Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

NORMA (Fri, Nov 30, 2007)

2007-11-30 | メトロポリタン・オペラ
久々のメトです。

しかし、今週まる一週間、インフルエンザを同僚にうつしてはならない、と自宅待機を続け、
しばらく小康状態が続いていたにも関わらず、また今日昼ごろに熱があがってきそうな予感があり、
午後いっぱい伏せっていたので、
もしこのままよくならなければチケットはどなたかに譲ることにしよう、
グレギーナのノルマが4日かそこらで突然素晴らしいものに生まれ変わるわけでもあるまいし、と
思っていたらば、なんとオペラ警察に通報あり。
”今日、グレギーナ、キャンセル。代わりのソプラノ不明。”

そ、それならば、、リンカーン・センターに這ってでも、絶対に行かねばならない!!

友人に今日は養生しなさい!と叱られるも、朦朧とした頭で家を出る準備を始める。
いや、準備を終えたころには気分が良くなってきた。
まさに、病は気から、である。

座席につき、定刻が来てするすると上がるシャンデリアと、
あのうねうねの天井(金属でできたお花のような飾り)を深呼吸して眺めると、
突然α波のようなものが出てきたから不思議。
さっきまであんなに苦しかった呼吸も、突然鼻の穴が拡大したかと思うほど楽になった。
ああ、私、本当にオペラとこのオペラハウスを愛している!とあらためて実感。

今日のノルマ役は、病気で降板した(か、他の理由か本当のところは不明。)グレギーナに代わり、
マリーナ・メシェリアコーヴァというロシア出身のソプラノが歌うことになりました。
(プレイビルに挟まれていた交代を告げる紙片には、Mariana マリアーナとなっていましたが、
マネジメント会社のウェブサイトでは、Marina マリーナとなっているので、マリーナで通します。)
冒頭の写真が彼女です。

マネージメント会社が出している経歴を見るに、蝶々さん、ミミなんかも歌っていますが、
どちらというと、エリザベッタ(『ドン・カルロ』)、アメーリア(『シモン・ボッカネグラ』)、
レオノーラ(『トロヴァトーレ』)あたりのヴェルディ・ロールを得意としているようで、その中でノルマ役はやや異色ともいえる。
さて、どうでるか、今日の公演。

序曲。
今日のオケはいい。
あいかわらず少しせかせかしていて、
例えば真ん中の、弦がくるくるくるくる、と鳴るところなんか、
どの音も同じ鳴り方でアクセントがないので、のっぺらぼうに聴こえたりするし、
また後半の、弦とハープが印象的な美しいメロディの箇所、
それこそ霧が晴れて目の前の視界がざーっとあけていくような、
もしくは虹がばーっと空に広がるような、そんな広がりを持って、
もうちょっと叙情的に演奏できないものか、とも思うのですが、
それはむしろ指揮者への注文ともいえるかもしれません。
むしろ、オケそのものは前回観たときよりも、集中力のある演奏を聴かせていました。

今日のオロヴェーゾは、Hao Jiang Tianというバス。
実際のお歳は存じ上げませんが、まるでプライム時期を越えたおじいさんのような
すかすかした声が気になる。
確かにおじいさんともいえる年齢の役なのだけれど、だからといって声までおじいさん、というのはいけない。
それから、この方のディクションの悪さがかなり気になりました。
どの言葉にも、ニャニュニョの響きが混じっていて、
聴いていると、本当に、”むにゃむにゃむにゃ”と言っているようにしか聴こえない箇所もあって、
結構辛い。
この役は出番がさほど多くなく、オペラハウス側が予算を切り詰めたくなる気持ちもわからないではないのですが、
しょっぱなで公演の印象が決まってしまう大切な役。

今日のファリーナは、最近波がある彼の歌唱の中ではよいほうだったと言えるでしょう。
ずりあげも少なかったし、声もよく通っていた。
ただ、私にとって、もう彼の歌唱は好みとして好きでない、というカテゴリーに入ってしまっているかもしれません。
ジョルダーニなんかと同じカテゴリー。
どこが好きでないか、といわれると感覚的なこととしか言えないのですが、
強いていえば、言葉一つ一つの意味への注意をほとんど無視しているとも思える、
きつい言い方でいえば無神経とも言える歌い方にあるかもしれません。
例えば今日の公演の最後のノルマと一緒に歌うシーンでも、
突然一音だけものすごいボリュームで歌っていて、それは指揮者の指示もあったのかもしれないけれど、
今までの歌と調和がとれないほど大きい音を出せ、ということでは決してないはず。
それにあわせようと、ノルマ役のメシェリアコーヴァも大声を張り上げてしまったため、
やたらその一音が強調されたのですが、最後まであまりに唐突な印象が拭いきれず、
なぜあの音があんなに大きな音にされねばいけないのか?と頭を悩まされました。
その、全体像の中で一つの音をどう組み込めばよいのか、という感覚、
音楽性という言葉を使っても構わないのですが、がファリーナには欠如しているように感じられる、
それが私が彼の歌を今ひとつ好きになれない理由だと思います。

『ルチア』でも健闘していた額のせまい男、ヴァルデスがフラヴィオ役でも、
非常に素直な発声で好印象。
こういう小さい役がきちんと決まることは、大事。

さて、今年は随分合唱がよくなったとは思うのですが、
この演目に関しては、一語一語に含まれる子音が出るタイミングが団員の間で完全に合ってないのが気になるときがあります。
男声の響きはいいのですが。。

さて、いよいよノルマの登場。
うーん。。面白い。
この"清き女神”でのメシェリアコーヴァは、ほとんどソプラノと思えないような声なのです。
これで本当に必要な高音が出せるのかな?と思っていたら、ことごとく高い音を低い音に変えて歌ってしまいました。
正しい音を出そうとしてフラットになってしまうと音が外れているのがあからさまですが、
確信犯的に音を変えて歌ってしまっているので、この演目になじみがない人にはさほど不自然に感じられないのが肝、
しかも、出るのに出さないのか、本当に出ないから出してないのか、聴いていて微妙なところなのです。
だけど、これで押し通すにも限界があるのでは?この後、どうなっていくのだろう?と思っていたら、
後半の”ああ、愛しい人、帰って”の最後で、とうとう、本来の音にチャレンジ。

、、、、、、。

ありゃま、やっぱり音がぶらさがってる。。。
そっかー、出ないのかー、この音。
これは、きついですね、彼女、この後。

ただ、悪いところばかりではなくていい点も。
彼女の最大の強みは、静かに歌うところ。
どうやって歌っているのか、そんな静かに歌っている箇所でも、やたら声が通るし、
そこそこ観客をひき付ける響きもある。
なので、最初の出だしのCasta diva~のところなんか、おっ?と思わせるのですが。。
ただ、一旦そのレンジを出て、例えば高音のわりと大きな音で響かせるところになると、
一気に平凡な声になってしまう。

それから、この役を歌うに一番致命的だと思ったのは、やっぱり技巧的な部分。
特に彼女が下降する音階を歌うときに顕著で、最初の音のアクセントが強すぎて、
それ以降の音がないがしろになっているように聴こえる。
というか、本人は歌っているつもりなのかも知れないですが、
ほとんど音をスキップしているように聴こえる箇所も。
いってみれば、トゥルルルルルルと下がっていかなければいけないところが、
トゥーーールーーールルルくらいな。

高音と技巧という、この役に最も必要なキャラクターなしで、どうやって彼女がこの役を歌いきるか、
ある意味では大変興味深い状況になってきました。

今日は、ザジックがかなり調子が良く、声のコントロールも
前回観たときよりも数倍上手く働いていました。

ただし、前回、なぜあまり心が動かなかったか、ということを心において、
この作品をDVDやら、CDやらで鑑賞し続けていたのですが、
私なりに、おそらくこのアダルジーザという役を演じて唯一無理のない解釈は、
彼女がまだまだうらわかき乙女で、世間知らずなままポリオーネに求愛され、
それを受け入れる自分の気持ちを愛であると勘違いした、というケースではないかと思うに至りました。
ノルマのポリオーネに対して抱く、嫉妬と激情をも含む深い愛情と比べると、
アダルジーザのそれは、あまりに少女らしい、
恋に恋する、といった風情なのではないかと思うのです。
多分本人自身も本当にポリオーネのことを愛しているかどうかがわからない、
だから、ポリオーネに一緒にローマへ行こうと言われたときもかなりの逡巡を見せるし
(自分の巫女としての立場を持ち出したりしますが、それは言い訳でしかないと私は思います。)、
ポリオーネがノルマとの間に子供を作っていることを知るや、”ポリオーネのことなんてもう愛してないわ。”と、
極端な反応に出るし、
少女らしい世間知らずさから、ポリオーネのところにいって、
ノルマと仲を戻すよう取り持つことをかって出たりする。
悪気はない、ただ世間を知らなすぎるのです。


例えばオランジュ音楽祭でのカバリエのノルマに対してアダルジーザを歌うVeasayの映像を見ると、
そのアーパーっぽい雰囲気にもかかわらず、いや、こそというべきか、役の本髄をついていて驚かされます。



以前、カバリエの声は優しく聴こえる、と書きましたが、
CDでの印象とは違って、このオランジュでの彼女は力強さもあって理想的なノルマであることも付け加えておきます。
しかし、つくづく、1974年の録音録画技術ってこんなものだっけ?とショックを受けるほどに、映像と音質は最悪です。

まあ、こういうまだ自分が出来てない女性の方が男にとってはかわいくみえる、というのはよくある話。
ノルマみたいな自分がきちんとある女性よりも、男がこういうかわいい女の子を好きになるという、
ある意味、普遍的な真実と悲しさをついているところもこのオペラの魅力でしょう。
そうそう、このオペラ、ある意味、非常に現代的だと思うのです。
このオペラは心理的な緊張感で筋がなりたっていて、プロットの変化で観客をひきつけるタイプのものではないので、
だからこそ、歌手にその心理戦を歌いこなせる人が入らないと、観ていてつまらない公演になってしまうのです。
しかし、考えれば考えるほど、この話の変型バージョンは現代の私たちのまわりでもごろごろしていて、
ある意味題材的にはほとんどヴェリズモを思わせるほどなのです。

さて、話をザジックに戻すと、この私の解釈にしては、彼女のアダルジーザは少し
お行儀が良すぎるというのか、理知的に聴こえすぎる。
思慮深い少女でも、しょうもない男にひっかかるという馬鹿をすることはありますが、
それにしても、その後のノルマとの絡みに少し無理が出てしまう。
純粋に音楽として聴くには何の不満もない、レベルの高い歌唱でしたが。

一幕の二場、アダルジーザとノルマの二重唱、”ああ思い出す、私もそうだった Oh! rimembranza! Io fui cosi”、
最後にトリッキーな高音が現れる全く同じ旋律を、ノルマ、アダルジーザの順で歌う場面では、
メシェリアコーヴァが思いっきり高音をしくじって(音が外れすぎてどれくらい外れていたのかわからないほど)、
観客の”あ~あ!”という声が聞こえそうなくらいでしたが、
ザジックのほうは、きちっと、しかも柔らかい音で決めてきて、
どっちがソプラノなんだか、という感じもなきにしもあらず。
(ソプラノとメゾソプラノの関係は、どちらが高い音が出せるかということではなく、
声のカラーの問題である、と言われることが多く、私もそれに賛成ではありますが、
まあ、通常はソプラノの方が高い音が出るということで。)

ただ、二人の声の相性は大変よくて、
それ以外の箇所は同一人物の声をダブさせているのでは?と思えるほどの箇所もあって、
かなり聴き応えがありました。
また、メシェリアコーヴァが自分の調子が必ずしも万全でないことで早めに機転を利かせて、
ザジックにリードさせるように持っていったところも利口。
やや低声が強調された面白い二重唱が聴けました。
ザジックも、一生懸命メシェリアコーヴァの発声にタイミングをあわせて歌っていたところは、ベテランの貫禄。
最後のカーテンコールで、
二人の間になんともいえない絆を感じさせる雰囲気ができあがっていたのはほほえましかったです。

ニ幕以降にやっと、メシェリアコーヴァに、一幕ではほとんで聴かれなかった柔らかい高音の響きが出てきました。
特に三場。
”裏切り者の巫女、それは私”と告白する、その”Son io”という言葉の響きのそれはそれは美しかったこと。

今日はメシェリアコーヴァのCasta Divaでの技術の拙さをみて、
一幕の後のインターミッションで帰ってしまうお客さんが多かったですが、
私は今日のチケット代の80%はこの”Son io”のために支払った、と思ってもいいくらい。

この後の”あなたはどんな心を裏切り、失ったことか”とポリオーネに切々と歌う
"あなたが裏切ったこの心 Qual cor tradisti”はこのオペラで最も心に訴える場面。
言葉だけ見ると負け惜しみにも見えるノルマの言葉ですが、
この音楽にのると、そうではなくって、ノルマの大きな心、
そこからあふれ出るポリオーネへの憐れみの心が聞こえてきます。
ノルマが人間として次の高みに上ったことがわかる場面。
(特に先述のカバリエの歌を聴くと、涙が出てきます。)



戦いの場 (合唱のguerra guerra)以降のオケがまた素晴らしかった。
この最後の場に関しては、ほとんどオケが主役だったともいえるほど。
この感じを忘れないでいて下さい!

数々の、それもかなり大きな傷にもかかわらず、
興味深く聴いた部分も多々あった今日のノルマ。
やはり、ただものじゃない作品なのでした。

さて、11/12に私のうしろにすわったおじさんがどう思おうと、やはり『ノルマ』はカラスが最高。
特に聴きなおしてみて、1955年12月7日のスカラ座ライブ(ヴォットー指揮、デル・モナコ、シミオナートが共演。
悪くなりようがない。。)が、カラス、共演者、オケ・合唱、そして、オペラヘッドとして自分はまだまだ、と反省の念を催されるほどの、
激しやすいスカラ座の観客(途中でもっと拍手をさせろ、と騒いだり、やりたい放題。
しかも、上で触れたSon ioで音がやや不安定になったカラスに、
”えー、それでいいのかよ!”とざわざわする聴衆、
”いいんだよ、文句あっか、こら!”とにらみをきかすカラス擁護派。まるで野獣です。
オペラを歌うほうも命がけなら、聴くほうも真剣そのものだった、よき時代の記録。)とのトータルで素晴らしいと思いました。




Marina Mescheriakova replacing Maria Guleghina (Norma)
Franco Farina (Pollione)
Dolora Zajick (Adalgisa)
Hao Jiang Tian (Oroveso)
Eduardo Valdes (Flavio)
Julianna Di Giacomo (Clotilde)
Conductor: Maurizio Benini
Production: John Copley
Grand Tier B Even
ON

***ベッリーニ ノルマ Bellini Norma***

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