ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

教育と暴力

2013年04月29日 | Weblog
何となく、人を殴るということについて考えていたので、ちょっと書いてみる。

日本女子柔道や大阪・桜ノ宮高校の体罰問題のこともあって、何となく、人を指導するのに「暴力」を一切否定する風潮が強くなったような気がする。桑田真澄がPL時代の経験をもとに暴力を全否定したり、様々なコメンテーターが同様に暴力を否定するような話をしたり。でも、こうした話をきいていても、実はどうもピンとこない。

先に自分の主張を整理しておこう。僕は人を指導するのに「暴力」を「全」否定するわけではない。それは肯定を意味するわけではない。全てを否定することに否定的なのだ。

指導に暴力が伴ったとき、それが「暴力」なのか「愛情」の結果なのかなのかは子供にとっても十分に感じ取っているだろう。仮にそれは愛情から始まっていたとしても、それがやがて習慣化すれば、それを気づくだろう。つまり、僕は暴力を肯定する気はないが、「愛情」の表現手段あるいは愛情に由来した結果としての暴力は肯定してもいいと考えている。

もちろんその両者を線引することは、当事者、否、それを受ける者以外にはそれは不可能だ。殴った数や殴り方で区別できるわけでもないし、セクハラと同様、受けた側の感じ方の問題だといわれれば否定はできない。ただだから全否定するということに疑問を感じるのだ。

たとえば「殴る」ということ。これはもちろん暴力だ。人を殴ったことがない人にとっては、人を殴るというのは(暴力を受ける側とは異なるに意味で)ある種の「恐怖」をともなうものだ。当然、殴る側にとっても「痛み」をともなうものだろうし、理性的な人間にとっては暴力を振るうというのは自分の中に築き上げている「枠組み」を壊すことでもある。それは一種の「自己否定」でもある。

しかしこうした暴力も、その結果、相手に言うことをきかせられたなどの結果が伴うと、あるいは「支配欲」が満たされると、それは「習慣化」する。そこには先のような痛みも恐怖もない。

そして相手が思ったとおりにならなければ、さらに暴力がエスカレートする。どんどん過剰にする。そうなればそこには相手を思いやる心などあるはずがない。刹那的にみずからの支配欲を満たすことが先決だ。

しかしこうした暴力の暴走をさけるために、暴力をふるったからといって全てを否定することには同意できない。

では、暴力がなければ正しく指導できるのか。言語による理性的な話であれば、指導はうまくいくのか。

そうは簡単なものではないだろう。言葉による指導というのは、要は頭で考えられるものであって、感情や感覚で理解したということではない。言語化された指導というのは、確かに物事を整理し、理解するのには役立つかもしれないが、全てのことにおいて、言語化され論証されることでその「正しさ」や「妥当性」が語られるわけではない。

人が人を殺してはいけない理由を言語によって語りつくせるであろうか?もっともらしいことを並べても、屁理屈でいくらでも反証可能だろう。結局は、「ダメなものはダメ」としか説明できず、ただ他者を殺すことの残酷さや不合理さを感性や感情に訴えかけるほうが誰もが納得できるだろう。

頭では理解できなくても、実際にやってみることで合点がいくということもある。

言葉を費やせばうまくいくというものでもない。

それにしてもこのちょっとでも肯定しているような言葉に対して、頭から否定するような風潮は何なのだろう。もう少し言えば、そのために口を告ぐまざろうえないような空気は何なんだ。この無言の強制力こそ「暴力」ではないのか。

あらゆるものごとにおいて、「ことなかれ主義」や「同調性」を強制するこの社会にこそ恐怖を感じるのだが…


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