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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

秘密の“抜け穴”のある城址は? ―関城―

2025年03月02日 | 城・館の部屋
関城址(茨城県筑西市)の一角に、ぽっかりとあく穴がある。
南北朝時代、攻城戦に使われるはずだった遺構と言われる。
すなわち、秘密の抜け穴を作って城内へ潜入し、落城させる算段だったらしい。
地盤がゆるく、結局使われることのないまま姿を消すことになるが、
大正9年に地元の青年によって偶然発見された。

南朝方だった関城主関宗祐・宗政父子は、
大宝寺城(同県下妻市)攻め寄せる北朝の高師冬と戦った。
同城には、『神皇正統記』を著したことでもよく知られる“北畠親房”も身を寄せていた。
常陸に漂着して以後、小田城(同県つくば市)に入った親房は、
同城にて『神皇正統記』を起稿。
関城へ移城後、同書を完成させたと言われる。

すなわち、関城址は戦場の舞台ではあるが、
後世に残る書物が著された現場ということになる。
親房はどの時間帯に筆を執ったのだろうか。
関城から東を望むと目に飛び込んでくるのは筑波山。
執筆に疲れて筑波山を眺めることはあっただろうか。

いささか優雅なイメージを抱きそうになるが、
北朝方の攻撃にさらされている最中である。
緊迫した空気の中で筆を走らせたのだろう。

その緊張感を偲ばせるものの一つに、先に触れた抜け穴(坑道)がある。
坑道を使ってのゲリラ作戦は伝承の域を出ないが、
想像をかき立ててやまない遺構の一つである。

また、城址には土塁や堀の一部が現存している。
北東に八幡神社が鎮座し、裏手に小高い土塁が横たわっている。
城の周囲は沼や湿地が広がり、大宝城とは船で行き来することもあった。
北畠親房が筆を執る「書斎」のような部屋はあったのかもしれないが、
ここが軍事施設であることを物語っている。

1343年11月11日、関宗祐父子は寄せ手の猛攻に耐えるも、
関城はついに落城する。
大宝城も落城を余儀なくされた。
北畠親房は関城から逃れ、吉野へ帰還。
むろん、『神皇正統記』を携えての脱出だった。

関城址は国の史跡に指定されている。
民家の敷地内に土塁や堀跡が認められるが、私有地となっている。
敷地内に入っての見学は許可が必要であり、マナーを守って往時へ想いを馳せたい。









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