豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

さらば、夏の光よ!--軽井沢盛衰物語

2022年09月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 この夏、旧軽井沢の本通り(旧道)を歩いたら、「軽井沢物産館」のシャッターが下りていた。定休日とも何とも掲示してなかったので、閉店してしまったのではないかと心配になった。
 6月に出かけたときには、旧軽井沢ロータリー前の竹風堂のシャッターが閉まっていて、「今期は営業いたしません」の貼り紙があった(下の写真)。

   

 ふり返ると、ぼくの記憶にある軽井沢の商店や、施設のかなりのものがなくなってしまった。とくに、ここ数年は旧軽井沢では本通り沿いの店舗の閉店が相次いでいて、シャッターが閉まったままの店舗が目立つ。栄枯盛衰は世の常と言ってしまえばそれまでだが、昭和からの古い店の閉店がつづくのは寂しいことである。
 ここでは、ぼくの記憶の中にある思い出の店や施設を回想してみたい。前にも「幻のホテル」、「幻の湖」シリーズなどを書きこんだことがあるが、一部は重複している。

☆千ヶ滝(中区)編
 <西武百貨店軽井沢店> 思い出がありすぎて、何から書いたものか。芝生席で飲んだクリーム・ソーダや、スパゲッティ・ナポリタン、そこで開催された古本市で買ったモーム全集の『クリスマスの休暇』(新潮社)など・・・。
 <軽井沢スケートセンター> 毎夏、渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というポップスのコンサートが開催され、ショーが終わると花火が打ち上げられた。世界スピードスケート選手権大会も開催された。屋外リンクの南西側、表彰旗掲揚台の脇に優勝したソ連の選手の雄姿をかたどった銅像があったはずである。
 午前中の勉強が終わってから、スケートセンターのボート池に面したベンチに座って、スピーカーから流れてくるハワイアンを聴きながら、物思いにふけっていた。もちろんスケートもやった。インドアリンクに入ったときの、あの冷気と氷の臭いも懐かしい。テニスコートでテニスをやったこともあった。日陰がなくて暑いコートだった。
 <こけもも山荘> そのテニスコートの国道を挟んだ向かい側(東側)には、「こけもも山荘」という小さなホテル(ペンション?)があった。慶応自動車部の親戚が合宿でここに来たことがあった。部員のらしい改造されたスバル360が庭にとめてあった。後部座席は外されていて、ストーブの煙突のような太い排気パイプ(?)が突き出していた。
 <東京医科大学軽井沢診療所> 西武百貨店軽井沢店から国道146号を少し上った国道に沿った左側にあった。一度何かで診察を受けたのか、待合室の記憶がある。夏の間ここの診察に駆り出されていた若い研修医たち(?)ももう80歳代だろう。隣りが交番か駐在所だったような気もするが、自信はない。
 <貸馬屋> もう少し上ると右手に貸馬屋があった。藤田肉店のあたりだろうか。左手には西武バスの営業所をかねた駐車場があった。この横丁は昭和30年代からすでに寂れていて、当時から西部劇に出てくるゴースト・タウンの雰囲気があった。
 この奥のほうにNHKの保養所や、東京女学館の夏季寮があったはずである。
 <千ヶ滝郵便局> さらに上ると、道路の右手というか国道が左に曲がる突き当りに、三角屋根の郵便局があった。
 <観翠楼> さらに上った(手前だったか?)左手に日本旅館の「観翠楼」があった。西武・国土計画系の経営で、冬のスケートバス旅行で泊まったことがあった。中学2、3年の頃である。
 <軽井沢グリーン・ホテル> 国道をもっと上ると、左手に「軽井沢グリーン・ホテル」があった。堀辰雄の小説にも出てくるホテルである。ここの2階のレストランでデートしたことがあった。手前には打ちっぱなしのゴルフ練習場があり、道を隔てた向かい側には展望台があった。昭和30年代までは裏手にスケートリンクもあったらしい。
 下の写真は、堀辰雄の追分にある旧宅の庭。先日行ってみたが、この庭の木々の葉の間から遠くに八ヶ岳を眺めることができた。堀はこの庭に座って、富士見のサナトリウムに思いをはせていたのだろうか。

   

☆千ヶ滝西区
 <西武百貨店軽井沢店、西区支店?> 千ヶ滝西区の(旧)NEC保養所の向かいには、西武百貨店軽井沢店の支店があった。コンビニほどにも物はなかった。西区分譲地の販売促進のために作ったのだろうが、それでも、お菓子やかゆみ止め(ムヒ)くらいは置いてあった。東京医大の診療所も付設されていた。西武の従業員の宿舎もここにあった。
 千ヶ滝西区には、かつては<企業の保養所>がたくさんあった。
 日本銀行、日本航空、日興証券、資生堂、朝日放送などなど。防衛庁共済組合の保養所もあった。保養所にやってくる女子従業員のことを、東海林さだおが「寮家の子女」などと揶揄した漫画を描いていたが、社会保険制度の改革で保養所の多くは撤退してしまった。一昨年にはNECの立派な保養所も解体され、跡地には東急の施設が建っている。
 現在西区に残っている保養所の中で目ぼしいのは、東京ガス、フジテレビ、富士通くらいか・・・。いやいや、ものすごいのを忘れていた。ビル・ゲイツの別荘といわれる広大な施設(もう「別荘」などといった範疇ではない)が、2、3年の歳月をかけて作られた。地上からその姿を見ることはできず、全容はGoogle map の航空写真で窺うしかない。

☆星野地区
 千ヶ滝と星野地区の境界は分からないが、千ヶ滝中区から星野に向かって歩いて行くと、「星野xxx番」というハウスナンバー表示の表札を掲げた別荘が並ぶ一角がある。祖父の友人だった先生の別荘も星野の山の上にあった。
 <星野温泉> かつての星野温泉と現在の星野リゾートの関係もぼくには分からないが、「星野温泉」という標石は今でも国道に面したところに立っている。星野温泉の本館が建っていた右手には<星野診療所>があり、<ちびきや>という雑貨屋があった。星野のテニスコートでもテニスをやった。「ちびきや」の店番をしていた娘さんや、テニスコートに面した別荘の女の子のことは今回は省略。
 <合格地蔵> 星野というか、塩壺温泉というか、あの辺りに弘田龍太郎の歌碑があり、その近くの別荘地の一角に「受験地蔵」だか「合格観音」だかがあった(今もあるかもしれない)。高校3年の時に叔父に連れられてお参りに行ったが、ご利益はなかったようで志望大学には落ちた。しかし、結果的に入学した大学で、後に大学教師への道を開いてくれることになる恩師に出会うことができた。ということは「ご利益」はあったのかもしれない。

   

☆ホテル編
 <千ヶ滝プリンス・ホテル> ここには、今年の夏、生まれて初めて入ることができた(上の写真は千ヶ滝プリンス近くの夏景色)。その時の係の説明では、ここは旧朝香宮別邸で、ぼくが生まれた昭和25年の建築ということだった。西武(国土)が買収して「千ヶ滝プリンスホテル」となり、一時は一般客が宿泊したこともあったらしいが、その後は皇太子(現上皇)ご一家専用のホテルになり、一般人は泊まれないどころか、立ち入ることもできなくなった。その後ホテル営業自体が廃業してしまった。
 <晴山ホテル> 「晴山(せいざん)ホテル」は、現在のプリンス・ショッピングモールか軽井沢プリンス・ホテル東館のあたりにあった。「晴山ホテル」は、もとは根津嘉一郎の別荘だったから、東武系だろう。根津が創設した武蔵中学・高校の<青山(せいざん)寮>という夏季寮も、戦後しばらくはあの辺にあったらしい。軽井沢が俗化したとして、群馬の赤城に移転してしまった。
 <浅間モーターロッジ> 国道18号の最高地点、1003メートル(だったか)の南側にあった。当初は高級ホテルとして開業したが、経営不振で文部省共済組合に売られ、その後廃墟になって放置されていたが、今は解体されたようだ。 
 <軽井沢ホテル>、<藤屋旅館> 旧軽井沢の本通りと聖パウロ教会の間に「軽井沢ホテル」、神宮寺の境内に面して「藤屋旅館」という旅館のあったことが、堀辰雄の小説(川端康成『高原』だったかも)に出てくる。ぼくの記憶にはないが、昭和30~40年代まで存在したらしい。戦前の夏の夜の本通りには、別荘の外国人に雇われたアマが徘徊していたと、これは川端の『高原』(61頁ほか)に書いてあった。
 ※「藤屋」「観翠楼」「グリーン・ホテル」は、すべて川端の「軽井沢だより」という短編に出ていた(『高原』中公文庫160~1頁)。「グリーン・ホテル」は堀の「ルウベンスの偽画」にも出てくる(『菜穂子』岩波文庫13頁)

   

☆旧軽井沢本通り編
 旧軽井沢の本通り(と堀辰雄は呼んでいた。ぼくも「旧軽銀座」とは言いたくない)に軒を連ねていた、小松ストア、明治屋(わが家では今でも子供用に使っている “オズの魔法使い“ のイラストが描かれたガラスコップは、このどちらかで買ったピーナッツバターの瓶である)、明治牛乳販売所(諏訪神社の花火をこの店の芝生席から眺めた。この店の裏手にはパターゴルフ場があった)、デリカテッセン(ドイツ語の看板がかかっていて、祖父から訳してごらんと言われたことがあった)、三笠書房(アメリカの犯罪実話雑誌なるものにこの本屋の店頭で初めて出会った)、三芳屋書店(テニスコートへの通りにあった。中軽井沢駅前にもあった)、紀ノ国屋(この跡地が沢村ベーカリーだろうか)、鈴屋ベル・コモンズ、三笠会館(この夏通りかかったら建物の壁面もなくなっていたような・・・)、喫茶店の水野(テラス席に座る中村真一郎を見かけたことがあった)、洋菓子のヴィクトリア(千ヶ滝まで出張販売車がやって来た)、などなど。
 2、3年前には、亡くなった母がお気に入りだった大城レース店(わが家にはやたらとレース物がある)、そしてこの夏は軽井沢物産館のシャッターが閉っていた(下の写真)。かつては看板に英語表記の店名が書いてあった。閉店してしまったのだろうか。だとしたら残念なことである。といって、ここ数年は何も買ったことはなかった。神津牧場のコーヒー牛乳さえ・・・。
 物産館の建物は軽井沢の建築遺産になっているらしい(上の写真)。

   

 かつては物産館で(だけ?)売っていた木彫りの鳥の形をした砂糖壺を、友人の結婚祝いの手ごろな定番としてプレゼントしていた時期があった。もちろんわが家の砂糖壺もこれである(下の赤い鳥)。
 ある時、わが家のこの砂糖壺を見て、その友人の娘さんが「わぁ、これと同じの、うちにもある!」と歓声を上げた。
 「ぼくがプレゼントしたのです。君のお父さんお母さんが気に入って、大事に使っていてくれて有り難う」と、心の声で返事をした。
     
 ついでに、もう一つの鳥型の砂糖壺。こちらは焦げ茶色で、赤いのより少し大振り。
    

 そして、旧軽井沢本通りからは外れるけれど、<紀ノ国屋>や<竹風堂旧軽井沢店>など・・・。   

☆軽便鉄道・国鉄編
 <草軽電鉄> 旧軽井沢では何といっても、草軽電鉄がなくなってしまった。残っていれば、貴重な観光資源になったと思うが、旧軽井沢駅舎やすぐ隣りのロータリーを横切る踏切など、撮り鉄が押し寄せてかえって迷惑かも。下の写真は、旧道入口のロータリー脇、かつて草軽電鉄の旧軽井沢駅があったあたりに建つ「旧軽井沢駅」の駅標(もちろんレプリカ)。
   

 旧北軽井沢駅跡に、あのカブト虫型車両が保存されており、走る姿は木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」(松竹、1951年)でふんだんに見ることができる。
   

 <信越本線> そういえば、国鉄の信越線もなくなってしまった。あさま号やそよかぜ号だけでなく、横川駅、熊ノ平駅、さらには中軽井沢駅駅舎もなくなってしまった。中軽井沢駅前の観光案内所はなくなってしまい、沓掛時次郎饅頭を売っていた土産物店も閉まったままである。
 下の写真は、現在の中軽井沢駅の駅標。
 

 <西武バス西区線> これもあげておこうか。現在は軽井沢病院行きの、黄緑色のコミュニティ・バスが運行している。

 さらば、夏の光よ!
 変わらないのは、浅間山だけである。

 ※ 冒頭の写真は、浅間サンライン沿いの浅間高原牧場・小諸ファームの夏空。右手の緑の向うに浅間山の天辺がわずかに覗いていた(2022年8月7日)。

 2022年9月4日 記

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