大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

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労働者自主福祉運動のすすめ(7)

2015年07月21日 | 労働者福祉

当時の労働者の生活状況は、1945・6年と大凶作に見舞われ、1947年末まで食糧事情の危機的状態が続きました。
また、職場では不足する資材・機材、不良工作機械などで労働災害が相次ぎ、労働者は慢性的な生活苦、健康疲労という状態に置かれていました。
この極度の生活物資不足に対して、結成したての労働組合と購買生協は協同して、各地で隠匿物資の摘発適正な配給、生活必需品の民主的管理(「労務加配米の増配、作業衣服の確保、木炭の払い下げ」)などを統一要求として切実な運動を展開していきました。

こうした生活物資の確保をめざす運動から全国的に結集した協同行動の組織を作ろうという機運が高まり、分立していた労働団体(総同盟、産別会議、全労連)、各産別組織、日本協同組合同盟(後に日協連を経て現在の日本生協連)など36団体が結集して、1949年8月「労務者用物資対策中央連絡協議会」(中央物対協)が結成されました。
(設立当初の事務局はなんと労働省内にありました)
これが現在の「労働者福祉中央協議会」(中央労福協)の始まりです。

この労働者福祉運動は、画期的ともいえる合意から出発しました。
それは、「この協議会を産業別単産及び単産の上部団体(中央労働団体)の枠を超えたものとし、各単産の福祉対策諸活動を連絡調整しあって意思統一をはかるとともに、互助共済機能の活発化による福祉の増進、社会保障制度の確立、労働者の生活福祉問題の解決のための政治的結集をはかる組織とする」というものでした。
労働運動では、イデオロギーの違いによって分裂や組織問題が発生しますが、「中央物体協」は組織の枠を超え全労働者的視点に立って、福祉の充実と生活向上をめざすという一点で統一し、結集するという路線を明確に打ち出したのです。

この「福祉はひとつ」という中央労福協の創業の精神は、今日まで継承されています。