Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

正直しんどい

2006-01-12 23:19:07 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

昼過ぎから繁華街の撮影に出かけ、そのままとある立体造形の作家氏と話をする。撮影といってもフィルム1本(8カット)程度で、しかもマスターアップ明けなのでかなりへろへろしていた。マスターアップといっても、自分は直接の作業担当者じゃなかったので(というか、作業者だったらへろへろじゃすまない)、それでもたかは知れているのだけどね。写真のほうもそれなりで、おおかたブログのにぎやかし程度にしかならないだろうが、週末は天気が悪くなるそうなので、気晴らしにはちょうどよかったかもしれない。
ところが、夕方以降にひどくばたばたさせられたため、後から考えると。実はこの気晴らしがものすごく貴重な至福のひと時だったんだよね(そして、いささかもったいないことをしたと、それこそ仮眠でもとればよかったよと、ひどく悔やむことになる)。



夜には別の作家氏とチョコチョコ打ち合わせした後、金村修ワークショップの受講生と合流して、約束していた品を渡す。まぁ、品物の受け渡しだけではいささかなになのであれこれと雑談もするが、もちろん話題の中心はやはり写真であり、他の受講生が計画している展示のあれこれだった。その受講生も個展を計画しているのだが、お互い個展は初体験なので、どうしても話が抽象的な方向へ流れてしまう。
それこそ「どんな運命が待っているんだろう」状態なのだが、高橋瞳のように鼻の穴を膨らませてもわからないものはわからないのだから、本当にしょうがない。とはいえ、とらえどころのない中にも、やはり自分の立ち位置を見極めたいという欲求はあり、また手がかりのようなものがないわけでもない。
例えば、前に書いた制作し、編集するという立場がそれだ。他方、その対極にあるのが、編集すること(あるいは編集「される」ことも含めて)を拒否し、あくまでも「制作者であることに固執する」立場であろう。
古参の写真愛好者などが、時たま「一写入魂」という言葉を口にするが、これは単に「ひとつひとつのカットを丁寧に撮影する」という意味を超えて、撮影段階でピント位置や構図、露出もすべて完全に確定させ、全くすきのない写真を撮影するという意味がこめられている。そして、そういった「すきのない写真」とは、とりもなおさず「1枚で成立する写真」であろうし、同時に「編集する余地のない写真」ともいえよう。
もちろん、撮影段階で画面に存在するあらゆる要素をコントロールし、無駄のない映像を構成することは非常に重要だし、そもそもいかなる撮影であっても丁寧な作業を心がけるに越したことはない。しかし、そもそもピント位置や構図、露出などの要素について、あたかも数式のような最適解が存在するのか、あるいは「存在しえるのか?」という疑問があるのだ。
つまり、撮影した段階(あるいはネガを現像した段階)で作品を固定させるのではなく、発表する媒体や形式に合わせて「編集の余地を残す」という考え方も存在するし、少なくとも自分はその立場をとっている。そして、自分はその立場をさらに推し進めて、作家はあえて作品の最適解を提示することなく、受け手の読みに委ねる、あるいはそこまで行かなくても、受け手の解釈余地を大きく残しておくという考え方に傾斜しつつある。


もちろん、この考え方は非常にオタク的であり、ある意味でパロディ的ですらある。


例えば、これは二次創作同人と元ネタである商業作品の関係にも通じるもので(というかそのもの)、サークル楓のはらわたを主宰している武藤礼恵氏のブログにも、ファン意識と作品を自由に解体し、読み、そして「萌え」るプロデューサー意識とが相半ばする様子が現れている(と、松代は「読む」わけです)。さらに、この辺は伊藤剛氏の「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」のテーマにも通ずるところがあり(というか、松代はそれこそがメインテーマではないかと「読んで」いるのだが)、朝日新聞の書評からはそのこと(物語という作家の自己表現ではなく、受け手の多様な読みを受容するキャラクターや萌え要素が重要になっていったこと)をショッキングに受け止めた人が少なくなかったらしいことがうかがえる。


しかし、そもそも作品とは、ひとたび公開された瞬間から、受け手の自由な、あるいは好き勝手な読みにさらされるわけで、受け手の「読み」をあまりにも露骨に誘導することは、やはり作者のエゴそのものなのではないかと思えてしまうのだ。もちろん、著しい誤解は問題だが、しかし誤解でさえも「恥をかくのは当人」であり(そう、松代がウォーカー・エバンスを誤解して恥をかいたように)、別にフラグが立って人生がプレイ不能になるわけでもなかろう(まぁ、無限ループに陥るとは思うけど)。それこそ、人生は盲導犬型RPGじゃないんだから…


例えば、松代のさまざまな活動や言動を知った上で展示を観た受け手が、そこに「性的なファンタジー」を感じ取ったとしても、それはそれでありだと思うし、なにか説得力のある形でその感覚を提示してくれるのであれば、すごく興味深く受け止めるだろう。他方、例えば武藤礼恵氏のさまざまな活動や言動を知った上で同人誌を買った受け手が、そこに「政治的なドキュメント」を読み取ったとしても、それはそれですごく愉快なことじゃないかと思うのだ。