小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

『ヒロシマ、そしてフクシマ』からのジェンダー理解

2018年07月23日 | 日記

 

マルク・プティジャン監督のドキュメンタリー映画『ヒロシマ、そしてフクシマ』について、畏敬するキリスト教文化史家・竹下節子さんもまた、あの場面に触発され、私にとっても極めて印象深い、内閣府内における福島から来た女性たちの魂の抗議を記事にされた。(『L'art de croire 竹下節子ブログ 』⇒https://spinou.exblog.jp/29637625/

★その重要な場面を含む短縮版がプティジャン監督のサイトで公開⇒  http://www.marcpetitjean.fr/films/de-hiroshima-a-fukushima/


男たちには想像力がない」というもの言いに関して、竹下さんはそれをジェンダー仕様(※注)として捉えた。そして、福島の女性たちを「当事者」としての「感情的な女性」に、抗議を受ける側の二人の役人を「傍観者」としての「冷静な男性」に対比させて、図式的にわかりやすく読み解かれた。

この場面に関して、映画そのものの評価ではなく、観客の男性側だけが感情的な悪印象をいだいたという事実に、竹下さんはむしろ注目されたのだと思う。

福島の女性たちが必死で訴えるこの箇所は、男性の観客にとって映画の印象や、その好き嫌いが別れる場面だったのだそうだ。

確かに、「男性には想像力がない」と決めつけているのはジェンダーバイアスだともいえる。想像力がない、というよりも、男性には、「想像力を働かせ、行動に反映させる」ことを阻む社会的な構造や圧力がより強く働いているということだろう。

 私の受けとめ方は、災害や事故あるいは将来に関わる重要な決定および遂行に際して、「当事者」であり「傍観者」であれ、求められる視点・考え方は、とうぜんのごとくジェンダーフリーの真正なる人間を想定すべきだと思っていた。

3番目に発言した福島の女性はやはり、社会的性差としてのジェンダーを見すえていたのであろうか、「男社会」への痛烈な批判をはじめた。

彼女の口調は、特に感情があらわになったとは見受けられない。ガイア理論の生命の大切さを学び直したことを口火にして、彼女の「男社会」への不信、異議申し立てが延々と続いたのだ。(プティジャン監督のサイトでは、この女性の抗議の後半がカットされていた)

飛躍があるのは否めないものの、感情を抑制して女性ならではの正論を展開したと、私は称讃したい。内閣府の二人の役人は、(耳をふさぎたいのに)ひたすら傾聴するふりをし、時間がはやく過ぎ去ってしまうことを祈るばかりだったろう。

かの女性の発言は誰に対して向けられたものであったのか? 目の前の「無感動を装っている」内閣府の男たちに向けた直截な言葉であったろうか。

私の見立てでは、彼女の思いえがいている「想像力の足りない男」とは、いわゆる『男社会」を代表とする男のイメージだ。

縦社会のヒエラルキーに安住する「男」、権威にまみれ権力にひれふす「男」、女性を搾取する「男」、いざというときに役に立たない「男」、責任逃れをする「男」・・、そんな「男」たちは「負」のジェンダーの中心にいる。

いや、彼女はもっと具体的な男たちをイメージしていたはずだ。福島原発事故を収拾しようと右往左往する現場の男たち、東電の責任者、あるいは首相以下担当者たちの歯切れの悪い言動、それを追随して報道するマスコミの男たち・・。放射能被害が予測される切迫した現実、子どもたちの未来にも深刻な影響をもたらすことは明らかなのに、なんら決定的な打開策を示すことができない男たち・・。

これはもう「想像力の足りない」を超えて「××」の侮蔑的言辞を吐かれても、当事者の男たちは甘んじて受け入れなければならない。

 

私はこう表記した。「山本氏から聞いた話では、この箇所こそが映画の印象(男性の観客にとって)、その好悪が別れる場面だったのだと打ち明けられた」と。

彼女が抗議したことのコンテキスト(文脈)を解釈すれば、たぶん悪印象をいだいたのは「男」(括弧で閉じたのであるが)であるとわたしは推察した。もしかしたら、女性であっても、福島の女性を快くおもわなかった蓋然性もありえる。

『ヒロシマ、そしてフクシマ』の制作および公開に関して尽力した山本顕一氏が、映画のこの場面で印象が好悪に分かれたと打ち明けられた。どんな観客が、どんな反応を見せたのか。

想像の範囲だが、山本氏の周囲の関係者から、そのまた口コミ、あるいは鑑賞後のアンケート調査で、たとえば「あの場面はどうも好きになれなかった」などの書き込みが多かったのか。

失礼になるかと思ったが、私は山本氏にメールで問い合わせた。

そして、今日、鄭重なる返信メールをいただくことができた。簡潔ながら、ストレートな文章であった。大変ありがたいことだ。

あの映画の「福島の女たち」のシーンを面白く思わず、この映画に対する評価を下げたのは、ご推測の通りいずれも男性です。「小奇道」のブログにお書きになった内容に間違いはありません。

以上の通り、男性のみが福島の女性たちのシーンに少なからぬ反感をもち、評価を下げたのだ。『ヒロシマ、そしてフクシマ』は、放射能被害との闘いに生涯をかけた故肥田舜太郎という医師のドキュメンタリーであったが、プティジャン監督が偶然撮った15分ほどの「福島の女性たちの訴え」が、作品全体の評価を変えるほどの重みをもったのである。

竹下節子さんが指摘した、「感情的な女性、冷静な男性」にすりかえてジェンダーを論じる男性は少ないと思うが、今朝の新聞に「男女の格差指数、日本低迷114位」という記事があった。

これを読む限り、竹下さんの懸念は正しく、先が思いやられる。日本の男たちの、ジェンダー概念の根本的見直しを迫られている、自分を含めて。

 

▲2018.7月23日 東京新聞・朝刊より 中国より下位だそうです。

 

(※注)映画を観てブログを書いたのだが、映画内の発言等は正確ではなかった。件の福島のある女性の発言に関して「想像力がない男性」と表記したが、その後プティジャン監督のサイトでその部分を再見した。「想像力がない男性」ではなく「想像力の足りない男性」という表現であった。当の女性にたいへん申し訳なく、この場をかりて謝罪いたします。

また、竹下節子さんには、私の誤記がもとでミスリードされたのなら深くお詫び申し上げます。もちろん、全体の骨子としてジェンダーそのものに関して、日本の男性には本質的な理解が足りていないことは明らかである。


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