
ぼくはモームの小説を新潮文庫で読み始めた。1960年代後半から70年代のあの頃は、モームは新潮文庫しか書店で目にすることはなかったと思う(受験用の対訳本などは除く)。
「サマセット・モーム」というカテゴリーの第1回で書いたが、新潮文庫のモームのうち、「怒りの器」と「アシェンデン・Ⅱ」の2冊を除いたすべては古本屋などで探してそろえることができた。
「怒りの器」は短編集「アー・キン」(“Ah King”)の前半部分だが、残り半分は「この世の果て」(増野正衛訳、新潮文庫、手元にあるのは昭和48年18刷)で読み、その後「怒りの器」に該当する部分は、ちくま文庫から「アー・キン」(増野訳、1995年)が出たので読むことができた。
増野訳「アー・キン」は新潮文庫では2分冊だったものを1冊にまとめたものだが、「訳者あとがき」は新潮文庫の「この世の果て」の「解説」とは異なっている。新潮文庫の「怒りの器」についていた「訳者あとがき」なのであろうか、「怒りの器」を映画化した「島のならず者」を凡作と批判する文章や、北川悌二による「怒りの器」の先行訳(英宝社)への謝辞などが書いてあるが、「この世の果て」の「解説」には載っていない。
「アー・キン」の巻末には、「1995年 6月 6日」の日付と前任校の研究室番号(K‐614)が書いてあった。出版されてすぐに読んだらしい。前半部分の「この世の果て」(新潮文庫)の巻末には「1975年6月5日 中軽井沢三芳屋」と書き込みがある。あの中軽井沢駅前の鬼押し出しへ向かう通り沿いにあった三芳屋書店で買ったのだろう。偶然にも「アー・キン」を読んだぴったり20年前である。
モームを邦訳で読むためだけなら2冊持っている必要はないので、古い新潮文庫のほうを断捨離すべきかもしれないが、「1975年 中軽井沢三芳屋」の書き込みを見ると、あの頃の中軽井沢駅前の思い出の品として捨てがたい。「アー・キン」(登場する中国人の名前)というタイトルも原作の短編集のタイトルなのだが、異国もののタイトルとしては「この世の果て」のほうがふさわしい。断捨離はできない。

「アシェンデン」の後半は「秘密諜報部員アシェンデン」(龍口直太郎訳、創元推理文庫、手元にあるのは1970年27版だが、古本屋で買ったらしく110円と値段が書いてあった。新本の定価は180円)で読むことができた。その創元推理文庫版の巻末には「1997年 9月10日(水)pm 5:00 長い間、放ってあったが結構面白かった」と書き込みがある。その頃再読したらしい。
「アシェンデン」は後に出た金原瑞人訳の新潮文庫版も買ってしまったのだが、手元にある古い方の新潮文庫版「アシェンデン・Ⅰ」(河野一郎訳、昭和46年11刷)にも「1997年 9月 7日」の日付と前任校の研究室番号が書いてある。どうやら今から30年近く前に、前半は河野訳で後半は龍口訳で読んだらしい。
「アシェンデン・Ⅰ」も捨てがたいが、今さら「アシェンデン・Ⅱ」を古本で買いそろえるほどでもない。残しておくなら龍口訳か金原訳だろう(両者ともモームの序文も訳出してある)。紺色+草緑色のカバーの新潮文庫を手放すのはつらいところだが、断捨離するなら河野訳「アシェンデン・Ⅰ」だろう。
※ と書いたものの、もし古本屋の店頭の100円均一の棚で新潮文庫の紺色+草緑色のカバーのかかった「怒りの器」や「アアェンデン・Ⅱ」を見つけたら買ってしまうと思う。
2025年5月6日 記
※ 1978年 5月 6日の東京は、今にも雨が降り出しそうな曇り空だったが、幸い最後まで雨は降らなかった。47年後の今日は朝から(夜半から)雨が降り続いている。今年も国際文化会館の庭にはつつじが咲いているだろうか。