2年前のちょうどこの日もわたしは、仙台市街を歩いていました。
電機や水道はようやく復旧し、一部はまだガスが戻っていない。そんな状況の仙台市内でした。
市内は暗く、店はほとんど開いていません。ガソリンスタンドも販売する油はなく、どこのSSも休業していました。
わたしは若林区から宮城野区まで、ひたすら歩き続けました。
震災から3週間余り経った日のことです。
それからちょうど2年後のこの日、わたしはまた仙台市街を歩いています。
あのとき、わたしが歩いた街には到底思えません。
行き交う人たちと装飾を凝らした騒がしい街並み。2年間で、見事に復興した仙台。けれども、これは仙台というビッグシティだからこそなしえた結果です。
わたしは、仕事を終え、酒場を探しています。実は今、石巻から戻ってきたばかりです。石巻の復興はまだまだ緒に就いたばかりのようでした。
そもそも、石巻に向かうJR仙石線は震災の被害により、不通となっており、迂回を余儀なくされました。
石巻は3,700人以上の犠牲者を出した、震災最大の被災地です。
わたしは、駅を降り、取材先までの3kmをゆっくりと歩きました。街の様子をじっくりと見たかったからです。
街は少しずつ平穏を取り戻そうとしていました。しかしながら、震災の爪痕はあちこちにまだ残されていました。
わたしの取材はシビアなものではありませんでした。何故ならば、復興し、営業再開にこぎ着けた人にお話を聞くのですから。
あちこちに建ち並ぶ仮設住宅では、今も苦しい思いを抱えて生きている人がきっと大勢いることでしょう。
また、亡くなられた方にお話しを聞くことはできないのですから、震災の真実に迫ることは難しいかもしれません。
仕事を終え、わたしは、複雑な思いで石巻を後にしました。
バスで仙台に戻り、某団体で一仕事したあと、仙台市街へ戻りました。
バスに揺られながら、「クリネックススタジアム宮城」(当時)の脇を通りかかると、この日はウィークデイにも関わらず、デイゲームが開催されていました。
そういえば、2年前のプロ野球は、大もめでした。3月25日の開幕は2度延期され、開幕したのは4月12日でした。
こうして、プロ野球が行われるのも平穏であるが故です。
仙台駅でバスを降り、わたしはひとり立ち飲み屋へと向かいました。
「大沼酒造支店」。
4年前は満員で店の入店を断られました。
そう、4年越しのリベンジです。
店に入ると、お客はまだポツリとしかいません。
まだ時刻は17時だからでしょうか。
この店のオーダーは券売機で行われるようです。
生ビールは400円。プレモルです。
おつまみは210円より、50円刻みで揃っています。
わたしは「からみそきゅう」(210円)と「揚げシューマイ」(260円)をチョイスし、係のお姉さんに渡しました。
お店の雰囲気は悪くありません。
4年前、わたしが入店を断られたのは、ただタイミングが悪かっただけだったように思います。
今日も歩き通しでとても疲れました。石巻で6km。仙台の某団体に向かうのに、トータル3kmはゆうに歩いたでしょう。わたしはもうくたくたでした。
しかも、この日も昼ごはんを食べることができず、ようやく今久しぶりに食べ物を口にできそうです。
このお店はその名の通り、日本酒のラインナップも豊富でした。
地元「浦霞」(300円)はもちろん、「飛良泉」や「吉野川」などをそろえていました。
わたしは迷うことなく「浦霞」をチョイスしました。さすがにお酒を飲むとまわってくるのも早いです。
わたしは、いつのまにか隣に人が立っていることを確認しながら、その隣の紳士に話しかけました。
「仙台はまだ寒いですね」
その紳士は、それが自分に発せられた言葉なのか、周囲を見渡して、他に誰もいないことを確認したうえで、「そうですね」とおっしゃいました。
わたしより10歳くらい年上のサラリーマン風の人です。
話を聞くと、この男性の奥様は東京板橋区のご出身だそうです。
周囲の客が野球の話題をし始めたので、わたしはついさっき仕入れた情報を真摯に教えました。
「0-9で大量リードされていましたよ」と言うと紳士は「釜田はダメだな」とまるでひとりごとのように言いました。
誰もこの年、楽天イーグルスがプロ野球の頂点に立つなど知る由もありません。
わたしは2杯目の「浦霞」を飲み干して、紳士に別れを告げました。
次の目的地に移動しなければなりません。
「笹かまも牛タンも食べていないのに」。
わたしの中では少し心残りです。
まぁ、いいか。
4年越しのリベンジを果たしたのだから。
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