豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

モンテスキュー 『法の精神(上巻)』

2020年06月27日 | 本と雑誌
 
 ★ モンテスキュー『法の精神』(野田良之ほか訳、岩波文庫(上巻)、1989年。根岸国孝訳、河出版・世界の大思想、1974年)

 <承前>

 まだ第1部と第2部(岩波文庫版の上巻)を読み終えただけの段階だが、上巻の核心は、一般的には、第2部で論じられる三権分立論といわれているが、ぼくは、(三権分立よりも)民主政の本性としての「徳」を指摘したことが最大の功績と思う。
 
 モンテスキュー『法の精神』は三権分立を提唱したと中学や高校の教科書に書いてあるが、本書第2部が三権分立論にあたる。ここで説かれる三権分立はジョン・ロックの『市民政府論』(『統治二論』)に由来するものとされる。上巻291頁あたりの記述はロックを下敷きにしているらしい。ただしロックが権力を立法権と執行権とに二分していたのに対して、モンテスキューは第3の権力として裁判権を執行権から独立させたところ(287-9頁)に特徴があると解説にある。
 ロックの『市民政府論』は、かつてきちんと読んだつもりでいたが、執行権と裁判権が分離していなかった記憶はない。ロックは、父(家父)が家族に対して有するとされる生殺与奪の権を家父の家族に対する裁判権(jurisdiction)と述べていたが、言われてみれば父には当然「執行権」も帰属しているだろうから、加えて「裁判権」も認められるとなると、(少なくとも)父には「執行権」と「裁判権」がともに帰属していることになる。
 改めて『市民政府論』(鵜飼信成訳、岩波文庫)を眺めると、ロックは君主制を支持していたばかりか、その君主に執行権も立法権(の一部)も付与しているではないか。モンテスキューがロックを下敷きにしているということ自体が怪しくなってくる。そのうちロックも(これまた買ったまま放置してある)加藤節の新訳(『統治二論』単行本)で読みなおすことにしよう。
 いずれにしても、モンテスキューの三権分立は、公民の政治的自由--各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏--を保障し、権力の濫用を防止するために、立法権力と執行権力と裁判権力とを同一の君主または同一の団体に帰属させてはならない(291頁)という点では現代の権力分立に通ずるが、今日的な立憲主義(立憲民主主義)体制、あるいは議院内閣制のもとでの三権分立とは性質を異にする。

     *   *   *

 彼の民主政ないし民衆政に対する批判の中には、現在でも傾聴に値するところがある。もしモンテスキューが現代に生きていたら、彼は立憲君主制を支持しそうな気がするが、(立憲?)君主制の失敗を経験して、戦後に生きるぼくとしては、貴族政ないし君主政の復活によって民主政の欠陥をしのぐわけにはいかない。やはり民主政の課題を乗り越えていくしかない。
 モンテスキューは、民主政(共和政といっている個所もある)の原理は「徳」(“vertu”[フランス語])であり(71頁)、民主政における教育の目標は「徳」であると言う(95頁)。ぼくたちは、教育によって「徳」の涵養を目ざすしかない。ちなみに、モンテスキューにおいて、「教育」は、父親による教育、教師による教育、世間による教育という3段階に分けられる(87、95頁)。
 岩波文庫版(上巻)の巻頭には「著者のことわり」という文章が付されており(河出版にはない)、そこには、共和政における「徳」とは政治的な「徳」であり、その「徳」とは「祖国への愛」と「平等への愛」であると記されている(31頁)。
 以前このコラムで新渡戸稲造の「平民道」について書いた際に、阿部斉さんの “virtue” 論に言及したが、モンテスキュー『法の精神』の冒頭で民主政(共和政)における「徳」(英語で “virtue”)に出会えたことは、ぼくにとって、この本の第1部を読んだことのもっとも大きな収穫であった。阿部さん(編集者時代に面識があったので「さん」付けにさせてもらう)の “ virtue ” 論もモンテスキューに由来するのだろうか。
 すべての民衆が教育によって「徳」を積み、「有徳」の人士となることは見果てぬ夢だろうし、学校教師にとって “mission impossible” かもしれないが、父親としてならできることはあろう。いずれにしても、君主の「徳」(モンテスキューによれば「名誉」か)に依存することはできない。

     *   *   *
 
 まだ読んでいない中巻、下巻も含めたこの本全体のテーマは、政体(共和政[民主政と貴族政]、君主政、専制政)と、その地域の習俗と法律との関係にある(風土論)。ギリシャ・ローマ史のエピソードなどは斜めに読み飛ばしてでも、風土、習俗、日常生活などがその地域の法律にどのような影響を及ぼしたかを検討した個所に集中して読まなければ、ぼくには通読できないかもしれない。
 総目次を眺めると、興味深い項目があちらこちらにちりばめられている。中巻では、第3部第16編の一夫多妻制の章、第18編の婚姻、成年、養子などの章、第4部第23編の婚姻や種の繁殖、子の遺棄に関する章、下巻では第6部の相続を論じた諸章などである。政体論や風土論との関係に関するモンテスキューの議論はともかくとしても、何とかこれらの項目にたどり着きたいものである。
 以下では、第1部、第2部の中から、ぼくの注意を引いた記述を抜き書きしておく。取りとめもないのだが。

 ☆ 同父異母の兄妹間の婚姻は認められるが、同母異父の兄妹間の婚姻は認められない。なぜなら、民主政の原理である平等の要請からは、1人の者が「2つの(=2人の「父」の)相続財産」を得ることは禁止されるからである、という(111頁)。
 後に見るようにモンテスキューは、現代人の眼から見るとかなり広範囲に近親婚を認めている。「本性に反する罪」、モンテスキューによれば「宗教、道徳、政治のどれもが非とする犯罪」(351頁。今日的に言えば性犯罪をさすようである)に付けられた訳注では、「男色、獣姦、近親相姦などをさす」とあるが(453頁)、「近親相姦」が含まれるかは疑問である。もし含まれるとしても、その範囲は現代のぼくたちが想定するよりはるかに狭いだろう。
 ☆ 共和政における籤(くじ)による決定の妥当性(56頁)は、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』における籤の効用に通ずる。少なくともぼくは「籤の効用」を軽視しすぎていた。
 ☆ 姦通の訴追は公開の法廷が効果的である(119-120頁)。そうだろうか。現代人の羞恥心からは、公開法廷での真実発見は困難ではないか。ローマの家族裁判所は法律の侵害だけでなく、習俗の侵害についても裁判を行った。この裁判所によって公の訴追に服せしめられた犯罪として姦通があった。なぜなら共和国における習俗をこれほど侵害するものはないからである(212-4頁)。
 どうも、ぼくが長年抱いてきた先入観と違って、フランス人の貞操観に関しては、「家族のスキャンダル」のほうが例外的なようである。
 ☆ 「法律は君主の眼である。彼は、法律がなければ見ることのできないものを法律によって見るのである」(170頁)。
 『台湾研究入門』では、法律や制度の「可視化」機能という分析視角に疑問を感じたが、モンテスキューも「可視化」論者だったとは・・・。ぼくとしては、例えば、土地所有権制度は収税確保(納税義務者の確定)が目的であり(わが明治初期の地券制度から地租改正への変遷)、戸籍制度は兵役義務者の所在を確定し徴兵することが(主たる)目的であった。そこで重要なことは権力者が何のために「可視化したい=見たい」と考えたかであって、「可視化」それ自体にはあまり意味はないと思うのだが。
 
 2020年6月27日 記


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