Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

DON GIOVANNI (Mon, Oct 17, 2011)

2011-10-17 | メトロポリタン・オペラ
以前お知らせカテゴリーの記事に書きました通り、グランデージによる新演出の『ドン・ジョヴァンニ』、
当初タイトルロールに予定されていたクヴィエーチェンは初日直前のドレス・リハーサルでヘルニアの症状が大爆発、という痛恨の事態となりました。
(メトの日本公演の時からずっと痛みを抱えていたようですが、『ドン・ジョ』の準備などに忙しく、きちんと治療を受けずに来てしまっていたようです。)

結局初日を含めたトータル3公演に、たまたま同じ時期に『セヴィリヤの理髪師』でフィガロを歌うためにNYにいた
ペーター・マッテイが急遽リリーフに入ってくれることになって、初日もなんとか無事に済んだ、という状態でした。
(しかし、ドレス・リハーサルでクヴィエーチェンの後を引継いだアンダースタディのドウェイン・クロフトによるドンも
悪くなかった、という話があり、それも聴いてみたかったぞ、、と、欲はつきないヘッズ魂、、。)
現役でドン・ジョヴァンニを歌える歌手の中ではマッテイが最高なのではないか?という意見が少なからずヘッズの間にあり、
私も激しく同意するゆえ、もともとはHDの日にオペラハウスで見るだけの予定だったこの演目ですが、
HDにはクヴィエーチェンが復帰するらしい、というニュースを聞き、速攻今日の公演のチケットをゲットした次第です。
マッテイのドン・ジョは見とかないと。



さて、私は初日(10/13)の公演をシリウスで聴きましたが、こと歌に限って言うと、マッテイは初日のたった数日前に交代が決定したとは思えないほど余裕のある歌いぶりで、
一度もオケとのリハーサルなしで歌っているせいで、多少のミスコーディネーションとか歌いにくそうにしている部分はあるものの、
(そして後に理由を書きますが、私はそれはマッティのせいだとは全く思っていないのです。)
全体的には、まずは大変良い内容の歌だったと思っています。
ところが、です。こう、何というのか、、シリウスを通してあまり観客の熱狂が伝わって来ない。歌の内容の割りに観客が妙に醒めているのです。
これはいかに?一体何が舞台で起こっているのか?演出の問題なのか?あまりに急な交代劇過ぎて、マッテイがほとんど演技をしていないのか?
一体何なのー!?誰か教えて~~~~!!!!と思っていたら、あらま、タイミングよくマフィアな指揮者から電話がかかって来たではありませんか。
”マッテイのドン、良かったでしょ?”
”うーん、、、彼はすごく良い歌手だし歌も悪くないんだけど、何なんだろう、、彼の歌や芝居が演出と上手くかみ合ってないのかな、、。”
結局翌日以降に出て来た批評家筋の評も、ヘッズの感想も、彼の意見に似た物がとても多くて、
どんなことになっているのか、これはしっかり見ておかねば、という気持ちと、
初日を経て二度目の公演になる今日はその辺の問題が改善されているといいな、という思いで今日はメトにやって来ました。
というか、その気持ちがあまりに昂じて、普段ほとんど座ることのない平土間4列目正面という至近距離からマッティをガン見する気満々のMadokakipです。



しかし、マッテイをガン見するに至る前にもう早速問題発生です。
ルイージの指揮するオケから出て来た序曲は最初からつい昨日のメト・オケ演奏会と全く同じ種類のモコモコ感満載。嫌な予感的中です。
すごく不思議なのは、R.シュトラウスの作品なんかではメト・オケからあれほどクラリティ高く、各セクションのバランスと掛け合いに気を配った音を引っ張り出せるルイージが、
なぜかモーツァルトの作品になると、このように音楽に毛布をかぶせたような演奏になってしまう点で、
ということは能力の問題ではなくて、解釈とかテイストの問題なのかもしれない、、と思うのですが、なぜこのような音を志向するのか、私にはよくわからないです。

こうなったらまとめて先にオケのことを書いてしまいますが、
こういうベースの部分で問題(少なくとも私にとっては問題に思える)があるまま、
例えばシャンパンの歌("Fin ch'han dal vino")を猛烈に煽って躁的に演奏しても、
おそらくルイージが目指しているであろう効果が得られていないのが問題だと思います。
今ここに音楽の友社によるスタンダード・オペラ鑑賞ブックがありますが、このアリアについて、
”これは常軌を逸した興奮と、一種破壊的なパワーを持った”アリアであり、”ただ元気な歌というだけじゃな”く、
”異様な興奮”を描かなければならない、とあって、それは確かにそうなんですが、
ただ闇雲に早く演奏すればその興奮が得られるわけでは全くなくて、それを可能にするベースの音作り(オケ)と
歌手がそれを実現させられるスペース、そこにはそれが出来るテンポも含まれると思いますが、それを確保しなければなりません。
マッテイは優れた歌手ですし、ルイージが設定したテンポに技術的にはついていっていますが、
彼がこのアリアで”異様な興奮”を表現する目的のためには少し速過ぎると私は思いました。
歌手が何かを表現する時には、そこにそれを可能にするためのスペースがなければいけなくて、テンポの設定というのもその一つだと思うのですが、
それが十分になかったのが今日のこのアリアの演奏と歌唱での問題点だと思います。
結果、曲が終わった後、観客も一緒になってドン・ジョヴァンニの血が滾るような興奮を共有する代わりに、
何か置いてけぼりを食らったような不思議な感覚が残り、とまどいがちな観客の拍手にそれが現れていたと思います。
こういう歌手の呼吸、彼らがどういうテンポやベースなら何が出来る/出来ないかを読む能力に非常に長けているのがレヴァインです。
だから、レヴァインの演奏はすごく奥深かったり哲学的だったりすることはないかもしれませんが、
こういう観客に置いてけぼりの感覚を持たせることは非常に稀であることが特徴の一つと言えると思います。
インターミッションで席を外す途中、近くに座っていたおじ様が憮然とした表情で
奥様に”テンポが速過ぎるよ。これじゃ音楽を楽しめない。”と不満を漏らしてらっしゃいましたが、彼も私同様置いてけぼりを食らった組なのでしょう。



シャンパンの歌は一つの例に過ぎず、他にも何かその部分だけが浮き上がってしまっているような違和感がある箇所は全体を通していくつかありました。
楽器のソロが一つ音をミスしても全体として感動的な演奏になることはありますが、
こういう根本が狂っていると、それを歌だけで覆すのは非常に難しく、マッテイが演出に慣れていない云々の前に、
指揮とオケの演奏自体に、公演を本当の意味でエキサイティングなものにするのを難しくする、その障害となるものが内包されていたように私には思えます。

今日のオケの演奏で、やっとすべてがぴたっとはまった感じがしたのは地獄落ちの場面
(こちらでは地獄という表現を避けたいからか、騎士長の場面 Commendatore Sceneと呼ぶのが普通。)です。
ここはこの世のすべてのオペラ作品の中でも最高の名場面の一つですので、音楽そのものの力ももちろんありますが、決してそれだけではなく、
オケのドライブ感がすさまじくて、ひしひしとドン・ジョヴァンニに迫り来る地獄のフォースのようなものが観客席まで押し寄せて来ました。
きゃあ、恐いわ~、うかうかしたら、私まで地獄に連れて行かれてしまう~、と思う一方で、
でも、このままこの音の渦にさらわれるのも良いかも、、、と思わせる部分があるのがこわい。
そういえば、クヴィエーチェンがシリウスの放送のインタビューだったか、ドン・ジョヴァンニという人物を分析して、
”例えば多くの女性と関係を持つといったようなことに現れているのは、彼が世の中の全てに退屈しきった人間であるということ。
最後に彼がすすんで地獄に落ちるのは、そんな中で死への好奇心が彼を退屈から救い出すものだったからではないかと思う。”
というような趣旨のことを語っていて、なるほど、、と思ったのですが、
その解釈には今日のこの場面のオケの演奏はぴったりだったと思います。
(残念ながらHDの日の演奏にはこの日のようなドライブ感は感じませんでした。)



女性陣の中で私が唯一心地良く聴けたのはドンナ・エルヴィーラ役を歌ったフリットリです。
近年の彼女は時にトップが痩せがちになる傾向にあって、今日も例外ではなかったと思いますが、
彼女の歌唱にはスタイルがあって品が良く、アンサンブルでも自分を主張しすぎることなく、決して全体のバランスを見失わないのがいいな、と思います。
彼女はすごくコメディエンヌとしての才能もある人で、エルヴィーラの役の表現にさりげなく挿入されるコミカルさの分量も実に適切です。
ただ、正確に時間や言葉の数を計ったわけではないですが、同役はドン・ジョヴァンニと同等、もしかするとそれ以上にレポレッロと絡む場面が多く、
後に書きますがこの演出がレポレッロ役に与えている際立った性格づけのせいで、今回のエルヴィーラはなんとなく抑圧された可愛そうな女性に寄っています。
新演出では最後にドンとの過去を置いて、それぞれの登場人物がそれぞれの人生を歩み出す、ということを表現するために、
観客に背を向けて、何もない舞台の奥に向かってみんなが走り去って行くところで幕、となるのですが、
エルヴィーラ役のフリットリだけがなんとも甘酸っぱい、寂しい空気を漂わせていて、他のキャストとの演技力の差を感じるところです。

私はフリットリの個性、キャパシティから言っても、一つ前のマルタ・ケラーの演出で見た時のような、
ドン・ジョヴァンニやレポレッロと堂々タイマンを張って、でもちょっとどこか抜けているところのある、おきゃんなエルヴィーラ像の方が好きですが、
これはオーディエンスの好みの問題かもしれません。



ツェルリーナを歌ったモイカ・エルトマンですが、最近のOpera Newsに掲載されていた写真でも、またこちら(↓)の写真でも判るとおり、なかなかの美人で、



これはまたイザベル・レナードと同系列の、”こんな美人な村娘がいてたまるかっての!”なツェルリーナになるんだろうな、、と思っていたのですが、
彼女が舞台に出て来てびっくりです。
すっごく田舎っぽいんですもの、、、。
しかも、彼女ってば真近で見るとほんとに痩せていて、首に青筋立てて歌っている様は、今いくよ・くるよのいくよもびっくりです。
というか、あまりに田舎臭く、貧乏臭いので、なんか見てるうちに腹が立って来ました。
以前にもどこかで書きました通り、私はオペラの作品に出て来る、身分が低いくせにやたら要領の良い女というのが大嫌いで、
まさしくツェルリーナはその代表のような役なんですが、
一つにはむちっと肉付きの良い村娘や女中が、彼女らとは身分からして不釣合いな、そしてしばしば素敵な男性をたらし込む、という
シチュエーションにむかっと来るのかな、と自己分析していました。
というのも、レナード以外は、実際そういう体型の歌手でこの役を聴くことが多かったので、、。
しかし、今日のエルトマンのツェルリーナを見て、痩せた女でも同じ位むかつくことが良くわかりました。
いや、むしろ、その駝鳥のような首とぎすぎすした体型&化粧っ気のないそばかすだらけの顔を見ていると、むちむち系のツェルリーナ以上に嫌悪感を感じます。
”痛んでいるのは心でしょ?”と言いながらおっぱいをさわらせる薬屋の歌("Vedrai, carino")も、豊満な歌手がそれをやると”ふんっ。あざとい女!”で済みますが、
エルトマンみたいな歌手がそれをやると”なんでそんなに色気がないのに無理するわけ?格好悪い女!”となってしまうのです。
そんな女性的な魅力に欠けた体型を補う魅力的な歌声とか歌唱があればまだ良いのですが、エルトマンには今日の歌唱を聴く限り、それがない。
駝鳥の首とシンクロするかのように、その声はぎすぎすとして魅力なく、特に高音での音のぎすぎす度、音の鳴らなさ度は悲しくなるほどです。



ただし、レポートを書くのが遅くなってしまったので、ここで短絡的な誤った印象を皆様に植え付けてはいけませんので少し書いて置きますが、
この後の二度目の『ドン・ジョヴァンニ』、それから『ジークフリート』の小鳥の役での歌唱を聴いた際は、少し違った印象を持ちました。
好調な時の彼女はうにゅーっ!と伸びだすような独特の面白い高音を持っていて、音のプロジェクションもそう悪くはありません。
多分、そういうところを青田買いされたのでしょう。DG(ドイツ・グラモフォン)からアリア集のCDも発売されているみたいですが、一つ言えるのは、
仮にいくら面白い素質を持っているからと言って、今の彼女にアリア集を録音させるのはちょっと早いのでは?ということです。
良い素質を持っているかもしれないということと観客を唸らせるような完成度の高い歌を歌うことは全く別次元の問題で、
実際、今の段階の彼女の舞台での歌唱は、DGがどういうところにポテンシャルを感じているか、ということをかろうじて感じさせる段階に過ぎず、
まだまだこれから磨くべき部分が一杯一杯あると思います。

彼女の場合、先に書いたように声自体はやはり基本的に痩せている人の声で、ともするとふくよかさのないぎすぎすした声になりがちなので、
まずは彼女が持っている範囲での魅力的・個性的な声を安定して出せるようになることと、そこに表現力とか技術を重ねて行くことが必要になってくるだろうと思います。



ドンナ・アンナ役を歌ったマリーナ・レベカですが、これは私の趣味の問題なんでしょうか?非常に攻撃的で不快な声だと感じます。
空気を貫く、という表現がぴったりの、極めて強く鋭い音(特に高音)を持っていて、個性的なのは間違いありません。
もっと声が重たくてサイズもあれば、トゥーランドット姫とかエレクトラとか任せられるかもしれないのに、、、とちょっと残念に思います。
私が『ドン・ジョヴァンニ』での彼女を高く買わない理由はいくつかあって、
1)今の彼女にはこの鋭い音以外にフレキシビリティがあまりなく、どこもかしこも強い音の連続になってしまってしまう。
このせいでドンナ・アンナが始終何かにいらいらし、怒っているかのように聴こえる。
もしかすると、ドン・ジョヴァンニに惹かれつつ、ドン・オッターヴィオとのしがらみから逃れられないイライラか、と推察してみたりもしましたが、
ドンナ・アンナの持っている感情はもうちょっと複雑なものなのではないかなあ、、と思います。
2)アンサンブルの中での自分のポジションにあまり敏感でなく、一人で大声を張り上げていることが多い(ここはフリットリを見習って欲しい、、。)。
モーツァルトのオペラにおいてこれは非常に痛い。
3)演技・歌唱とも一人で完結気味で共演者とのラポートが希薄
といったあたりでしょうか。
ただ”今こそ判ったでしょう Or sai chi l'onore"、そして”もう言わないで Non mi dir”、共に非常に難しい曲で、
音が段々ぶら下がってくるケース、音がまわらずもたもたするケースなど色々見て来ましたが、
レベカはどの公演でも安定したピッチを誇っていて、テッシトゥーラの面では良く合っているし、技術も安定しています。
まとめると、個性があって技術もしっかりしているけれど、若干舞台で絡みにくい人、という印象です。



女性陣より男性陣の方が私は見所・聴き所が多いと思いました。
まず男性陣の中で最も魅力的に役を演じていたのはレポレッロ役のルカ・ピサローニです。
もともとレポレッロは役自体が魅力的というか、『魔笛』のパパゲーノと同様、オーディエンスに愛されないように歌う方が難しい、という感じはありますが、
ピサロー二は(もちろん演出家の指示があって、でしょうが)レポレッロを愛すべき人物としてよりは、
むしろ、ちょっと意地悪でシニカルな人物として歌い演じています。
カタログの歌では、エルヴィーラが怒り、悩み、悲しむ様、その反応を喜んで眺めているような、いたぶり好きキャラを発揮してます。
ルカ・ピサロー二といえば、二年前に出待ちで捕獲し損ねたことを思い出しますが、
その理由というのが年季の入った出待ちの常連メンバーでも今一つ彼がどういう顔なのか摑めない、というものでした。
それは今考えてみるになかなかシンボリックであり、というのも、そのことは彼の舞台についても言えると思うからです。
どんな役を歌ってもその歌手のプレゼンスが滲み出して来るタイプの歌手というのがいますが、というか、人気歌手は大体そのタイプが多いのですけれど、
ピサローニはそれとは全く逆で、あまり本人のプレゼンスを感じさせず、役によってカメレオンのように雰囲気の変わる、得体知れない感があるのが特徴だと思います。
そのせいなんでしょうか、今一つブレークしきれない感じがあるのですが、
歌は丁寧で(むしろあまりあまり遊ばないところが堅苦しいと思われてしまうのか、、?)、
メトでも十分プロジェクトする声を持っていますし、もう少し評価されても良い歌手かな、という風に思います。



初日の公演を鑑賞した友人から絶賛されていたドン・オッターヴィオ役のヴァルガス。
このブログを始めた頃は、まだ彼が本当にぴかぴかの声を持っていた頃で、また彼の端正な歌は結構モーツァルトの作品にはまるのか、
『皇帝ティートの慈悲』で聴いた彼の美しい声は今でも記憶に残っています。
正直言うと、その頃に比べると、私には最近のヴァルガスの声はだいぶウェアが激しくなって来た様に聴こえるので、
シリウスで聴いたその初日の公演も、その点の方が気になって”そんなに素晴らしかったかな、、。”という感じだったんですが、
生で聴かないとわからない種類の良さって、やはりあります。
声そのものの輝きが以前より衰えている、という見解はやはり変わりませんが、まあ、彼のテクニックの強固なことよ!!
まるで囁きながら歌っているかと思うような弱音を多用(これがどれほど大変なことか!!)した
”彼女こそ私の宝 Dalla sua pace”の美しさには陶然とさせられました。
まるで蜘蛛の糸のような繊細な音で、聴いているとこちらの体が引きずり込まれそうな感じがします。ヴァルガスは蜘蛛男だった!!
初日の日にもすごい拍手が出ていたこのアリアなので、指揮やオケも気が引き締まるのか、ルイージのタクトが動く前に若干の間があって、
オケの前奏が始まった瞬間、オペラハウスの空気がざーっと一瞬にして変わるのを感じました。
それにしてもこういう歌を聴くと、まるで時間軸がねじれるような感覚に襲われます。プロの歌というのはこういうのを言うのでしょう。
マゼット役のブルームはメトで歌う時にはなぜかこの役が多く、もしかするとマゼ専(=マゼット専門)なのかな?と思い始めているのですが、
さすがに専門にしているだけあって、手堅くこの役をこなしています。
演技は今回の演出の方が彼にはしっくり来る部分があるのか、以前のケラー演出の時よりも活き活きした役作りになっていました。



マッテイのドン・ジョヴァンニですが、歌唱の面では今の彼のこの役での良さを凌駕するのは難しいと思います。
まず彼の声。全然無理をしている感じがしないのに朗々と鳴り渡る、その上に声の美しさが半端ない!!!
彼の歌うセレナード(”おいで窓辺に Deh, vieni alla finestra”)の彼の声の色気と歌唱の美しさにはもううっとりしてしまって、
ふと気がつけば、窓辺にはエルヴィーラの小間使いではなくMadokakipが佇んでいて、オーディエンスがぎょっとすること請け合いです。
(面白いのはかえってこういう小唄のような作品の方が、彼のアーティストとしての資質がどれほど素晴らしいか如実にわかる点でしょうか。)
マッテイは何を歌っても、そこはかとない余裕を感じさせるのですが、
それがこのドン・ジョヴァンニという役柄とシンクロしていて実に心憎い。
これだけでもものすごいアドバンテージなのに、その上に背が高くて舞台姿が美しいですからね、、。
ピサローニがこれまたすらっとして舞台ではすごく背が高く見えるので(実際の身長は捕獲し損ねたので知りませんが。)、
こんな召使と張り合って、なおかつより魅力的に見えなければいけないのですからドン・ジョヴァンニ役を歌う歌手は大変です。
しかし、マッテイにかかればノー問題。ピサローニよりもまだ背が高いよ~ん!とばかりに舞台に聳え立っていて、
この二人がつるんでいると、すごいど迫力。村人が気圧されるのも無理ないってもんです。



ただ気の毒だったのはほとんど演出に関わる部分では準備らしい準備をする時間がないまま舞台に立って、
しかも、クヴィエーチェンの代役としての彼への期待がやたら高かった点で、
確かにマッテイの歌と演技に、この演出でのドン・ジョヴァンニ役を完全に咀嚼できていないまま舞台に立っている居心地の悪さのようなものを感じました。
ケラーの演出がこのグランデージの演出に比べて演じやすかったとは思わないし、むしろあの演出の方が難しい部分があるのではないか?と思う位ですが、
その時の方がずっと魅力的でかつ説得力溢れるドン・ジョヴァンニ像をマッテイは築き上げていたと思います。
多分、今回より事態を厄介にしたのはマッテイ本人よりも、むしろ周りのキャストの演技がクヴィエーチェンのドンを基にしてすでに出来あがって固まってしまっていた点で、
クヴィエーチェンのそれとはタイプの異なるマッテイのドン・ジョヴァンニに、周りが十分に合わせる余裕がなかった、ということもあるかと思います。

また、先にも書いたシャンパンの歌のあの躁的な速さはいかにもクヴィエーチェン仕様で、
ルイージはどうしてもうちょっとマッテイの歌いやすいテンポに設定してあげなかったんだろう?と思います。
クヴィエーチェンの軽い声質とマッテイのどっしりした声質ではモビリティが違うのは当たり前のことで、
こういうところの融通、歌手が一番歌いやすいように瞬時にアジャスト出来る能力という点で、
レヴァインの方がずっと優れたものを持っているな、、と再確認せざるを得ませんでした。
音楽上のアイディアがあってそれを通したい!という気持ちはわかりますが、歌手がそれを達成できない場でやっても意味がないですから。



私はコーツァンをあまり評価してなくて、というのも彼の歌唱でこれはいい!!と思ったことがこれまで一度もないからなんですが、
どうしてか良く分らないのですけれど、彼はエクスポージャーの高い場(マチネのラジオ放送、HDなど)に登用されることが少なくなく、
挙句の果てに今年は日本にまでついて行ってしまいました、、、。なぜ、、、?
私がコーツァンを評価しない理由のひとつは声の魅力のなさです。少なくとも今の彼の声は硬質で青竹のような声で、
一体どこのすかたんが彼を一にも二にも成熟した声の魅力が必要な騎士長(『ドン・ジョヴァンニ』)やら宗教裁判長やら(『ドン・カルロ』)に
キャスティングしているのか?と、メトに問い合わせたくなるほどです。
まだまだ歳の若いコーツァンをドンナ・アンナの親父の歳に近づけようとメトが苦心した結果、
この公演で彼がつけている鬘はまるでやくざのおっさんのような角刈り(しかも白髪!)で、
若干カマキリを思わせる造形ながら実物はなかなか見目麗しい彼も、これは全く似合っていないです。
声も見た目もこんなに無理のある人を起用する意味がわかりません。



私は今日の公演を見て、この演出は非常に手強い演出かもしれないな、、という風に思いました。
正直、マッテイからクヴィエーチェンにタイトル・ロールが交代し(戻っ)たところで、
それほどドラマティックに結果が変わるものなのか、、、そこも懐疑的です。
演出というものは、セットやアイディアより何より、各登場人物の関係性とそれに基づいた各人物のキャラクターとか考え方を浮き彫りにして
オーディエンスに提示するということが一番大事で、どんなオペラも人間に関することなのですから、まず人間、これがしっかりと描かれていなければなりません。
セットや衣装というものはそれに貢献するものでなければならないはずで、逆を言うとそれが出来ているなら、私は超トラディショナルな演出でも、
かっとんだ演出でも構わないと思います。
『アンナ・ボレーナ』の演出はNYでは”退屈だ。”といわれてかなり評判が悪いですが、少なくともこの目的を果たそうという意志は見られるのですが、
このグランデージの演出は、私には何より人間不在に感じられるのが不満です。
唯一何らかのパーソナリティを感じたのは先にも書いた通りレポレッロだけです。
ドンナ・アンナにいたってはレベカの歌唱のせいもあると思いますが、彼女が一体何を考えているのか、さっぱり不明です。

この演出では地獄落ちの場面で本物の火を使うことが話題になっていて、今日の座席だと舞台の炎の熱さが観客の頬に感じられるほどで、
思わず周りの人と、”顔が熱いよね?”と確認し合ってしまいましたが、
しかし、火などの道具は、綿密に人間関係が描かれた上に使用されて初めてその効果が生きて来るものではないかと思うのです。



Peter Mattei replacing Mariusz Kwiecien (Don Giovanni)
Luca Pisaroni (Leporello)
Marina Rebeka (Donna Anna)
Ramón Vargas (Don Ottavio)
Barbara Frittoli (Donna Elvira)
Mojca Erdmann (Zerlina)
Joshua Bloom (Masetto)
Štefan Kocán (The Commendatore)

Conductor: Fabio Luisi
Production: Michael Grandage
Set & Costume design: Christopher Oram
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Ben Wright
ORCH D Odd
OFF

*** モーツァルト ドン・ジョヴァンニ Mozart Don Giovanni ***