大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

労働者自主福祉運動のすすめ(9)

2015年07月27日 | 労働者福祉

明治時代から保険のようなものはたくさんあったといいます。
たとえば新潟や長野では「死ね死ね講」という物騒な名前の類似保険が流行したそうです。
その方法は500人または1000人をひとつの団体として登録します。
団体員のうち一人死亡するごとに10銭または15銭などの一定の金額を徴収します。
集まった金額の3分の2を死亡者の家族に渡し、残り3分の1を会社の利益としたそうです。
だいぶ荒稼ぎの商売ですね。

戦後はさすがにこのような商売は廃れましたが、一般の労働者は、火災など生活上のリスクを補うための保険は、高額なため利用できませんでした。
一度、火災が発生してしまうと、家の再建は自前でするしかなく、生活困難に直面するしかありませんでした。

このような労働者の「もしもの時の保障」として労働者共済が生まれました。
1951年(昭和26年)、中央福対協第3回総会で互助共済事業を高めるための「共済事業の具体化」が決議され、これに基づき「全国共済連絡会議」が設置されました。
全国的な労働者共済の機運が高まる中で1954年、大阪福対協が全大阪労働者生活協同組合を設立し、労働者の手による火災共済事業が初めてスタートしました。
大阪での事業のスタートは翌年の新潟、さらに富山、長野、北海道など各地の取り組みの先鞭となるものでした。
1955年5月に新潟でも火災共済が始まりましたが、発足5か月後の10月に新潟大火に見舞われました。
発足直後だけに掛金収入の260万円に対して、支払共済金の総額は1400万円という状況でした。
しかし約款で定められた減額や分割支払いの特例を使うことなく、県内の主要労働組合が闘争資金を担保に新潟労働金庫から融資を受け、全額一括支払いを実現したことで、火災共済の信用は一層高まりました。
誰もが「つぶれる」と思った新潟の火災共済事業が不死鳥のごとく立ち上がったのは、労働組合と労働金庫の連携、共助の実績によるものであり、他県が次々に共済事業を開始する契機となりました。

同時に、共済はリスクを分散すればするほど安心できることから、新潟大火を機に危険分散、再共済機能についての議論が高まり、1956年に中央労福協、総評、全労、生協連、労金協会の五者による「共済懇話会」がつくられ、「労済設立準備会」へと発展しました。
その後、1957年に「全国労働者共済生活協同組合連合会」(労済連)、1976年の「全労済」へと組織統合が進み、機構・機能が整備、充実していきました。