小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

戦場体験者との出会い

2018年09月17日 | 日記

浅草公会堂で3日間連続開催「戦場体験者と出会える茶話会」に行ってきた(その内の1日だけだが)。

主催は戦場体験放映保存の会で、何年か前に日比谷公会堂で開催されて以来のことになる。そのときは体験者だけでなく、『シベリア抑留』や『遺骨』の著書がある栗原俊夫氏らのジャーナリストや評論家たちの講演が主体。壇上のひとの話をきく、そんな会であった。

 

今回はお茶を飲みながら、膝をつきあわせて体験者の話を聞くという趣向。30人以上もの体験者が全国から参加されたのだが、皆さんはほとんどが90歳以上でお元気だ。

今まで語ってこなかったこと、辛い戦争の経験と記憶を、見ず知らずの私たちに語ってくれる。単なる貴重な証言に立会う場所ではない。どうしても死ぬまでに話しておきたい、戦争がいかに酷いものか、人間でなくなるのか・・。そんな必死の思いが、ひしひし伝わってくる会場であった。

午前午後にわけて8人ずつ計4回の懇談会形式。午後から参加したので、お二方に話をきくことができた。今回は、印象の強かったSさんの体験を紹介したい(それでもすべてではない)。

戦場体験者のプロフィールが紹介されていて、私たちはそれぞれ関心をもった方のところに行って話をきく。台湾生まれのSさんは、今は鹿児島で暮らしている。戦時中は、軍属という立場であったが、フィリピン・ミンダナオ島で戦場体験および飢餓経験のある方である。

大岡昇平を読んでいた私には、ミンダナオ島はなぜか身近な気がする。また、年齢が93歳で大正14年生まれ、母親と同年齢である。その意味でも関心があり、Sさんの話を直にお聞きしたかった。

「負け戦のこと、飢餓体験など、戦争のネガティブなことをやっと口にすることができる。そんな雰囲気が生まれたのは、20年ぐらい前からでしたね。戦争を指揮した人、旧日本軍に誇りをもった年配の偉い方たちが、やっと亡くなったからなんです。気兼ねもありましたね」と、Sさんの声はしゃがれて聴き取りにくいが、私たち一人ひとりに視線を合わすように話しはじめた。

陸海軍に生鮮食品を生産し調達する、いわゆる軍属という任務についていた。その後、米軍が上陸してからの食糧調達は困難を極めたという。それは、雑草、トカゲなどの爬虫類、鳥、猿を捕獲するために、湿気の多いジャングルを徘徊しなければならなかったからだ。

米軍の攻撃が一方的になってからは、過酷さはさらに増し、周囲のすべてが戦場となる。目の前で炸裂する爆弾、命をおとす仲間。負傷した兵をかついで一昼夜、後方の野戦病院に辿りついても、この傷では役に立たないと追い返される話・・。

息の詰まる悲惨な話、眼を覆いたいと、想像力でそれを見るような体験談・・。飢餓の人間の身体の変化、ガリガリから水膨れになる不思議。死に瀕すると、水分のある目と口に、ウジが湧く。戦場に駆り出されたものは、兵隊ではなくとも極限の経験をしたのであろう。

そんなSさんは私たちに警告する。「今の時代は、戦争する前の日本とおなじ。あの当時と変わりない危うさを感じて仕方がない」と、強い口調に変わった。現在の安倍政権のもとの政治的な状況は、戦前の日本と変わりなく、戦争に向かってひたひたと進んでいる。戦争を厭わない、かつての日本と同じ雰囲気だ」と心配していた。

そうした雰囲気にまったく無頓着な若い人がとても気がかりで、ここに来たのもそういう不安を皆さんに知ってほしいということだった。

Sさんは写真を撮らせてくれたし、私だけでなく5,6人のカメラにも笑顔でこたえた。オープンで気さくなお爺さんであったが、視線はどこか厳しいものを感じる。同時に、70年以上も前の壮絶な戦争を見、極限の恐怖を知っている、その目はどことなく悲しみを湛えているようにも見えた。(了解を得ていたのだが、掲載は控えることにする。若い頃はかなりのイケメンであったろう)

 

▲向うに見える方はSさんではない。陸軍少年飛行兵であった。

▲大岡昇平の戦争小説『靴』がよみがえってきた。シベリア用の靴だから、しっかりした革と縫製であったが・・。

▲フィリッピンでもアメリカ紙幣に似せた軍票をつくっていたのだ。こういう作為は抜かりない

 


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