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東京の夜景動画ブログです。

国際化時代のオタク産業と生産技術形成3

2006-01-10 23:05:18 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月
打ち合わせの合間に、桜田門付近で撮影。天気もすばらしく、フィルム1本分(21カット)をさっくり撮りきって、気持ちよく事務所へ戻る。ただ、電車の遅れや予想外のトラブルなどもあり、撮り始めたのはお昼過ぎで、昼食をとる時間がつぶれてしまったのにはちょっと困った。


知人から連絡があり、ウォーカー・エバンスの「アメリカン・フォトグラフス」がまた再刊されるというので、早速アマゾンで予約する。ウォーカー・エバンス本人や、恐らくは彼の代表作といえる「アメリカン・フォトグラフス」については、自分があれこれ言うよりも、リンク先の解説を参照していただいたほうがよいだろうが(あるいは中平卓馬の「決闘写真論」とか)、なにしろ古書が数万円で取引されている状況だっただけに、再刊は本当にありがたい。
かつて、自分はウォーカー・エバンスをあくまでもFSAの作家であり、ある種「土門拳的ドキュメンタリー作家」だろうと「誤解」していた。だが、晩年のインタヴューで語った「写真というのが編集だということだ。撮影し、編集する、これが写真なんだ」という言葉に触れ、そのような認識がまったくの誤解であり、スティーグリッツやスタイケンの対極に位置されるとか、またはルイス・ハインの延長線上にあるとか、そういった捉え方ではまったく理解できない存在であることをいやというほど思い知らされた。

多少なりとも業界の裏側に触れ、経験を積んだオタクにとって、そうでなくても単に同人誌や同人ゲームを作り続けているだけのオタクでさえ、制作と同様に編集や、あるいはプロデュース作業もまた重要であることは自明といえよう。その意味で、ウォーカー・エバンスの言葉はきわめて重要であり、ややもすれば編集者と対立したり、場合によっては敵対的な関係に陥った木村伊兵衛のような作家たちとは決定的に異なる存在といえるのだ(作家の中には編集者やプロデューサーに対する侮蔑の念を隠そうとしない連中さえもいるが、そういう輩に限って作品の質が低いのは興味深い)。


身内の話で恐縮だが、やはり井上純弌は作家であると同時に間違いなくプロデューサーでもあり、またオタクであるということは、すなわち「世間にあまた転がっているネタを編集すること」であることを理解している人物だとも思うのだ。あえてウォーカー・エバンスの言葉を借りるなら、オタクとは編集ということで「編集し、プロデュースする、これがオタクなんだ」ということなのだ。まぁ、プロデュースといっても「自腹を切っている」わけで、決して「自腹を切らない」ブロードウェーのプロデューサーとは比べ物にならないほど作家的なのではあるけれどね。


ただ、作家であると同時に編集者、あるいはプロデューサーであるといっても、ウォーカー・エバンスとオタクの立ち位置というか、方法論はまったく正反対だったりもする。


そして、自分はウォーカー・エバンスの側に立っているという点が、非常に深刻かつ大きな問題だったりもするのだ。