豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ニコラス・フリーリング 『雨の国の王者』(ハヤカワ・ミステリ)

2020年06月28日 | 本と雑誌
 
 ニコラス・フリーリング『雨の国の王者』(早川書房、ハヤカワ・ミステリ、)が推理小説の世界でどのくらい評価されているのか、そもそも最近の推理ファンに知られているのかさえ分からないが、ぼくが最も好きな推理小説(警察小説?)の一冊である。
 警察ものはぼくの好きなジャンルで、J・シムノンの『メグレ警部』はハヤカワ・ミステリや河出書房版で数十冊読んだ。エド・マクベインの『87分署』シリーズ(ハヤカワ・ミステリ)も20冊近く読んだし、マイ・シューバル+ペール・ヴァールの『マルティン・ベック』シリーズ(角川書店)も邦訳のあるものは全部読んだ。しかし、ニコラス・フリーリングはこの『雨の国の王者』1冊だけである。

 ぼくが『雨の国の王者』を読み終えたのは、1976年4月5日(月)と最終ページに書き込んである。サラリーマン生活2年目の4月である。夏の雨の軽井沢で読んだように記憶していたが、東京の春の雨の季節に読んだようだ。
 同書の解説を見ると、主人公ファン・デル・ファルク警部シリーズは、『アムステルダムの恋』『猫たちの夜』『バターより銃』という3冊がハヤカワ・ミステリから出ていたらしいが、読んでいない。『雨の国の王者』を気に入っておきながら、なぜ他のものを読まなかったのかは記憶にない。題名が悪かったのだろうか。

 『雨の国の王者』も、事件の内容はまったく記憶にない。しかし、ぼくのお気に入りになった理由はしっかり覚えている。事件の背景にある雰囲気が良かったのである。「雨の国の王者」という題名の含意も分からなかったが、「雨」の描き方が、雨が好きなぼくにぴったり合ったのである。
 あえて言えば、メグレ警部に近いだろうか。以前に書き込んだメグレもののどれだったかのラストシーンで、ブリューノ・クレメール演ずるメグレが雨の中庭に立ちすくむ場面があったが、『雨の国の王者』にもあの雰囲気があった。

         

 背景にある雰囲気が好きだという点では、87分署シリーズも同じである。87分署のキャレラ刑事の捜査よりも、犯罪が起き、捜査が行われるニューヨーク(アイソラ)の雰囲気がいいのだ。とくに87分署は、最初の一行と最後の一行がいい。
 「雨だ。これで三日間降り続いたわけだ。いやな三月の雨--華やかな春の訪れを押し流して、陰鬱な灰ひと色にあたりを包んでいる。」(『大いなる手がかり』加島祥三訳)とか、「窓から見たそとの景色は、十月から十一月にかけての、昔ながのさわやかに澄んだ秋景色。オレンジと黄金の色に染まった木々の葉が、あくまでも青くあくまでも冷たい青空に、くっきりと燃え上っている。」(『キングの身代金』井上一夫訳)など、冒頭の一行だけで、ストーリーの中に引き込まれてしまう。
 最後の一行もいい。最も印象に残っているのは、「明日の新聞は一面トップで伝えるだろう。熱波去る」というのだが、どの作品の最後だったか、ハヤカワ・ミステリをひっくり返したが見つからなかった。


         
 
 さて、『雨の国の王者』だが、このファン・デル・ファルク警部シリーズが、7月18日(日)に、BS放送560チャンネル “AXN ミステリー・チャンネル” で放映されるという。
 予告編をやっているが、舞台はアムステルダム、時代は現代に移されている。主人公を演ずる役者はぼくのイメージしていたファン・デル・ファルクとは程遠い。原作の主な舞台がアムステルダムだったのだ。それすら忘れていた。イギリスの雨の記憶になっていた。

 1960~70年代のアムステルダムと現在のアムスでは、イメージも違いすぎる。子どもの頃に読んだ『嵐のまえ』『嵐のあと』(岩波少年文庫)に描かれた、風車とチューリップの国、スケートの国という、オランダに抱いていた印象は今ではなくなってしまった。
 数年前に観光旅行で1泊しただけだが、アムステルダムは、運河はゴミが浮いて汚れていて、行きかう人もどこか冷たい印象だった。その意味では、今回のファン・デル・ファルク役の俳優はあっているかもしれない。
 予告編の第2弾も始まったが、「神秘」「麻薬」「移民問題」と、現代の病めるアムステルダムの抱える問題が扱われるらしい。そんなわけなので、テレビのファン・デル・ファルク警部は、見るのが怖い気持ちでいる。

 ニコラス・フリーリングはイギリスの作家と思いこんでいたが、ハヤカワ・ミステリの解説によれば、彼はロンドンで生まれ、フランスで育ち、オランダその他ヨーロッパ各地で生活しながら、作家デビューしてからはオランダに戻り、その後はストラスブールで生活しているという。英語版からの翻訳を読んだのと、その年のアメリカ探偵作家クラブ賞受賞作だったという宣伝から、そのように誤解したのだろう。
 テレビを見るのが怖いだけでなく、原作を再読するのも怖くなってきた。1976年の4月の東京の雨の思い出とともに、そっとそのままにしておいた方がよいような気持ちに傾いている。
 
 2020年6月28日 記


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