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豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

原武史「レッドアローとスターハウス」ほか1冊

2025年05月04日 | 本と雑誌
 
 原武史「レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史」(新潮社、2012年)を捨てることにした。読んだのは2012年11月4日(日)夕方18:23と書き込みがあった。

 断捨離をすると言いながら蔵書をなかなか捨てられないどころか、新たに買ってしまうこともあるので、本を買った場合には同じ冊数の蔵書を捨てるというルールを自分に課すことにした。
 先日も「現代史を支配する病人たち」を断腸の思いで捨てた。ただし同時に10冊近くの本を捨てたのだが(資源ゴミの日に道端のごみ回収場に出した)、残りは何を捨てたのかすら覚えていない。目の前にある時は名残惜しかったのに、いざなくなってみればそんなものだったのだ。  
 ここ最近は、モーム「人間の絆」の翻訳本3冊と英語版を2冊買ってしまったので、同じ冊数だけ蔵書を捨てなければならない。その第一弾が「レッドアロー」である。
 「レッドアロー」は西武線を走っている秩父行きの特急である。ぼくは西武沿線に住んでいて、見たことはあるが乗った記憶はない。「スターハウス」というのは同じく西武沿線のひばりが丘団地だったか滝山団地の建物が上空から見ると星型だったので(パノプティコン?)つけられた愛称らしい。
 本書は、著者が提唱する「空間政治学」なる領域のケース・スタディである。

 西武線沿線の[空間政治学]の事例は、1960年(昭和35年)の安保反対闘争の時代に、久野収さんが西武池袋線沿線で立ち上げた「武蔵野沿線市民会議」である。石神井公園に住んでいた久野が、坂本義和、篠原一、白井健三郎、家永三郎、暉峻淑子らを結集した運動だったという。そういえば編集者時代に、石神井の久野さんのお宅に原稿を頂戴に伺ったことがあった。
 保守的だった西武資本の「西武線沿線」と名乗りたくなかったので、あえて「武蔵野沿線」と命名したらしい。西武池袋線は戦時中は武蔵野線と称していて、戦中か戦後に買い出しのために武蔵野線に乗ったことがある亡母によれば、当時は屋根のないただの貨物車(無蓋車?)だったと言っていた。
 西武は組合が弱くて(なくて?)決してストライキをやらなかった。そのため、鉄道労組がゼネストをやった時も西武線西武バスは走っていたので、ぼくは上石神井駅までバスに乗り、西武新宿線で西武新宿に出て、そこから新宿通りをテクテク歩いて四谷3丁目交差点を曲がって信濃町の会社まで出社したことがあった。
 ぼくは60年安保の頃の記憶はあまりないが、1970年代のベトナム反戦運動の頃は、大泉反戦市民の会だったかという団体が、当時朝霞にあった米軍基地から脱走した反戦米兵をスウェーデンに出国させる運動をやっていたことを新聞記事で読んだ記憶がある。近所の電柱に同会のビラが貼ってあった。
 
 大泉学園は、昭和初期に一橋大学(当時は東京商科大学)を誘致する運動を繰り広げたが、国立に敗れて沙汰やみになったと聞いた。ぼくが通っている近所の開業医の待合室の壁には、なぜか昭和戦前期の大泉学園周辺の古地図が貼ってある。それを見ると、大泉学園駅から北に向かうバス通り沿いには「聖心女子学院建設予定地」と書いてある一帯がある。聖心女子学院も大泉学園に移転する計画があったのだろうか。このことは原の本には書いてなかったと思う。
 個人的な思い出としては、雅樹ちゃん誘拐事件で犯人が身代金受渡し場所に指定したのが大泉学園の北にあった「都民農園」(今でもあるのだろうか?)だった。沿道に警備の警官を配置していたところ、バスで現場に向かった犯人が、車窓から配備の警官に気づいたため取り逃がしたという。捕まった犯人は杉並の歯科医だったが、当時としては珍しい日野ルノーだったかヒルマン・ミンクスだったかに乗っていたと記憶する。
 当時は都民農園に向かうバス通りの沿道は畑ばかりで住宅や商店などはほとんどなかったので、夕方薄暗くなってから風致地区に住む友人の家から自転車で帰るときなどは怖かった。

 一緒に、福間良明「『働く青年』と教養の戦後史」(筑摩書房、2017年)も捨てる。「2017年4月9日(日)pm. 10:20」と書き込みがあった。
 勤労青年の教養という問題も、一時期ぼくが関心を持ったテーマだった。
 ぼくは戦後の新制大学は名称は「大学」となったものの、実質は(戦前の)高等小学校以上旧制中学校未満の学校であると思っている。戦前の小学校卒業生のうち旧制中学に進学した者の進学率は10%から15%程度だったのに対して(大正時代は10%未満だった)、戦後の新制大学の進学率は18歳人口の50~60%を超えるまでになった。進学率だけでいえば戦前の旧制中学のほうが新制大学よりエリート度は圧倒的に高かったのである。新制大学は、戦前でいえば「実業学校」、各種の「技術学校」にほぼ相当する。
 ※「旧制中学入試問題集」(武藤康史著、ちくま文庫、2007年)という本を読んだが、戦前の旧制中学の入試問題は結構難しい。応募者が少なかったせいか、歴史など論述式の出題も多い。
 このように言うのは、「旧制中学」が偉くて「新制大学」が劣っているという意味ではない。社会が新制大学に求めるものが旧制大学や旧制高校、旧制中学に求めたものとは変わったということである。新制大学に求められるのは、旧制中学、旧制高校のような「教養」ではなく、実業学校に求められていた「教養」と、実業学校に求められた職業能力の養成であるとぼくは考える。

 戦後の新制大学に進学した者の多くは、戦前であれば本書の著者が紹介するような教養雑誌、人生雑誌などを購読して勉強した人たちであろう。ぼくは以前から新渡戸稲造が編集主幹(?)を務めた「実業の日本」に自ら執筆した論説に興味をもっていた。とくに彼が “democracy” を「平民道」と訳して、民主主義における「徳」“virtue” を説いたことに感銘を受けた。民主主義社会に生きる人間に求められる “virtue” のことは阿部斉さんの「政治」(UP選書、東大出版会)で知ったのだが、モンテスキュー「法の精神」が説き、バーク「フランス革命の省察」が説いていたことを後に知った。
 「実業の日本」は(福間のいう教養雑誌ではないが)、文字通り実業学校を卒えて社会人になった勤労青年を読者対象とした雑誌ではないかと思う。そのような青年に対して新渡戸が「平民道」として民主主義を説いたように、ぼくもそのような心構えで新制大学の学生たちに語りかけなければならないと自戒していた。
 福間の本にはそんな趣旨のことは書いてなかったが、店頭で本書の題名を目にして斜め読みしたとき、問題意識の持ち方にぼくと共通するところがあると思った。
 この本も捨てがたい。鶴見俊輔以上に捨てがたいが、捨てねばならぬ。新渡戸稲造全集も捨てるか・・・。

 2025年5月4日 記