Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

UN BALLO IN MASCHERA (Fri, Dec 21, 2007)

2007-12-21 | メトロポリタン・オペラ
レナート役をホロストフスキーが歌う予定で買ったチケットが、
ロシアのとある政治家の陰謀(12/17の『仮面舞踏会』で頂いたコメントをご覧下さい。)により、番狂わせに合いましたが、
考えてみれば、こんな事情で『仮面~』の全公演中たった一度、
ディ・フェリーチェなるバリトンが歌う日も観にいくことになったのは、何かのご縁。
物は見様、考え様。
そんなことを思いながら、一幕の幕が開くのを待ちつつ、ぱらぱらとプレイビルを見ていると、
ディ・フェリーチェのプロフィールが。
今日のこのメトでの舞台が、ほとんど初めての大舞台と言える感じで、
それ以外は、イタリアの中堅どころの劇場を中心に、あとは、スペインのリセウ劇場、東京の新国立劇場、云々。
ん?東京の新国立劇場???蝶々夫人のシャープレス??
今、帰宅して、確認してみると、1999年の新国立劇場での公演に、確かに、
シャープレス役、マルコ・ディ・フェリーチェとなっておりました。

なーんだ、初めて聴くのじゃないのか。がっかり。
しかも、まったく記憶にございません、ってことは、これは。。。
そんななか、幕は上がるのでした。

リチトラの歌唱の印象は、ほとんど17日と同じ。
17日はどうやら、ひどい風邪をひいていたらしいのですが、
今日もあまり変わりはありませんでした。ということは、今日もひどい風邪なのか?
ただ、17日よりは、声がドライに聴こえる箇所は多少減ったかもしれません。

二、三、つけくわえるなら、もし、こういったノーブルな役を今後歌っていくのであれば、
彼は歌いまわしに再考が必要かもしれません。
こぶしの回り方が、どうも、田舎の男っぽい。
こぶしが入っていない、素直に歌っている箇所は、割といいのに。
あの、舟歌を歌い終わって、王であるという正体を明かすシーンで、
漁師の格好のうえに、王のケープをかけられるのですが、
なぜか、漁師という仮の姿から本来の王の姿へ、というよりも、
漁師が王の仮装をこれからするような錯覚を覚えて、一瞬、話の筋を誤りそうになりました。
あと、大きい声でとばすのも、『道化師』のような演目だとよいのですが、
このグスタヴォ三世(リッカルド)のような役の場合は、もう少し、
抑制する箇所があってもいいし、微妙なコントロールが欲しい気がします。



アメーリアを歌ったクライダー、今日は作曲(原型をとどめないほど音を外すこと)率は17日より低かったにもかかわらず、
音程のコントロールに四苦八苦しているような印象を受けました。
特に、17日よりもぶらさがって聴こえる音が多かった。
彼女の強みは、ピアノ~ピアニッシモでの声のコントロール。これに関しては、
今日のように音程がふらつきがちな日でもわりとしっかりしていたので、
本人も、得意技であるという自信があるのでしょう。
ニ幕のアリア、”あの草を摘み取って Ma dall'arido stelo divulsa””よりも、
三幕の”私の願い Morro, ma prima in grazia”の方が常に出来がよく感じるのは、
その得意技を生かしやすいからかもしれません。

オスカルのSala。ここまで言うのは気の毒だけど、彼女こそ、誰かにリプレイスしてほしかった。
ばっさり、一言。彼女は、この役を歌えていないです。
三幕一場の、レナート、アメーリアに掛け合って歌う大事な箇所で、彼女が足をひっぱっている。
復讐の野望に燃えるレナートと、愛する人が暗殺されようとしているばかりか、
その暗殺の首謀者が夫であるというダブルの恐怖におののくアメーリアが歌うところに、
まるで、そんな二人の気持ちなんて知ったことかとばかりに、軽やかにのるオスカルのメロディー。
これは、お汁粉に入れる塩と同じで、
あくまで軽やかに歌われてこそ、レナート&アメーリア夫妻の暗い心の渦が引き立つというもの。
なのに、Sala、軽さにかけるばかりか、高音も音が無理やりで聞き苦しいし、
そればかりか、今日は音も外す始末。
主役の足をひっぱるオスカルなんて、言語道断、許せません。

さて、それでは問題のディ・フェリーチェ。
登場してすぐ、いや、これは思っていたよりもいいんじゃないか?と思い、
心がはやったのですが、話がすすんでいくにつれ、その期待もぺしゃんこになってしまいました。

誤解のないようにいうと、声の質も歌も悪くはないのです。
だから、一瞬、これはよいんじゃないか?と錯覚させられたのですが、、、
なのに、幕がすすむごとに、
ホロストフスキーのレナートとは天と地との差があると思わざるをえなかった。

ホロストフスキーのレナートは、寡黙で、それでいて上司に忠実で、実にかっこよい。
しかも、妻の裏切りが明るみに出るとき、彼は怒りを大げさに表現しないのです。
それが逆に怖い。
ディ・フェリーチェ演じるレナートが、アメーリアを床に押し倒し、
首をしめようとして、観客から笑いがもれた時には、
まるで、ジェリー・スプリンガー・ショー(一般人の痴話喧嘩をスタジオにもちこんで、取っ組み合いの喧嘩までさせるテレビ番組。
出演者のほとんどが、いわゆるホワイト・トラッシュと呼ばれる白人貧困層で、
それを、NYをはじめとする都会の視聴者が見て小ばかにするという、実にいやな番組。
ただし、その痴話喧嘩はやらせがほとんどである。)を見ながら、
リビング・ルームで笑いこけている人たちを想像させられて、ぞっとしました。
笑いこけた人たちもいやですが、
ジェリー・スプリンガー・ショーと同じ構図を作ってしまったディ・フェリーチェに罪あり。
妻の不貞に対して抱いた怒りを表現するのに、暴力ほど幼稚な手段はないのです。

このシーンでのホロストフスキーは、仮に首を絞めていたとしても、
(と、このように思い出せないくらい、暴力の部分はさりげなかったのです。)
その手よりも、むしろ、目元と体中から、怒りの妖気を漂わせていました。

それは歌唱も同じで、ディ・フェリーチェが、オーバーに感情を入れて歌うほど、こちらが冷めていってしまったのに対し、
ホロストフスキーは、ほとんど、冷血漢を思わせる冷ややかさで、あっさりと
”お前こそ心を汚す者 Eri tu che macchiavi quell'anima”を歌うのです。
しかし、その一見、淡白に見える歌の底にこそ、怒りが爆発しているのです。

と、このように、声と歌唱がある程度よくても、そこから役を本当に生きる、ということには、
山ほどの隔たりがあって、このディ・フェリーチェが中堅どころの劇場からなかなか大きな劇場に抜け出せないのも、
残念ながら故あること、と思わざるをえませんでした。

ただ、例えば、暗殺者三人組の合言葉を決めるシーンで、
”死 (Morte!)"と一言レナートが言う場面がありますが、
ここでのディ・フェリーチェは、ありがちに”死だ!”と声高に叫ぶよりも、
”死なんていうのはどうだ?”というニュアンスまで、この短い一言にこめていて、
言葉に対するセンスは決して悪くはないと思うのですが。




今日のブライスは、本調子ではないように感じられ、
いつもの迫力を若干欠いたうえに、あくまで、いつもの素晴らしい歌唱と比較しての話ですが、
一つのフレーズの中で音がぼこぼこして、均質に聴こえない箇所がありました。

公演がいったんちぐはぐになりはじめると、いろいろと奇妙なことがおこるもので、
デ・ホルン侯爵(トム)を演じたGangestadはアメーリア役のクライダーのドレスの裾を踏みつけて、
クライダーが動けなくなったり、
草が生えている荒れ野のシーンでは、岩場にディ・フェリーチェがつまずいたり。
極めつけは、最後の仮面舞踏会のシーンで、バックにつり橋のようにかかるはずの大きな板がうまくささえの柱におさまらず、
かなり長い間、担当の人(衣装を着けてはいる)が舞台上で奮闘していました。
この板の上をダンサーが踊るので、いい加減なことは出来なかったようですが、
オスカルの歌の間中、この板ががたがたしていたのは大変気になりました。
Salaの歌だからどうでもいいか、と思えたものの、上手い人がオスカルを歌っていたら、
かなり、私、キれていたと思います。

そして、今日のノセダ氏は一体どうしたのか?と思えるほどに、
指揮に迷いがありました。
ところどころ、大きくなりがちなオケの音を押さえ込もうとしているように聴こえた箇所もあり、
17日の新聞の批評の一つに、繊細さに欠いたうるさいばっかりの指揮、といったようなものがあって、
もしやそれを気にしているのでは?と思えるほど。
(逆に、非常に生き生きとした指揮、と絶賛している新聞もありました。)

ノセダ氏、新聞なんか、気にせず行きましょう!

ノセダ氏の指揮は、文句あっか!とばかりに、歌手が歌いやすい音量など無視した大暴れなところが魅力。
歌手にはたまったものではないと思いますが、17日の演奏は、ある意味、この作品のエッセンスを引き出した、
非常にダイナミックでスリリングな指揮でした。

それが、今日は中途半端な迷いが加わったせいで、全体としてのまとまりが全くなかった。
17日は、うるさいながらもそのうるささが全体に貢献するうるささであったのに対し、
今日みたいな演奏だと、うるさい箇所がただうるさいだけ、で終わってしまう。
次回は、もう、好きなだけ暴れてください。お願いします。

というわけで、ホロストフスキーという求心力を失った今日の公演は、
どこかぴりっとしないものに終わってしまいました。
その人がいなくなって、その力を思い知らされた好例。

Salvatore Licitra (Gustavo III/Riccardo)
Michele Crider (Amelia)
Marco Di Felice (Captain Anckarstrom/Renato)
Stephanie Blythe (Ulrica Arfvidsson)
Ofelia Sala (Oscar)
Hao Jiang Tian (Count Ribbing/Samuel)
Andrew Gangestad (Count de Horn/Tom)
Conductor: Gianandrea Noseda
Production: Piero Faggioni
Grand Tier C Even
SB

***ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera***