大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

労働者自主福祉運動のすすめ(6)

2015年07月17日 | 労働者福祉

敗戦以降、日本は、1952年サンフランシスコ講和条約発効までの間、連合国占領軍(GHQ)による指令・勧告に基づいて政府が政治を行う間接統治下に置かれていました。
GHQは敗戦直後の1945年年9月、「民主化五大政策」(婦人参政権付与、労働組合の奨励、教育の民主化、治安維持法など人権抑圧制度の撤廃、財閥解体など経済の民主化)による社会改革を日本政府に要求し、戦前からの社会構造の大変革をはかりました。

なかでも「労働組合の結成奨励」政策により、1945年12月労働組合法、1946年労働関係調整法、1947年労働基準法が次々に成立し、労働組合活動の基盤が2年という短期間で整備されることになりました。
こうした動きに連動し、各地で続々と労働組合が再建、結成され、ナショナルセンターも1946年、日本労働組合総同盟(総同盟・85万人)、全日本産業別労働組合会議(産別会議・160万人)が誕生、飢餓とインフレを背景に労働運動は一段と精鋭化し、労働組合は社会の一大勢力に成長しました。

労働者自主福祉運動のすすめ(5)

2015年07月16日 | 労働者福祉


福澤諭吉は慶應義塾の創設者で啓蒙思想家、教育者として知られた人です。
その福沢諭吉と労働組合との直接的関係はありませんが、福沢諭吉は1894年米国ユニテリアン教会のマッコレー牧師らを支援し、東京三田にユニテリアン教会・惟一館を建設します。
このユニテリアン教会・惟一館で鈴木文治は1912年「友愛会」を設立します。
鈴木文治は友愛会を創立したとき、ユニテリアン教会職員であり、マッコレー牧師の秘書でした。
高野房太郎も片山潜も渡米し労働運動を学ぶだけでなく、その思想的背景としてキリスト教の影響を大きく受けていました。
ユニテリアン教会は、キリスト教プロテスタントの主要な一派ですが、その思想はカトリックとは大きく異なります。
あくまでも「神を合理的に理解する」という“理神論”者たちのグループで、「イエスキリストの生き方と言葉を極めて素晴らしいものとして崇め尊重」しています。
これらのことを考えるとどんな運動にもしっかりとした哲学なり思想が必要です。
福沢諭吉とユニテリアンとの関係についても興味深いものがありますが、それはまた後日調べてみたいと思います。

創立当初の友愛会は共済組合的な性格をもつものでした。
その後、賀川豊彦らも加わり大きく発展していき、1921年松岡駒吉により友愛会は「日本労働総同盟」と改められます。
労働運動も先鋭化して争議も多発したり、組織が分裂を繰り返したりしますが、戦争の拡大とともに激しい弾圧を受けて1940年解散します。
そしてそのまま敗戦の1945年を待つことになります。

労働者自主福祉運動のすすめ(4)

2015年07月15日 | 労働者福祉

近代的な労働者自主福祉運動の本格化は、1897年に結成された「労働組合期成会」からです。
高野房太郎や片山潜らによって結成された「労働組合期成会」は労働組合の結成を目的とした団体でしたが、当時の政治状況から政府からの弾圧を受けます。
1900年、「治安警察法」と「産業組合法」がセットで成立しました。
この「治安警察法」により「労働組合期成会」は1901年消滅します。
そこで指導者たちは、労働組合に代わるものとして自主共済組合の設立に努めました。
この自主共済組合も弾圧を受けますが、「産業組合法」の成立により法で認められた協同組合だけがその運動を引き継いでいきます。
現在も我が労働者自主福祉事業団体は、この「産業組合法」の縛りを大きく受けています。
「認可主義」「員外規制」と「優遇税制」や「県域規制」「政治活動禁止」などがその典型です。

第一次世界大戦(1914年)以降、物価高騰を背景に労働者の生活がより不安定になると、「大正デモクラシー」の流れと相まって、労働運動・社会運動が活発化してきます。
多くの市民購買組合や労働組合運動の一翼としての労働者消費組合が誕生していきます。


労働者自主福祉運動のすすめ(3)

2015年07月14日 | 労働者福祉

協同組合組織の歴史を学ぶときに必ず出てくるのが、イギリスで1844年にできた「ロッチデール先駆者組合」です。
しかしそれよりはるか前から我が国では庶民の助け合い制度としての仕組みがありました。
「頼母子講」や「無尽」がそれです。

「頼母子講」と「無尽」の違いはよくわかりませんが、地域によってその呼び名が異なるのかもしれません。
私が若かりし頃経験したのはこんな「無尽」でした。
3ヶ月に1回集まる10人のメンバーは掛金として一人1万円出します。
10万円集まりますので、クジを引いて当選者が総取りとなります。
当選者は次回以降クジは引けなくなり、全員が当選するまで掛金のみ払います。
それではつまらないので集会会場を参加メンバーの自宅持ち回りにして、酒と肴の持ち寄り宴会としました。
まあこれは相互扶助というより博奕と懇親会のようなものでしたけれども、いつしか無くなってしまいました。
本来は、このような仕組みを利用して困った人がお金の融通を受けたのだと思います。
この「頼母子講」や「無尽」はある意味、利息を取らない信用事業でした。

1787年に生まれた二宮尊徳のはじめた「報徳五常講」も、報徳思想にもとづく利息を取らない信用事業でした。
「五常」とは「仁・義・礼・智・信」という人間の日常の5つの心構えを意味します。
仁:思いやり、困った人にお金を貸すこと
義:借りたお金は約束通り返すこと
礼:返すにあたって礼金をつけること
智:借りたお金を有効に活用すること
信:相互に約束を守り合うこと
このルールの下で「五常講」は運営されました。
たとえば100万円を借りたとします。
「五常講」では毎年20万円ずつ返済すると5年で返済できますが、江戸時代の金貸しは一般的に年利20%をとっていましたから、毎年20万円ずつ返済しても元本は1円も減りません。
「五常講」のおかげで借金生活から抜け出せますので、お金を借りた人はもう1年20万円(「報徳冥加金」)をお礼として払います。
結局6年間で120万円返済したことになるので年利6.2%となり、立派に信用事業として成立していったわけです。
これが「労働金庫」のルーツでもあり、わが国最初の信用組合「掛川信用組合」が二宮尊徳の弟子の手により1892年任意事業として設立されました。
以後1900年の産業組合法制定までに全国で144もの信用組合が誕生していきます。



十二月八日と八月十五日

2015年07月13日 | 読書
十二月八日と八月十五日 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


「十二月八日」とは、昭和16年12月8日の対米英戦争の火蓋を切った日です。
「八月十五日」とは、その戦争が惨憺たる敗北のうちに終わった昭和20年8月15日のことです。
著者の半藤一利氏は、近代史の歴史作家として著名な人ですがなぜ戦後70年のこの年に、あらためてこのような本を書いたのでしょうか?
その興味に惹かれて購入しました。

半藤氏はこう語っています。
「流行りの都合に合わせた“歴史修正”はすべきことではありません。
厳然たる“事実”がそこにあるからです」
そしてこの二日間のみの“事実”についてを、多くの人びとの日記やら回想やらで克明に描き出していきます。

名前を聞けば誰でも知っているような立派な文化人までもが諸手を挙げて戦争に賛成したのはなぜでしょうか。
「…たしかに戦争はある日突然、天から降ってくるものではありません。
長い間にはさまざまな事件や小規模の紛争があり、政治・軍事の指導者たちのそれらにたいする“ごまかし”や“なしくずし”があって、危機が徐々に拡大していき、時代の空気はもういつどこで何があってもおかしくない状況下にあった」
開戦の日の出来事や人々の心の動きを、午前6時から午後10時まで時系列に追っていきます。
12月8日のその日、日本人のだれもが一種の爽快感といった、頭の上の重しがとれたような喜びを感じたといいます。
敗戦という結果を知るいま、その恐ろしさが蘇ってきます。

終戦の日の出来事も午前6時から午後9時までを時系列で追っています。
初めての敗戦に日本中は不安の渦に巻き込まれますが、他方では戦争が終わったことに国民は喜びと開放感で全身をよぎらせていました。
「…夕闇が迫って点々と、灯りがともりはじめる。
電灯や窓を覆っていた黒い布はすべて取り払われた。
ローソクの火であってもよかった。
もうその明かりが爆撃の目標にならないのである。
長く苦闘に満ちた暗い時代のなかで、日本人がひとしく待ちのぞんでいたのは、つまりその赤い暖かい光であった」
国民のだれもが気息奄々でした。
日本本土の主要な各都市は焦土となり、もはや民草の住むところが戦場となっていました。
原子爆弾とはいわず当時は新型爆弾といわれていましたが、その爆弾によって広島・長崎の二つの都市が吹っ飛んだらしい、とうこともおぼろげながら知っていました。
しかもそこに中立条約を結んでいたソ連が宣戦布告をしてきたのです。

半藤氏は語ります。
「…歴史は決して断絶するものではなく、また歴史をつくる人間の行動はつねに意味を持って連鎖していくものです」
そして最後にこうまとめてありました。
「わたしも日本と日本人を愛している。
この美しい国土を愛している。
であるから、いっそう強く思う、この敗戦直後の声に、日本人はもういっぺん耳を傾けなければならないのではないか。
日本人よ、いつまでも平和で、穏やかで、謙虚な民族であれ」