帯には「ウェブ資本主義の正体」とあり、今、一番旬なブロガー・池田信夫さんの著書でもある。これは期待ができるだろうということで購入。ハイエクは名前くらいは知っているものの、フリードマンとともに新保守主義、新自由主義者の代表くらいの知識しかない。ということで、具体的にどんな主張がなされたのかはわからないのだけれど、この著を読んでいるとどこまでがハイエクの主張でどこからが池田さんの話なのかがよくわからない。特に現在、日本が直面している問題などを出されると、これはハイエクの主張に基づいた解説なのか、池田さんの私見なのかが解らなくなる。特に池田さんの場合、良くも悪くも自身と違う立場については厳しい主張をぶつけることもあり、ハイエクの衣を借る…といった風にも見えなくもない。
そういった面もあって、特に後半、「第9章」や「おわりに」は池田節が鮮やかに出ていたのではないだろうか。
ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書 543)
ハイエクが生まれたのは1899年 帝国が崩壊する世紀末のウィーンだった。大戦後のオーストリアは巨額の賠償金とインフレーションとで経済は崩壊。シュペングラーの「西洋の没落」が大ヒットとなり、ドイツではワイマール体制の下、ヒットラーが登場することになる。そうした影響もあり、ハイエクの思想観には、人間を合理的な存在とは捉えておらず「無知」を全ての前提に置く懐疑主義が根底にある。
ハイエクは経済学史的には「オーストリア学派」に分類される。創始者メンガーは価値が生産費(労働時間)できまるとする古典派経済学を批判し、それが消費者の「必要」で決まるとし、「限界効用の理論」として一般化され「新古典派経済学」へとつながっていく。「オーストリア学派」は「シカゴ学派」に吸収されたというのが一般的だ。市場の機能を高く評価し、政府の裁量的な介入を拒む点では、シカゴ学派(マネタリスト)と共通であり、ケインズ派が消滅した現在では経済学の主流を成すものだ。しかしハイエクは「均衡理論」を拒否しており、ミルトン・フリードマンや「合理的期待」学派には批判的であった。
1929年の大恐慌は経済学にとっては試練であった。イギリスでは労働党が第一党となり、ロシアでは革命が成功し、ドイツでも社会民主党が政権をとった。各国で人民戦線が結成され、社会主義の影響力が強くなった。そんな中で「自由放任の終焉」を宣言したケインズが注目を浴びることとなる。
ケインズは市場には政府の介入が必要とする「一般理論」を主張、これに対して、市場は自立的なシステムと考えるハイエクと論争となるが、ハイエクは「大恐慌」に対する処方箋を書くことができなかったこともあり、論争はケインズの勝利となった。
この時代、社会主義計算論争が起こる。ミンガーが市場経済では貨幣を媒介に複雑な計算をしなくても、価格を通じて消費者の評価が伝わることで、企業は適切な価格設定が可能になる。そのためには私的財産制が前提となるとの主張に対し、ポーランドの経済学者オスカー・ランゲが「分権的社会主義」を提唱。中央当局と各企業部門との間で需要と供給を調整することで適切な価格設定が可能となることを主張した。オペレーションズ・リサーチという方法論が示すとおり、これは理論的には正しかったが、目的関数をどのように設置するのかという問題と実現するための膨大なプログラミングが発生することから挫折した。
またパポー「ユートピア社会工学」は全体を個より上において歴史の必然に身をゆだねる「歴史主義」だとして社会主義・全体主義を批判した。パポーは当時、主流だった「論理実証主義」を批判し、論理の正当性を実験的な検証によって裏付けることはできないと「反証可能性」を提唱した。
ハイエクはパポーに影響を受けつつも、ポラニーの「暗黙知」や「個人的知識」に傾いていく。これは「客観的知識」は人間の知的活動の氷山の一角であり、実際の科学は科学者の習慣や知識など言葉にならない個人的知識に支えられているというものであり、本源的な知識は身体的な知識であり、「言語」によって分節化したものが客観的知識であるとした。
社会主義との論争の中でハイエクは市場についての考え方を深めていった。例えば「均衡」という概念。個人や企業などが主観的に「均衡」を見出すことはできるが、社会全体で「均衡」を考えることができるのか。
「均衡」が意味を持つのは、1)メンバー全体の目的が一定であり、2)メンバーの知識が同一で変化しないことが求められる。しかしこれは現実的ではない。こうした理想的な状態が実現するかは、社会の中でどう知識が分布し流通するかという「知識の分業」に依存することになる。個人が持つ知識には限界がある。知識の断片が市場での相互作用によってどう伝わり、コーディネートされるのかが経済的なパフォーマンスを決めるのだ。
市場が効率的な資源配分を実現するという「新古典派経済学」は、全ての人々が将来にわたって完全な情報を持っているということが前提となる。不完全な状態では代替可能な商品との比較ができず、最適化が達成されない。しかし市場経済はそれなりに回っている。とすると、市場経済の機能を理解するうえで必要なのは、新古典派的な最適化問題を解くことではなく、その前提となっている完全情報の状態が満たされているわけではないのに、それが満たされているかのように経済が動いているのは何故かを探ることだ。
価格メカニズムは単に「希少な資源の効率的な分配」ではなく、知識の経済性、すなわち市場の参加者が正しい行動をとるために必要な知識が計画経済よりもはるかにすくなくてすむのである。例えば何らかの要因で銅の需要が増え・価格が上がったとする。銅の利用者は銅価格の上昇の原因を知ることなく、市場価格を通じて、自発的に他の貴金属に切り替えるといった行動に移り、あるいは銅の増産という行動につながる。社会主義では必要であった膨大な作業が、市場経済を通じて、知識のコーディネーションの効率性をもたらし、効率的な資源配分へとつながっていくのである。
こうした観点から考えた場合、新古典派と「競争原理」についての見方も変わってくる。「完全競争」が成立するためには、
1)買い手や売り手が価格に影響を及ぼさない
2)市場への参入が自由である
3)全ての市場参加者が完全な知識を備えている
ことが必要となるが、3)は現実的にはどれだけ入手できる知識が多く利用されているか、ということであり、競争にとって本質的に必要なのは2)の条件だ。
ハイエクは「計画主義」として、社会主義や全体主義にみられるような「社会を特定の目的のために計画的に動かす」という思想を批判したが、その源流は、プラトンの「国家論」やデカルト以来の「目的合理的」に計画しようとする思想・合理主義的な考え方にあると考えた。その意味では、政府が市場に介入しようとするケインズも、「完全競争」状態の実現を掲げる「新古典派経済学」もまた批判の対象であった。ハイエクはこうした計画主義的な発想ではなく、自律分散的に生み出される自生的な秩序が大事と考えたのだ。
ハイエクが合理主義に反対する背景にあるのは、「計画主義」が危険であるという確信と、その基礎となっている人間の「無知」から出発して社会を考える「懐疑主義」だ。「自由」に価値があるのも、新古典派経済学のように効率的な資源配分が実現するからではなく、無知な人々が最大限の選択肢を持ち、いろいろな可能性を試すことができるからだ。人々が神でない以上、合理的な社会的意思決定を行うことは不可能であり、だからこそ試行錯誤する「自由」が必要なのだ。我々は将来何が起こるかについてほとんど知らないし、個々人の行動の相互作用として「意図せざる結果」が生じることも多い。我々はネガティブリストによって制約し、最大限の自由を実現する必要がある。
日本の法律は自由や権利の内容を積極的・具体的に規定する傾向が強い。そのため著作物の自由に利用できるのも「私的利用のための複製」「図書館等における複製」「引用」など規定された範囲に限られ、検索エンジンなどが海外のサーバに置かねばならないといった事態が生じている。英米のように「フェアユース」の概念の下、ある程度、抽象的かつネガティブリストのような形で規定しなければ、当初、予想されなかった事態には対応できなくなる。
1970年代のスタグフレーションの進行はケインズ政策の限界を示すものとなった。フリードマンは、物価が安定する水準での「(0ではない)自然失業率」があるとし、失業を自然失業率以下の「完全雇用」にしようと財政政策を実施するとインフレが起こり、最初は実質賃金が下がるので失業率が減るが、しばらくするとインフレを織り込んで賃上げが行われ、元の失業率に戻ってしまう、唱えた。1980年代以降、フリードマンの主張に近い通貨供給を安定させる「金融政策」を行うことでインフレが終息し、景気も回復することとなった。
ギリシア人たちは自然と秩序について、人為的な秩序(タクシス)と自然発生的な秩序(コスモス)とに2分して考えたが、人為的な秩序を「合理主義」の所産とするならば、ハイエクが重視したのは自然発生的な「自生的秩序」であった。
ワルラス以来の新古典派経済学は、人々のバラバラの経済行動が最大の福祉をもたらすかという問いに対して、ニュートン力学をもとに、市場での取引を均衡状態への過程だと考えた。これに対しハイエクは、進化をもとにした生物学モデルを構想した。生態系と同様に、経済システムでも、環境に適応したものが生き残ることによって非効率な個体が淘汰されると考えた。しかし経済においては、ルールが必要だ。しかしそのルールとは何かを規制することではなく、人々の行動の自由を最大化するものでなければならない。
自生的秩序のためのルールとは何も明文化された法律だけではない。英米法の伝統では、判例や慣習の積み重ねの上に成文法があると考えられており、法体制の不備を過去の判例や慣習(常識)で補われる。またアメリカなどでは州ごとに法が異なる場合があり、そうした矛盾を裁判所が調整している。これに対して大陸法では、唯一の立法機関として議会が法を制定され、行政機構によって細目まで決定される。そのため慣習や判例は無視され、裁判官の恣意的な解釈の余地がないようにできている。
日本は「超大陸法型」である。追いつき型近代化の局面では大陸法型のシステムはうまく機能する。しかし経済が成熟すると行政機構という集権的な調整機構のオーバーヘッドが負担となり、さらり大きな負のショックが発生すると、コンセンサスによる調整では対応できないため制御不能になってしまう。
1990年代前半、アメリカは国家主導の情報ハイウェイ構想を立ち上げたが、結果的に普及したのは自律分散型のインターネットであった。インターネットのルールは法律のように議会で決められるものではなく、「ラフな合意とコード」であって、RFCによる未完成なルールであって常に修正されて発展していく。ハイエクは実定法的なシステムよりも、慣習法のようなノモスによる法秩序が望ましいと考えたが、インターネットの「いい加減な」ルールとはまさにこのノモス的な秩序である。
ハイエクはノモスを構成する価値の中心に「財産権」を据えた。個人が他人に干渉されることのないための境界に「財産権」の法的な保障が必要と考えた。ハイエクは功利主義を否定しているため、「パレート効率性」などの効用最大化基準を否定している。そして正しい算出がありえない以上、「正しい所得分配」もありえないとしている。そのため日本で起こっているような「社会格差」是正の問題や「社会的正義」の要求も、「部族社会的な感情」だとして否定している。
「公平」を好む感情とは「狩猟生活」を送っていた頃の環境に適したものだろう。誰かが獲った獲物をグループ内で分配する必要があったのであり、また利他的な行動が求められるのは集団を維持するために必要であった。人類史的な視点で考えると、利己的な行動を「合理的行動」として肯定し、独占欲に「財産権」という名をつけて中核に置く資本主義の基礎は意外にもろいのかもしれない。
ハイエクは財産権を重視したが、特許や著作権については「他人が新しい表現を行う自由を侵害する権利」であり、知識の利用や発展をを妨げることによって、社会全体の利益も損なう可能性があると考えた。
そもそも「財産権」は「使用・処分(コントロール権)」「処分(キャッシュフロー権)」と複数の権利の束である。工業製品のような有機物であれば2つの権利をバンドルすることは自然であるが、情報(特にデジタル情報)の場合、1人が使っても他人の使用を妨げない「非競合性」があり、他人の情報を使うことはその自由を妨げない。デジタル情報は複製コストが限りなく0に近いので、価格も0として広く利用することが望ましい。長期にわたって複製を禁止する現在の著作権は社会的便益が、そのコストより高いとは考えられない。
ハイエクが法秩序の原則として掲げたのは、「任意のメンバーがそれぞれの目的を達成するチャンスをできるだけ高めること」である。その結果、所得が最大化することは望ましいがそれは副産物である。ハイエクは自由を基準にして制度を評価し、自由を阻害する法を廃止すべきだとする。
ミーゼスは市場で重要なのは資源配分の効率性といった結果ではなく、人々が不確実な世界であると考えた。競争の本質は分散した情報の中で利潤を追求する企業家精神であり、企業家精神のコアとなるのは技術革新ではなくどこに利潤機会があるかを察知する感度である。こうした感度の競争が機能している限り、独占は問題とならない。独占があるところには超過利潤があり、参入機会があるからである。問題は新規参入を阻止する人為的なボトルネックだ。
IT産業や創造的なビジネスにおいては、マーケティング・リサーチでいくら分析しても答えは出ない。昨日まで見た白鳥が白かったとしても、「ブラック・スワン」が一匹いれば「全ての白鳥は白い」という法則は崩れるのだ。だからイノベーションを高める上で政府ができることは何もない。「情報大航海プロジェクト」などは時代錯誤である。政府の役割はボトルネックをなくして参入を自由にすることだ。特に世界で最も厳しい日本の著作権保護は、イノベーションを阻害している。日本の著作権法では検索エンジンも違法となる。
また日本では地上波デジタル放送に240MHzも割り当てられているが、本来60MHzあればよい。グーグルがFCC(米連邦通信委員会)に要求したように空いている周波数(ホワイトスペース)を活用すれば、新しい産業が生まれるだろう。
政府のもう1つの重要な役割は、未だに銀行の比重が大きいファイナンスを多様化し、新しい企業がリスクをとりやすくすることだ。担保をとって慎重に審査する銀行型のファイナンスではイノベーションは生まれない。また日本企業の買収など対内直接投資はGDPの3%以下とOECD諸国で最低である。資本開国を行う必要がある。
労働市場の規制撤廃も必要だろう。「格差解消」と称して、派遣労働者を正社員として登用するように規制を強めているが、こうした制度は労働需要を減退させる。必要なのは社員の雇用条件を非正規労働者と同様にして人的資源の流動化を進めることだ。
宗教やナショナリズムを認めなかったハイエクはある意味では(彼の批判した)合理主義者であった。現在の経済学ではハイエク以上の合理主義批判を行っているし、飢餓線上で生きる10億以上の人々にとっては「自由」は存在しないし求めてもいない。
ハイエクの自律分散の思想を体現したインターネットは電話会社の人工的秩序を破壊し、グローバルな自生的秩序となった。サイバースペースは「自由放任」で秩序が生成するユートピアではない。サイバースペースには主権国家が存在しない以上、その秩序は実定法ではなく、コンピュータのコードによる自生的秩序しかない。サイバースペースの秩序もこれから100年くらいかけて徐々にできていくのかもしれない。
---
基本的にはハイエクの自由主義、自由主義経済を肯定的に捉え、またインターネットの世界やイノベーションが必要となる成熟社会においてはハイエクの自律分散・自生的秩序のような思想が必要であることを説いたものなのだが、どこまでがハイエクの思想であり、どこからが池田さんの見解なのかがもう1つわかりにくかったりする。
普段ならそこを問題にする必要もないのだけれど、池田さんの主張はそれなりにクセがあるし、反対意見に対する切り捨て方がもう1つフェアじゃない(例えば、これだけ指摘されているのに、所得格差が開いていないというのであれば、それなりのデータを示すべきだろう)。ハイエクの思想がそうなのか、部分的に流用しているだけで池田さんの思想なのかが見えないのだ。
またちょうどこのタイミングでアメリカ金融危機が発生している。また日本では(池田さんは否定しているが)格差社会や若年層の雇用問題が顕在化してきている。これはこれまでの自由主義経済・資本主義経済の結果であると考えると、ゆり戻し・政府による介入や規制強化につながるだろう。
インターネットの世界についてはどうだろう。大航海プロジェクトがうまくいくとはさすがに思えないが、一時ほど競争の機会の自由が確保されているとも思えない。検索の世界では既に寡占化が進み、googleにしろ、マイクロソフトにしろ、Yahoo!にしろ資本力を武器に周辺領域の企業を買収を続けているが、これで「機会の公平性」は担保されたといえるのか。こうした状況の中でもハイエクが望んだような世界をどう実現できるのかはかなり不透明だ。
いずれにしろ日本においては、まずは規則権益を守ろうとする、しかも変化する時代に対しての適応のできない既存のプレイヤーを守るための規制を撤廃することからはじめるしかないのだろう。
ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書 543)
そういった面もあって、特に後半、「第9章」や「おわりに」は池田節が鮮やかに出ていたのではないだろうか。
ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書 543)
ハイエクが生まれたのは1899年 帝国が崩壊する世紀末のウィーンだった。大戦後のオーストリアは巨額の賠償金とインフレーションとで経済は崩壊。シュペングラーの「西洋の没落」が大ヒットとなり、ドイツではワイマール体制の下、ヒットラーが登場することになる。そうした影響もあり、ハイエクの思想観には、人間を合理的な存在とは捉えておらず「無知」を全ての前提に置く懐疑主義が根底にある。
ハイエクは経済学史的には「オーストリア学派」に分類される。創始者メンガーは価値が生産費(労働時間)できまるとする古典派経済学を批判し、それが消費者の「必要」で決まるとし、「限界効用の理論」として一般化され「新古典派経済学」へとつながっていく。「オーストリア学派」は「シカゴ学派」に吸収されたというのが一般的だ。市場の機能を高く評価し、政府の裁量的な介入を拒む点では、シカゴ学派(マネタリスト)と共通であり、ケインズ派が消滅した現在では経済学の主流を成すものだ。しかしハイエクは「均衡理論」を拒否しており、ミルトン・フリードマンや「合理的期待」学派には批判的であった。
1929年の大恐慌は経済学にとっては試練であった。イギリスでは労働党が第一党となり、ロシアでは革命が成功し、ドイツでも社会民主党が政権をとった。各国で人民戦線が結成され、社会主義の影響力が強くなった。そんな中で「自由放任の終焉」を宣言したケインズが注目を浴びることとなる。
ケインズは市場には政府の介入が必要とする「一般理論」を主張、これに対して、市場は自立的なシステムと考えるハイエクと論争となるが、ハイエクは「大恐慌」に対する処方箋を書くことができなかったこともあり、論争はケインズの勝利となった。
この時代、社会主義計算論争が起こる。ミンガーが市場経済では貨幣を媒介に複雑な計算をしなくても、価格を通じて消費者の評価が伝わることで、企業は適切な価格設定が可能になる。そのためには私的財産制が前提となるとの主張に対し、ポーランドの経済学者オスカー・ランゲが「分権的社会主義」を提唱。中央当局と各企業部門との間で需要と供給を調整することで適切な価格設定が可能となることを主張した。オペレーションズ・リサーチという方法論が示すとおり、これは理論的には正しかったが、目的関数をどのように設置するのかという問題と実現するための膨大なプログラミングが発生することから挫折した。
またパポー「ユートピア社会工学」は全体を個より上において歴史の必然に身をゆだねる「歴史主義」だとして社会主義・全体主義を批判した。パポーは当時、主流だった「論理実証主義」を批判し、論理の正当性を実験的な検証によって裏付けることはできないと「反証可能性」を提唱した。
ハイエクはパポーに影響を受けつつも、ポラニーの「暗黙知」や「個人的知識」に傾いていく。これは「客観的知識」は人間の知的活動の氷山の一角であり、実際の科学は科学者の習慣や知識など言葉にならない個人的知識に支えられているというものであり、本源的な知識は身体的な知識であり、「言語」によって分節化したものが客観的知識であるとした。
社会主義との論争の中でハイエクは市場についての考え方を深めていった。例えば「均衡」という概念。個人や企業などが主観的に「均衡」を見出すことはできるが、社会全体で「均衡」を考えることができるのか。
「均衡」が意味を持つのは、1)メンバー全体の目的が一定であり、2)メンバーの知識が同一で変化しないことが求められる。しかしこれは現実的ではない。こうした理想的な状態が実現するかは、社会の中でどう知識が分布し流通するかという「知識の分業」に依存することになる。個人が持つ知識には限界がある。知識の断片が市場での相互作用によってどう伝わり、コーディネートされるのかが経済的なパフォーマンスを決めるのだ。
市場が効率的な資源配分を実現するという「新古典派経済学」は、全ての人々が将来にわたって完全な情報を持っているということが前提となる。不完全な状態では代替可能な商品との比較ができず、最適化が達成されない。しかし市場経済はそれなりに回っている。とすると、市場経済の機能を理解するうえで必要なのは、新古典派的な最適化問題を解くことではなく、その前提となっている完全情報の状態が満たされているわけではないのに、それが満たされているかのように経済が動いているのは何故かを探ることだ。
価格メカニズムは単に「希少な資源の効率的な分配」ではなく、知識の経済性、すなわち市場の参加者が正しい行動をとるために必要な知識が計画経済よりもはるかにすくなくてすむのである。例えば何らかの要因で銅の需要が増え・価格が上がったとする。銅の利用者は銅価格の上昇の原因を知ることなく、市場価格を通じて、自発的に他の貴金属に切り替えるといった行動に移り、あるいは銅の増産という行動につながる。社会主義では必要であった膨大な作業が、市場経済を通じて、知識のコーディネーションの効率性をもたらし、効率的な資源配分へとつながっていくのである。
こうした観点から考えた場合、新古典派と「競争原理」についての見方も変わってくる。「完全競争」が成立するためには、
1)買い手や売り手が価格に影響を及ぼさない
2)市場への参入が自由である
3)全ての市場参加者が完全な知識を備えている
ことが必要となるが、3)は現実的にはどれだけ入手できる知識が多く利用されているか、ということであり、競争にとって本質的に必要なのは2)の条件だ。
ハイエクは「計画主義」として、社会主義や全体主義にみられるような「社会を特定の目的のために計画的に動かす」という思想を批判したが、その源流は、プラトンの「国家論」やデカルト以来の「目的合理的」に計画しようとする思想・合理主義的な考え方にあると考えた。その意味では、政府が市場に介入しようとするケインズも、「完全競争」状態の実現を掲げる「新古典派経済学」もまた批判の対象であった。ハイエクはこうした計画主義的な発想ではなく、自律分散的に生み出される自生的な秩序が大事と考えたのだ。
ハイエクが合理主義に反対する背景にあるのは、「計画主義」が危険であるという確信と、その基礎となっている人間の「無知」から出発して社会を考える「懐疑主義」だ。「自由」に価値があるのも、新古典派経済学のように効率的な資源配分が実現するからではなく、無知な人々が最大限の選択肢を持ち、いろいろな可能性を試すことができるからだ。人々が神でない以上、合理的な社会的意思決定を行うことは不可能であり、だからこそ試行錯誤する「自由」が必要なのだ。我々は将来何が起こるかについてほとんど知らないし、個々人の行動の相互作用として「意図せざる結果」が生じることも多い。我々はネガティブリストによって制約し、最大限の自由を実現する必要がある。
日本の法律は自由や権利の内容を積極的・具体的に規定する傾向が強い。そのため著作物の自由に利用できるのも「私的利用のための複製」「図書館等における複製」「引用」など規定された範囲に限られ、検索エンジンなどが海外のサーバに置かねばならないといった事態が生じている。英米のように「フェアユース」の概念の下、ある程度、抽象的かつネガティブリストのような形で規定しなければ、当初、予想されなかった事態には対応できなくなる。
1970年代のスタグフレーションの進行はケインズ政策の限界を示すものとなった。フリードマンは、物価が安定する水準での「(0ではない)自然失業率」があるとし、失業を自然失業率以下の「完全雇用」にしようと財政政策を実施するとインフレが起こり、最初は実質賃金が下がるので失業率が減るが、しばらくするとインフレを織り込んで賃上げが行われ、元の失業率に戻ってしまう、唱えた。1980年代以降、フリードマンの主張に近い通貨供給を安定させる「金融政策」を行うことでインフレが終息し、景気も回復することとなった。
ギリシア人たちは自然と秩序について、人為的な秩序(タクシス)と自然発生的な秩序(コスモス)とに2分して考えたが、人為的な秩序を「合理主義」の所産とするならば、ハイエクが重視したのは自然発生的な「自生的秩序」であった。
ワルラス以来の新古典派経済学は、人々のバラバラの経済行動が最大の福祉をもたらすかという問いに対して、ニュートン力学をもとに、市場での取引を均衡状態への過程だと考えた。これに対しハイエクは、進化をもとにした生物学モデルを構想した。生態系と同様に、経済システムでも、環境に適応したものが生き残ることによって非効率な個体が淘汰されると考えた。しかし経済においては、ルールが必要だ。しかしそのルールとは何かを規制することではなく、人々の行動の自由を最大化するものでなければならない。
自生的秩序のためのルールとは何も明文化された法律だけではない。英米法の伝統では、判例や慣習の積み重ねの上に成文法があると考えられており、法体制の不備を過去の判例や慣習(常識)で補われる。またアメリカなどでは州ごとに法が異なる場合があり、そうした矛盾を裁判所が調整している。これに対して大陸法では、唯一の立法機関として議会が法を制定され、行政機構によって細目まで決定される。そのため慣習や判例は無視され、裁判官の恣意的な解釈の余地がないようにできている。
日本は「超大陸法型」である。追いつき型近代化の局面では大陸法型のシステムはうまく機能する。しかし経済が成熟すると行政機構という集権的な調整機構のオーバーヘッドが負担となり、さらり大きな負のショックが発生すると、コンセンサスによる調整では対応できないため制御不能になってしまう。
1990年代前半、アメリカは国家主導の情報ハイウェイ構想を立ち上げたが、結果的に普及したのは自律分散型のインターネットであった。インターネットのルールは法律のように議会で決められるものではなく、「ラフな合意とコード」であって、RFCによる未完成なルールであって常に修正されて発展していく。ハイエクは実定法的なシステムよりも、慣習法のようなノモスによる法秩序が望ましいと考えたが、インターネットの「いい加減な」ルールとはまさにこのノモス的な秩序である。
ハイエクはノモスを構成する価値の中心に「財産権」を据えた。個人が他人に干渉されることのないための境界に「財産権」の法的な保障が必要と考えた。ハイエクは功利主義を否定しているため、「パレート効率性」などの効用最大化基準を否定している。そして正しい算出がありえない以上、「正しい所得分配」もありえないとしている。そのため日本で起こっているような「社会格差」是正の問題や「社会的正義」の要求も、「部族社会的な感情」だとして否定している。
「公平」を好む感情とは「狩猟生活」を送っていた頃の環境に適したものだろう。誰かが獲った獲物をグループ内で分配する必要があったのであり、また利他的な行動が求められるのは集団を維持するために必要であった。人類史的な視点で考えると、利己的な行動を「合理的行動」として肯定し、独占欲に「財産権」という名をつけて中核に置く資本主義の基礎は意外にもろいのかもしれない。
ハイエクは財産権を重視したが、特許や著作権については「他人が新しい表現を行う自由を侵害する権利」であり、知識の利用や発展をを妨げることによって、社会全体の利益も損なう可能性があると考えた。
そもそも「財産権」は「使用・処分(コントロール権)」「処分(キャッシュフロー権)」と複数の権利の束である。工業製品のような有機物であれば2つの権利をバンドルすることは自然であるが、情報(特にデジタル情報)の場合、1人が使っても他人の使用を妨げない「非競合性」があり、他人の情報を使うことはその自由を妨げない。デジタル情報は複製コストが限りなく0に近いので、価格も0として広く利用することが望ましい。長期にわたって複製を禁止する現在の著作権は社会的便益が、そのコストより高いとは考えられない。
ハイエクが法秩序の原則として掲げたのは、「任意のメンバーがそれぞれの目的を達成するチャンスをできるだけ高めること」である。その結果、所得が最大化することは望ましいがそれは副産物である。ハイエクは自由を基準にして制度を評価し、自由を阻害する法を廃止すべきだとする。
ミーゼスは市場で重要なのは資源配分の効率性といった結果ではなく、人々が不確実な世界であると考えた。競争の本質は分散した情報の中で利潤を追求する企業家精神であり、企業家精神のコアとなるのは技術革新ではなくどこに利潤機会があるかを察知する感度である。こうした感度の競争が機能している限り、独占は問題とならない。独占があるところには超過利潤があり、参入機会があるからである。問題は新規参入を阻止する人為的なボトルネックだ。
IT産業や創造的なビジネスにおいては、マーケティング・リサーチでいくら分析しても答えは出ない。昨日まで見た白鳥が白かったとしても、「ブラック・スワン」が一匹いれば「全ての白鳥は白い」という法則は崩れるのだ。だからイノベーションを高める上で政府ができることは何もない。「情報大航海プロジェクト」などは時代錯誤である。政府の役割はボトルネックをなくして参入を自由にすることだ。特に世界で最も厳しい日本の著作権保護は、イノベーションを阻害している。日本の著作権法では検索エンジンも違法となる。
また日本では地上波デジタル放送に240MHzも割り当てられているが、本来60MHzあればよい。グーグルがFCC(米連邦通信委員会)に要求したように空いている周波数(ホワイトスペース)を活用すれば、新しい産業が生まれるだろう。
政府のもう1つの重要な役割は、未だに銀行の比重が大きいファイナンスを多様化し、新しい企業がリスクをとりやすくすることだ。担保をとって慎重に審査する銀行型のファイナンスではイノベーションは生まれない。また日本企業の買収など対内直接投資はGDPの3%以下とOECD諸国で最低である。資本開国を行う必要がある。
労働市場の規制撤廃も必要だろう。「格差解消」と称して、派遣労働者を正社員として登用するように規制を強めているが、こうした制度は労働需要を減退させる。必要なのは社員の雇用条件を非正規労働者と同様にして人的資源の流動化を進めることだ。
宗教やナショナリズムを認めなかったハイエクはある意味では(彼の批判した)合理主義者であった。現在の経済学ではハイエク以上の合理主義批判を行っているし、飢餓線上で生きる10億以上の人々にとっては「自由」は存在しないし求めてもいない。
ハイエクの自律分散の思想を体現したインターネットは電話会社の人工的秩序を破壊し、グローバルな自生的秩序となった。サイバースペースは「自由放任」で秩序が生成するユートピアではない。サイバースペースには主権国家が存在しない以上、その秩序は実定法ではなく、コンピュータのコードによる自生的秩序しかない。サイバースペースの秩序もこれから100年くらいかけて徐々にできていくのかもしれない。
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基本的にはハイエクの自由主義、自由主義経済を肯定的に捉え、またインターネットの世界やイノベーションが必要となる成熟社会においてはハイエクの自律分散・自生的秩序のような思想が必要であることを説いたものなのだが、どこまでがハイエクの思想であり、どこからが池田さんの見解なのかがもう1つわかりにくかったりする。
普段ならそこを問題にする必要もないのだけれど、池田さんの主張はそれなりにクセがあるし、反対意見に対する切り捨て方がもう1つフェアじゃない(例えば、これだけ指摘されているのに、所得格差が開いていないというのであれば、それなりのデータを示すべきだろう)。ハイエクの思想がそうなのか、部分的に流用しているだけで池田さんの思想なのかが見えないのだ。
またちょうどこのタイミングでアメリカ金融危機が発生している。また日本では(池田さんは否定しているが)格差社会や若年層の雇用問題が顕在化してきている。これはこれまでの自由主義経済・資本主義経済の結果であると考えると、ゆり戻し・政府による介入や規制強化につながるだろう。
インターネットの世界についてはどうだろう。大航海プロジェクトがうまくいくとはさすがに思えないが、一時ほど競争の機会の自由が確保されているとも思えない。検索の世界では既に寡占化が進み、googleにしろ、マイクロソフトにしろ、Yahoo!にしろ資本力を武器に周辺領域の企業を買収を続けているが、これで「機会の公平性」は担保されたといえるのか。こうした状況の中でもハイエクが望んだような世界をどう実現できるのかはかなり不透明だ。
いずれにしろ日本においては、まずは規則権益を守ろうとする、しかも変化する時代に対しての適応のできない既存のプレイヤーを守るための規制を撤廃することからはじめるしかないのだろう。
ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書 543)
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