大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

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労働者自主福祉運動のすすめ(8)

2015年07月24日 | 労働者福祉

江戸や明治時代の遠い昔の話ではなく、貧乏な労働者は、労金が出来るまでは「質屋」に通い、当座のお金を工面しました。
冗談ではなく、そんな労働者の日常の姿が現実にあり、銀行に行っても労働者であるというだけで融資の道は閉ざされていました。
銀行が定めていたランク付けは「甲乙丙丁戊」に分けられており、労働者は「戊」で預金のみを受け付けていました。

1949年、GHQの金融引き締め策 (ドッジライン)が強行され、インフレは収まったものの逆にデフレが急速に進行し、賃金遅欠配の広がり、倒産、人員整理による大量の失業者の発生で労働者の生活は困窮化しました。
こうしたことから同年、総同盟は「相互扶助の精神に立脚した自主的な共済事業と労働銀行を」創設しようと動き出しました。
また、1950年、総評もその結成大会で「スト資金積立、罷業金庫・中央労働銀行設立」の方針を掲げ、さらに、1951年3月の総評第2回大会では「労働銀行設立」を決議しました。
そこには、当時の労働者の生活困窮状況が「豊富な闘争資金を持ちながら金融機能を持たない・・・いわんや労働者個人の生活資金の融資にいたっては、銀行に預金を持ちながら、一切融資の途を絶たれているので、高利の質屋か闇金融に頼り、ますます生活の困窮に拍車をかけている」と、記述されています。 

労働金庫の設立は、労働金庫法成立(1953年10月)以前の1950年、岡山県と兵庫県で相次いで誕生した2つの「勤労者信用組合」から出発しましたが、その設立の源流は、労働組合と生活協同組合とがあり、相互の連携協力のもとに設立されてきました。

岡山県の場合は生協運動からの出発でした。
1948年に成立した消費生活協同組合法では生協の信用事業が認められなかったため、生協の系統金融機関設立を求める運動が各地で展開されました。
その結果、中小企業等協同組合法の信用組合として認可され1950年9月から営業を開始しました。

また兵庫県の場合は、労働団体の総同盟兵庫県連主導のもとで岡山県と同様に「信用組合」として出発しますが、労働組合という団体を基礎とした「団体主義」の組織原則と、産業別を超えた「地域連帯主義」の原則をとって展開していくことになりました。

中央労福協(当時は中央福対協)では岡山、兵庫の取り組みを踏まえ、、労働団体の動きを推進するため、「生活物資の充実と労働金庫の設立」という協議の場をつくり、労働金庫設立の気運を高めていきました。
さらに1951年には労働省の協力で「労働金庫設立促進連絡会議」が開催され、各自治体の関係者の参加と協力もあり労働金庫設立の動きは急速に広がりました。
こうした動きが1953年の労働金庫法制定につながることになりました。

以上のように、労働金庫設立には労働省の協力とともに生協陣営との多大な連携があったことを忘れてはなりません。
労金と言えば、「労働組合の金融機関」のイメージが強いかもしれませんが、労金法では、会員資格は1号(労働組合)から4号まで定められており、生協は2号会員(ちなみに3号は公務員共済や健保組合等、4号は互助会等)として明確に位置づけられているのです。
このことは生協法で信用事業が認められなかったことにより、法制定時から生協の関わりが大きかったことを物語っているといえるのではないでしょうか。

静岡県の労働金庫も1950年の総同盟静岡県連大会、1951年の県評結成大会での決議を経て、1953年3月に全国で25番目の「信用協同組合静岡県労働金庫」として産声をあげました。
そして10月の労金法成立後の翌年、1954年2月に臨時総会を開いて名実ともに「静岡県労働金庫」としてスタートを切ります。