「人は孤独な生き物だ」などと文学青年を気取るつもりもないけれど、とにかく人と人がきちんとコミュニケーションを図ることは難しい。例えば「コミュニケーション能力」というものを、(1)伝える能力と(2)聴く能力とに分けて考えてみるならば、そのいずれかが会話を行う両者に不足していても相互理解は難しい。しかもそれを更に複雑にしているのが「感情」だ。同じことをAさんが言うと「あぁ、そうだね」、Bさんが言うと「それはちょっと…」という反応は多くの人が経験しているはず。
で、今回は(2)の「聴く能力」の不足について。
そもそも人の話を聴くというのはどういうことなのだろう。単なる音声というだけなら、耳が悪くない限り届いているはずだ。「聴く」とはつまり相手の言っていることを理解するということに他ならない。となると、それは、言葉尻を追いかけるということではなく、相手の立場や考え方、その前提となる物事の背景、関係性といったものを類推し、自分の経験や知識、想像力と照らし合わせた、その全体を綜合することに他ならない。だからこそ人の発言には文脈が大事なのだ。
しかしこれはかなり難しい。
自分が興味のないこと、利害関係に関わっていないことであれば意外とスムーズに理解することにできるのに、仕事に関するもの、自分が当事者になるような場合、相手の話を聴くより先に、自分の中での意見や判断、考え方や自分の考える前提条件といったバイアスがかかってしまい、相手の話の中に、相手ではなく自分を見てしまう。言葉としては相手の話を聴きながら、実は全く相手の話を理解していないのだ。これを養老毅は「バカの壁」と呼んだ。
頭の回転が速いこのタイプや、相手よりも物事を理解していると考える自信家でこのタイプはたちが悪い。
相手の話を聞き、「あぁ、それはこういうことだね」と相手の話を自分の考え方の枠に押し込めようとする。「そうじゃないだろう」と全く違う理解を前提に持論を展開する。客観的な分析と自分の意見の区別がつかずに実は自分の意見を主張しているだけだったりする。彼らは理解できていないということを理解できないのだ。
もちろん先に述べたように、自分の知識や経験、想像力と照らし合わせた時に、全く自分の中に存在しない概念や考え方というのは、どうしても自分の枠に当てはめようとしがちだ。しかしそんなときこそ、「自分はこう理解したつもりだがもしかしたら違うのかもしれない」という内面の声に耳を傾ける必要があるのだろう。
あるいは相手の話の中に、自分の考えていないこと・気づいてない見方が含まれているのかもしれないと謙虚になってみるといい。そうすれば自ずと自分の考え方というものがある種の制約下にあり、だからこそ相手の話を理解しようという態度となるのだろう。
しかし彼らにはそれができないのだ。
ここに人間関係のもつれや好き嫌い、感情的なものが持ち込まれると話はさらにややこしい。そもそも人の話を聞きながらでも、反応するポイントが違うように、人は自分の興味のある部分を選好して理解しようとする傾向がある。それに加えて、「話題」、「内容」ではなく、「人」の好き嫌いといった感情が入り込むと、話を聞く前から結論や方向性が決められていたりする。とにかくAの言うことには反対する、否定的な見方をするといった類がこの例だ。
こうなったらもう、話を聞く、理解するなんてことはありえない。壁ははるかに高く、壁の中で独りよがりの王様になるしかない。
「カリスマ」と呼ばれる経営者のように、他者が理解できない直観力やセンスがあれば、こうした傾向も活きてくるが、往々にして「勘違い」野郎が多いのもまた事実だ。
そうなりたくなければ、やはり人の話を「聴く」能力を養っていくしかない。コミュニケーションとは自然にできるものとは限らないのだ。と、書いてみたものの、「聴く」能力のない人はこれを読んでも、既にフィルターがかかっていて自分のこととしては響かないのだろう。バカの壁はそれほどまでに高いのだ。
っーか、お前、人の話を聞けよ!
そう思って腹立たしい思いをした時、思わずこう呟いてしまう。
「あぁ、人は孤独な生き物だ」
で、今回は(2)の「聴く能力」の不足について。
そもそも人の話を聴くというのはどういうことなのだろう。単なる音声というだけなら、耳が悪くない限り届いているはずだ。「聴く」とはつまり相手の言っていることを理解するということに他ならない。となると、それは、言葉尻を追いかけるということではなく、相手の立場や考え方、その前提となる物事の背景、関係性といったものを類推し、自分の経験や知識、想像力と照らし合わせた、その全体を綜合することに他ならない。だからこそ人の発言には文脈が大事なのだ。
しかしこれはかなり難しい。
自分が興味のないこと、利害関係に関わっていないことであれば意外とスムーズに理解することにできるのに、仕事に関するもの、自分が当事者になるような場合、相手の話を聴くより先に、自分の中での意見や判断、考え方や自分の考える前提条件といったバイアスがかかってしまい、相手の話の中に、相手ではなく自分を見てしまう。言葉としては相手の話を聴きながら、実は全く相手の話を理解していないのだ。これを養老毅は「バカの壁」と呼んだ。
頭の回転が速いこのタイプや、相手よりも物事を理解していると考える自信家でこのタイプはたちが悪い。
相手の話を聞き、「あぁ、それはこういうことだね」と相手の話を自分の考え方の枠に押し込めようとする。「そうじゃないだろう」と全く違う理解を前提に持論を展開する。客観的な分析と自分の意見の区別がつかずに実は自分の意見を主張しているだけだったりする。彼らは理解できていないということを理解できないのだ。
もちろん先に述べたように、自分の知識や経験、想像力と照らし合わせた時に、全く自分の中に存在しない概念や考え方というのは、どうしても自分の枠に当てはめようとしがちだ。しかしそんなときこそ、「自分はこう理解したつもりだがもしかしたら違うのかもしれない」という内面の声に耳を傾ける必要があるのだろう。
あるいは相手の話の中に、自分の考えていないこと・気づいてない見方が含まれているのかもしれないと謙虚になってみるといい。そうすれば自ずと自分の考え方というものがある種の制約下にあり、だからこそ相手の話を理解しようという態度となるのだろう。
しかし彼らにはそれができないのだ。
ここに人間関係のもつれや好き嫌い、感情的なものが持ち込まれると話はさらにややこしい。そもそも人の話を聞きながらでも、反応するポイントが違うように、人は自分の興味のある部分を選好して理解しようとする傾向がある。それに加えて、「話題」、「内容」ではなく、「人」の好き嫌いといった感情が入り込むと、話を聞く前から結論や方向性が決められていたりする。とにかくAの言うことには反対する、否定的な見方をするといった類がこの例だ。
こうなったらもう、話を聞く、理解するなんてことはありえない。壁ははるかに高く、壁の中で独りよがりの王様になるしかない。
「カリスマ」と呼ばれる経営者のように、他者が理解できない直観力やセンスがあれば、こうした傾向も活きてくるが、往々にして「勘違い」野郎が多いのもまた事実だ。
そうなりたくなければ、やはり人の話を「聴く」能力を養っていくしかない。コミュニケーションとは自然にできるものとは限らないのだ。と、書いてみたものの、「聴く」能力のない人はこれを読んでも、既にフィルターがかかっていて自分のこととしては響かないのだろう。バカの壁はそれほどまでに高いのだ。
っーか、お前、人の話を聞けよ!
そう思って腹立たしい思いをした時、思わずこう呟いてしまう。
「あぁ、人は孤独な生き物だ」
なんともいえませんが、beerさんと彼はともに価値を生み出せるひとたちだと思うのです。思うのです。
例えば、「この年度末商戦に対策」というテーマの時に「来年度全体の方針」の話をすると議論が進まない。これは間違ってる間違ってないではなく、今のテーマに合わないということ。つまり土俵が違う。
議論というものがプロセスである以上、「議論」をする時には「このテーマ」「この条件の上で」の話が必要であり、「決まったこと」は賛成反対・好き嫌いに関わらず、所与の前提として話を進めていかないと議論は錯綜する。この条件についての認識をまずあわせないといけないのに、違っていることに気付かない人間が多すぎる。
あるいは「現状分析」を行っている時に、つまり各要素について洗っている時にいきなり全体を包括した「結論」だけを主張する。これでは「分析」にならない。
これは「結論」が間違ってる間違っていないではなく、あるいは結果として、主張した「結論」になるとしても、そのプロセス、各々の要素が見えていないと、次の対策が打てなくなる。「現状分析」のどの要素が間違っていたのか、組み合わせのどこがおかしかったのか、ではどう変更したらうまくいくのか。事業というものが「結論」のない「プロセス」の繰り返しである以上、直感と曖昧な合意による成功というのは長続きも発展もしない。
ビジネスは民主主義ではないのだから、センスのいい独裁者がより多くの利益を得ることもあるのは当然。そういう独裁者がいない場合に、「三人集まれば文殊の知恵」ではないけれど、適切な判断をするために会議というのはおそらくするもの。
そうしたことを日本人というのは基本的に理解してないんだろうなー
というか、俺が「伝える能力」が低いという説もありますが(かなり)。
たまに拝読させていただいて、私もbeerさんの言葉に「耳を傾け」てみようとしているのですが、私は何しろ人の話をゆっくりじっくり聞いて反芻に反芻を重ねて考え込むタイプで、更に後でふとした瞬間に「あぁあの時あの人が言っていたあのことはこういうことなのかしら」という感覚に急に襲われたりして、すぐにレスポンスが返せる種類の人間ではないので、せっかく拝読させていただきながらノーレスという現状ですみません・・・。
私はまさしく「コミュニケーション下手」と種類にカテゴライズされるのではないかと思います(汗)
ひとつは自分がすごく考え込む性格だということが原因だと思うのですが、(人の話を聞いて自己の中で噛み砕き、更に発展させていって、やっと自分なりの解釈ができた時には話はもう移り変わってたり、とかよくあります。)他にも自分がいくつかの言語を話す人間だということも影響していると思います。私は自分の内面をより正確に外に表現しようとして、その時々で適切と思われる異なった言語を選ぶことが多く、突然話す言語が変わったり、あるいはひとつの言語で話し続けていて突然スタックすることがあります。そこで直面するのは、自分が自己の内面をより正確に表現することに重きを置くべきか、もしくは相手に分かりやすく表現するということに重きを置くべきか、そしてどこでどう妥協して話し続けたらいいか、という葛藤です。これは「聴く」ではなく「話す」方の問題なんですが、「聴く」ということもこの自分の抱える問題が障害になっている場合が多々ありますね。
うーん。
コラムを読んでやっぱり思ったのですが、所詮フィルター越しでなく相手を理解することなど不可能なのだから、(フィルターはその人のアイデンティティーですしね。)人間は「理解されない孤独」から逃れて生きることはできないということですよね。そのフィルターに対する捉え方を変えるか、もしくはbeerさんが言うように聴く能力を養うように「努力する」という方向に持っていくしか解決策はないと私も思います。
長々とすみません。まとまりませんでした・・・