豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

東京の坂道(第4回) 上野・清水坂

2008年01月04日 | 東京を歩く
 朝から晴れて暖かそうだったので、初詣のお参りかたがた、上野方面に“東京の坂道”の旅に出かけてきた。

 年末に、朝日新聞の集金のお兄さんにもらった“ムンク展”のタダ券が1月6日までだったので、これを見るために、まず上野駅を出て国立西洋美術館に向かう。

 駅の辺りから人ごみの多いのに驚くが、館内に入ると、さらに人が多いのに驚く。よほどあちこちの新聞社がタダ券を配ったのだろうか・・。B1の展示会場入り口のベンチに座っていると、来るわ来るわ、途切れることなく人が階段を降りてくる。
 その不気味さに、ムンクではなくて、こちらが叫びたい気持ちになる。

 絵は例によって暗い。きのうのテレビ“ムンクを奪還せよ!--“叫び”回収までの84日”(テレビ東京、1月3日午前9:00~)で、幼くして母を亡くし、やがて姉をも亡くすというムンクの不幸な前半生を見ていたので、暗さもいやましてくる。描かれているどの人間も、その眼は髑髏の眼である。家に飾っておきたい絵ではない。
 そんな絵の前に立って、何分間もじっと動かずに凝視している若者がいた。21世紀の日本のムンクは、いったい何を思っていたのだろうか。

 死ないし死への不安と、性(生ではなく)とが入り混じっている。“叫び”(この絵は今回は出品されておらず、複製が飾ってあった)だけから受けるイメージとは異なり、やたらと接吻の絵を描いたり、友人の妻と不倫をするなど(解説書による)、ムンク氏、結構 aggresive である。夭折したと勝手に思い込んでいたが、80歳まで生きたというのも意外だった。
 1910年代に、社会主義時代のソ連の画家のようなタッチで、写実的に労働者たちを描いた絵も何点かあった。これも意外。

 一回りして、館外に出る。上野公園の外周に沿って、“東京の坂道”上野編の開始である。

 まずは、花園神社、五條天神社にお参りしてから、近くにあるはずの「時の鐘」を探すが、見つからない。どこかから鐘を撞く音が聞こえては来るのだが。浦井祥子さんの『江戸の時刻と時の鐘』(岩田書院)以来、徳川幕府の「時間」管理政策という視点には興味があったのだが、次回を期すことにしよう。
 近くには、忍坂、清水坂という坂もあるらしいが、これらも見つからない。

 きょうは、タモリではなく山野勝『江戸の坂--東京・歴史散歩ガイド』(朝日新聞社)を携帯したのだが、鳥居坂のときにも書いたが、この本の地図と解説は、はじめて歩く人には分かりにくい。「ガイド」と銘打つ以上はもっと工夫してほしい。
 
 動物園のモノレールの下をくぐり、鷗外ゆかりという“鷗外荘”前を通り過ぎると、①もうひとつの“清水坂”の坂下である。案内の看板によると、この清水坂も、弘法大師が旅の途中で水を取ったことに由来する地名だそうだ。前回の六本木の坂の散策でも、真言宗の寺社によく出会ったが、導かれているのだろうか。
 そして、ここの清水坂は別名“暗闇坂”とも呼ばれていたという。麻布十番の“暗闇坂”に比べれば、はるかに多くの木々が残っていて、まだその名にふさわしいかもしれない。

 坂の上り口の左手に、枯れた蔦の絡まった3階建てくらいの石造りの蔵が建っている。道との間には大きな枇杷の木が植わっていて、濃い緑色の葉が冬の日ざしを浴びていた。
 坂の頂上近くの右手には、都立上野高校の立派な建物が現れる。都内の下手な大学などよりよっぽど立派な校舎と校庭である。わが家の子ども達は二人とも私立に行かせたが、ずい分と都民税を損したものである。

 上野高校の隣りは、東京芸大の敷地がつづく。キャンパス内には、雰囲気のある建物が散在している。東京芸大を右手に見る交差点にある和菓子屋“桃林堂”(包装紙には「和菓子」ではなく「風土菓」と書いてある)で、花びら餅を買う。
 先日親戚の家に新年の挨拶に行った折に出されたが、家内は遠慮して手をつけなかったというので。

 このあと、寛永寺、谷中墓地、日暮里と歩くのだが、字数も増えたので次回に。

 * 写真は、清水坂の登り口で見かけた、枇杷の木の植わっている石蔵。

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