
関城址(茨城県筑西市)の一角に、ぽっかりとあく穴がある。
南北朝時代、攻城戦に使われるはずだった遺構と言われる。
すなわち、秘密の抜け穴を作って城内へ潜入し、落城させる算段だったらしい。
地盤がゆるく、結局使われることのないまま姿を消すことになるが、
大正9年に地元の青年によって偶然発見された。
南朝方だった関城主関宗祐・宗政父子は、
大宝寺城(同県下妻市)攻め寄せる北朝の高師冬と戦った。
同城には、『神皇正統記』を著したことでもよく知られる“北畠親房”も身を寄せていた。
常陸に漂着して以後、小田城(同県つくば市)に入った親房は、
同城にて『神皇正統記』を起稿。
関城へ移城後、同書を完成させたと言われる。
すなわち、関城址は戦場の舞台ではあるが、
後世に残る書物が著された現場ということになる。
親房はどの時間帯に筆を執ったのだろうか。
関城から東を望むと目に飛び込んでくるのは筑波山。
執筆に疲れて筑波山を眺めることはあっただろうか。
いささか優雅なイメージを抱きそうになるが、
北朝方の攻撃にさらされている最中である。
緊迫した空気の中で筆を走らせたのだろう。
その緊張感を偲ばせるものの一つに、先に触れた抜け穴(坑道)がある。
坑道を使ってのゲリラ作戦は伝承の域を出ないが、
想像をかき立ててやまない遺構の一つである。
また、城址には土塁や堀の一部が現存している。
北東に八幡神社が鎮座し、裏手に小高い土塁が横たわっている。
城の周囲は沼や湿地が広がり、大宝城とは船で行き来することもあった。
北畠親房が筆を執る「書斎」のような部屋はあったのかもしれないが、
ここが軍事施設であることを物語っている。
1343年11月11日、関宗祐父子は寄せ手の猛攻に耐えるも、
関城はついに落城する。
大宝城も落城を余儀なくされた。
北畠親房は関城から逃れ、吉野へ帰還。
むろん、『神皇正統記』を携えての脱出だった。
関城址は国の史跡に指定されている。
民家の敷地内に土塁や堀跡が認められるが、私有地となっている。
敷地内に入っての見学は許可が必要であり、マナーを守って往時へ想いを馳せたい。




南北朝時代、攻城戦に使われるはずだった遺構と言われる。
すなわち、秘密の抜け穴を作って城内へ潜入し、落城させる算段だったらしい。
地盤がゆるく、結局使われることのないまま姿を消すことになるが、
大正9年に地元の青年によって偶然発見された。
南朝方だった関城主関宗祐・宗政父子は、
大宝寺城(同県下妻市)攻め寄せる北朝の高師冬と戦った。
同城には、『神皇正統記』を著したことでもよく知られる“北畠親房”も身を寄せていた。
常陸に漂着して以後、小田城(同県つくば市)に入った親房は、
同城にて『神皇正統記』を起稿。
関城へ移城後、同書を完成させたと言われる。
すなわち、関城址は戦場の舞台ではあるが、
後世に残る書物が著された現場ということになる。
親房はどの時間帯に筆を執ったのだろうか。
関城から東を望むと目に飛び込んでくるのは筑波山。
執筆に疲れて筑波山を眺めることはあっただろうか。
いささか優雅なイメージを抱きそうになるが、
北朝方の攻撃にさらされている最中である。
緊迫した空気の中で筆を走らせたのだろう。
その緊張感を偲ばせるものの一つに、先に触れた抜け穴(坑道)がある。
坑道を使ってのゲリラ作戦は伝承の域を出ないが、
想像をかき立ててやまない遺構の一つである。
また、城址には土塁や堀の一部が現存している。
北東に八幡神社が鎮座し、裏手に小高い土塁が横たわっている。
城の周囲は沼や湿地が広がり、大宝城とは船で行き来することもあった。
北畠親房が筆を執る「書斎」のような部屋はあったのかもしれないが、
ここが軍事施設であることを物語っている。
1343年11月11日、関宗祐父子は寄せ手の猛攻に耐えるも、
関城はついに落城する。
大宝城も落城を余儀なくされた。
北畠親房は関城から逃れ、吉野へ帰還。
むろん、『神皇正統記』を携えての脱出だった。
関城址は国の史跡に指定されている。
民家の敷地内に土塁や堀跡が認められるが、私有地となっている。
敷地内に入っての見学は許可が必要であり、マナーを守って往時へ想いを馳せたい。




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