ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

役者の側からみた芝居を創るためのアプローチ

2013年04月22日 | 演劇
半年振りの公演を終えたということで、改めて役者の側からみた芝居を作るということを考えてみる。

芝居というものには、多くの場合、セリフというものが存在する。いくら演劇が劇空間を使った総合芸術だ、肉体によって表現されるものだと言ったところで、多くの芝居はセリフによって成り立っている。極端に言えば、朗読劇でもいいんじゃない?ってくらいセリフの流れで全てを表現するような芝居もある。

とはいえ「役者」が存在する以上、そこには音声だけでは表現しきれない何かがあることも確か。
それが「感情」や「関係性」やその場の「空気感」というものに繋がるのだろう。

芝居の中の役柄は登場するシーンにしか存在しないわけではない。それぞれの役にも人生があり、日常がある。芝居の中のシーンとは、それぞれの役柄が交流している断片を切り抜いたものだといえる。

とすると、役者はその役柄の人生を引き受けた上で登場するシーンを演じねばならない。とはいえ、脚本に書いてない人生など、想像はしてみてもそれを全て埋め合わせられるわけではない。親子にしろ兄弟にしろ、夫婦にしろ、何年もあるいは何十年も触れあっている中には一言では言い表せない感情があり、その上で、一緒にいるときの「空気感」「雰囲気」というものが生まれてくるのだろうから。

その役を演じるために役者は一体何を目指すべきなのか。

役柄を確固たる「主体」として想定し、その役の完成を目指せばいいのかというと、そうとは限らない。それぞれの役者がその役柄「個人」を磨き上げたとして、確立された「個」と「個」のやりとりが、その両者の「関係性」や「空気感」が表現されるわけではない。それらを醸成するのは「時間」や「空間」を通じて共有される感覚なのだ。アル・パチーノとデニーロが兄弟を演じたからといって、個々の演技が凄くても仲のいい兄弟には見えないだろう。

とはいえ、関係性だ空気感だというものばかりに追いかけていては、役者のパワーや個性的な役者は生まれてこない。

唐組やあるいはつかこうへい事務所が注目されていた時代は役者の「個」が重要視されていた時代だった。強力な個性が皆を魅了し、その個と個のぶつかり合いが「関係性」を表現していた。役者個人のパワーが芝居を牽引していた。

野田や鴻上の時代を経て、平田オリザに代表される静か系の芝居・現代口語演劇の時代になると、役者の「個」の力よりも「空気感」が注目されることになる。そのシーンの持つ空気感や関係性のゆらぎ、微妙な感情の変化などを表現することが求められることになる。「個人」から「空間の共有」へ、役者の求められる能力も変化する。

もちろん両者では作品のタイプも全く違うし、どちらか一方の能力だけが求められるわけでもない。結局はバランスであったり、作品との相性であったり、演出の意図であったり、役者間の相互作用がどのように働くかということでもある。

ただし両者では稽古の仕方も異なってくる。「個」を磨き上げるためには、極論すれば役者個人で完結できる。自分の中でその役柄を咀嚼し、自分の中に落とし込み、経験や想像力から役柄を作り上げていく。まず「個」が作られ、それに「個」と「個」の関係性がつくり上げられていく。それに対し「空気感」を作り上げようとすると、それは時間をかけて、役者同士の「共有した感覚」を作り上げていくしかない。時間もかかるし、何よりもメンバー全員で一緒に稽古をする必要がある。

プロの役者であれば「個」の力で勝負していかねばならないが、劇団として勝負をするなら、特にアマチュア劇団や市民劇団であれば、「個」では勝負できなくても「全員」で引けをとらないものを作り上げられるのかもしれない。プロであろうが、アマチュアであろうが、「時間」は等しく存在し、後はそれをどう活かすかなのだから。

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