ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

乙武問題から常識について考えてみた

2013年05月27日 | Weblog
乙武洋匡さんとイタリアンレストランとの問題は、当人同士が何となくの幕引きをはかったこともあり、何となく騒動が納まった感がある。というわけで、いまさらこの問題を蒸し返すつもりはないのだけれど、この問題を生み出しているものは何だろう。

そもそもこの問題では、乙武さんが考えていた「常識」とこのお店、あるいはそれに代表されるような社会の「現実」や「常識」との間に隔たりがあり、両者に掛け違いが生じたというところが大きい。

この問題に対して、乙武さんを支持する人たちからはお店の対応、つまり乙武さんの想定している「常識」(障害者が社会参加できるレベル)を満たしていない社会に対して非難しているわけで、逆に乙武さんを非難している人たちからすると、乙武さんの「常識」が既に過剰な要求を社会に対して求めている、あるいはTwitterで「店」の名前を公表するという手段が「やり過ぎ」だ(「常識」を逸脱している)、と。

ではそれを決めている「常識」とは何か?誰が決めているのか。

同じ事象に対して、異なる見解が出るように、そこに「絶対」はない。絶対的に正しい基準があれば、それに従えばいいが、そうではなく、例えば時代によって違ったり、メンバーによって違ったりする。まぁ、一種の多数決でしかない。

先日、近所の「ブラジル料理店」の店先を見たところ、「煙草OK!」のシールが貼ってあった。

最近では、喫茶店やレストランでも「分煙」が当たり前、場合によっては「当店は禁煙です」なんてこともある。一昔前であれば、煙草が吸えることが当たり前、禁煙席があったとしても、分煙装置が入っているわけでもなく、ただ回りに煙草を吸う席がないだけで、煙が流れてくるのは当たり前という具合。それがあえて「煙草OK」を表示しないといけないとは…

これも1つの「常識」が変わった例だろう。煙草を吸わない人が多くなり、また妊婦などにも優しい社会となった結果、「分煙」が進み、ついには店内では「煙草」が吸えないのが当たり前となる。しかしだからこそ、その反動として「煙草OK!」という店がでる。常識が伝播するに従って、圧倒的に「煙草NG」の店が多くなり、そこから漏れたニーズ(喫煙者)に応えようとする

こうした「煙草OK」の店は「非常識」な店なのだろうか。経済原則からそれば、これもまた正解だろう。

あるいは「女性専用車両」という存在。その存在を、多くの男性は否定するものではないだろうが、一部にはその車両を否定する男性もいる。

肯定的な意見としては、「痴漢対策」といったものから「男性のにおい」を回避する事ができる、「ゆっくり化粧できる」など女性のわがままとも思えるものまで様々。反対に否定的な意見としては、「女性専用車両が空いているのに通常車両が混雑している」といったものから「男性差別だ」というものまで。結局のところ、女性専用車両の導入による「痴漢被害の減少」という効用と、「不便さ」のどちらが社会的メリットが大きいかというところの判断になるのだろう。

否定側の意見もそれはそれで正しいのだけれど、とはいえ、多くの男性がその存在を認めている。つまり「女性専用車両」という存在は、女性だけでなく男性の多くにも支持されているのだ。つまり「常識」となった。

「常識」というのは、結局のところ、絶対的な「正しさ」ではない。多数の人がそれが妥当だと考えていることに過ぎない。自ら「常識」だと信じていることが、多くの人々――立場や年齢、生活スタイルの異なる人々に支持されるかどうかも定かではないのだ。


乙武氏の入店拒否とシビルミニマム - ビールを飲みながら考えてみた…

1 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-05-28 10:45:20
「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションである」
これはアインシュタインの言葉。つまり常識は成年する頃までに経た環境や教育が形成する思想の偏り具合に過ぎないということなんだね。
だから常識が通用するというのは、似た思想の偏りを持つ者同士の“共感”でしかない。あの小説が面白いとかつまらないとか、あのアイドルが可愛いとか可愛くないとかと同レベルってこった。
共感を持てないからといって、それを否定するのは大きな誤りだ。

でも常識を計る上で、最低限の目安や基準はある。
日本という国の中で、日本社会にある、日本人の寄り添うべき常識が明文化されたもの、それは法律だ。
もちろん法律だって、国民の代表たちによる多数決でしかないから絶対じゃないが、一応は今を生きる人々の偏見をひとところに落ち着かせる基礎として重要な存在だ。
常識の正しさに迷ったら、一度法律から出発するのも手だと俺は思う。

例えばここで挙げられたもので考えれば、煙草を取り巻く環境は時代で大きく変化したが、それは法律で見れば「健康増進法」によるところが大きい。この法律の目指す趣旨やコンセプトが、日本国と日本人の新たな常識となるべくして生まれて、今日の結果があるわけだ。

だが女性専用車両という存在にあっては、これを定義した法律や、旅客営業規則、運送約款などは全くない。多勢の認識から「常識」となるも、法や規定や契約条項として定められないのはなぜだろう。
こういう「常識」は、まずその道理や道徳を疑ってかかるべきだ。印象や思い込みによる誤解を、そのまんま何となく「常識」としてる可能性が高いのだから。
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