カリウムを塗り、ベットにそっと横たえてやる。手を握り、話すこともできない瀕死の人には目で語りかけ、ゆっくりと温かいスープを口に運んでやる。自らの過去を恨み、死の床にある浮浪者が、感謝しながら、にっこり、笑顔で死んでいく。そこにあるのは避けがたい運命を受け入れる人間の姿である。」
一体何が、マザー・テレサと、彼女と協働する人々を、このような行為に駆りたてているのだろうか?
答えは、読者の方々のそれぞれの想像にお任せしますが、この世界は、人々の欲望の持って行きどころをどこか間違えたのではないかと改めて思いました。
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