なににおいても、
「したい」と「させたい」の息が合っているときは、
きっとトントン拍子
でも、ちょっとずれると、
どちらにとっても、好転とはならない
「指導案」というものがあるけれど、
あれは、基本「させたい」で作られていると思います。
でも、生徒がどう出てくるか分からないので、
生徒の「したい」との息が合わなければ、あってないようなもの。
まぁ、所詮「案」だしね
ってことになります。
私は、特に個人レッスンでは、指導案的なものは作らずに、
そのときそのときの、生徒たちの出方を見て、
感じたことを伝えていくことにしています。
でもそれは、私の中の理想像、目指す姿に向かっているわけで、
これは「させたい」の塊
生徒が、そう「なりたい」かどうかは分からない。
その日のレッスンで「したい」ことは、
その理想像とはかけ離れているかもしれない。
年齢が上がってくると、先生の「させたい」を察知して、
大人しく従うことも増えるだろうけど、
小さな子には、この「させたい」を振りかざしたら、
「させたい」と「やらされている」にしかならない気がする。
「やらされている」でも楽しいかもしれないけどね
私が「させたい」ことに夢中になっていると、
生徒が「やらされている」感満載になっていることに気付かないこともある…。
あとになって、「なんであの子、できなかったんだろう?」と考えると、
私が「させたい」に侵されていることが多い
だけど、小さな子たちの「したい」だけでいいかというと、
それもちょっと違うのかなぁ。
「したい」の隙間に、理想像を見据えた「させたい」を
うまいこと、放り込めたらいいなぁと思います
その子たちが成長してくると、
私の「させたい」と生徒の「したい」が近づいてくるのかなぁと思います。
そして、大人になって、現実が見えたり、周りが気になったりすると、
理想と現実のギャップで、大きな意味での「したい」が揺らぐ。
そうすると、私からの「させたい」が苦しく感じるでしょう。
そのとき、私の「させたい」をどこまで緩めるべきか、
それとも、しっかり張った状態でリードすべきかを悩みます。
その人の性質や状況にもよると思うのだけど、
あまり緩めたら、その人は私の教室に通っている意味がなくなってしまう。
だけど、張ったままだと、「その人」がなくなってしまう。
逆の立場だったら、どうかな?と考えてみました。
私だったら、「したい」ことも自由にさせてくれて、
「させたい」ことで、私の気付いていないことを引き出してほしい
あは
都合がよすぎますね
でも、そうだったら、とても楽しい
じゃ、それを目指そう!と思っても、それが難しいのよね
…結局、なんの結論も出なかった