埼玉 寄居町・深谷市・熊谷市 ピアノ教室Andante/アンダンテ

~「音楽は楽しい!」から「本物の音楽」へつながるレッスン~

エプロン奏法

2010年07月29日 | レッスンの出来事
コーチングに優位感覚というものがあります。

視覚、聴覚、言語感覚、触感覚があって、
どれがよりよいとか、どれがピアノに便利とかいうものではなくて、
その人が持って生まれた特性です。

それを上手に使うと、さまざまな場面で特性、個性を生かすことができます。


私はおそらく、4つの中で視覚がいちばん強いので、
音楽を聞くと、絵や映像が浮かぶし、初見演奏や譜読みも大好き。

聴覚は、聞いて覚えるのが得意。
どちらかといえば、楽譜を読みながら弾くことは苦手。
聞いて覚えられるので、鍵盤を見ながら、覚えている音楽を再生するように弾くのが特徴。


傾向としては、視覚は、手元を見ないで楽譜を見ながら弾きます。

         聴覚は、楽譜を見ないで手元を見ながら弾きます。


それを知ってからは、なぜ楽譜を見られないかが分かったので、
「楽譜を見て弾く」ことを強要することは、なくなりました。

でも、楽譜を見ていないと、
音や記号を見落としていたり、弾きながら楽譜を見失ったりするのも事実。



固定ポジションで弾いているある生徒。

その子は、おそらく視覚は強いと思うので、
譜読みも得意。

鍵盤ポジション感覚も、身についているはずなのだけど、
間違えるのが心配なようで、
短い曲なのだけど、が鍵盤と楽譜を何往復もして、
とうとう、どこを弾いているか分からなくなってしまいました。


そこでエプロン奏法

子供用のエプロンを首にかけ、
布の部分を、鍵盤の蓋と本体の間に挟みます。

そうすると手元が見えなくなるっていうわけです

…なのだけど、先日片づけをしていたときに、
子供用エプロンが汚れていたので、捨ててしまったのでした


仕方ないので、手元を楽譜やキーカバーで隠す練習をしてみました。



そして、翌レッスン。

その曲は、お家でキーカバーをして練習したらしく、
楽譜を見たまま、弾き直すことも見失うこともなく、上手に弾けました


でも、別の曲を聞くと、また同じこと。

うまくいかなくて、歌う声が涙声になってきました


でも今日は、エプロンがあります


ササッと華麗に(?)エプロンをかけて、
ポジションだけ確認したら、
もう手元を見ることはできません。

キーカバーのような、うざったさもありません


はじめは、心配そうに一音ずつ弾いていましたが、
だんだん自信が持てたようで、すらすらすら~


いい調子になってきたので、
次の新しい曲も、エプロン奏法のまま実験


いつもは、①私が弾いて聞かせ、②一緒に音名を歌い、
③生徒が楽譜を読みながら弾くという順番で譜読みをするのですが、

実験なので、

いきなり③をやってみました。


そしたら、一音も読み間違えることなく、ミスタッチすることなく、
最後まで弾けたのです

とってもうれしそう


よかった、よかった


ホントは、前日にエプロンを買いに出かけたのに、
なぜたかすっかり忘れて帰ってきてしまい

その子のレッスン当日(昨日)の午前中に行こうと思っていたのだけど、
急な予定変更で、午後に行くことにして、
お昼ご飯を食べたら、ちょいと面倒になってしまい

また何かのついででいいかぁ、なんて思い始めちゃったのだけど、
「でも、エプロンがあったら、喜んでくれるかも」と思い直し、
暑い中、買いに出かけたのでした



生徒のうれしそうな顔を見たとき、
「今日、がんばって買いに出かけてよかった」と思ったのでした。





無意識から出てくるもの

2010年07月26日 | レッスンの出来事
ピアノランド2巻に「きてごらん みてごらん」という曲があります。

単旋律を左右の手で交替しながら弾く曲で、
楽譜面では難しくなさそうなのですが、
表現力が養われる曲です。

マスターコースで、樹原先生からこの曲の情景を聞き、
鳥肌が立つほどの感動を覚えたのですが、
その表現を生徒たちから引き出すのはなかなか難しい…


先日、この曲を聞かせてくれた、ある生徒。

前回のレッスンでは、
情景は、私からはあまり具体的には話さず、
絵や歌詞の様子から、その子自身の曲のイメージを膨らませて、
譜読みの確認をしました。

で、翌週のレッスン。

まず、1回通して聞かせてもらったら…


出だしの「きてごらん みてごらん」のフレーズは、大きな声で呼んでいるように、

真ん中の上行形は、たっぷりのcresc.で熱く、

最後の「きてごらん みてごらん」のフレーズは、やわらかく。


全体的な音楽のエネルギーの流れもすばらしかったのだけど、

最後のフレーズを聞いた瞬間に、
「きてごらん みてごらん」の呼び掛け方が違うんだ!と感動


弾き終えた後、
「初めは大きな声で呼んで、終わりは景色を見た後だから、やさしかったの?」と聞いたら、
「特に考えていなかった」と。


それを知って、無意識でここまでの音楽性が出てくるなんてとさらに感動。


でも、少し前の私だったら、
「意識できていないんじゃ、ただの偶然ね」と思っていたでしょう。


無意識だったからこその演奏を聞くことができて、
無意識から出てくるものの、すばらしさを知ることができました。

ありがとう


もともと、音楽センスのすばらしさを発揮できている子なのだけど、
潜在意識にまだまだあるねと思わせられた出来事でもありました


そして、今日読んでいたダライ・ラマ14世のに、


 人間は素晴らしい頭脳を持っています。
 しかしこの頭脳、知性のために、人類は多くの悲劇や矛盾をつくり出してもいます。
 人間の頭脳、知性を建設的に使うためには、
 愛や優しさが大切なのです。


とありました。


音楽を演奏するのにも、頭脳は必要。

でも、それだけになってしまうと、“悲劇や矛盾”が生まれるのも事実。


無意識でも個性を発揮できるような音楽性を、育てていけたらいいな


小耳timeテスト その2

2010年07月23日 | レッスンの出来事
レッスンの入れ替え時間に、音楽を聞く「小耳time」。

4月のピアノコンサート(発表会)で、
生徒たちが演奏した曲を聞いていたのが、その2。

いい加減、そろそろ新しい曲にしようと思って
小耳timeテスト その2を実施しました。


今回は、11曲と多かったのですが、
最高得点は、8問正解

答え方や得点を見ると、
普段の小耳timeで、私の作った「小耳解説」に目を通しているか、と、
今までの経験や知識の積み重ねの大きさを感じました。


特に小さい子たちにとって、
「あ、この曲知っている!」「○○さんが弾いていたよね」というところまででなく、

「曲名は?」「誰が作っているの?」「この音は、なんていう楽器?」
というところまで、興味の幅が広がるといいなぁと思っています。

そのためには、入れ替え時間に音楽を流し、
「読んでねぇ」と小耳解説を開くだけじゃ、不十分なんだ!


大きな生徒や大人の方でも、
興味を持っている人は、小耳解説を読んでいる。

でも、そうでもない人は、視界には入っているけど、
読んではいない。


小耳timeに、興味をうながせるように、
私自身が、声をかけていくことが必要だなぁと思いました

ピアノの“先生” やめます。

2010年07月21日 | こころ
あえて、ショッキングなタイトルにしてみました


“ピアノの先生”という肩書きがあるから、

生徒たちのお手本にならなくちゃ!
教えてあげなくちゃ!
ちょっとだけ偉いんだぞ!
生徒を上手にさせなくちゃ!
しっかりしてなくちゃ!

などなど…。

そんなプレッシャーを自分に与えて、
それによって生徒たちにも悪影響を及ぼしていくことに気づきました。

それは、どうでもいいプレッシャー。
私が、“先生”であるために必要なこと。


今年の初めくらいから、
この「ピアノの先生 やめます」というフレーズが、
私に付きまとっていました。

でも、よく意味が分からなくて、
私の中の“ピアノの先生”のイメージを捨てたらいいの?なんて思って、

ピアノの先生向けの雑誌を捨ててみたり、
ピアノの先生のサポートレッスンのモニターを募集したりしていました。


でも、ハッキリつかめない状態にいました。


そして、今日、篠原みな子先生のレッスンに行って、
私自身が、子どものころからのレッスンや、
ピアノの先生になってから勉強してきたことに縛られていて、
“自分自身”を見失っていたことに気付きました。

それは、生徒たちも同じ罠にはめるということにも。


今までの先生方にも感謝していますし、
今まで勉強してきたことにも誇りを持っています。

それと、“自分自身”を見つけることは別だったのです。


そしたら、「ピアノの先生 やめます」のフレーズにつながりました。


私は“先生”でいたらいけないんだ


ピアノの“先生”をやめて、“ピアノ好き”になります。


山好きが山に登るように、
花好きがガーデニングをするように、
運動好きがジョギングするように、

ピアノ好きの私は、“ピアノ好き”な気持ちを持って、ピアノを弾きます



確定申告の職業欄に“ピアノ好き”なんて書いたら、
税務署に怪しまれて面倒なことになりそうなので
一般的な肩書きは“ピアノの先生”ですが、

気持ちの上で、ただの“ピアノ好き”として、
生徒たちと、音楽を楽しみ、ピアノを楽しむ。

私が「教える」のではなく、考える時間、感じる時間を共有する。

生徒の音楽を一緒に楽しむ。


私にとっては、それで十分な気がします

みんながひとりのために

2010年07月19日 | こころ
私、今まで、きっと…、いえ、絶対、
ひとりでたくさんのことができる人がうらやましかったのです。

そう言うと、「十分、たくさんのことができているじゃない!」って
言われそうだけど、

う~んと…。

ひとりでたくさんの人と仲良くなれること、
ひとりでたくさんの人のお世話ができること、
ひとりでたくさんの生徒のレッスンができること。


これらは、今までうまくいったことがないのです…。


ヤマハに在籍していたときは、
自宅教室と代行教室を含めて、50人くらいのレッスンをしていたことがあったのだけど、

今から思えば、
その日その日を過ごしていくことに精いっぱいで、

やってできないことはないけれど、
私には合っていなかったかも。


そう感じていても、このところ、やっぱり、
「生徒がもう少しいたら…」ということも考えます。


そんな中のおととい、「スピリアル塾」講師の西山いずみさんのブログに、
木々との会話が書いてありました。

その木々は、光を守って、その光の中に人や動物を入れたいのだそう。
それは、“たくさん”ではなく、“ひとり(1匹)”なのだと。

それに対して、いずみさんは、
「ひとりで沢山の人を・・・って考えるのが人間。
 沢山の木々がひとりの人を・・・・って
 キャパが大きいなぁって思いました♪」って。

これを読んで、
心の奥まで、ズッシリと響きました



そして、今日。
トイストーリー3を見てきました。

理由を聞かれても、うまく答えられないんだけど、
私は「トイストーリー」が大好きです

若いころは、中毒のように、
ビデオを隅々まで観ていましたし、
グッズを部屋中に飾っていました

その最新作。

もう大きくなった、おもちゃたちの持ち主アンディに見捨てられたと思った仲間たちに、
ウッディは、「おれたちは、アンディのおもちゃなんだ!」と
何度も訴えていました。

そして、アンディの元に、仲間たちを戻そうとがんばります。


大きくなったしまったら、遊んでもらえなくなるのが、
おもちゃたちの宿命でしょう。

それを受け止めるのではなく、なんで何度も
「おれたちは、アンディのおもちゃなんだ!」と言い続けるのかなぁ
と思って観ていました。


で、思ったのです。

ウッディは、“たくさんの子どもたちのためのおもちゃ”と思っているのではなく、
“アンディのおもちゃ”と思っていたのです。

アンディにしか目が向けられていないのです。

例え、遊んでもらえなくても、
アンディがいてこそ、自分の存在意義があると思っているのです。

おもちゃの仲間みんなが、アンディだけのために…。

いずみさんの木々のお話と一緒


傍から見たら、一人にしか目が向けられないなんて、
心が狭く思えるかもしれない。

でも、ひとりのためだけに…は、とても深く広い心なのかも

私は、きっとそっち。

そうありたい、と思いました。


生徒たちひとりひとりのために、
私の中の人格みんなで