くじらの音楽日誌

日頃聞いてる音楽全般の雑記です♪

作詞、森鴎外!!

2015-01-15 | 音楽
YOU-TUBEをさまよっていたらたまたま見つけた動画に吃驚仰天。

作詞 森林太郎…って、もしかして森鴎外????
まさかね?まさかあの森鴎外が市歌の作詞なんてするわけがない。
と半信半疑でいたのに本当に森鴎外でした(汗)



>1909年(明治42年)7月1日に横浜港の新港埠頭で行われた「開港五十年記念大祝賀会式典」の席で、初めて披露された。以来、市民に広く歌い継がれている。
作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は東京音楽学校教師の南能衛(よしえ)。
この曲は、横浜市が東京音楽学校に仲介を委託し、南が作った旋律の上に、森が歌詞を作り、完成させたものである。森に対する作詞謝礼は100円、南に対する作曲謝礼は50円だった。
横浜市立の学校では披露から約100年後の2010年現在においても、音楽の授業で校歌とともに歌唱指導される[1][2]。
また、6月2日の開港記念日や市立学校の卒業式、市大会などで演奏や斉唱される[2][3]。横浜市立大学の入学式及び卒業式でも演奏され、横浜市の式典(成人式を含む)や市職員の会合などでも愛唱される。またプロ野球横浜DeNAベイスターズの試合前の練習時のBGMや横浜商業高校の野球部が試合で得点を挙げた時などに演奏されるなど、横浜市民にとってはきわめて身近な存在である。
また横浜市営バスの一部バス停に、市営バスが到着する際の接近チャイムとして使用されている。
大さん橋に客船が入港する際も、この曲を行進曲風にアレンジしたバージョンを流して歓迎の意を表すことが慣例となっている。

さすが文豪森鴎外の作詞ともなると市民からも大切にされていますね。

ところで謝礼の100円ですが、当時の100円が今のいくらくらいに相当するのかちょっとわからなかったので少し調べてみたんですが、物価が今とかなり異なるのでよくわかりませんでした。
ただ、森鴎外の当時の月給が300円だったことはわかりました。
月給というのは森鴎外の本職は作家ではなく軍医殿だったから。
軍医と言っても軍医総監なのでトップです。なので300円というのは相当高給だと思います。
同じころ石川啄木は朝日新聞社校正係りで月給30円でした。
「月給30円あれば田舎で楽に暮らせる」と啄木が書いているので鴎外の月給300円はかなりのものです。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿