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続アウラのわな

2007-01-19 23:07:48 | 業務関連


前回の続き



アウラに関して説明した段階で、知人は「アウラを排除しなければならないとしても、なぜ写真にこだわるのか?」と疑問を投げかけてきた。



実は、その部分こそベンヤミンの論考における中心的な要素であり、バカ正直に説明すると「ベンヤミンの論考を丸ごと解題する」ことになりかねないので、悪いけどそれだけはどうかご勘弁してくださいということで、とりあえずごく大雑把なところだけにとどめさせていただいた。まず、ベニヤミンは「作品は複写あるいは複製されることでアウラを喪失する」とし、芸術作品の複写にはオリジナルの持つアウラが備わっていないし、また大量生産されて「誰もが容易に入手可能となった」品物に対しては、誰もそれからアウラを感じないとしている。
つまり、写真には本質的に複製性と複写性を備わっているため、本来的な意味でのアウラを持ち得ないのだ。



その上で、ベニヤミンは伝統や儀礼と結びついた神秘性、つまりアウラに価値を見出すことは、保守的な権力者を利するばかりだと考え、複製技術の進歩によるアウラの喪失を積極的に評価した。もちろん、ベニヤミンは本質的にアウラとは最も縁遠い存在である写真に注目し(ただし、時系列的にはまず写真についての論考があり、その中でアウラという概念と写真の担う役割を提唱している)、アウラを排除することこそが写真の社会に対して担う役割だと論じたのである。



でまぁ、写真の被写体が存在しないと成立しない点と、撮影者が存在せずとも写真は成立するという点が、ベンヤミンの言うアウラの喪失に結びついているのだ。また、そのような写真の本質的な特性に注目して、写真が現実を超えた超現実をもたらすと考えたのが、同時代のシュルレアリスト達なのだ。



シュルレアリスト達は過去の規範や常識、伝統、暗黙のうちに成立した約束事などにとらわれている限り、現実を新しく(または正しく)認識することはできない。そのため、作家の主観や意識や理性が介在できない状態で偶然に生み出された作品や、そもそも意識の介在から解き放たれた夢の中にこそわれわれの普段気付かない現実、いわば超現実が存在していると主張したのである。



また、シュルレアリスト達が写真の本質的な特性に注目したのも、いうなれば非常に当然の成り行きであり、さらにベンヤミンがアウラという概念を導き出すきっかけのひとつになったユージェーヌ・アジェを見出したのもまた、シュルレアリスト達であった。



つまり、アウラを拒否することと超現実を求めることは、そもそも隣接した思考あるいは行為ともいえるのだ。
そのため、自分は写真における匿名性や無名性、中でもUnlinkabilityを重視し、例えば「どこで撮影したのかわからない=現実の撮影地と作品とが結びつかない」ことや、あるいは「誰を撮影したのかわからない=被写体と作品が結びつかない」ことが重要であると説明した。



コレが学科の口頭試問だったら、すかさず「論理の飛躍が多すぎる」とか、そもそも「伝統や儀礼と結びついた神秘性、あるいは過去の規範や常識などの否定が自明となっており、前提条件の証明がなされていない」などと厳しく突っ込まれ、レポートの再提出は避けられないところではあったが、なにしろ相手は担当教員でもなんでもない単なる知人だったので、その辺はかなぁり楽をさせていただいた。
それでも、知人はひとつの興味深い疑問をぶつけてきた。



大量生産品は芸術的に無価値なのか?



これは「au design project」の4モデルがMoMA (ニューヨーク近代美術館) のコレクションに選定されたニュースを引き合いに出すまでも無く、大量生産品であっても芸術的な価値を持つもの持つし、また場合によっては大量生産品からアウラさえ感じられるとも答えた。
つまり、ベンヤミンの言説には欠陥があり、アウラ論も絶対的なものではない。
無論、著名人や近親者の愛用品、歴史的事件、事故に関係した品などに、ある種のアウラめいたものが宿ることは簡単に理解できるだろうが、そのような品は既に大量生産品の概念を超えた存在といえよう。むしろ、ただ単に年月を経ただけの品であっても、それになにかアウラめいたものが宿っているかのように思えることの方が問題で、かつてスーザン・ソンタグが論じたように、写真は古びたほうが価値を持つという指摘もある。
さらに、ほとんど全てのオタクは大量生産品からアウラを感じ取り、また棟方志功などの版画を複製したリトグラフからもアウラを感じとっている人々も少なくない。つまり、大量複製時代の到来によるアウラの消失に対して、多くの人々はベンヤミンが予見したようなアウラなき世界を歓迎せず、逆に大量生産品へアウラを付与することを望み、そして大量生産品からアウラを感じ取るようにすら変化していったと考えられるのだ。



ついでに言うと、シュルレアリスムも理論としては既に破綻している。特に、その土台を形成したフロイトの精神分析や共産主義理論の欠陥が明らかになったこともあいまって、現在では個々の作品における思想的な背景として解説されるか、あるいは歴史的なエピソードのひとつという扱いを受けることがほとんどだ。



それでは、なんでいまさらそんな破綻理論にこだわるのかというと、これはもぅ純粋に「自分が面白いから」と言うほかない。
作品を制作する際に、いかなる理論を援用するのかは作家の自由だし、もしもそれによって作品の魅力が増すのであれば、もちろんそれに越したことはないのだ。



ただ、白状してしまうならば、伝統や儀礼と結びついた神秘性、あるいは過去の規範や常識、とりわけノスタルジアなどを無批判に肯定した作品、さらには作家の意図があまりにも明白で作品全体を一部のすきも無くコントロールしている作品に対しては、暴力的なまでの反感を覚えてしまうということもある。写真作品で例えるならば、花鳥風月に祭り、ペットや子供、女性などから、ただ作家の考える美しさ、かわいらしさのみを取り出したような画像、いつぞやのエントリーでも触れたニコラ・ペルシャイトに代表されるソフトフォーカスレンズを使って、あくまでも作家が考えるところの被写体の魅力しか見るべきところの無い画像などがそうだ。
ひどいときには、丹波哲郎演じた丹下博士よろしく、大声で「こんなものは芸術でも何でもない!」と、ステッキふるって粉砕したくなるほどだが、まぁ丹波先生の足元にも及ばない自分などがやるネタでもないし、多くの人々に通じるネタでもないしな。



ただ、作家の感覚というか思考の枠を出ない、出る気もないような作品というのは、見ていて本当につまらないのだけは間違いないねぇ~



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