小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

今そこにある、小さな正義を

2018年01月18日 | エッセイ・コラム

 

ワインスタイン、「はあちゅう」さんにセクハラをした電通クリエイターの何某が、どんな行為、セクハラに及んだのか、ネットで読んで具体的に知っている方は多いだろう。彼らの「やりかた」はまず「立場の違い」を明確にし、その関係性から強迫していく。権威あるもの、上に立つ者・・才能ある「俺」、責任ある「俺」、優位にある「俺様」を強調していく。

そうやって懇々と、そのとき、立場が消え入りそうな目の前の女性を追いつめて、「合意形成」にまでもっていき、目的を達している。その間のプロセスには、セクハラ、パワハラ、モラハラなどのハラスメントが複合して最悪だ。

とにかく、「立場主義」から「合意形成」への方法論は、男の専売特許みたいなもので、「交渉」という現場で磨かれたものだ。力技だから、相手がそう来た場合は、それを避ける方法はある。しかし、男対男の、昔ながらのビジネスの場でしか通用しないし、強固に残っている(特に、「先進」諸国で)。(※注)

 

立場の違い、それは確かにある。強いものと弱いもの。上のものと下のもの。学歴、職業、もっといろいろあるが・・。

その前に、同じ人間であり、そこに「差」なんて本来ない。男と女、肌の色の違い、能力の違い、身長の違い、障碍のあるなし、みんな「差」や「違い」があって普通。それが当たり前のことなのだ。

そんな単純で自明なことは子どもでも理解できるし、「みんな同じ人間なんだ」という共通の認識をもつこと、それがいちばん大切だ。といっても、みんな同じ格好、同じ考え方はおかしい、気持ち悪いと思えること。いまの日本の、いちばん危ないところだ。

さて、「差」「違い」を見つけて、序列をつけたがる。優劣とか、勝敗を決めたがる。これはもう人間の習性として具わっているのかもしれない。「いじめ」の根源もここにある。みんなが同じであるより、もっと注意すべきことだ。

こうした「差別」の感情がその場であらわになったら、大人たちはすぐさま指摘してあげないといけない。誰彼となく「そんなこと言ってはいけない、やってはいけない」と口にして、そのことの「是非」を教えてあげなければならない。それを面倒くさがって、黙って見過ごしていると、たぶん「駄目」な世の中になる。大人になっても、ハラスメントとやらを平気でやってのける輩がどんどん増えてくる。

いちいち注意する世の中は息苦しくなるだろうか? 説教するのではなく、そのへんに転がっている「小さな正義」をちょっと拝借するイメージが理想だ。そんな気楽さで「小さな正義」が使えれば、世の中はギスギスしたものにはならないと思う。

よく知らないのだが「アンパンマン」や「ドラえもん」の世界が、さりげなくこの現実界にくりひろげられていたら、状況は劇的に変わるんじゃないだろうか。どうしたらそんな世界ができるのか?

「正義」を大上段にふりかざされたら、確かに「ウザイ」。公衆道徳とか「教育勅語」のようなものを持ち出されても迷惑千万。空気を読んだり、他人を忖度したり、周りに対して余計な気をつかうのも嫌だ。たとえ、弱みを見せた人がいても、付け込むようなことをしない。むしろ庇(かば)う、労わることが大切だ。ふつうに間違っていることを、大らかに正せる社会がいい。

周囲の大人や、ちょっと大きくなった子供でも、もしそこに今「差別」される子どもに気づいたら、心の中で「それは差別だぞ、みんな同じ人間だぞ」と思ったら口にする。すぐそこに「ちいさな正義」が動きだして、コミュニケーションが交わされる、そんなイメージがいい。

そのとき心を揺れ動かした「小さな正義」は、記憶される、身体がしっかり覚える。いけないこと、悪いことを、きちんとふつうに教えてあげたらいいのだ。そんなことが当たり前の世の中になれば、「小さな正義」がちゃんと成立する世界になる。

「そんなこと言っちゃいけないよ」「それは悪いことだよ、××××だから」。子どもから大人まで、気兼ねなく「小さな正義」が使えたら、少しはさまになる。人を裁くのではないのだ、ものごとの是非を明確にすることだ。日常のなかでそんな大事なことを、ふつうに誰彼となく話し合えたら、ハラスメントやいじめをする人間は少なくなるのだと思う。


 今回は途中から、14歳にならない前の子ども達、その母親を想定して書いた。不思議なきもちの変化があった。

 




(※注):この注は読み飛ばしてください。

この注は自分用に書き残す。および、ハラスメントと宗教との関連において、なにか感じたことがある人に読んでほしい。

この「合意形成」とやらが「契約」という含意があり、フランスの女性たちが指摘した「ピューリタリズム」と相性がいいのではないか・・。これを「粛清主義」と言った人もいたが、正確にはマックス・ウェーバーの、資本主義を生み出した源の思想とされる「禁欲的プロテスタンティズム」だ。私はこの考えに与しないし、資本主義はユダヤ人およびルネサンス以降のイタリア商人たちが根幹を形成したと思っている。しかし、マックス・ウェーバーはそれでも、「ピューリタリズム」を極めて特徴的に分析している。「儒教」や「道教」、「ユダヤ教」など他の宗教と比較において、「禁欲」という人間の欲望の抑制、その反動について徹底した思考を重ねたところが凄い。

特にこの「プロテスタンティズム」における「禁欲」を考えると、キリスト教プロテスタント社会の「欲望・快楽」のコントロールがなにか陰湿で、人間性を抑圧する何かがあるのではと疑ってしまう。今回の「MeToo」が盛り上がった背景には、アメリカやイギリス、ドイツなどのキリスト教原理主義、あるいはプロテスタント教徒の多い国での、その性犯罪が陰惨で破戒的なものが多いという印象とダブってしまう。これは偏見かも知れない。欧米全体にいえることかもしれない。フロイトの精神分析やら、コリン・ウィルソンぐらいしか読んでないせいで、見当はずれかもしれない。

クリスチャンの男たちは何故、下ネタ偏愛を語ることで仲間たちと連帯できるのか。それを許容し、いや笑い飛ばせる女たちがいる。植民地主義・資本主義の美味しいところを貪ってきた、余裕と豊かさがもたらした結果だと思うしかないのだ。








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