21.ホテル・フジタ
次の日の夕方、外も暗くなりかけてお客が誰もいないカフェに、いつものように花屋で
買い物をした帰りの神谷さんが、コーヒーを買いに来た。
今日誰も知り合いに会わなかったら、誰とも親しく口をきけなかったら、私は耐えられ
ない状態にあった。
神谷さんに、店を閉じることを告げなければならない。
「昨日不動産屋から、出るように言われて」
「まああ、ちょっと荷物置いてくるから、あとで一緒に食事しよう」
体中の力が抜けていた。
六時に店のシャッターをおろして、迎えに来た神谷さんと手近なホテルフジタの中国料
理店に行った。誘われでもしなければ、自分から払って外に食事に行ける余裕はなかった。
「私に何ができる?」
「テーブルは手離せないけど、椅子は必要ないから、引き取ってくれる人を見つけてもら
えませんか」
「わかった。いくらにする」
「タダで結構です」
「いいや、売りましょう。いくら?」
「前に、欲しいといったお客さんに五千円で譲ったことがあるけど」
「じゃ、それで。亡くなった主人がお世話になったバプテスト教会の人が欲しいと言うか
もしれないし、うちの事務所も椅子足りないから」
「みんなに迷惑かけて。大家さんの不動産屋には、結局一年半家賃滞納して帳消しにして
もらいました」
「わ、自慢してる。いいなあ、うちも次の事務所探してるの。そんないい不動産屋、紹介
してくれない。あ、駄目か。石井さんの紹介って言ったら、不動産屋ビビるかもね」
笑わせてくれる神谷さんが有難かった。
不安はあっても、不幸な目にあっているという気がしないのは不思議だった。それはま
わりを温かい好意を持った人たちに囲まれているからだろう。誰も私に悪意を持ってはい
ないのだ。
三月に入るとまた客足が戻ってきたが、もう残り物が出ないように料理の種類を減らし
ていった。
昼食時をはずれて、二人の大学研究者と思われる若い男性客が食事に来た。
「田舎パテを下さい。ここのはほかの店と違って、ちゃんと作ってあるからね」
「あの、すみません。今はなくて。頼んで下さるお客様が殆どなくて、スタッフのために
作っているようなものでしたから」
これは言い訳になっていない。このようにファンになってくれたお客が一人でも出来た
なら、ファンを作ってしまったのなら、作り続けるのが店という不特定多数の人を相手に
する職業の責任ではないだろうか。
「そうだよなあ、好きならもっと食べに来ないといけなかったんだ」
今度は作っておきます、そう答えたかったが何も言葉が出て来なかった。
店は誰が来るかわからないところだ。ギャルソン目当ての外国人の女性客が来ることも
あるし、話のこじれた不倫カップルが喧嘩の場に使うこともある。
映画「ノッティングヒルの恋人」のように、イギリスの小さな街で地図を商う男のとこ
ろに、ハリウッドの女優が来るという出会いも、店として門を開いているからこそだ。
獲物を待つ蜘蛛ならば、一旦蜘蛛の巣を張ったらば、じっと神経を集中して待ち続ける
のだ。ましてや、ひっかかってくれる虫が一番待ち望んだ種類の虫ならば、その虫の喜ぶ
巣の張り方をしておくのは当たり前のことなのに。
三月の半ばは、日差しは明るくても、まだオープンカフェにするには早い。今日も客席
には誰もいない。
ドアを押し開いて、山男のような髭を生やしたお客が笑顔で近付いてきた。
店を開いていると、知らない人が親しげに話しかけてくることがある。向こうは何度か
来ているので、知り合いのつもりなのだが、こちらは如何に流行っていない店だとはいえ、
多数の客を相手にしているので、一人一人の個性には認識がなく、よほどの事件でもない
限り、二三回来た程度では、食べて代金を置いていくという共通の記号の識別は不可能だ。
「やあ、まだありましたね」
「えっ?」
「だって前に来たとき、僕がまた来ますって言ったら、マダムは次に来たらもう店はない
かもしれませんよと言ったんです」
うっすらと記憶がよみがえってきた。
カフェを開いてまだ日が浅い頃、オープンエアのテラス席にはなかなか着席する客がい
なかった。そこへ進んで二人の男性が喜んで着席した。
二人はバミューダパンツで自転車に乗って来て、着席した場面はカフェを盛り上げるの
にぴったりの光景だった。
ギャルソンから後で伝え聞いたのだったか、二人の会話の端々を小耳に挟んだのだった
か、彼らの素性は頭に入っていた。
少なくとも、今日やってきた男の方は、京都出身だけど今はアメリカ、たしかシカゴで
医師をしており、一時帰国してきていた。
なぜそう記憶しているかは思い出せない。
「でも、あさって店を閉じます」
私は笑うことも出来ず、その言葉を告げることで何か頼ってはいけないものにすがるよ
うな気持ちで声を吐き出した。
男の次の言葉には一瞬の間があった。
「駄目だね、京都は。駄目だ、この町は。この店を維持出来ないなんて」
さっきまでニコニコ顔だった男は、空をにらむように力を込めて言い放った。
「今日は何をいただこうか。マダムが決めて下さい」
男の来店の目的は、空腹を満たすためでも、足を休めるためでもない。このカフェが好
きだから来てくれたのは明らかだ。
シュークルートと白ワインを用意しながら、カウンターの中の私は話の接ぎ穂を探すの
に困った。
「京都にはもう帰っていらっしゃらないのですか」
「うん、仕事がないからね」
こんな客が何人もいてくれれば、とは思っても、レストランならいざ知らず、カフェは
客単価が低く、よほどまとまった数でなくては得意客の意味がない。
食事が終ると男はカメラを取り出して、カウンターの私に向けた。私はなんとか笑顔を
作らなければと努めた。きっと見たくもない表情の写真になっていたに違いない。
最後に男は手を差し出し、握手をして出ていった。名前も聞かず、二度しか会ったこと
のないこの人と、三度会うことはないだろう。
もし町で会ったとしても、私は顔を見分けられない。向こうが声をかけてくれない限り。
また同じ名前のカフェを開かない限り。
次の日の夕方、外も暗くなりかけてお客が誰もいないカフェに、いつものように花屋で
買い物をした帰りの神谷さんが、コーヒーを買いに来た。
今日誰も知り合いに会わなかったら、誰とも親しく口をきけなかったら、私は耐えられ
ない状態にあった。
神谷さんに、店を閉じることを告げなければならない。
「昨日不動産屋から、出るように言われて」
「まああ、ちょっと荷物置いてくるから、あとで一緒に食事しよう」
体中の力が抜けていた。
六時に店のシャッターをおろして、迎えに来た神谷さんと手近なホテルフジタの中国料
理店に行った。誘われでもしなければ、自分から払って外に食事に行ける余裕はなかった。
「私に何ができる?」
「テーブルは手離せないけど、椅子は必要ないから、引き取ってくれる人を見つけてもら
えませんか」
「わかった。いくらにする」
「タダで結構です」
「いいや、売りましょう。いくら?」
「前に、欲しいといったお客さんに五千円で譲ったことがあるけど」
「じゃ、それで。亡くなった主人がお世話になったバプテスト教会の人が欲しいと言うか
もしれないし、うちの事務所も椅子足りないから」
「みんなに迷惑かけて。大家さんの不動産屋には、結局一年半家賃滞納して帳消しにして
もらいました」
「わ、自慢してる。いいなあ、うちも次の事務所探してるの。そんないい不動産屋、紹介
してくれない。あ、駄目か。石井さんの紹介って言ったら、不動産屋ビビるかもね」
笑わせてくれる神谷さんが有難かった。
不安はあっても、不幸な目にあっているという気がしないのは不思議だった。それはま
わりを温かい好意を持った人たちに囲まれているからだろう。誰も私に悪意を持ってはい
ないのだ。
三月に入るとまた客足が戻ってきたが、もう残り物が出ないように料理の種類を減らし
ていった。
昼食時をはずれて、二人の大学研究者と思われる若い男性客が食事に来た。
「田舎パテを下さい。ここのはほかの店と違って、ちゃんと作ってあるからね」
「あの、すみません。今はなくて。頼んで下さるお客様が殆どなくて、スタッフのために
作っているようなものでしたから」
これは言い訳になっていない。このようにファンになってくれたお客が一人でも出来た
なら、ファンを作ってしまったのなら、作り続けるのが店という不特定多数の人を相手に
する職業の責任ではないだろうか。
「そうだよなあ、好きならもっと食べに来ないといけなかったんだ」
今度は作っておきます、そう答えたかったが何も言葉が出て来なかった。
店は誰が来るかわからないところだ。ギャルソン目当ての外国人の女性客が来ることも
あるし、話のこじれた不倫カップルが喧嘩の場に使うこともある。
映画「ノッティングヒルの恋人」のように、イギリスの小さな街で地図を商う男のとこ
ろに、ハリウッドの女優が来るという出会いも、店として門を開いているからこそだ。
獲物を待つ蜘蛛ならば、一旦蜘蛛の巣を張ったらば、じっと神経を集中して待ち続ける
のだ。ましてや、ひっかかってくれる虫が一番待ち望んだ種類の虫ならば、その虫の喜ぶ
巣の張り方をしておくのは当たり前のことなのに。
三月の半ばは、日差しは明るくても、まだオープンカフェにするには早い。今日も客席
には誰もいない。
ドアを押し開いて、山男のような髭を生やしたお客が笑顔で近付いてきた。
店を開いていると、知らない人が親しげに話しかけてくることがある。向こうは何度か
来ているので、知り合いのつもりなのだが、こちらは如何に流行っていない店だとはいえ、
多数の客を相手にしているので、一人一人の個性には認識がなく、よほどの事件でもない
限り、二三回来た程度では、食べて代金を置いていくという共通の記号の識別は不可能だ。
「やあ、まだありましたね」
「えっ?」
「だって前に来たとき、僕がまた来ますって言ったら、マダムは次に来たらもう店はない
かもしれませんよと言ったんです」
うっすらと記憶がよみがえってきた。
カフェを開いてまだ日が浅い頃、オープンエアのテラス席にはなかなか着席する客がい
なかった。そこへ進んで二人の男性が喜んで着席した。
二人はバミューダパンツで自転車に乗って来て、着席した場面はカフェを盛り上げるの
にぴったりの光景だった。
ギャルソンから後で伝え聞いたのだったか、二人の会話の端々を小耳に挟んだのだった
か、彼らの素性は頭に入っていた。
少なくとも、今日やってきた男の方は、京都出身だけど今はアメリカ、たしかシカゴで
医師をしており、一時帰国してきていた。
なぜそう記憶しているかは思い出せない。
「でも、あさって店を閉じます」
私は笑うことも出来ず、その言葉を告げることで何か頼ってはいけないものにすがるよ
うな気持ちで声を吐き出した。
男の次の言葉には一瞬の間があった。
「駄目だね、京都は。駄目だ、この町は。この店を維持出来ないなんて」
さっきまでニコニコ顔だった男は、空をにらむように力を込めて言い放った。
「今日は何をいただこうか。マダムが決めて下さい」
男の来店の目的は、空腹を満たすためでも、足を休めるためでもない。このカフェが好
きだから来てくれたのは明らかだ。
シュークルートと白ワインを用意しながら、カウンターの中の私は話の接ぎ穂を探すの
に困った。
「京都にはもう帰っていらっしゃらないのですか」
「うん、仕事がないからね」
こんな客が何人もいてくれれば、とは思っても、レストランならいざ知らず、カフェは
客単価が低く、よほどまとまった数でなくては得意客の意味がない。
食事が終ると男はカメラを取り出して、カウンターの私に向けた。私はなんとか笑顔を
作らなければと努めた。きっと見たくもない表情の写真になっていたに違いない。
最後に男は手を差し出し、握手をして出ていった。名前も聞かず、二度しか会ったこと
のないこの人と、三度会うことはないだろう。
もし町で会ったとしても、私は顔を見分けられない。向こうが声をかけてくれない限り。
また同じ名前のカフェを開かない限り。
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