豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

壺井栄『母のない子と子のない母と』

2008年09月08日 | 本と雑誌
 
 軽井沢第2日目、9月8日(月)。朝のうち曇り、のち晴れ。
 
 大した期待もなく、一応軽井沢ショッピングモールに出かける。予想通り大した掘り出し物はない。息子は、迷った挙句に“LACOSTE”で秋物のスポーツシャツを買う。
 その後、旧道に出かけて、“サン・モトヤマ”でJIM THOMPSON のシャツも眺める。いいのがあったが、値段もいいので諦める。

 混雑する昼時をさけて、2時すぎに追分(借宿?)の“峠のそば茶家”で、天せいろ×2。

 家に戻って、父子ともども勉強を。

 ふと、母が軽井沢に運び込んだ書物を並べた書棚を眺めると、以前石井桃子さんが亡くなった時にこのコラムに書き込んだことの誤りを発見した。
 石井さんの“ノンちゃん雲に乗る”が新東宝の製作で、原作は光文社の刊行だったことに驚いたと書いたついでに、当時の光文社からは壺井栄の『右文覚え書』など良心的な本も出ていた、と書いたが、『右文覚え書』は筑摩書房刊だった。

 昭和20年代末の当時、母が壺井栄のファンだったらしく、筑摩書房刊の『壺井栄作品集』という新書形式の全集が並んでいて、その中に、『右文・・・』もあった。
 しかし、光文社からも、単行本の『母のない子と子のない母と』や、新書版(カッパ・ブックス)の『岸うつ波』などが出ていた。光文社が壺井栄を出していたことは間違いなかった。

 実は私の女房は小豆島の出身である。義母は戦後の一時期小学校の教員をしていたことがあり、壺井栄・繁治夫妻や坪田譲治とも親交があったという。
 何か因縁があったのだろうか。

 ちなみに、ぼくの大学時代の恩師は、高峰秀子のファンだった。高峰秀子が松山善三と結婚した時、東大時代の同級生に、「助教授、助監督に敗れる!」と冷やかされたという。当時ぼくの先生はまだ助教授で、松山善三も助監督だったらしい。
 そんなわけで、ぼくが小豆島出身の女房と結婚すると報告した時、ひどく羨ましがられた。先生にとっては、高峰秀子は『二十四の瞳』の大石先生であり、小豆島出身の女性はすべて大石先生に思えたのだろう。

 夜、国道沿いのマツヤと平安堂書店に出かける。
 平安堂書店のレジ前に置かれた“軽井沢関連書コーナー”を眺める。8月に来た時と変わったものはなかったが、『草軽電鉄の詩・新装版』(郷土出版社、1680円)を買ってしまう。古本屋で買った旧版を持っているのだが、やはり古本臭がしていたので・・・。
 
 レジにいた店長らしき男性に話しかけられる。「お問い合わせの多い本でした」とか。
 「中味は変わっているのですか」と聞かれたので、「表紙のデザイン以外は変更はありません。でも、値段が旧版よりも安くなっています。この本屋さんはずい分良心的です」と宣伝しておいた。
 ひょっとして、ぼくのこのコラムが需要を喚起したのではないかと自惚れる。

 ぼくより1まわり以上若そうな店長は、地元の人のようだったが、草軽電鉄を見たことがないという。 
 ぼくは旧軽井沢駅に止まっている草軽電車を見たことがある。そして、旧軽井沢駅のトイレを借用したこともある。残念ながら乗ったことはない。


 * 写真は、軽井沢の書棚で見つけた壺井栄の『母のない子と子のない母と』(光文社)の表紙。

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