Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

IPHIGENIE EN TAURIDE (Sat, Dec 22, 2007)

2007-12-22 | メトロポリタン・オペラ
なんと、メトで舞台にかかるのは90年ぶりという『タウリスのイフィゲニア』。
スーザン・グラハムが世界の主要劇場でこの役を歌って成功をおさめ、作品の復活に貢献。
シアトル・オペラとの共同制作という形で、メトがついにこの作品を舞台にかけることになったのも、
そのグラハムがイフィゲニア役を歌うことを前提としたものだったそうですから、
歌手冥利につきる、というものでしょう。
(シアトルではヌチア・フォッチレがイフィゲニア役を歌っていたようです。)

そんないきさつなので、長年上演されなかったのにはわけがあるはず、
音楽がつまらなくても我慢、我慢、と思いながらCDを聴き始めたのですが、
いやいや、なかなか、この作品、いい出来なのです。
同じグルックが作曲した作品、『オルフェオとエウリディーチェ』よりも私は好きかもしれないくらい。
なのに、なぜこんなに『オルフェオ~』と比べてマイナー感が漂っているのか。よくわかりません。
私も、今回、メトでかからなければ、まずは一生素通りの作品となっていた可能性が高いので、
そういった意味では、リバイバルに貢献したグラハムに大感謝、なんですが。。

そのシアトルとの合同制作で演出にあたったのが、スティーブン・ワズワース。
彼の演出には一言も二言もあるので、また吠えてしまいますが、よろしく。

まず、この作品、冒頭の音楽が私は好きなのです。
あらすじとおよそ結びつかないほどに脳天気なメヌエットがしばらく奏でられ、
あれ?CDプレイヤーにセットするCDのディスクを間違えたかしら?と一瞬思う。
しかし、すぐに嵐を描写する音楽になり、このへんのいきなりぶりが、
しかし、舞台ではそういきなりとも思えない、実にたくみな運びになっているのです。
そんな素晴らしい冒頭なので、これに何かを足そうなどという、妙な考えを持つ人がいること自体、
私には信じられない。

しかし、やってしまうのです、このワズワース。
まず幕が開くと、音楽が一切ない中、イフィゲニアと思われる女性が部屋に走り込んでくる。
父アガメムノンにおいつめられ、とっくみあいとなり、祭壇上で剣で刺された後、
上空からするすると降りてきた、ダイアナ(ワイヤーで吊り下げられている)がイフィゲニアを抱えて、
またまっすぐ上空に消えていく、というもの。

このオペラの、幕が始まる前のバックグラウンドについて少しふれておくと、
トロイ戦争に向かうことになったギリシャ軍を集めたアガメムノンの前に、
ダイアナが現れ、航海を妨げるような風を送り始めます。
航海をしたければ、娘をいけにえにすることをアガメムノンに要求するダイアナ。
この要求を聞きいれ、アガメムノンは娘のイフィゲニアを祭壇の上で殺害します。

このオペラの台本では、この後、ダイアナがイフィゲニアの命を救ったという仮定になっていて、
イフィゲニアの肉親兄弟姉妹は、イフィゲニアが死んでしまったと思っていますが、
実は、彼女は、タウリスという国で、ダイアナ付きの高女僧として、敵人であるスキタイ人に仕えています。

どうやらこれを説明するために、付け足されたと思われるこのシーン。
ビジュアル的には、非常に派手でアイ・キャッチングなスタートなんですが、
観客がワオ!などと叫んでいるうちに、これで、すっかり冒頭の音楽の印象が半減。
CDで聴くと、一音目から含めて全てが作品を構成する要素となっているのに、
この舞台では、イフィゲニアが歌いはじめるあたりからが、音楽のスタートであるかのような印象を与える。
しかも、この、イフィゲニアがダイアナに救われた、といういきさつは、
後の歌詞の中に出てくるので、なぜあえてしつこく説明しなければいけないのかが意味不明でもあります。

そういえば、こういう、音楽が始まる前に、ちょっとしたビジュアルを入れたものには、
現在の『蝶々夫人』のプロダクションもありました。
私、こういうわざとらしい演出、嫌いなんです。

一幕

それから15年後(メトのウェブにあるあらすじによると、こうなっているが、
年数に関しては特に歌詞では言及はない。
ただ、彼女が兄弟であるオレステをすぐにそうと判断できないところからも、
相当の年数がたっていることがほのめかされる。)、
嵐がダイアナの神殿を襲い、イフィゲニアと、イフィゲニアと共にギリシャから連れてこられた
他の女僧たちが、神に怒りをおさめるよう祈る。
ここで、ダイアナが、しばしばいけにえとして人命を要求し、
その命を奪う役目をイフィゲニアをはじめとする女僧に課していること、
そんな役目に彼女たちがうんざりしていることが示される。

嵐の場面の音楽をバックに、くるくると踊るイフィゲニアの仲間の女性司祭たち。
しかも、なんと、しまいには、グラハム演じるイフィゲニアまでまきこんで、軽く振りを披露。
そして、思った。なんか、安室奈美江とスーパーモンキーズみたい。
スーザン・グラハムが安室ちゃん、、、??!!

昨年の『オルフェオとエウリディーチェ』のときも思ったのですが、
どうして、こういう中途半端なダンスを挿入するんだろう?
こういう隙間もなく埋め込まれる振りやダンス、ビジュアル・エフェクトなどを見ると、
あまりに躁的で、そして、何よりも、
演出家自身が、作曲家の音楽の力を信じていないような気がする。
もうちょっと、グルックの音楽の力を信用しましょうよ、と言いたくなるのです。

さて、その嵐を見て、イフィゲニアが最近見た悪夢を語り始める。
父アガメムノンは、母クリテムネストラによって殺害され、
そのクリテムネストラが、イフィゲニアに兄弟であるオレステの殺害を強要する、というもの。



さて、歌い始めたスーザン・グラハム。
記憶が抜け落ちていなければ(昔行った公演は、最近思い出せないものも多い。)はじめて彼女の歌を聴きました。
もっと繊細に歌うタイプかと思いきや、わりと大きな声でごりごりと押してくるタイプでびっくり。
というか、ちょっと、私にはうるさく感じられるかも。。
声が大きい、そのことは必ずしも悪いことだとは思わないのですが、
それは、その大きさを効果的に使えて初めて意味のあることで、
彼女のとにかく押しの一点張り的な歌は、繊細さに欠け、ワンパターンで退屈。
特に、アリアでメロディーの二回繰り返しが多いこの作品、
せめて、一回目と二回目でもう少し歌い方が違ってもいいんではないかと思うのですが、
ひたすら、ごりごりごりごり。

仲間の女僧たちがなぐさめるなか、イフィゲニアが歌う
”おお、私の命を永らえてくださった神よ O toi qui prolongeas mes jours"は、
あまりにも美しい旋律のアリア。しかし、ここでもごりごり。
せっかくのメロディー、もっと慈しむように歌ってほしいものです。

さて、そこへスキタイ王、トアスが、失墜の不安から逃れるため、
国内の全ての外国人をいけにえにせよという神からのお告げを受けた、と言ってあわられます。
そこへ、タイミングよく、二人のギリシャ人が、連行されてきたので、
トアスはイフィゲニアに、彼らをいけにえにするよう要求します。

第二幕

この連行されてきたギリシャ人の片割れはオレステといい、もう一人は、そのオレステの小さいころからの親友、ピラーデス。
オレステは、母親殺しの罪から、復讐の三女神に追われて、ほとんど、気が狂う一歩手前の状態で生きているうえ、
こうしてスキタイ人につかまって親友まで死に巻き添えにしてしまうのは自分のせいである、と嘆きます。

この、オレステ、特に出番の最初の方では、いじいじしていて、
下手をすると、大変、頭にくるキャラクターなのですが、
ドミンゴが見事に救っている。もうこの人の歌は至芸の域に達しています。
残念ながら超高音が必要とされる役はもう昔と同じようには歌えないですが、
こういう役を歌うと、解釈の深さという最大の強みのおかげで、
この年齢になってなお、これ以上ないというほど素晴らしい歌を聴かせてくれます。
いや、むしろ、この年齢だからこそ歌いだせる深みというのか。
もともと、ドミンゴの声は重ためな質感なうえに、加齢による分も加わって、
速いパッセージのところになると、少しその声の重たさがひっかかる部分もありますが、
それ以外のところでは、もう、何も言うことはないほどの完璧ともいえる出来でした。
それぞれのフレーズにこめられた感情の豊かさと、どんなフレーズ、どんな一音も無駄にしない姿勢には神々しささえ感じました。
彼の芸術性にくらべると、グラハムの歌は、、、比べるのが酷というものでしょうか?

グラハムよりも、むしろ、ドミンゴをしっかり支えて見事だったのは、グローブズ。
この人は、『ファースト・エンペラー』にも出演していたので、よく考えると、ドミンゴとは始皇帝コンビなのです。
彼がそんないじいじ君、オレステをなぐさめて、二人で一緒に死ねるなら、
これほどの幸せはない、といじらしく歌う
”ほんの幼い頃から仲良しだった Unis des la plus tendre enfance”は、
ドミンゴの深い渋めのテノール声と相性のよい、若い輝かしさを感じさせる声(同じくテノール)で
(二人は同い年ぐらいじゃないのか?という、せこいつっこみをする気も失せるのです。)
とつとつと、しかし、ほとんど男女間の恋愛をも思わせる熱いものを感じさせる歌声で、
ふと、今日の観客には男性のゲイのカップルの方が多いように感じたのですが
(私のお隣もそうだった)、謎がとけた気がします。



その、二人で死ねるなら!とやっと意気高揚したところに、兵があらわれ、
ピラーデスだけをしょっぴいて行ってしまいます。
この二人が引き離される場面は、お隣のカップルもぎゅっ!と手を握り締め、
私も胸が張り裂けんばかりの思いで見つめました。

そして、この後のアリアがこの作品のすごいところなのです。
”静けさが私の胸に戻り Le calme rentre dans mon coueur"、
このアリアでは、あの胸も張り裂けんばかりの別離を経たばかりのオレステが、
なんと、”あまりの逆境と辛さに、静けさが自分の胸に生まれてきた”と歌うのです。
感情を爆発させるイタリア・オペラとは対照的な、この達観ともいえる境地。
これまた、泣かされます。
ドミンゴが、また上手いのです。本当に。

そのまま眠りに入ってしまったオレステを夢の中まで追い回す復讐の三女神。
目を覚ましたオレステの目の前にはイフィゲニアが。
一目見たときから、オレステに絆のようなものを感じるイフィゲニアですが、
確信が持てないため、自らの素性を明かさないまま、ミケーネの王の一家はどうなったか?と質問します。
オレステが明かす、クリテムネストラがイフィゲニアの仇を討とうとアガメムノン王を殺害したこと、
そして、そのアガメムノン王の仇をうつためにクリテムネストラを殺害したオレステ。
しかし、彼はここで、オレステは自害した、と、嘘をつきます。
家族のほとんどと、国も希望も全てを失った、と嘆くイフィゲニアのアリア、”おお、不幸なイフィゲニア O malheureuse Iphigenie”。
ここでも、この話の筋を知らなければ、ほとんど、この悲惨な歌の内容が想像できないような美しいメロディー。
しかし、この美しいメロディーのコーティングの下に見える悲しみがなんともせつないのです。

第三幕

この囚われ人に、さらなる強い絆を感じたイフィゲニアは、少なくとも二人のうちの一人を救い、
その救ったほうのギリシャ人にミケーネに残された唯一の妹エレクトラへの手紙を託そうと計画します。
拷問を受けた後にオレステとの再会を許されたピラーデス。
オレステに生き残ることを命じ、手紙を運ぶように伝えるイフィゲニア。
三重唱 Je pourrais du tyranで、暴君トアスの裏をかいてやる、と歌うイフィゲニア、
突然与えられた生へのチャンスにもあまり嬉しそうでないオレステ、
逆にオレステのために心から喜ぶ、あまりにも心が男前な男、ピラーデスの、
三者三様の心が描かれます。
ピラーデスのアリア、”ああ、友よ Ah! mon ami”では、またグローブズが端正な歌唱を披露。
しかし、この期に及んでもいまだにいじいじ君なオレステは、
いきなりナイフをつかんで自らにつきたて、ピラーデスと役割を交代させてくれなければ、
自らの命を絶つ!と脅します。
しかたなく、イフィゲニアはピラーデスに手紙を託し、彼を逃してやることにします。

四幕

残ったオレステをいけにえにすることがどうしてもできないイフィゲニア。
しまいにはダイアナへ怒りの言葉を吐きます。
やがて、いけにえの儀式のためにイフィゲニアの前に連れてこられたオレステ。
イフィゲニアの苦悩と彼への思いやりに心を動かされたオレステは、
勇気を持って、自らの任務を遂行するよう諭します。
ここでのオレステは、すでにもはやあのいじいじ君ではなく、
ドミンゴの演技力と歌唱力もあいまって、自らが死に直面しているというのに、
イフィゲニアに深い思いやりを示す素晴らしい男性へと変化を遂げているのです。
最後の瞬間に、オレステが口にする、
”愛する姉妹、イフィゲニアよ。そなたもこのようにアウリスで事絶えたのであろう!”という言葉によって、
一瞬にして事態を理解するイフィゲニアとオレステ。と、そこへ、
イフィゲニアが、勝手にピラーデスを逃がしたことを知り、怒り狂ったトアスがやってきます。
すぐにもいけにえにされそうなオレステ。
そこに、間一髪で、ギリシャ兵たちを率いたピラーデスがオレステを救うために戻ってきます。
スキタイ兵とギリシャ兵が戦いを交える中、トアスは命を落としますが、
やがてダイアナがあらわれ、オレステを許し、復讐の三女神の怒りを鎮め、
皆を無事にミケーネに送り届けることにします。

と、ここで普通にハッピー・エンディングでよいのに、あろうことか、
歌のパートが全て終わって、オーケストラの演奏だけになったところで、
演出家ワズワースは、イフィゲニアを抱擁しようとするオレステの腕をかわし、
イフィゲニアに、クリテムネストラを連想させる黄緑の布(彼女が王を殺害するシーンがフラッシュバックのように演じられるシーンがあるが、
そこで彼女が着ていたドレスの色がこの黄緑色。)を顔に押しあて、
泣き崩れさせるのです。



わけがわからずおろおろするオレステ。
しかし、最後には、その布を捨て、オレステと抱擁するイフィゲニア。




要はイフィゲニアの、自分のために父を殺してくれた母、
その母の命を奪った、しかし大事な兄弟であるオレステへの葛藤する感情を表現しようとしたものだと思うのですが、

①音楽ではその逡巡はとっくの昔に終わっていて、最後のオーケストラの音楽は、
あくまでハッピーエンディングの音楽である。
②グラハムはここで一切歌を歌えないので(なぜなら歌のパートは終わってしまっているから)、
この演技を支えるものが何もない。
③とにかくこの短いオーケストラの後奏に、そんな複雑な葛藤の感情の全てを押し込むのは無理。
あまりにも唐突な感じがぬぐえない。

というわけで、またしても、私の、
”音楽と関係のないことを舞台で行わないでください”という切実な願いは無視されたのでした。

このわざとらしい演出がなければ、もっともっとよい公演になっていたようにも思いますが、
ドミンゴの歌唱の芸術度の高さにとにかく圧倒された夜となりました。

そうそう、ラングレというこの指揮者も、なかなか適切なテンポ設定などで、
音楽に忠実に奉仕する姿が好印象でした。

その指揮者もまじえ、キャスト全員が舞台上にならんでお辞儀をした後、
グローブズとドミンゴとの3人だけで、もう一度、前に進み出ようとしたグラハムに、
申し訳なさそうに、ラングレの方を見やり、下がったときには、
あわててそのラングレの手をとって、もう一度バウイングをしようとしたドミンゴの優しさも印象的でした。
それにひきかえ、グラハムのやや勘違いな態度には興ざめ。
自分のためのプロダクションなのよ!ということなのかもしれませんが、
彼女の歌には、とにかくドミンゴのそれと同じレベルの深みというものが、私には全く感じられませんでした。


Susan Graham (Iphigenie)
Placido Domingo (Oreste)
Paul Groves (Pylade)
William Shimell (Thoas)
Conductor: Louis Langree
Production: Stephen Wadsworth
Grand Tier C Even
OFF
***グルック タウリスのイフィゲニア Gluck Iphigenie en Tauride***

WAR AND PEACE (Sat Mtn, Dec 22, 2007)

2007-12-22 | メトロポリタン・オペラ
Texacoが(おそらく金銭的な理由で)二シーズン前にスポンサーを降りて以来、
すわ、放送が廃止か??と心配されたFM全国ネット放送版のライブ・ラジオ放送。
トール・ブラザーズという、自ら曰く、”高級”住宅建築販売業を営む会社
(America's luxury home builderがキャッチコピー)がその任を引きついでくれたおかげで、
めでたく今も継続中。(NYでは、96.3のWQXRという局で放送されています。)

衛星ラジオのシリウスよりも、放送回数は少なく、土曜のマチネのいくつかを12月の頭あたりから放送するのみですが、
この番組、非常に歴史あるラジオ放送で、これまでに収録されたものは、すばらしいライブ録音の宝庫。
その音源は、現在シリウスで、メニュー代わりで毎日放送されています。
以前、シリウスと普通のラジオの放送が重なっている日に、同時に二つのラジオの電源を入れてみたのですが、
片方に、もう一方よりも(どっちがどっちかは忘れた)10秒ほどのディレイがあり、どちらもライブという触れ込みなのに、これはいかに??
しかし、電気系に弱い私なので、これ以上踏み込まないことにします。

というわけで、ライブ・イン・HD収録日もさることながら、このFMでのラジオ放送の日も、
キャストやカンパニーの力が入る公演日となっているので今日は期待大。

また、今日の公演は私のサブスクリプション・シリーズの中の一公演なので、
DCからのご夫婦と再会。
”Happy Holidays!!"と、にこやかに挨拶してくださる。
前回のサブスクリプションの公演、フィガロはご都合が悪くていらっしゃれなかったので、
あの感動の『蝶々夫人』以来の、感動の再会である。
と、ふと見ると、私の右隣はまたしても、その『蝶々夫人』で大粒の涙をこぼしていた女の子。
そうか、このへんの座席は、みなさん、サブスクリプションの方だったのですね。

今シーズンの『戦争と平和』では今日が最後の指揮となるゲルギエフがさっそうと登場。
(残りの回はノセダ氏が指揮予定。)

頭のアンドレイがナターシャを見初めるシーンから、ナターシャ役のポプラフスカヤが
かなりコンディションの良い声。
初日のときよりも、声にのびがあり、音量の微妙なコントロールもとれていたし、
高音に美しいりんとした響きが出ていました。
最後まで、今日の彼女は歌唱的に非常に出来がよかったと思います。
あのぶりっこ演技は、あいかわらず健在で、ちょっと勘弁してほしい、という感じでしたが、
調子のよさに助けられてか、ナターシャ役の解釈が10日よりもずっとクリアになっていたのが
私には嬉しかった。


前回今ひとつピンボケだった、なぜアンドレイとの婚約を解消するか、という理由についても、
彼女は今日の公演では、これを、彼女のプライドがなせる業である、という解釈をしっかり打ち出して、
父親と、アンドレイの父と姉を訪れるシーンで力強い歌唱を披露。
彼女の中の強さと激しさに焦点を置くことで、初日の公演よりもずっと説得力のあるナターシャ像をつくりあげていました。




アンドレイ役のマルコフは、初日と同様に、
丁寧に歌っているし、声そのものはノーブルなキャラクターにむいた美声だとは思うのですが、
もう少し役作りに彼らしさが欲しいし、
アンドレイはこういう人間!というより強い主張があってもいいと思う。
少しお人形さんのような、形だけの人物造形に終わっているという不満があります。



そうそう、今日調子がよかったという意味ではソニヤ役のセメンチャクの名前も挙げておきます。
冒頭、アンドレイの頭上のバルコニーではしゃぐ、ナターシャとソニヤの二重唱の場面はなかなか聴き応えがありました。

しかし、この作品、やたら前半が長く感じられるのは私だけでしょうか?
特にナターシャとアンドレイが相当存在感のある歌手が歌わない限り、
後半の、アンドレイの死の場面は感動的で大好きな場面の一つですが、
そこへの前振りとしては、あまりに長い。
まあ、しつこく言うようですが、このオペラ版ナターシャのキャラクターが今ひとつ好きになれない私なので
余計にそう感じるのかもしれませんが。

そんな不届きものは私だけかな、なんて思っていたら、
インターミッションでテーブルをシェアすることになったアメリカ人の女性二人と、
ひょんなことで会話が始まり、お二人ともロシアの芸術は大好きなようですが、
”この前半だけは、居眠りしたいくらい”とおっしゃっていたので、
”私も数分、記憶を失いそうになりました(本当の話)”と告白。

このテーブル、このアメリカ人の女性二人と、私、そして、日本人の女性二人という5人の相席で、
アメリカ人女性が立ち去られた後、その日本人の女性の方たちが、
”Are you Japanese?"と話しかけてくださったので、”はい、そうです。”と返答。
それから、短い間でしたが、楽しくお話させていただきました。
嬉しいのは、本当に日本からいらっしゃる方はまじめに予習されている方が多いこと。
このお二人、なんと、今日の私と同じく、この『戦争と平和』と『タウリスのイフィゲニア』のダブルヘッダー。
旅行でいらしてダブルヘッダーとは、本当にオペラヘッドとして、こうべを垂れたくなるくらい尊敬してしまいます。
いずれも、いわゆるオペラのメジャー作品ではないのに、
『戦争と平和』はきちんとDVDで予習鑑賞、
片方の方は、私の観たのと同じ、パリ(バスティーユ)版をご覧になっていて、
私がそのDVDのことにつれて触れた途端、
”あ、あのネイサン・ガンのですね!”と顔が輝かれていたので、
そうか、この方も私と同じく、ガン版アンドレイを結構気に入られたのだな、と直感。
しかし、『タウリス~』はほとんど上演される機会のない作品であることもあり、
「予習が不足しているんですが、大丈夫でしょうか?」とお聞きになるので、
私もCDだけしか聴いていないので(というか、現段階でDVDが存在するかも知らない。)、
無責任に、「大丈夫ですよ、全然!!」と保証。
だって、大丈夫じゃなかったら、私も困るんですもの。

やがて、後半の開始が間近であることを伝える鐘が鳴って、
「あ!私たち、列の真ん中だから、早く戻らないと、また怒られちゃうね。」と、
急いで座席に戻られたお二人。
日本の方たちは、本当に気遣いの細かい方が多くて、これも嬉しいことです。
もう、メトでは、座席が列の真ん中であろうとも、幕があくぎりぎりに戻ってきて、
平気でみんなを立たせて席につこうとする人がざらにいますからね。
という私も、お二人が去られた後もまだしつこく紅茶をすすり、ブラウニーにかぶりつく。
いいんです、今日は私は座席が通路に近いから。

さて、後半。



多くの歌手については、かなり初日(10日)の公演と印象が重なっているのですが、
その中では日によってわりと出来にむらがあると聞くレイミー。
(10日と今日の公演の間の公演では、かなりやばい歌唱の日があったそうです。)
しかし、さすが、このあたりは長い経験のなせるわざか、
きちんと今日のライブ放送には調子を合わせてきて、今日もワブりながらも、
存在感のある歌を聴かせてくれました。



さすがにエキストラの方も、もう公演回数がだいぶ重なってきているからか、
今日はなかなか息のあった兵隊さん歩きを見せてくれました。

何度見ても、この後に続いていく、ナポレオン陣営と、ロシア陣営の葛藤を描いた
第九場、第十場はいいし、
そして、モスクワ炎上の場面(第十一場)、それから、アンドレイの死のシーン(第十二場)、と、
やっぱり後半は見所がつまっている!記憶を失う暇なし!

ただ、十場の、クトゥーゾフ元帥のアリアは、レイミーの希望があってそうなったのか、
あくまでゲルギエフの判断なのか、初日でも遅いと思いましたが、
今日はそれを上回るスローなテンポ設定。
レイミーが今日はきちんと歌い上げていたので、ボーカルの方はともかく、
オケ、このスローテンポにあわせるのは本当に大変だと思います。
若干、音にその苦労が伺われました。



今回は、10日よりも、より正面で、より近くで見れたので、セットがよく観察できたのですが、
炎上のシーンは、実際に建物のセットの中に蒸気みたいなものを流すことで、
あの、炎がゆらめく感じを表現しているようです。

歌唱の面で、これほど、複数回の公演の印象が似通っている例も珍しいのですが、
というわけで、手を抜いているわけではなく、
今日はあまり、以前のレビューに付け加えることがないのです。
それだけ、ソリッドな実力をもった歌手たちが歌ってくれている、といえるのかもしれません。

逆に不遜なことを言うようですが、聴く回数を重ねるにつれ、
作品として、少しダルに思える場面とか箇所があるように思えてきました。
もう少しストーリーをカットし、凝縮すれば、もっともっと
人気作品になるポテンシャルがあるように思うのですが。。
あれだけの壮大な原作なので無理がないとはいえ、これでもまだ詰め込みすぎているような気がします。

Marina Poplavskaya (Natasha Rostova)
Alexej Markov (Prince Andrei Bolkonsky)
Kim Begley (Count Pierre Bezukhov)
Samuel Ramey (Field Marshal Kutuzov)
Oleg Balashov (Prince Anatol Kuragin)
Ekaterina Semenchuk (Sonya)
Mikhail Kit (Count Ilya Rostov)
Ekaterina Gubanova (Helene Bezukhova)
Vassily Gerello (Napoleon Bonaparte)
Nikolai Gassiev (Platon Karatayev)
Alexander Morozov (Lieutenant Dolokhov)
Vladimir Ognovenko (Old Prince Nikolai Bolkonsky)
Elizabeth Bishop (Maria Bolkonskaya)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Andrei Konchalovsky
Set designer: George Tsypin
Grand Tier D Odd
ON

***プロコフィエフ 戦争と平和 Prokofiev War and Peace***