「養老訓」という老人向け?の本を、あの養老孟司が去年の11月20日に出しております。
いつもながらに、養老センセーはなかなかに率直なもの言いです。例えば、こんな風に。
<<「幸せとは何か」というようなことを聞かれることがあります。私はいつもこんなふうに答えます。「考えたことありません」>>
養老センセーにとっては、「幸せとは○○である」というような言葉は、株の値動きと同じで、すべて後知恵の類だとしか思えないとのこと。
では何が養老センセーにとって幸せなのでしょうか?それは、「採れるはずがないと思っていた虫が思いがけず採れたということが幸せです。思いがけないものです。」だそうです。
多分、タイトルに書いたような「新種の虫」でも見つかれば、それこそ養老センセーは幸せのあまり卒倒して寿命を縮めるのかも知れません。
「新種の虫」とは、既種の虫とは違って、これまでに誰も見つけることができていない虫のことです。たとえ、これを見つけようと思って世界中を徘徊したところで、これだけ世界の隅々まで人間が繁殖した現代では、新種が見つかる僥倖に出会うには、最低でも何百年もかかることでしょう。
これは世界の中の眼に見える「既成の事実」を相手にしているからです。その新種の虫、あるいは希少種は、たまたま人間にはまだ発見されていないか、見かけないだけであり、地球生誕のある時期から、例えば、アマゾンの特定の場所に生息していることは、神のみぞ知る既成の事実です。単に発見の確率が天文学的に小さいだけです。
ところが、そのような確率が極端に低い出来事との遭遇を待たなくとも、人間にとっての新しい何かの発見は、自分と世界との関係が作る無限の様相からも、どうも出現してくるようです。しかもその様相は、あえて見ようと思っても見えるものでもなく、感じようと思っても感じることができるものでもありません。
1960年に、あの京大の今西探検隊に先駆けて、23歳の時にアフリカのタンザニアのゴンベのジャングルにわたり、野生のチンパンジーと慣れ親しみ、初めてチンパンジーが道具を使うことを明らかにして世を驚かせたジェーン・グドールが、そのゴンベのジャングルで、チンパンジーと一体化するための長い努力の最中にふと横たわったアフリカの大地で感じた、まるで「永遠の神なる大地に抱かれたかのような震撼」(彼女の直接の言葉ではなく、筆者がその本の読書記憶から絞り出しての表現です。)のようなものは、世界との関係がある特異な領域にまで昇華した時だけに、ふと現れ出たものと言えます。この時にジェーン・グドールは喩えようのない幸せ感を掴んだであろうことが、彼女の自伝的エッセイ、「森の旅人」からは窺い知ることができます。
このグドールの幸せ感と比肩するほどのことではとてもありませんが、最近せっせと買い集めているバッハのCDの中で、とりわけ、次の歌詞を持つカンタータ198番のテノールのアリアに、実にたとえようのない幸せ感を抱くようになりました。
Eternity's sapphiric house, 永遠のサファイア色の住まいは
O Princess,these thy cheerful glances 王妃よ、御身の晴れやかな眼差しを
From our own low estate now draweth 我らの卑賤さから引き戻し
And blots out earth's corrupted form. 地上の汚れし姿を贖えり
A brilliant light a hundred suns make, 百の太陽にも似た強き輝きは
Which doth our days to mid of night この世の昼を真夜中とし
And doth our sun to darkness turn, 我らの太陽を闇とする
Hath thy transfigured head surrounded. 御身の光り輝く頭を包みたり。
(J.S.Bach、Cantatas BWV198 No8 Aria)
「どうか王妃よ、さらにもう一筋の光を)
1991年発売のジョン・エリオット・ガーディナーが演奏するこの曲は、当時も何度か聴いた筈でした。しかしその時は特段何とも感じず、その後16年近くほとんど聴いておりませんでした。しかし、昨年夏に装置を入れ替え、そして今年の2月になって2004年録音のD.ファソリスのCDを聴いてから、突如この曲のこのアリアに魅せられました。それも、何度か聴いているうちにです。まさに、カンタータの題名どおり、一筋の光に出会った感じです。この曲が日本でいうと江戸時代に作られたものとは、とても信じられません。
こうしたことも、養老センセーが「採れると思わなかった虫が思いがけず採れた時が幸せです」といったことなのでしょうね。この「思いがけず」ということが、生きる楽しみあるいは苦しみなのかも知れません。
いつもながらに、養老センセーはなかなかに率直なもの言いです。例えば、こんな風に。
<<「幸せとは何か」というようなことを聞かれることがあります。私はいつもこんなふうに答えます。「考えたことありません」>>
養老センセーにとっては、「幸せとは○○である」というような言葉は、株の値動きと同じで、すべて後知恵の類だとしか思えないとのこと。
では何が養老センセーにとって幸せなのでしょうか?それは、「採れるはずがないと思っていた虫が思いがけず採れたということが幸せです。思いがけないものです。」だそうです。
多分、タイトルに書いたような「新種の虫」でも見つかれば、それこそ養老センセーは幸せのあまり卒倒して寿命を縮めるのかも知れません。
「新種の虫」とは、既種の虫とは違って、これまでに誰も見つけることができていない虫のことです。たとえ、これを見つけようと思って世界中を徘徊したところで、これだけ世界の隅々まで人間が繁殖した現代では、新種が見つかる僥倖に出会うには、最低でも何百年もかかることでしょう。
これは世界の中の眼に見える「既成の事実」を相手にしているからです。その新種の虫、あるいは希少種は、たまたま人間にはまだ発見されていないか、見かけないだけであり、地球生誕のある時期から、例えば、アマゾンの特定の場所に生息していることは、神のみぞ知る既成の事実です。単に発見の確率が天文学的に小さいだけです。
ところが、そのような確率が極端に低い出来事との遭遇を待たなくとも、人間にとっての新しい何かの発見は、自分と世界との関係が作る無限の様相からも、どうも出現してくるようです。しかもその様相は、あえて見ようと思っても見えるものでもなく、感じようと思っても感じることができるものでもありません。
1960年に、あの京大の今西探検隊に先駆けて、23歳の時にアフリカのタンザニアのゴンベのジャングルにわたり、野生のチンパンジーと慣れ親しみ、初めてチンパンジーが道具を使うことを明らかにして世を驚かせたジェーン・グドールが、そのゴンベのジャングルで、チンパンジーと一体化するための長い努力の最中にふと横たわったアフリカの大地で感じた、まるで「永遠の神なる大地に抱かれたかのような震撼」(彼女の直接の言葉ではなく、筆者がその本の読書記憶から絞り出しての表現です。)のようなものは、世界との関係がある特異な領域にまで昇華した時だけに、ふと現れ出たものと言えます。この時にジェーン・グドールは喩えようのない幸せ感を掴んだであろうことが、彼女の自伝的エッセイ、「森の旅人」からは窺い知ることができます。
このグドールの幸せ感と比肩するほどのことではとてもありませんが、最近せっせと買い集めているバッハのCDの中で、とりわけ、次の歌詞を持つカンタータ198番のテノールのアリアに、実にたとえようのない幸せ感を抱くようになりました。
Eternity's sapphiric house, 永遠のサファイア色の住まいは
O Princess,these thy cheerful glances 王妃よ、御身の晴れやかな眼差しを
From our own low estate now draweth 我らの卑賤さから引き戻し
And blots out earth's corrupted form. 地上の汚れし姿を贖えり
A brilliant light a hundred suns make, 百の太陽にも似た強き輝きは
Which doth our days to mid of night この世の昼を真夜中とし
And doth our sun to darkness turn, 我らの太陽を闇とする
Hath thy transfigured head surrounded. 御身の光り輝く頭を包みたり。
(J.S.Bach、Cantatas BWV198 No8 Aria)
「どうか王妃よ、さらにもう一筋の光を)
1991年発売のジョン・エリオット・ガーディナーが演奏するこの曲は、当時も何度か聴いた筈でした。しかしその時は特段何とも感じず、その後16年近くほとんど聴いておりませんでした。しかし、昨年夏に装置を入れ替え、そして今年の2月になって2004年録音のD.ファソリスのCDを聴いてから、突如この曲のこのアリアに魅せられました。それも、何度か聴いているうちにです。まさに、カンタータの題名どおり、一筋の光に出会った感じです。この曲が日本でいうと江戸時代に作られたものとは、とても信じられません。
こうしたことも、養老センセーが「採れると思わなかった虫が思いがけず採れた時が幸せです」といったことなのでしょうね。この「思いがけず」ということが、生きる楽しみあるいは苦しみなのかも知れません。
何回も聞いて、初めて分かる良さは、深い感動があるのだと思いました。時間をかけて、一つの対象に向かい合ったから、それが可能なのだと思うし、自分もそういう経験をしたいと思いました。
198番は、記事にも書いたDiego Fasolisの盤が、録音がSACD並みに良く、私の今のお気に入りとなっております。47695-2という番号が入っておりました。