小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

男と女のあいだの溝とは

2018年01月15日 | エッセイ・コラム

 

もはや旧聞に属することになるが、一言書きおきたいので記す。 

フランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴと100 名の女性たちが、注目すべき声明を発した。1月11日付の東京新聞に、その内容を紹介する記事があった。
タイトルが「女性口説く権利ある」となっている。これだと、女性側に権利があるように誤読される。正確には、全文を読むと「男性には、女性を口説く権利がある」となる。
本文に導くリードには、「過度なセクハラ告発、ドヌーヴさんが批判」とあるので、辛うじて大きなミスリードは避けられている。もし、これを読み飛ばされたら、東京新聞にはあるまじき、表現不足かつ曖昧なタイトルであった。

 

 

東京新聞の記事に則って、カトリーヌ・ドヌーヴ他100名らの声明の趣旨は簡単に書けば、こういうことだろうか・・。
「MeeToo」の告発運動はちょっとやり過ぎだ。すべての男性がセクハラするわけではない。好ましく思う女性を口説こうとして、思わず心外と思われる言動をとるケースだって考えられる。
「誰かの膝に触ったり、一方的にキスをしようとしたりしただけで職を失い、即刻罰せられている」のは行き過ぎではないかと・・。

「男性には女性を口説く自由もあるのではないか」と、カトリーヌ・ドヌーヴたちは男性たちを擁護している。と、東京新聞の記事の文脈はこうなる。ちとゆるい、いや甘い。もっと哲学的、文化的な地平から声明を出しているはずだ・・。

冒頭で紹介したように「過度なセクハラ告発、ドヌーヴさんが批判」したバックボーンにあるのは、「口説く自由・口説かれる自由」だけではない。「男と女のあいだの溝」の話でも、無論のことないのだ。

実は、前日に、竹下節子さんのブログで、このドヌーブらの声明を受けての論評を読んでいた。
それを受けとめた私自身の言葉で端的にかけば、アメリカ発の「MeeToo」の告発は、アングロサクソン型のフェミニズムが主導していた。このことに尽きる。

それはつまり、「男はみんな敵、女は犠牲者」という二元論を盾に、セクハラをしたクズ男をこの際徹底的に社会から駆逐しようとしている、プロテスタントの原理主義から来ているのではないか? そんな疑義を投げかけているように私には感じ受けとめられたし、全面的に同意したい。

このあまりにもやり過ぎの告発のムーブメントに対して、フレンチフェミニズムを代表するというべきカトリーヌ・ドヌーヴ他100名が、見るに見かねての男性擁護論というか、「男と女の文化論」あるいは「ジェンダーを超えての、社会的協力関係」こそ考えるべきではないか。アメリカ発の「MeeToo」は過度な糾弾は、あまりにもそうした観点から逸脱している。と、私は理解した。

多くの社会では、相対的に男の方が有利でマジョリティで、平均すると女性より体が大きくて身体能力が女よりすぐれているので、その中で、自分を犠牲にしても女性を守るという生き方をする人の絶対数は看過できないはずです。
それをなんとなく男全部を糾弾するような論調では、本当のリスペクトできる関係、性別とは別の差別の構造(民族とか宗教とか年齢とか心身の障害とか)を互いに協力して壊していく関係が築けない、というのは事実です。  

竹下節子ブログ 『L'art de croire』「カトリーヌ・ドヌーヴらによる#MeeTooへの批判声明」⇒ http://spinou.exblog.jp/29041276/ 

もっと主題を要約すると、フランスはじめヨーロッパのカトリック文化圏の諸国には「女神や聖母を崇めるような下から目線」というのが伝統ベースにあること。
「何かを強制したり、合意なく女性を触ったりするのは論外で別のことですが、言葉で気を引いたりするのは犯罪ではない」のだから、今回のフランス女性らの抗議はきわめて理に適ったものであり、伝統的なフェミニズム文化、その厚みを感じさせるものだった。

 

そして昨日、『極東ブログ』の著者が、カトリーヌ・ドヌーヴ他100名らの声明文全文(?)を「拙訳ですが」と断りながら翻訳したものを載せていた。

『極東ブログ』http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2018/01/100-7c9e.html

竹下さんが指摘したピューリタリズムに関する箇所は、以下の部分かと思われる。

魔女狩りが盛んな時代のような、女性保護論や、永遠に犠牲者の地位に縛り付けるほうがましだとする彼らの解放論や、邪悪な男性主義者に掌握された貧しく弱いものについての議論があります。
こうした議論を一般的に良いものだと偽って借用するのが、ピューリタニズム(粛清主義)の特性です。


アングロ・サクソンとは銘打っていないが、その思想的中核をなす宗教文化、ピューリタニズムの過激さというか原理主義を揶揄している。ピューリタニズムを「粛清主義」と訳したのは、『極東ブログ』さんの見識からであろうが、言い得て妙に鋭いといえるかもしれない。

さらにドヌーヴたちは、「水清ければ魚棲まず」というべき真理というか、「芸術的創造に欠かせない、他人を不快にする自由を擁護する」といった哲学者リューヴェン・オジアンを援用し、「同じように、私たちは性的自由に不可欠な、迷惑をかける自由を擁護します」と、宣言している。

こういうところがフランス女性ならではの、ジェンダーを超えた人間的キャパシティの深さ、精神の自由を礼賛する素晴らしさ。「なんだなあ」である。「個人として確立した強さ」と言い換えてもよい。

いずれにしても「MeeToo」の告発運動が欧米で嵐のように渦巻いていたのであろう。日本では安倍首相のオトモダチからセクハラ被害を受けた伊藤詩織さんの告訴問題も浮上したし、その後「はあちゅう」さんに対する電通クリエイター岸勇希の驚愕のセクハラが明るみにされたが、欧米のような社会的なムーブメントになっていない。

つまり、事実関係を実証するだけの力量も、傍証できる人材もいないのだ。少なくとも、当事者の周囲に。

そして、マスコミの反応も弱く、日本の男だけのみならず、女性たちも斜に構えて見ていたのは、対岸の火事ということ。自己決定及び責任の原則が生きていて、これはもうアメリカ発なのだ。であるのに、「MeeToo」の告発運動は、イッコウさんではないが「ま・ぼ・ろ・しー」となる。

何故なのか・・。自分なりの分析、社会文化的な背景をふまえての論評は用意しているのだが、それはまた別の機会にしたい。

 

 



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