天気は悪かったが、かねてより約束していたこともあり、知人と東京都写真美術館に出かける。
お目当ては植田正治:写真の作法~僕たちはいつも植田正治が必要なんだ!~展で、貴重なオリジナルプリントを存分に堪能することが出来た。自分としては、出来れば同時開催の写真展・岡本太郎の視線も観たかったが、いろいろばたばたして時間が押していたこともあり、残念ながら今回は見送らざるを得なかった。知人は鳥取まで植田正治写真美術館を観に行くほどの植田ファンなのだが、残念ながら自分はそこまでではなく、もっぱら印刷媒体で作品をいくつか観ていたことがある程度だった。つまり、知人にとって今回の展示はある意味で「追体験」なのだが、自分にとっては全てが「初体験」であり、いろいろと考えさせられることの多い展示でもあった。
それにしても、改めて感じさせられるのはオリジナルプリントを観る事の重要性だ。今回の展示でも、そこには圧倒的なまでの「本物感」が横溢し、作家と作品に対する認識や評価を一新させるに十分な刺激を受けた。とりあえず、図録代わりの写真集(植田正治写真集:吹き抜ける風)を買い求めたが、写真集といってもオリジナルプリントと印刷物はまったくの別物で、やはり同列に評価することが出来ないだろう。もちろん、印刷時には原版を可能な限り忠実に再現するよう工夫されており、今回買い求めた写真集もかなりよくがんばっているのは間違いない。だが、印刷物には印刷物としての評価や「読み」が必要であり、単純に作品の「複製」と受け止めることは、いささかナイーブに過ぎるといわざるを得ない。
というわけで、松代は「印刷物からオリジナルプリント」という体験を初めて経験したのに対して、すでに植田正治写真美術館でオリジナルプリントに触れていた知人にとって、今回の展示は「追体験」であると同時に「礼拝的な意味」を持っていたのではないかと思う。植田正治が評価された戦前から敗戦直後の時代において、大半の人々は印刷媒体によって植田の作品を目にしただろうし、かつての自分もそうだった(ただし、当時のアナログ印刷では製版職人がそれこそ「職人技」を駆使して網点を打っていたし、製版カメラやスキャナーの違いもあるので、これまた現在の印刷物とは同列に語れないのだけど)。そして、かつての自分がそうであったように、当時の人々は印刷物で植田の作品を評価し、あるいは評価しなかったわけだ。しかし、オリジナルプリントと印刷作品との間に決定的な違いが存在するのであれば、かつての自分や当時の人々(もちろん、オリジナルプリントを目にした一部の編集者や写真家は別として)が下した評価は間違いということになりはしないだろうか?
例えば、先に同行した知人が鳥取まで植田正治写真美術館を観に言ったと書いたが、そこには「本物を求める巡礼者的な意識」が存在したかもしれない(もちろん、存在しなかったかもしれない)。写真とは典型的な複製芸術であるかのように認識され、自分自身もそのように認識しているのだが、もしも複製を鑑賞した経験がある意味において「まやかし」であり、オリジナルを鑑賞しない限りは作品を「本当に鑑賞した事にはならない」のであるならば、写真に対する認識は根底から覆されてしまうのではないか?
オリジナルプリントと印刷物との違いを無邪気に語りつつ、同時にそのことがはらむ問題の重さ、深さについても、ぼんやりと考えさせられた展示であった。
まったくの余談だが、先日このブログで紹介した伊藤剛氏は、自身のブログにおいて東京都写真美術館で開催された「おたく」展を寺になぞらえていたことを、ふと思い出してしまった。大量に存在するオタクアイテムを展示しつつ(グローバルメディア2005 おたく:人格=空間=都市)、しかしながら全体として「複製不能で一回限り」の空間であることが展示の礼拝性を強めており、伊東氏はそのことに引っ掛けて展示をお寺と表現したようなのだが(ブログにも「空間の展示」であることを繰り返し明記している)、それでもなお「本物を求める受け手の側の欲求」に対する遠まわしな皮肉なのではないかと思えたことが、強く印象に残っていたのだ。