ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「質問力」ということ

2005年09月24日 | 思考法・発想法
先日、「伝わる!説明術」の感想を書いていたところ、おそらくその著者の梅津さんのと思われるBLOGに僕の感想を踏まえた上での「オフェンス面として質問力というのは重要ですね」というコメントをいただいてたので、ちょっとその「質問力」というものについて整理してみた。まぁ、もともとこの際書いた「質問力」ということの意味は「プレジデント」だったかの記事に載っていた、部下に気付かせるために「質問」の仕方というものを受けてのものだった。その記事は流石にHPを見ても載っていなかったのだけれど、それを踏まえての解説記事が載っていたので、参考までに記しておく。この記事でも載っていることだが、他者(この場合、部下が対象となっているが)に対して指示をするやり方によって他者の対応が全くちがうということ。つまりクローズド・クエスチョンの場合はYES/NOの回答しかえられないけど、オープン・クエスチョンの場合は他者の参加意識ややる気を引き起こすことができるというものを踏まえてのことだった。

 「伝わる!」説明術 / 梅津信幸 : 社内で伝えることの難しさ
 考難:感想の感想いろいろ
 「指示待ち部下」の意識を変える質問の仕方

そもそもオープン・クエスチョン/クローズド・クエスチョンという考え方は特に意識したことはなかったのだが、これまでの経験から、少なくとも職場での役職の違いのように明らかな差異がない限り、ある課題に対して他者と検討したレベルが違う場合、いくら自分の検討したレベルの方が深くても、他者の共感を得ない限り自らの考えた案は感情的反発を得てしまいうまく受け入れられないという結果から来た僕なりの結論だった。

あの感想なの中に書いた「質問力」というもの、それは例えば自分の意見とは異なる他者に対して、その意見を再検討させるための方法として、あからさまに「その意見は間違っている」という否定をするのではなく、質問を通してその当事者に対して再度検討させ、(本人が自発的に発見し)気付かせる方法としての「質問」というものもあるのだろうということを前提としている。

それを踏まえた上で、僕が考える「質問力」というものについて整理したいと思う。

まず「質問」という行為は、おおよそ四つの段階に分けられるのではないかと思う。

1)発言者の意見を自分自身整理するために行う「質問」
2)発言者の意見を発言者及び他者に対して整理を行うために行う「質問」
3)発言者の意見に対して、検討されていない点や否定的な側面を「質問」という形式で指摘することで、本人の自発的な覚醒を期待するもの
4)発言者の意見に対して、直接的に検討されていない点や否定的な側面を「質問」することで、その意見のもつ正当性の有無を他者に対して示すもの

これらはもちろん結果的には「言い方」の違いであったり、「タイミング」の違いであったりすることが殆どであるわけだが、これを「質問」する側からするとその意図は全く違う。

例えば1段階の場合には、発言者の意見に対して「是」も「非」もなく、その是非の判断のために行っている質問といってもいい。所謂一般的に「質問」がもっているイメージとしてはこのような、わからないことを聞いている、といったイメージであろう。

これが2段階になると、発言者の答弁では十分に伝わっていないことを理解した上で、その意図を発言者及び聞き手である他者に対して「整理」するための質問となる。つまりこの質問を受けることで、発言者はあぁ、そういう点は「整理」されていなかったと気付くかもしれないし、あるいは発言者自身は整理できていたかもしれないが、他者に対しては伝わっていなかったかもしれないと気付くような「質問」なのだ。この時点で質問者は発言者の意見を(賛否はともかく)理解できていないといけない。

3段階で重要となるのは、発言者の意見が未熟であることを質問者が理解していること、そしてそのことを直接的に指摘するのではなく、あくまで気付かせることにあるという点だ。そんなまどろっこしいことしなくてもと思う人もいるかもしれないが、ディスカッションの多くが感情論であることを考えると、このように発言者自身がその意見の未熟さ、検討の不足面、否定的側面に気付き、自身でその欠点を補完させることは重要な意味がある。人は自分の意見を否定された場合やあるいは他者にリードされた意見を強要された場合、冷静な判断というよりは感情的な反発によって「否定」側につくことが多いのだから。

この「感情的な反発」という部分に注目するならば、意見に対する賛否や自身の意見の有無ではない場合が多くを占める。「プレジデント」の意見を参考にするのなら、「オープン・クエスチョン」の立場といっていいだろう。

但しこれはあくまで発言者に気付かせるというものだ。それに対して、4段階の「質問」というのはどちらかというと真っ向勝負の形となる。つまり直接的に、発言者の意見に対してその未熟さを指摘する形となる。それは直接他者に対してもアピールしうるものであるし、「発言者」に対しても再検討を要請するものだ。これらの質問は当然その後も含め、感情的な反発を生むものであるし、その回答は、質問だけではなくその行為全てに対しての是非を問うこととなる。

4段階の「質問」を否定する気はさらさらないのだけれど、例えば「職場」といった環境を前提とした場合、そのリスクは大きいと言える。その質問の結果、間違った意見は否定され、組織としての判断は正しいものを選択したかもしれないが、その結果、組織内の人間関係はボロボロになる。あるいは適切な意見に対して、感情面から否定を行い、その結果、組織としては不適切な意見を選択する、といったことがありうるからだ。

そう考えると2段階、3段階のように、直接的な攻撃を行うのではなく、発言者や周囲の人間などにより適切な方向となるために「気付かせる」というのは、結果的に日本にあった適切な方法だと思う。そうした「質問力」は重要なのだと思う。

とはいえ、これらはもちろん、こうした質問に対して「発言者」や他者が聞く耳を持っているということが前提だ。こうした他者の意見に対して、聞く耳を持たなければこんな質問を行っても意味がない。いずれも「コミュニケーション」ができるということが前提なのだ。しかし現実の社会はそうとは限らない。自分の意見しか見えないもの、自分の意見が他者の意見より正しい思い込んでいる者など様々だ。そうした場合は、このような「質問」など意味がないものとなる。

 人の話を聞けない男

またここで描いた「質問力」というものは、その「質問」の適切性について触れたものではない。実際、会議などを見ていると「枝葉末節」にこだわった質問というのも多い。それが大事な場合もあるにはあるが、多くの場合、質問者の自己満足あるいはその回答の意味を過大に見積もりすぎている場合の方が多い。そうした質問はここでいう3段階、4段階の質問だから大事だというわけではない。「適切性」というものはまた別な次元なのだ。

以前、レビューを書いた大前研一氏の「質問する力」で示されているのは、この「適切」な質問を行う能力を磨くことが必要だということであって、「質問」の仕方論ではない。ここで示した4段階と言うのは、質問の「適切性」とは別の「仕方」論であるということは述べておかねばならない。

僕が考える「質問力」とは、質問の適切さだけではなく、その方法論を通じて実際の議論の場をどのように進め、実現していくかの方法論であるといってもいい。

 質問する力 / 大前研一




コメントを投稿