豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

東京の坂道(第5回) 上野・紅葉坂

2008年01月05日 | 東京を歩く
 
(承前)
 ③清水坂を登りきったあたりの護国院に大黒天が祀られている。谷中七福神というのがあるらしく、地図を手に回っている人たちをたびたび見かけた。
 
 東京芸大を背中にして、寛永寺方向へ歩きつづける。

 広い歩道のついた道路の両脇には、立派な建物がつづく。「独立行政法人文化財何とか財団」、「何とか文化財研究所」云々といった、いかにも文部官僚の天下りのためとしか思えないような看板が掲げられている。
 ある建物の道路に面した3階の窓からは、雑然と置かれたパイプ椅子がのぞいていた。ちゃんとした仕事をしているようには見えない。今回の行政改革ではどうなるのだろうか。
 極めつけは、「国際子ども図書館」(だったか)である。フランスの宮殿でも移築してきたのかと思うような立派な建築物である。どんな目的があって建てられたのか知らないが、こんな建物が今の時代に必要なのだろうか。

 やがて正面に寛永寺が見えてくる。
 「墓地に参拝の方以外の入構はご遠慮下さい」という立て札が立っていたので躊躇していると、花売りのおばさんが「入ってもいいですよ」というので中に入る。墓地越しに、高層ビルが冬の日を浴びて輝いている。

 根本中堂にお参りして、正門から外に出る。言問通りにぶつかって、右折した下りが、④寛永寺坂というらしい。しかし、車の通行が激しいので眺めただけでパスして、谷中墓地を歩くことにする。

 持参したガイド本『江戸の坂』の地図では、谷中墓地では徳川慶喜の墓だけが紹介されているので、どんなにユニークな墓かと探し歩いたが見つからない。

 広大な敷地に門までついた墓所、2メートルを越える背の高い立派な墓石の建っている墓地、墓石は立派だが「信士」というあっさりした戒名のついた故人の墓、「文学博士・何某」と世俗の肩書きが彫られた墓石、新しい花の飾られた墓もあれば、苔むしたまま朽ち果てている墓・・・などなど。
 墓地を歩いていると、さまざまな感慨がこみ上げてくる。100年後、200年後、これらの墓、そしてやがて私たちの入る墓は何代の子孫まで来てくれるのだろうか。

 結局、徳川慶喜の墓は見つからないまま、谷中墓地を出る。焼失した五重塔跡の辺りは黒山の人だかりである。はとバス・ツアーの旗を持ったガイドさんや、ボランティア風の案内人の周りを囲む人の群れも2、3組みある。やけに騒々しい。

 五重塔跡を右に見ながら少し歩くと、毘沙門天を祀った天王寺となる。今日はここで打ち止め。

 日暮里駅南口に向かう細くて急な坂が、⑤紅葉坂というらしい。
 この坂道が、いかにも東京の坂らしくていい。坂の上は、片方が天王寺、もう一方がラジウム温泉、正面には日暮里駅前の高層ビルが聳え立つというのもいい。
 きょうのナンバー1の坂道は、この紅葉坂としておこう。 

 それまで一度も時計を見なかったが、国立西洋美術館に着いたのが午前10時すぎ。日暮里駅到着は午後2時近かった。
 
 お腹がすいていたので、日暮里駅前で美味しそうな店を探す。ファスト・フードばかりで、適当な店が見当たらない。たまたま目に入った「生蕎麦」の幟に誘われて、雑居ビルの地下1階の“とう山”という蕎麦屋に入る。
 6人組の先客がいて、ちょっとひるむ。聞こえてきたお喋りによると、この男3人、女3人の6人は、山形出身者の集まりで、74歳らしい。ひときわ声の大きいオバちゃんの東北訛りが、日暮里という場所に似合っている。
 
 男の1人は、最近細君を亡くしたらしく、このオバちゃんが慰めている様子である。「74にもなったら、楽しく余生を過したいのに、辛いことが起きるよなぁ」などと言っているかと思えば、その一方で「1000万円融資を受けたって、つなぎの人件費くらいにしかならない」などという愚痴もこぼしている。
 そば焼酎のそば湯割りを何杯も注文してから、われわれが天麩羅そばを食べ終わる頃に、ようやくそばを注文していた。
 なんか、山本周五郎の世界の21世紀版を垣間見たようであった。

 大した期待もなく入った店だったが、ここの野菜天麩羅そばと「とう山うどん」というのは美味かった。体が温まって、山手線で帰路についた。

 * 写真は、今日のベスト、紅葉坂。日暮里駅南口の跨線橋から谷中天王寺方向を見上げた風景。


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