ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「歩く」ということと「ドライブ」、あるいは「個」の問題

2011年10月11日 | 思考法・発想法
たどり着くといつもそこには橋が横たわっていた、そう歌ったのは佐野元春。トンネル抜けて海の見える方へ車を飛ばしたのはボ・ガンボスのどんと。旅にでる理由はだいたい100個くらいあって、1つ目はここじゃどうも息が詰まりそうになったと言ったのはくるり。

どういう理由があったとしても、1人でドライブをしていると、目的地にたどり着くこと自体ではなく、車を走らせている事自体が目的になる。

最初は天気が良かったし、せっかくだからドライブでもしようかから始まって、そこから茨城空港に狙いを定めスタートする。常磐道も空いていて快調に車を飛ばす。まぁ、もともと特に目的があったわけではない。途中で見つけた公園なんかによったりしながら、いざ、茨城空港へ。

残念ながら朝晩しかフライトはないらしく、空港に来たのに飛行機の姿は見えず。それにしてもこんな地に空港を作って、茨城県の人たちは何を期待したのだろう。周りに何かがあるわけでもないので、ここにきても何もすることはない。それとも空港ができれば、茨城の観光客が増えるとでも?まさかね。

となりの公園に戦闘機が2機並んでいたので、それは珍しかったけど、まぁ、それくらい。予想以上に時間が潰せない。

まだ目的らしいものがあったのはここまで、ここから先は無理やり近くで立ち寄りそうな場所を探す。車に乗り込む。ただ車の少ない地方道だ、ドライブには最高。自分のペースで快調に走らせる。

なぜ、僕らはドライブ自体が目的になるのだろう。

普段の生活している空間や速度から解放されるからか、ただ目の前の道を走らせるだけで何も考えず無心になれるからか、見慣れない景色の目新しさか、自分だけの空間を確保できるからか、あるいはその全てか――。

それは例えば誰もいない公園や山道や寺院なんかを一人で散策するのとはまた違う。「歩く」というのは外界との風景や空気に刺激を受けながら、その一方で自分1人で思考するための空間が作ることができる。周囲の世界を眺めながら「歩く」ことで、逆に世界から隔絶することもできる。京都・哲学の道を歩いた西田幾多郎などはまさにそうなのだろう。

しかし車を走らせるというのは違う。「歩く」ことが「個」を生み出すことだとすると、「車を走らせる」というのは「個」の喪失に近い。自我を喪失させ、世界の中に自らを埋没させる・一体化させることに近いのではないか。いや、誰もそんなことを考えて運転はしていないだろう。周囲に対してどのように運転するかということのみに意識を向けることで、結果として、自我を忘れ世界に溶け込んでいるのだ。

いや、これは考え過ぎかもしれない。単に自由な気がするだけかもしれないし、ただの退屈しのぎかもしれないのだから。

適当に走らせてたどり着いたのは「萬福寺」というお寺。特に観光名所というわけではなく、地元にひっそりと埋めれている寺。ただ由緒は正しいようで立派な本尊があり、それは毎月1日に開放されるのだとか。杉の茂みにひっそりと佇む姿に好感を感じる。

改めて思う。やはり「歩く」という行為と「車を走らせる」という行為は根本的に違うのだ、と。

 ヘイヘイヘイ
 おれたちゃ車とばして海の見える方へ
 まど開けて風にまかれて君の家の方へ
 トンネルぬけて
 トンネルぬけて

     (「トンネル抜けて」/BO GUMBOS)


 胸のすきまに 入り込まれてしまった
 誰のための 道しるべなんだった
 それを もしも 無視したらどうなった

        (「さすらい」/奥田民生)

何かいろいろ書いたけれど、どんな理由や意味をそこに見出そうが、結局は男たちはドライブが好きなのだ。

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