以前、facebookで元会社の同期が、「吉田松陰と高杉晋作からこれほどまでに影響を受けていたとは!」と世に棲む日日を再読しているという記事に出会った。
自分は読んでいない。
その同期が福島出身なのに、長州出身のこの2名から影響を受けていると書いているところが可笑しかったからだろう。とても気になった。
幕末と明治は竜馬がゆくと坂の上の雲で、覆っており、鹿児島も長州もその視点から、おおよその動きが分かっている積もりであったのだが、、、ここまでの激情家と展望の利く天才とが師弟とはいえ、時代に呼応して躍動する様は確かに痛快だった。
最近では八重の桜で、佐幕も倒幕も実は「攘夷」でなくて「開国」が生命線だったということを窺い知ることが出来た。
彼が「ここまで影響を受けていた」との表現はどのようなものだろうという興味で読みすすめた。一体この人物達の何処にであろう?
憧れなのかもとも思うが、小説の中の主人公が痛烈とも痛快だとも思うのは、覚悟が勝っている(まさっている)からであり、(このような)革命家になりたいと思っているのか?と云えばそうではないと思うのだけど、斯く在りたいと心意気を表現したとも思える。
そうか、革命家になりたいか?クーデターでも起こすか?と訊けば、「そういうことではない」と弾かれることが分っていても
訳知りな感じな一部分を曝け出してくれたことは、友人としては感謝である。
(保守の蔓延る)体制に対しては常に物申すというのが、彼が標榜しているスタイルであり、小さくまとまるバランスと調和の取れた矛盾のない意見など、「真っ平御免」というのがその根幹にあるのであろうと理解した。
人の熱い意見にあるそこかしこの矛盾などはつくものではない。揚げ足取りとは意見の無いものの生き甲斐のような下らないものだと断じているように思える話に思えたから。
思想家というよりも、吉田松陰のその無垢な究明に対する情熱は「異常」だし、それを支える態度、その解き明かした国体を結晶のような思想にまで繋げてしまう行為は「奇異」だし、どんな人間にでも師匠として接し、牢屋で同宿だったものを本気で松下村塾の教師として招いてしまうことも「奇特」であるのだけど、その程度で括ってしまっては人の一生で、ここまで純粋に追い求めることに辿り着いた人間に対する言葉としては悪すぎるし、軽すぎる。
でも思想などというものは、大嘘中の大嘘だとも書いており、虚構に虚構を塗り固める作業ともしている部分には、一方的でない意見の表明の仕方ではなかろうかと思いもした。司馬自身も思想と対峙しているのである。
また、その思想の実践者の高杉晋作。開眼したもの達の中では特に奇天烈な行動が多く、思想の転じ方を見ても、訳知りの代表格。
司馬作品には様々なベクトルで開眼者(坂本・西郷)では出てくるので、歴史に厚みが生まれている時期なのだろうと思うし、教科書という類が相応しくないのが歴史だとも思いもする。
単純な志士が軽く扱われ、其の後に大成した者・頓挫した者達の顛末を披瀝しながら小説が進むので、たまに『こういう人物にはなりたくないもんだな』とか『こういう人間にこそなりたいもんだな』とかを植え付けて行ってしまう作品でもある。
あとがきにも書いているが、戦時中の教育の影響か吉田松陰を敢えて避けてきたという司馬が、挑んだ作品でもあったのであろう。
最終的な帰結(高杉晋作の運命そのものと吉田松陰の最期)は知っていても、それに至るまでの劇的な軌跡を追って、日本の歴史上の偉人の所業に思慕の念を抱くのも、斯くありたいと思うのも、司馬氏の見舞われている状況そのものを思うことも、それ以外のことを思うことさえも、いい機会だと思う。
日本の昔の革命家(この作品の高杉晋作)や開明的な思想家(この作品の吉田松陰)の浅い部分で民意を翻弄することなく、奥底に流れる民族の誇りの部分にだけ作用してくれとも願うけれど、こればっかりは、扱う人と受け取る人と時代や時期やその時々の道徳に拠ってしまうのだろうなと、、、少し寂しい思いもしてしまうのだ。
寂しいとは、それほど天才的な者達にも、絶望的な民意の移ろいが作用するあたりがそう思わされたのであろう。
自分は読んでいない。
その同期が福島出身なのに、長州出身のこの2名から影響を受けていると書いているところが可笑しかったからだろう。とても気になった。
幕末と明治は竜馬がゆくと坂の上の雲で、覆っており、鹿児島も長州もその視点から、おおよその動きが分かっている積もりであったのだが、、、ここまでの激情家と展望の利く天才とが師弟とはいえ、時代に呼応して躍動する様は確かに痛快だった。
最近では八重の桜で、佐幕も倒幕も実は「攘夷」でなくて「開国」が生命線だったということを窺い知ることが出来た。
彼が「ここまで影響を受けていた」との表現はどのようなものだろうという興味で読みすすめた。一体この人物達の何処にであろう?
憧れなのかもとも思うが、小説の中の主人公が痛烈とも痛快だとも思うのは、覚悟が勝っている(まさっている)からであり、(このような)革命家になりたいと思っているのか?と云えばそうではないと思うのだけど、斯く在りたいと心意気を表現したとも思える。
そうか、革命家になりたいか?クーデターでも起こすか?と訊けば、「そういうことではない」と弾かれることが分っていても
訳知りな感じな一部分を曝け出してくれたことは、友人としては感謝である。
(保守の蔓延る)体制に対しては常に物申すというのが、彼が標榜しているスタイルであり、小さくまとまるバランスと調和の取れた矛盾のない意見など、「真っ平御免」というのがその根幹にあるのであろうと理解した。
人の熱い意見にあるそこかしこの矛盾などはつくものではない。揚げ足取りとは意見の無いものの生き甲斐のような下らないものだと断じているように思える話に思えたから。
思想家というよりも、吉田松陰のその無垢な究明に対する情熱は「異常」だし、それを支える態度、その解き明かした国体を結晶のような思想にまで繋げてしまう行為は「奇異」だし、どんな人間にでも師匠として接し、牢屋で同宿だったものを本気で松下村塾の教師として招いてしまうことも「奇特」であるのだけど、その程度で括ってしまっては人の一生で、ここまで純粋に追い求めることに辿り着いた人間に対する言葉としては悪すぎるし、軽すぎる。
でも思想などというものは、大嘘中の大嘘だとも書いており、虚構に虚構を塗り固める作業ともしている部分には、一方的でない意見の表明の仕方ではなかろうかと思いもした。司馬自身も思想と対峙しているのである。
また、その思想の実践者の高杉晋作。開眼したもの達の中では特に奇天烈な行動が多く、思想の転じ方を見ても、訳知りの代表格。
司馬作品には様々なベクトルで開眼者(坂本・西郷)では出てくるので、歴史に厚みが生まれている時期なのだろうと思うし、教科書という類が相応しくないのが歴史だとも思いもする。
単純な志士が軽く扱われ、其の後に大成した者・頓挫した者達の顛末を披瀝しながら小説が進むので、たまに『こういう人物にはなりたくないもんだな』とか『こういう人間にこそなりたいもんだな』とかを植え付けて行ってしまう作品でもある。
あとがきにも書いているが、戦時中の教育の影響か吉田松陰を敢えて避けてきたという司馬が、挑んだ作品でもあったのであろう。
最終的な帰結(高杉晋作の運命そのものと吉田松陰の最期)は知っていても、それに至るまでの劇的な軌跡を追って、日本の歴史上の偉人の所業に思慕の念を抱くのも、斯くありたいと思うのも、司馬氏の見舞われている状況そのものを思うことも、それ以外のことを思うことさえも、いい機会だと思う。
日本の昔の革命家(この作品の高杉晋作)や開明的な思想家(この作品の吉田松陰)の浅い部分で民意を翻弄することなく、奥底に流れる民族の誇りの部分にだけ作用してくれとも願うけれど、こればっかりは、扱う人と受け取る人と時代や時期やその時々の道徳に拠ってしまうのだろうなと、、、少し寂しい思いもしてしまうのだ。
寂しいとは、それほど天才的な者達にも、絶望的な民意の移ろいが作用するあたりがそう思わされたのであろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます