WEB系のサービスを考えるとき、「頭」にたよってはいけないのだと思う。もちろん考えねばならない。いや、もちろん考えなければならない。考えて考えて、煮詰まって、それでも考えぬかねばならないと思う。でもその根底にあるのはあくまで「感性」だと思う。
その時に2つ感性を磨かねばならないのだろう。1つは、そのサービスのもつ可能性の中から、「楽しさ」「面白さ」「驚き」「快」を感じ取る感受性で、もう1つはそのサービスをデザインする際に「使いにくさ」「不便さ」「面倒くささ」「不快」に対する感受性だ。
「快」に対する感受性はそのサービスの魅力や可能性を見抜くもので、「不快」に対する感受性はそのサービスを普及させるために必要なもの。
例えば「頭」でそのサービスの内容を考えたとしたら、そこではどうしても分析的にならざろうえない。周囲で流行っているサービスの動向だったり、外部環境/内部環境だったり、技術動向だったり…それはそれで大切なことではあるのだけれど、結果として「新しいもの」が生み出されることなく(分析は過去しか語れない)、「ユーザー不在」になってしまう。ユーザーがそのサービスを使うかどうかは、理屈ではなく、楽しいからとか便利だからとか、感覚的な理由からなのだ。
また一昔前のように、あくまでサプライヤー側が有利な状況であれば、プロダクトアウト型のサービス、供給側の事情に基づいたサービスでも皆が利用してくれたかもしれないが、今では多くのサービスが溢れかえり、代替サービスも多数存在する。またユーザーの嗜好性も拡散してしまっている。頭で考えた「誰もが利用しそうな」中途半端なサービスは誰も利用したがらない。
嗜好性が拡散した時代だからこそ、特定の嗜好に響くサービスを考えねばならない。自分の感性が「面白い」と思ったら、同じ感性をもったユーザーを対象にサービスを考え、それが結果的により多くの人に響いていくことになる。
そう考えると、やはりスティーブ・ジョブズは尋常ではなかったのだろう。iPadなんて技術的に革新的だったとは思わないけれど、そこに新しい「快」や「体験」を見出し、それを作りあげたのだから。
その一方でスティーブ・ジョブズの創り上げたプロダクトやサービスを見ていると、今のネットの潮流である「ソーシャル」という流れについては必ずしも感性があっていなかったのかもという気がする。
今の「ソーシャル」という流れを見た時、もっとも成功しているのはFacebookだと言っていいだろう。マーク・ザッカーバーグはこうした嗜好性の多様化や様々な代替サービスが存在しうること、あるいはインターネット黎明期にその発展をになったマーケットプレイス(情報流通の場)が機能不全に陥りつつあること、開発コストが少なければ)開発者はいらくでもいることを理解していたのかもしれない。彼がとった戦略は自らサービスを作ることはせず、あくまでそれらがうまく機能するためのプラットフォームを作り出すことに徹したことだ。
人と人とを結びつけること。そうすればそこに求められている新しい価値が生まれる。そしてそれを提供するのは自分たちではなく、それに気付いた人(企業)がやればいい。あるいはそこで生まれる新しい情報をうまく流通できるようにすればいい。そうすればその情報を求めている人とそれを提供したい人とが新しい価値を創出してくれる――。
しかしジョブズは、おそらく他者にそのように任せるということは出来なかったのだろう。彼は自らの感性に従い、芸術的とも言えるプロダクトを創りだしてしまうのだから。
その時に2つ感性を磨かねばならないのだろう。1つは、そのサービスのもつ可能性の中から、「楽しさ」「面白さ」「驚き」「快」を感じ取る感受性で、もう1つはそのサービスをデザインする際に「使いにくさ」「不便さ」「面倒くささ」「不快」に対する感受性だ。
「快」に対する感受性はそのサービスの魅力や可能性を見抜くもので、「不快」に対する感受性はそのサービスを普及させるために必要なもの。
例えば「頭」でそのサービスの内容を考えたとしたら、そこではどうしても分析的にならざろうえない。周囲で流行っているサービスの動向だったり、外部環境/内部環境だったり、技術動向だったり…それはそれで大切なことではあるのだけれど、結果として「新しいもの」が生み出されることなく(分析は過去しか語れない)、「ユーザー不在」になってしまう。ユーザーがそのサービスを使うかどうかは、理屈ではなく、楽しいからとか便利だからとか、感覚的な理由からなのだ。
また一昔前のように、あくまでサプライヤー側が有利な状況であれば、プロダクトアウト型のサービス、供給側の事情に基づいたサービスでも皆が利用してくれたかもしれないが、今では多くのサービスが溢れかえり、代替サービスも多数存在する。またユーザーの嗜好性も拡散してしまっている。頭で考えた「誰もが利用しそうな」中途半端なサービスは誰も利用したがらない。
嗜好性が拡散した時代だからこそ、特定の嗜好に響くサービスを考えねばならない。自分の感性が「面白い」と思ったら、同じ感性をもったユーザーを対象にサービスを考え、それが結果的により多くの人に響いていくことになる。
そう考えると、やはりスティーブ・ジョブズは尋常ではなかったのだろう。iPadなんて技術的に革新的だったとは思わないけれど、そこに新しい「快」や「体験」を見出し、それを作りあげたのだから。
その一方でスティーブ・ジョブズの創り上げたプロダクトやサービスを見ていると、今のネットの潮流である「ソーシャル」という流れについては必ずしも感性があっていなかったのかもという気がする。
今の「ソーシャル」という流れを見た時、もっとも成功しているのはFacebookだと言っていいだろう。マーク・ザッカーバーグはこうした嗜好性の多様化や様々な代替サービスが存在しうること、あるいはインターネット黎明期にその発展をになったマーケットプレイス(情報流通の場)が機能不全に陥りつつあること、開発コストが少なければ)開発者はいらくでもいることを理解していたのかもしれない。彼がとった戦略は自らサービスを作ることはせず、あくまでそれらがうまく機能するためのプラットフォームを作り出すことに徹したことだ。
人と人とを結びつけること。そうすればそこに求められている新しい価値が生まれる。そしてそれを提供するのは自分たちではなく、それに気付いた人(企業)がやればいい。あるいはそこで生まれる新しい情報をうまく流通できるようにすればいい。そうすればその情報を求めている人とそれを提供したい人とが新しい価値を創出してくれる――。
しかしジョブズは、おそらく他者にそのように任せるということは出来なかったのだろう。彼は自らの感性に従い、芸術的とも言えるプロダクトを創りだしてしまうのだから。
欠かせないものになってしまいました。
ソーシャルという言葉の裏には
無限な利益を産む可能性が隠れている
ことに気づいた若き天才は
やっぱりすごいなとおもいます。
そのあたりの感性を磨かないと!